悪魔の授業

板倉恭司

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出会い(1)

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 昔、学園ドラマで言ってたセリフなんだけどよ……腐ったミカンが箱に入ると、箱にある全部のミカンを腐らせるんだとさ。つまり、理論上は腐ったミカンがひとつあるだけで、世の中にある全てのミカンを腐らせることが可能ってわけだ。
 もし悪魔ってのが本当にいるなら、今の世の中は本当に仕事がやりやすいだろうな。今は、影響力のある人間をひとり腐らせるだけでいい。そうすれば、周りにいる人間が次々と腐っていくわけだ。

 ・・・

 その日、真幌公園には三人の少年がたむろしていた。
 全員が十代半ばであり、体型も服装も髪型もまちまちである。ただし、共通する点がひとつだけあった。全員、たいした意味もないのに大きな声を出していることだ。
 時刻は既に、夜の一時を過ぎている。にもかかわらず、少年たちは公園の中で派手に騒いでいた。まるで、騒ぐことに自分たちの価値を見い出だしているかのようである。彼らはベンチに座り、大声で喋り、タバコの吸い殻を空き缶などといったゴミを撒き散らし、楽しそうに笑っていた。
 しかし、彼らの愉快な時間は、唐突に終わりを告げる。

 公園で浮かれている少年たちの前に、不気味な者が現れた。
 身長はさほど高くない。体格も、ごく普通だ。黒いパーカーを着て、革の手袋をはめている。フードを目深に被っているため顔や髪型などは見えないが、背丈や肩幅から察するに男であろう。
 その者は、少年たちに向かい言った。

「お前ら、うるせえよ。近所迷惑だろうが。とっとと帰れ、クズ共が」

 低い声は、間違いなく男のそれだった。しかも、少年たちを馬鹿にしているような口調である。
 こんな言葉遣いをしなければ、少年たちはおとなしく引き上げたのかもしれなかった。だが、パーカーの男の乱暴な言葉が、彼らの怒りの感情を呼び起こしてしまった。

「んだと! 何なんだてめえは!」

 ひときわ凶暴そうな、鼻にピアスを付けた少年が怒りを露にして怒鳴った。と同時に、勢いよく立ち上がる。

「誰に向かってンな口きいてんだよ! ブッ殺してやっから、そこで待ってろ!

 喚きながら、肩を怒らせ鋭い表情で近づいていく。
 もし、この少年がひとりであったなら、パーカー男に対し立ち向かったりはしなかったかもしれない。だが、仲間の手前、彼は行かざるを得なかった。もちろん、集団であるがゆえの安心感もある。さらに、ピアスの少年は喧嘩にもそれなりに自信はある。そこらの一般人に負ける気はしない。
 しかし、彼は大きな過ちを犯していた。そこらの一般人は、たったひとりで彼らのような少年たちに対し、真正面から喧嘩を売るような真似はしないのだ。
 パーカー男は、こちらに近づいて来る少年を見つめた。

「そうか、お前ら、帰る気がないんだな。よくわかった」

 冷めきった声を発した次の瞬間、男のパンチが飛んだ。それも、立て続けに二発。鋭く速い左のジャブからの、体重を乗せた右のストレートだ。二発とも、正確に少年の顔面に命中する──
 そのパンチはあまりにも速く、かつ強烈なものだった。少年がこれまで相手にしてきた者たちの力任せのパンチとは、根本的に違う本物の打撃である。しかも、間髪を入れず続けざまに炸裂したのだ。
 強烈なパンチをまともにくらい、少年の鼻はへし折れた。物理的にも精神的にも。
 直後、少年の顔から血が吹き出た。さらに一瞬遅れて、無様な悲鳴を上げる。意識はまだ残っているものの……パンチによる激痛と、それに伴う恐怖が彼から戦意を根こそぎ奪っていた。鼻と口から大量の血を流し、両手で顔を覆ってうずくまる。
 それを見た残りの二人は、表情が硬直していた。一瞬の出来事のため、目の前で何が起きたのか把握できていなかった。
 だが、パーカー男の動きは止まらない。残る二人に向かい、獣のような勢いで襲いかかって行った。
 当の二人は、愚かにも未だにポカンと口を開けたままだった。逃げることも反撃することもしないまま、ベンチに座り込んでいたのだ。
 だが、ようやく危険を察知したらしい。弾かれたように立ち上がる。もっとも、次に何をすればいいのかはわかっていない。半ば反射的に立ち上がっただけだ。
 一方、パーカー男には容赦がなかった。ひとりのあごめがけ、体重を乗せた左のフックを叩き込む。
 直後、もうひとりの顔面に、腰の入った右の回し蹴りを食らわす──
 二人は顔から血を吹き出し、崩れ落ちた。

