悪魔の授業

板倉恭司

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最後の決断

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 郁紀は、青ざめた表情でペドロの訪問を待っていた。
 昨日から、ほとんど眠れていない。あの男と電話越しに二言か三言話しただけで、妙な疲労感を覚えていた。
 やがて食事を取り、寝床に入ったが……なかなか眠れなかった。疲れているはずなのに、異様に神経が高ぶっており、寝付くのに時間がかかったのを覚えている。



 今朝は、午前七時に目覚めた。いつも通りの起床時間だ。眠りについたのは何時頃だったろうか。熟睡した気はしない。
 その後、普段通りに朝食をとったが、味わう余裕はなかった。もともと郁紀は、食を味わうことに対しこだわりがない。今朝も、ゆで卵とパンを食べただけだが……砂を噛んでいるような気分だった。
 どうにか水で流し込んだ後、テレビをつける。だが、映像も音も全く頭に入って来ない。目で見て、耳で聞いてはいるはずなのだが、内容を把握できていなかった。
 昨日の電話によれば、ペドロは午後二時に迎えに来る。それまで、何をすればいいのだろうか。
 暇を潰す手段など、いくらでもある……はずだった。だが、今は何をしても上の空だ。テレビを見ても、スマホを見ても集中できない。気がつくと、目が今の時間をチェックしている。時間が、これほど長く感じたことはなかった。

 拷問にも思えるような時間が過ぎていき、ようやく約束の午後二時を迎えた。
 スマホを見てみたが、連絡はない。次にドアの方に視線を向けた。すると、見ていたかのようにブザーが鳴った。
 その途端、弾かれたような勢いで立ち上がる。慌ててドアを開けると、目の前にペドロが立っていた。
 彼は昨日と同じく、作業服を着て帽子を被った姿だ。飄々ひょうひょうとした様子で立っている。

「あ、あの……ど、どうも」

 反射的に、そんな言葉が出ていた。ペドロの方は、にこりともせず口を開く。

「入ってもいいかな? ちょっと、込み入った話があるのでね」

「は、はい、どうぞ」

 郁紀の返事を聞くと、ペドロは靴を脱いだ。直後、何のためらいもなくずかずかと入って来る。遠慮という概念が、彼にはないらしい。
 もっとも、昨日は無断で部屋に侵入したのだ。しかも、土足で上がり込んでいた。それに比べれば、いくぶんマシではある。
 室内に入ると、ペドロは当然のごとく床に座り込んだ。顔を上げ、おもむろに口を開く。

「今の君は、睡眠不足のようだね。それは良くないな。眠れる時には、きちんと寝ておかないと駄目だよ」

 その声は、とても穏やかなものだった。にもかかわらず、郁紀は叱られたかのように頭を下げていた。

「す、すみません」

「謝ることはない。それよりも……まずは、やってもらうことがある。携帯電話は、この家に置いていくんだ。さらに、現金やカードの類いも、全部この家に置いていきたまえ。俺の指導を受ける間は、俗世間の情報を全て遮断してもらう」

「えっ……」

 郁紀は、予想外の事態に口ごもる。そんなことをするとは、聞いていない。万が一の事態を考えたら……。
 すると、ペドロの顔つきが僅かに変化した。

「怖いのかね? どうしても気が進まないのなら、ここで引き返すことも出来る。考え直す最後のチャンスだよ」

 最後のチャンス。
 その言葉は、とても重い響きを持っていた。今なら、まだ引き返せるのだ。ひょっとしたら、自分は恐ろしく間違った決断をしようとしているのかもしれない。
 心に迷いが生まれた郁紀に、ペドロは優しい口調で語る。 

「これからすることは、確実に君の想像を超えている。しかも、始まってしまったら、途中で後戻りすることは出来ない。辛いとか、苦しいとか、そんな理由で中止することは出来ないんだよ」

 郁紀は、心が揺らいだ。ここで、やめた方がいいのだろうか。
 やめてしまえば、今まで通りの平穏な生活が待っている。今まで通りにバイトをして、時々ヤンキーやチンピラを叩きのめす日々。
 だが、その先に何がある?

