終わることのない悪夢

板倉恭司

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康介の過去・煉獄の始まり

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 異様な光景だった。
 二見家のリビングで、太った中年男がソファーに深々と座っていた。言うまでもなく、幸平ではない。
 その男の名は、飛田孝則。全裸で、弛んだ下腹を隠そうともしていなかった。座っているため正確な背丈は不明だが、高身長というカテゴリーに入らないのは間違いないだろう。
 髪は薄く、口ヒゲを生やしている。目はぎょろりとしており、いかにも押し出しの強そうな顔つきだ。ガウンを着て葉巻でも咥えていれば、B級アクション映画に登場するマフィアのボスに見えるだろう。
 もっとも、その漫画的なイメージは当たらずとも遠からず……であった。実際、飛田はヤクザや半グレといった連中といった連中との付き合いも深い。

 その隣に座っているのは、二見沙織である。彼女もまた全裸だ。妻であり母親でもある沙織だが、こんな異様な状況を受け入れているのだ。
 中年男は、片手を彼女の肩に伸ばして引き寄せ、もう片方の手で彼女の体をもてあそんでいる。まだ日が出ている時間帯だというのに、男は淫らな行為に夢中になっているのだ。
 設置されているテレビは、あるドラマを放送していた。かつて、沙織が主演を務めたものである。
 演技は上手いとは言えないもので、酷評する者も少なくなかった。そんな者たちでも、初々しい彼女の姿が魅力的であることは認めていた。実際、ファンの間では今も「あの時の沙織は、本当に可愛いかった」と語りぐさになっていた。
 そのドラマを、全裸の飛田と沙織が観ている──

 この絵面だけを見れば、アダルトビデオもしくは動画の撮影現場たと錯覚してしまうだろう。しかし、この場にカメラはない。撮影している人間もいない。
 では、ふたりは不倫関係にあるのか。それは当たっている。だが、両者の関係は一般的な不倫とは少し違っていた。沙織の夫であるはずの幸平は、ふたりの姿を虚ろな目でじっと見ているのだ。にもかかわらず、止めようとする気配はない、召し使いのように、リビングの隅に立ち尽くしていた。
 窓から見える空は、まだ明るい。時計を見れば、午後四時になったばかりである。そんな時間だというのに、二見家のリビングは狂気と背徳感とに支配されていた──

 その時、康介は既に自室にいた。学校から帰って来ると、既に飛田はリビングにいた。子供の前でも、この狂ったプレイを止めようとはしない。母もまた、止めようとしなかった。康介はリビングに行かず、無言のまま自室へと向かった。
 すぐに部屋のドアは閉め、鍵をかけた。そのまま、虚ろな表情でテレビの電源を入れる。
 下のリビングで、何が行われているかはわかっている。それが何を意味するかもわかっている。だからこそ、何も見たくなかったし、聞きたくなかった。
 そのため、ヘッドフォンを付けた状態で内容もわからないテレビの画面を見つめている。耳から聞こえてくるのは、テレビから発せられる意味のわからない言葉の羅列である。それでも、下からの声が漏れ聞こえてくるよりはマシだ。ただただ、時間が過ぎるのをじっと待っていたのだ。
 この悪夢が、一秒でも早く終わって欲しい……心の中で、そう祈っていた。



 それが、いつ頃から始まったのか、康介はよく覚えていない。
 確かなことはひとつ。いつの間にか、飛田は二見家に入り込むようになっていた。のみならず、沙織の肉体を欲望のおもむくままに扱うようになっていたのだ。
 