 それは、一分にも満たない間の出来事だった。
 先ほどまで、我が物顔で浮かれていた少年たちだったが……今では三人とも、うめき声を上げて地面にうずくまっている。予期せぬ痛みの前に心が折れ、戦意は完全に喪失してしまっていた。代わりに、今の彼らを支配しているものは恐怖だ。体をぶるぶる震わせ、怯えた表情で男を見上げている。
 一方、パーカー男の呼吸は全く乱れていない。平静な表情で、少年たちから財布とスマホを奪った。さらに、彼らの耳元に口を寄せる。

「いいか、お前らの家の住所と電話番号を言え」

 少年たちに、逆らう気力などなかった。声を震わせながら、ひとりずつ名乗っていく。さらには、住所と電話番号も伝えた。パーカー男はスマホを用いてメモすると、最後に彼らに向かい冷酷な口調で言い放つ。

「もし、後で警察に泣きついたりしたら、どこにいようが探しだして殺してやる。よく覚えとけ」

 直後、パーカー男は速やかに立ち去っていく。
 後には、うめき声を上げる三人の少年たちが残された。彼らは、よろよろした動きで立ち上がり、ベンチに座り込む。荒い息を吐きながら、顔についた血を拭った。
 辺りは、静けさに包まれている。先ほどまでの騒々しさが嘘のように、しんと静まりかえっている。少年たちは、今の出来事で完全に心を折られていた。騒ぐ気力も、消えてしまったらしい。
 そんな少年たちを、十メートルほど離れた位置からじっと見ている者がいた。作業着姿の中年男だが、その存在に誰も気づいていなかった。
 ややあって、中年男も動き出す。その目は、かなり離れた位置を歩いているパーカー男をじっと見つめていた。



 パーカー男は、真っすぐ自宅へと戻っていく。
 彼の現在の住みかは、家賃五万円の狭いアパートだ。筑三十年の古い建物であるが、風呂が付いているのが救いである。部屋の中は殺風景で、洒落た調度品などは一切置かれていない。冷蔵庫とテレビ、そして床に直接敷かれた布団の存在が、かろうじて生活スペースであることを伝えてくれていた。
 男はパーカーを脱ぎ捨て、布団の上に座り込む。髪は、短く刈り込まれた坊主頭だ。裸の上半身は意外に逞しく、しなやかな筋肉に覆われていた。左胸には、英字の小さなタトゥーが彫られている。
 いかつい拳にはタコがあり、手のひらも分厚く頑丈そうだ。知識のない一般人の目から見ても、格闘技をやっていることは一目瞭然であろう。
 そんな彼は、真っ暗な部屋の中で電灯もつけず、闇の中でじっと天井を見つめていた。
 己の裡に潜む憎悪の対象を、そこに見出だそうとしているかのように──



 山木郁紀ヤマキ フミノリは、アルバイトで生計を立てている十九歳の若者だ。両親は、郁紀が幼い頃に事故で亡くなっている。高校を卒業するまでは『人間学園』という施設で生活していた。
 両親の死という不幸な事故を体験していたものの、それが幼い彼の性格に陰を落とすようなことはなかった。周囲の人々は暖かく接してくれ、郁紀は真っすぐで素直な性格の少年へと育っていく。特に問題を起こすようなこともなく、健やかに成長していた。
 ところが十二歳の時、彼の人生観を狂わせる事件が起きる──
 以来、郁紀は変わってしまった。毎日、何かに憑かれたように、ひたすら体を鍛え抜く。中学に入ってからは、格闘技のジムに通い始めた。周囲の者たちとは、距離を置くようになった。結果、ひとりの行動時間が増えていった。
 やがて、彼は街に出るようになった。たったひとりで夜の繁華街に繰り出し、イキがるチンピラたちに不意打ちを食らわせ叩きのめす……取り憑かれたように、喧嘩に明け暮れた。
 そんな中、郁紀はヘマをして警官に捕まり補導される。家庭裁判所にて保護観察処分を言い渡され、多少おとなしくなった……あくまで「多少」であるが。
 高校を卒業した彼は、施設を出ることになった。それと時を同じくして、倉庫作業員のアルバイトを始める。
 しばらくは、倉庫作業員として平穏に生活していた。だが、いつまでもおとなしくはしていられなかった。やがて彼は、夜の街での喧嘩を再開する。いや、喧嘩というよりは一方的な暴力であった。



