ザイニンタチノマツロ

板倉恭司

文字の大きさ
33 / 41

六月九日 隆司、何もかも捨てる

しおりを挟む
「いったい何なんですか、これは……」

 呆然とした表情で、佐藤隆司は呟いた。彼の手には分厚い封筒がある。中には、現金と思われる物が入っていた。目の前の男に、無理やり握らせられたものだ。



 隆司は今、真幌公園のベンチに座っている。彼の隣には、ひとりの中年男がいた。年齢は五十代から六十代で、やや小太りの体型だ。髪型や服装さらに身に付けている物は、全て地味で飾り気のない物ばかりである。顔つきも真面目そうだ。男の歩んで来た人生が、ごく平凡なものである事を物語っていた。
 だが、そんな男が隆司に差し出してきた封筒の中には、札束が入っている。それも、かなり厚いものだ。

「全部で、三百万円入っている。今の私たちに用意できる、ギリギリの金額だ。もし足りないと言うのであれば、後で必ず何とかする。だから、今はこれを受け取ってくれないか?」

 そう言うと、芦田哲夫アシダ テツオは頭を下げる。
 隆司には、話の流れがようやく理解できた。今日いきなり同棲している美礼の父親に呼び出され、神妙な面持ちで真幌公園に行ったのだが……結局は、こういう話だったのか。

「俺に美礼さんと別れろ、と……そう言いたいんですね?」

 言いながら、隆司は哲夫の方を向く。
 哲夫は顔を歪め体を震わせながらも、隆司から目を逸らさなかった。もともとは気の弱い、ごく平凡な中年男なのだろう。暴力沙汰とは、無縁の人生を送ってきたはずだ。そんな男が、娘のために話をつけるべく、自分を呼び出したのだ。
 殺人犯である、自分を──

「佐藤くん、君には本当に申し訳ないと思っている。君が娘を守るために、人を殺したのもわかっている。だが、娘の今後のためなんだ。頼むから……娘と別れてくれ!」

 言った後、哲夫は立ち上がる。直後、いきなり土下座したのだ──



 ノロノロと、足を引きずるようにして歩く隆司。その表情は虚ろで、目は死んだ魚のようであった。
 家に戻ると、スーツケースの中に自身の荷物を全て詰め込む。
 そして立ち上がり、無言のまま外に出て行った。

(頼む。君には、本当にすまないと思っている。私の言っている事が、理不尽である事も理解している。だが私は、娘に幸せになって欲しいんだ。そのためなら、私は出来る事をする。お願いだ、娘と別れてくれ……いや、別れてください、お願いです。この場で私を、気が済むまで殴っても構いませんから……)

 隆司の脳裡に、哲夫の言葉が甦る。その必死な姿を前に、隆司はこう言うしかなかった。

「分かりました。この三百万は、ありがたく頂戴します。その代わり、僕は美礼さんの前から永遠に消えますよ」

 自分の存在が、美礼の幸せを阻んでいる。
 その事実を、薄々感じてはいた。だが今までは、必死で頑張ればやり直せる……そう信じていたのだ。必死で努力すれば、いつか必ず美礼を幸せに出来るはずだと。
 だが、それは不可能であるらしい。
 前科者と、そうでない者との間には目に見えぬ境界線がある。ましてや、人殺しともなると……また違う境界線があるのだ。
 それに、ここ数日の間に起きた出来事も無視できない。
 アルバイト先に、自分が殺人の前科があることを知られてしまった。さらには、見知らぬ男に叩きのめされたのだ。あの男は、隆司の素性を知っていた。佐藤隆司だな、と慥かめた上で彼に襲いかかってきたのだ。あれは、ただのチンピラではない。明らかに計画的な犯行である。
 このままだと、いずれは美礼の方にも迷惑がかかるかもしれない。
 だから、速やかにここを離れる必要がある。
 自分の気が変わらないうちに……。