「そのことを知った上で、それでも付いて来るのかい? やめるなら、今のうちだよ」

 ペドロの顔には、笑みが浮かんでいた。だが、その瞳は笑っていない。何を考えているのか窺い知ることは出来ないが、彼が喜んでいないことだけはわかる。。
 その時、郁紀ははっきりと悟った。自分は、もう戻れないのだ。ペドロという怪物と、自らの意思で連絡を取ってしまった。しかも、彼にここまで来てもらっているのだ。それを、今になって無かったことには出来ない。
 郁紀は、その場にスマホと財布を置いた。ペドロの目を見つめ答える。

「お、俺は行きます」

 すると、ペドロの顔から笑みが消えた。

「わかった。では、行くとしようか」

 直後、すっと立ち上がった。

「必要なものは、全て向こうに用意してある。君は、身ひとつで行くだけだ」

 そう言うと、ペドロは外へ出て行った。続いて、郁紀も外に出ていく。

「では郁紀くん、あれに乗りたまえ」

 ペドロが指し示す先には、一台の車が止まっていた。何の変哲もない、どこにでもある白い乗用車だ。彼はドアを開け、運転席に乗り込む。郁紀は、恐る恐る助手席に乗った。



 二人の乗った車は、ゆっくりと道路を進んで行く。ペドロの運転は、とても慎重であった。彼の印象とは、完全に真逆である。
 二十分ほど経った時だった。

「あ、あの……この車はあなたのですか?」

 車を運転するペドロに、郁紀はためらいながらも尋ねた。
 ここまでの運転中、ペドロは一言も喋らずハンドルを握っている。車内には、重苦しい空気が漂っていた。その空気に耐え切れなくなり、思わず質問をしていたのだ。
 その問いに対するペドロの答えは、あまりにも簡単なものだった。

「いいや、俺の車じゃない。ちょっと拝借したんだよ」

「そ、そうですか……」

 拝借とはどういう意味なのか、何となくわかる。もっとも、詳しい事情まではわかりたくはなかった。このペドロという男は、郁紀の理解の範囲を超えている。車泥棒くらい、当たり前のようにこなすのだろう。
 その時、ペドロがくすりと笑った……ような気がした。

「君は今、沈黙に耐えられなくなった。だから、くだらない質問をした。覚えておくといい。沈黙していると、向こうから勝手に情報を漏らしてくれることもある。君は、沈黙に耐えることを覚えた方がいい」

 真っ直ぐ前を見ながら、静かな口調で語りかけてきた。対する郁紀は、無言のまま頷く。ペドロの指摘は当たっていた。自分の行動や思考を見抜くことなど、彼にとって簡単なことなのだろう。

「昨日、言ったはずだ……君を、本物の戦士に変えると。俺は嘘は嫌いだし、約束したことは必ず守る。だから、俺の言うことは聞きたまえ。今はわからなくとも、後になってわかることもある」

 ペドロは、なおも語り続ける。郁紀は、ここでようやく返事をした。

「はい」

「ところで、君にひとつ質問がある。優秀な戦士に必要なものは、何だと思う?」

「えっ……わ、わかりません」

 郁紀の答えに、ペドロは口元を歪めた。
 その途端、郁紀はドキリとなる。もしかして、怒らせてしまったのだろうか。 

「まあ、今の君にはわからないだろう。それも当然だ。これから行く場所で、それを教わることになるのだからね」

「は、はい!」

 郁紀は即答した。これ以上、機嫌を損ねるようなまねはしたくない。
 その時、ペドロの表情が僅かに柔らかくなった……ような気がした。

「ところで……昨日から、あまり眠れていないのだろう? だったら構わない。眠るといい」

「えっ? いや、それは──」

「寝ておいた方がいいよ。これから起こることに備えてね。さっきも言ったはずだよ、寝られる時は寝た方がいいと」

 ペドロの口調は静かだが、有無を言わさぬ意思が感じられた。寝ておいた方がいいよ、と提案しているように聞こえるが、実のところは命令なのだろうか。

「わ、わかりました」

 郁紀は、目を閉じた。その途端、強い睡魔が襲ってくる。抵抗することなど出来なかった。彼は、深い眠りに落ちていった。





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