ザイニンタチノマツロ

板倉恭司

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六月九日 隆司、何もかも捨てる

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「いったい何なんですか、これは……」

 呆然とした表情で、佐藤隆司は呟いた。彼の手には分厚い封筒がある。中には、現金と思われる物が入っていた。目の前の男に、無理やり握らせられたものだ。



 隆司は今、真幌公園のベンチに座っている。彼の隣には、ひとりの中年男がいた。年齢は五十代から六十代で、やや小太りの体型だ。髪型や服装さらに身に付けている物は、全て地味で飾り気のない物ばかりである。顔つきも真面目そうだ。男の歩んで来た人生が、ごく平凡なものである事を物語っていた。
 だが、そんな男が隆司に差し出してきた封筒の中には、札束が入っている。それも、かなり厚いものだ。

「全部で、三百万円入っている。今の私たちに用意できる、ギリギリの金額だ。もし足りないと言うのであれば、後で必ず何とかする。だから、今はこれを受け取ってくれないか?」

 そう言うと、芦田哲夫アシダ テツオは頭を下げる。
 隆司には、話の流れがようやく理解できた。今日いきなり同棲している美礼の父親に呼び出され、神妙な面持ちで真幌公園に行ったのだが……結局は、こういう話だったのか。

「俺に美礼さんと別れろ、と……そう言いたいんですね?」

 言いながら、隆司は哲夫の方を向く。
 哲夫は顔を歪め体を震わせながらも、隆司から目を逸らさなかった。もともとは気の弱い、ごく平凡な中年男なのだろう。暴力沙汰とは、無縁の人生を送ってきたはずだ。そんな男が、娘のために話をつけるべく、自分を呼び出したのだ。
 殺人犯である、自分を──

「佐藤くん、君には本当に申し訳ないと思っている。君が娘を守るために、人を殺したのもわかっている。だが、娘の今後のためなんだ。頼むから……娘と別れてくれ!」

 言った後、哲夫は立ち上がる。直後、いきなり土下座したのだ──



 ノロノロと、足を引きずるようにして歩く隆司。その表情は虚ろで、目は死んだ魚のようであった。
 家に戻ると、スーツケースの中に自身の荷物を全て詰め込む。
 そして立ち上がり、無言のまま外に出て行った。

(頼む。君には、本当にすまないと思っている。私の言っている事が、理不尽である事も理解している。だが私は、娘に幸せになって欲しいんだ。そのためなら、私は出来る事をする。お願いだ、娘と別れてくれ……いや、別れてください、お願いです。この場で私を、気が済むまで殴っても構いませんから……)

 隆司の脳裡に、哲夫の言葉が甦る。その必死な姿を前に、隆司はこう言うしかなかった。

「分かりました。この三百万は、ありがたく頂戴します。その代わり、僕は美礼さんの前から永遠に消えますよ」

 自分の存在が、美礼の幸せを阻んでいる。
 その事実を、薄々感じてはいた。だが今までは、必死で頑張ればやり直せる……そう信じていたのだ。必死で努力すれば、いつか必ず美礼を幸せに出来るはずだと。
 だが、それは不可能であるらしい。
 前科者と、そうでない者との間には目に見えぬ境界線がある。ましてや、人殺しともなると……また違う境界線があるのだ。
 それに、ここ数日の間に起きた出来事も無視できない。
 アルバイト先に、自分が殺人の前科があることを知られてしまった。さらには、見知らぬ男に叩きのめされたのだ。あの男は、隆司の素性を知っていた。佐藤隆司だな、と慥かめた上で彼に襲いかかってきたのだ。あれは、ただのチンピラではない。明らかに計画的な犯行である。
 このままだと、いずれは美礼の方にも迷惑がかかるかもしれない。
 だから、速やかにここを離れる必要がある。
 自分の気が変わらないうちに……。



 二時間後、隆司はベッドの上に寝転がり、ずっと天井を見つめていた。
 ここは、駅前のビジネスホテルの一室だ。今夜一晩だけは、この部屋に泊まる。もっとも、明日からはネットカフェ暮らしだ。手元には三百万あるとはいえ、野放図に使っていてはすぐに無くなってしまう。
 そう、自分にはもう何もないのだ。

「俺にはもう、何も無い……」

 虚ろな目で天井を見つめ、隆司は呟いた。
 何故、こうなってしまったのだろうか。
 いつから、自分の人生は狂い出したのだろう。
 いや、違う。自分は断じてミスはしていない。少なくとも、普通に生きてきたのだ……あの日までは。

 刑務所の中で、大勢の人間を見てきた。彼らのほとんどが、来るべくして刑務所に来ていた者たちだった。受刑者の八割ほどが中卒であり、大卒などは百人にひとりもいない。幼い頃から努力を放棄し、流されるままに生きてきた結果が刑務所だった……少なくとも、隆司にはそう見えた。
 だが、自分は彼らとは違う。ごく真っ当に生きてきたのだ。小学校、中学校、高校、大学……それらの期間、犯罪に触れることなく過ごしてきた。法を破ることなく生活し、受験や就職といった関門をクリアしてきたのだ。その時々に応じて努力し、問題を起こさず、空気を読んで生きてきたつもりだった。
 それなのに、何もかも失ってしまった。今の自分は、ただの前科者である。それも人殺しの──

 これが、俺の運命なのだろうか?

 生まれつき、不治の病に冒されている者もいる。普通に暮らしていたのに、ある日いきなり事故に巻き込まれて死んでしまう者もいる。人生など、そんなものだ。そう考えて、生きていくしかないのだろうか。
 いや、それ以前の問題として……こうなった以上、何のために生きればいい?

 不思議な気分だった。
 悲しいとか悔しいとか、そういった気持ちすら湧いてこない。涙も怒りもなく、ただ虚ろな気持ちだけが隆司の体内に満ちているのだ。心の中心にぽっかりと穴が空き、そこは死んでしまっている。
 本当に悲しい時は、涙さえ出ないのだな……隆司はふと、そんな事を考えた。
 しばらくして、隆司はポケットの中に手を突っ込んだ。携帯電話を取り出し、登録してある電話番号をチェックした。この携帯電話も、早いうちに変えなくてはならない。でないと、美礼が連絡してくるかもしれないからだ。彼女とは、縁を切るしかない。
 ふと隆司は、とある番号をじっと見つめる。ほんの気まぐれに登録したものだ……すぐに消そうとも思っていた。なぜ消さなかったのかは、自分でもよくわからない。こうなることを、本能的に予測していたのだろうか。
 隆司は、その番号に電話をかけた。






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