 二時間後、隆司はベッドの上に寝転がり、ずっと天井を見つめていた。
 ここは、駅前のビジネスホテルの一室だ。今夜一晩だけは、この部屋に泊まる。もっとも、明日からはネットカフェ暮らしだ。手元には三百万あるとはいえ、野放図に使っていてはすぐに無くなってしまう。
 そう、自分にはもう何もないのだ。

「俺にはもう、何も無い……」

 虚ろな目で天井を見つめ、隆司は呟いた。
 何故、こうなってしまったのだろうか。
 いつから、自分の人生は狂い出したのだろう。
 いや、違う。自分は断じてミスはしていない。少なくとも、普通に生きてきたのだ……あの日までは。

 刑務所の中で、大勢の人間を見てきた。彼らのほとんどが、来るべくして刑務所に来ていた者たちだった。受刑者の八割ほどが中卒であり、大卒などは百人にひとりもいない。幼い頃から努力を放棄し、流されるままに生きてきた結果が刑務所だった……少なくとも、隆司にはそう見えた。
 だが、自分は彼らとは違う。ごく真っ当に生きてきたのだ。小学校、中学校、高校、大学……それらの期間、犯罪に触れることなく過ごしてきた。法を破ることなく生活し、受験や就職といった関門をクリアしてきたのだ。その時々に応じて努力し、問題を起こさず、空気を読んで生きてきたつもりだった。
 それなのに、何もかも失ってしまった。今の自分は、ただの前科者である。それも人殺しの──

 これが、俺の運命なのだろうか?

 生まれつき、不治の病に冒されている者もいる。普通に暮らしていたのに、ある日いきなり事故に巻き込まれて死んでしまう者もいる。人生など、そんなものだ。そう考えて、生きていくしかないのだろうか。
 いや、それ以前の問題として……こうなった以上、何のために生きればいい?

 不思議な気分だった。
 悲しいとか悔しいとか、そういった気持ちすら湧いてこない。涙も怒りもなく、ただ虚ろな気持ちだけが隆司の体内に満ちているのだ。心の中心にぽっかりと穴が空き、そこは死んでしまっている。
 本当に悲しい時は、涙さえ出ないのだな……隆司はふと、そんな事を考えた。
 しばらくして、隆司はポケットの中に手を突っ込んだ。携帯電話を取り出し、登録してある電話番号をチェックした。この携帯電話も、早いうちに変えなくてはならない。でないと、美礼が連絡してくるかもしれないからだ。彼女とは、縁を切るしかない。
 ふと隆司は、とある番号をじっと見つめる。ほんの気まぐれに登録したものだ……すぐに消そうとも思っていた。なぜ消さなかったのかは、自分でもよくわからない。こうなることを、本能的に予測していたのだろうか。
 隆司は、その番号に電話をかけた。






しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

熟女愛好家ユウスケの青春(熟女漁り)

MisakiNonagase
現代文学
高校まで勉強一筋で大学デビューをしたユウスケは家庭教師の教え子の母親と不倫交際するが、彼にとって彼女とが初の男女交際。そこでユウスケは自分が熟女好きだと自覚する。それからユウスケは戦略と実戦を重ねて、清潔感と聞き上手を武器にたくさんの熟女と付き合うことになるストーリーです。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

中1でEカップって巨乳だから熱く甘く生きたいと思う真理(マリー)と小説家を目指す男子、光(みつ)のラブな日常物語

jun( ̄▽ ̄)ノ
大衆娯楽
 中1でバスト92cmのブラはEカップというマリーと小説家を目指す男子、光の日常ラブ  ★作品はマリーの語り、一人称で進行します。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ

朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】  戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。  永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。  信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。  この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。 *ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。

屈辱と愛情

守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

織田信長 -尾州払暁-

藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。 守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。 織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。 そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。 毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。 スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。 (2022.04.04) ※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。 ※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。

処理中です...