 翌朝、郁紀はいつもの通り午前九時に出勤した。倉庫内での作業をこなし、昼の十二時に休憩する。
 休憩時間、彼は他の同僚たちとは必要がない限り接触しない。また、個人的なことは一切話さない。
 同僚の者たちからは、暗い不気味な奴と思われ敬遠されていた。郁紀に話しかけてくるような物好きは、この会社にはいない。もっとも、彼としてはその方がありがたかったが。
 午後の作業を黙々とこなしているうちに、夕方五時のサイレンが鳴る。郁紀は作業の手を止め、足早に持ち場を離れる。倉庫は広く、方向音痴の者なら道に迷ってしまうだろう。
 作業着を着替えるための更衣室は、ここから歩いて十分ほどかかる位置に設置されていた。しかし、郁紀は更衣室では着替えない。トイレで着替えてタイムカードを押し、さっさと引き上げる。

 職場を出ると、郁紀は駅前のキックボクシングジムへと向かう。
 ジムでトレーニングウエアに着替え、トレーニングを開始する。縄跳び、シャドーボクシング、サンドバッグ打ち、ミット打ち。しなやかな筋肉に包まれた体がリズミカルに動く。郁紀がサンドバッグにパンチやキックを叩きこむ度、爆発音にも似た音がジムに響き渡る。ジムの中にはプロのキックボクサーもいたが、郁紀のトレーニングには圧倒されるものを感じているようだった。
 事実、このジムには多数の会員がいるが……今の郁紀に太刀打ちできる技術レベルの者は少ない。それ以前に、八十キロを超すライトヘビー級の体格を持つ彼とまともにスパーリングできる相手がいないのだが。



 二時間近いトレーニングを終えると、大量のサプリメントを水で流し込み、真っすぐ家に帰る。余計な寄り道はしない。遊んでいる金も時間も、彼にはなかった。
 あとは、家で食事をとり眠るだけ。郁紀の生活は、きわめてシンプルなものである。彼にとって最大のイベントといえば、休日に路上でチンピラを殴り倒す……それだけである。
 だが、この日は想定外の事態に遭遇してしまった──

 家に入った瞬間、郁紀は心臓が飛び出しそうになった。驚愕の表情を浮かべつつ、急ブレーキでもかけたかのように、ガクンと動きが止まった。
 それも当然だろう。室内に、奇妙な男が座り込んでいたのだ──
 身長はさほど大きくなさそうであり、肌の色は浅黒い。黒髪は肩まで伸びており、肩幅は広くがっちりしている。異様に彫りの深い顔立ちや肌の色から判断するに、日本人ではないだろう。かといって、欧米人とも違う。いわゆるヒスパニック系だろうか。
 見た目からは年齢を推し量れないが、若くないのは確かだ。確実に、三十歳を過ぎているだろう。汚い作業着のような服を着てキャップを被り、靴を履いたままで室内に上がり込んでいる。
 そして最大の特徴が、彼の異様な風貌であった。全身から、野獣のような雰囲気を漂わせている。が、その瞳や顔つきからは高い知性を感じさせるのだ。郁紀が、今まで遭ったことのないタイプの人間である。
 そんな奇妙な外国人が、あぐらをかいた姿勢で座り込み、家主である郁紀を真っすぐ見ているのだ。
 郁紀の方は、硬直したままだった。あまりにも異常な事態に、頭も体も反応が出来なかったのだ。言うまでもなく、こんな男は知らない。そもそも鍵をかけたはずなのに、どうやって家の中に入って来たのか。自分に、何か用があるのか。様々な疑問が一度に頭を駆け巡り、混乱した状態で立ち尽くしていた。
 突然、中年男はニヤリと笑った。直後、見た目に似合わぬ流暢な日本語で喋り始める。

「やあ、はじめまして。俺の名はペドロっていうんだ。よろしくね」




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