 飛田は、アイドルだった頃の沙織を知っていた。当時、何度か会ったこともある。いわゆる枕営業を持ちかけたこともあったが、断られていた。もっとも、断られたのは飛田だけではない。彼女は、そうした誘いをことごとく撥ねつけて来たのだ。
 沙織が芸能界という世界から去る決意をした理由のひとつに、こうした業界特有の悪癖の存在があった。まだ年端も行かぬ後輩たちが、いい年齢の男たちの毒牙にかかっていく……彼女は、そんな少女たちの姿を見てきた。自分は、こんな風にはなりたくないとも思っていた。
 ところが今の沙織は、その少女たちよりも恥ずかしい目に遭わされている。にもかかわらず、飛田を拒絶することが出来ない。他人に知られることなく、生活レベルを維持する……そのためには、飛田を頼るしかなかったのだ。
 沙織は、完全な視野狭窄状態に陥っていた。こうなった以上、飛田に任せるしかないと思い込んでしまったのだ。
 ごく平凡な人生を歩んでいたはずなのに、突然あっと驚くような罪を犯す者がいる。そういう者は、今の沙織と同じ状態に陥り、挙げ句にとんでもない犯罪に手を染めてしまうのだ。沙織は、ある意味では夫よりも壊れていたかも知れない。

 飛田の方は、沙織の肉体にのめり込んでいった。かつて、枕営業の誘いをことごとく断ってきたアイドル……それが今では、自分の言いなりに動く奴隷となっている。
 TPGでもっとも人気のあった女が、今や自分の言いなりだ……そう思うだけで、飛田は異様な興奮を覚えていた。歪んだ支配欲に憑かれ、飛田の要求はさらにエスカレートしていく。
 しかも、飛田の性欲は尋常ではなかった。五十二歳という年齢にもかかわらず、毎日のように二見家に現れる。そして、沙織の肉体を貪った。
 最初のうちは、来訪前に連絡を入れるという最低限の礼儀は守っていた。しかし、今ではそれすらない。他人の家庭を、己の欲望のままにしているという異様な状況が、彼の雄の部分をさらにたぎらせてしまったのかも知れない。
 今では、昼間だろうが平気でずかずか家の中に入って来て、夫や子供の見ている前で沙織の肉体を貪るようになってしまったのだ。まともな神経を持つ人間には、ありえない所業である。

 どんな業界であれ、トップに君臨する人間の中には、まともな人間性を捨て去ってしまった者がいる。「破天荒」「トップの非情な決断」などという言葉で言い変えることも可能な部分だ。
 品行方正で淡泊な善人には、一代で財を成すことなど出来ないのは間違いない。他人を蹴落としたり傷つけたり陥れたり死なせたりしながら、表情ひとつ変えず振り返りもせず何事もなかったかのように進んでいく者こそが、財産を築けるのである。
 さらに、男としての自分に衰えを感じていた飛田にとって、若い頃のような雄々しさを蘇らせることが出来るのが楽しくて仕方なかったのかも知れない。



 もっとも康介にとって、飛田という男の考えなどどうでもいいことだった。
 多感な少年時代に、金と権力を持った異常性格者の作り出した環境の中で、姉の冴子と共に育っていったのだ。
 実の母親が赤の他人に慰み者にされ、父はそれを見ているだけ……あまりにも惨めな光景である。嫌で嫌で仕方ない。なのに、それでも飛田という男を受け入れざるを得なかった。そうでなければ、自分たちは今の生活を維持できないのだ。
 いや、本音を言うなら……生活など、どうでも良かった。こんな狂った生活をするくらいなら、貧乏になった方がよっぽどマシだった。
 しかし、母の沙織は貧乏になることを許容できないのだ。事あるごとに「あなたたちのためだから」と言い訳がましく言っていた。自分のためだろう、と言い返したい気持ちをぐっと堪えていたのだ。
 壊れてしまった父。生活レベルを落とせなず、狂ってしまった母、平和だった家庭を、欲望のままに蹂躙する飛田。何も出来ない自分。
 その生活は、康介の人格に大きな影響をもたらす。ゆっくりと、しかし確実に彼の人間性を壊していった。少し前の礼儀正しく品行方正だった康介はどこにもいない。冷めきった目の無気力な少年へと変わっていた。
 




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