悪魔の授業

板倉恭司

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池野ケガをする

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 小山ビルは、真幌駅から歩いて十分ほどの場所に建っている。四階建てで階段は狭く、エレベーターは付いていない。入っているテナントも、得体のしれない者ばかりである。
 そのビルの前に、ひとりの若者が立っていた。黒いパーカーを着て手袋を嵌め、フードを目深に被っている。
 今の時間は、夜の七時過ぎだ。駅前には、仕事帰りのサラリーマンや若者たちがうろうろしている。だが、この小山ビルの周りには人がほとんどいない。なぜなら、この周辺でには危険人物が生息しているからだ。ヤクザ、チンピラ、半グレ……そうした裏社会の住人たちが潜み、獲物を狙っている。
 さらに、このパーカーを着た男もまた、超が付くほどの危険人物である。



 山木郁紀は、目の前に建っているビルを見上げた。
 この四階には、有限会社村田工業所なる会社の事務所がある。ところが、その村田工業所は桑原興行のダミー会社らしい。桑原興行のチンピラを脅して得た情報である。
 しかも今、ここの事務所に社長の桑原徳馬がいるらしい。ならば、乗り込んでいって殺すだけだ。
 そうすれば、このバカげた抗争も今日で終りに出来る──

 郁紀は、階段を昇っていく。やたらと狭い階段だ。成人男子が二人並んで歩くことも不可能だ。力士やプロレスラーのような体格の人間なら、ひとりでも窮屈だろう。
 しかも、他の階には人の気配が感じられない。裏稼業の人間が経営する幽霊会社ばかりが入っているようだ。
 そんな中を上がっていき、四階に辿り着いた。目の前には金属製のドアがあり、壁にはインターホンが付いていた。来る者拒まず、といった雰囲気は感じられない。むしろ、関係ねえ奴は来るな……という雰囲気に満ちている。
 郁紀は、天井を見上げた。今のところ、防犯カメラの類は見ていない。簡単には見つからないような場所に設置されているのか、あるいは最初から設置されていないのか。
 どうも妙だ。こんな場所に、裏社会の大物が足を運ぶだろうか。罠である可能性が高い。
 だが、郁紀はドアノブに手をかけた。ゆっくりと回してみる。鍵はかかっていない。開けるのは簡単だ。
 ドアを開け、入ってみた。

 中は、事務机と椅子が申し訳程度に置かれている。だが、仕事をしている雰囲気はない。少なくとも、工業所という雰囲気ではない。オフィスとして機能しているのかどうか、それすら疑問だ。
 そして郁紀が入ると同時に、待ってましたとばかりに四人の男が立ち上がる──

「俺はな、桑原興行の池野清吾って者だ。お前、山木郁紀だなあ……ちょっと面貸してもらおうか」

 四人の中でも、もっとも年長と思われる男が言った。見た感じは三十代、トレーナーにワークパンツというラフな服装だ。髪は短めで、鼻は潰れている。体はさほど大きくはないが、筋肉質のしなやかな体つきなのは服ごしにも見てとれる。他の三人はスーツ姿の若者だが、緊張しているのが見え見えだ。若干ではあるが、足が震えている。うちひとりは、スマホに何やら打ち込んでいる。
 直後、階段を上がってくる足音が聞こえてきた。それも数人だ。これで、逃げ道を塞がれた。
 待ち伏せを食らったのだ。郁紀は、思わず顔をしかめる。

「おい、余計な手間はかけさせんな。おとなしく、おじさんと一緒に来い」

 低い声で凄むと、池野はゆっくりと近づいて来た。
 郁紀は、目だけで素早く辺りを見回した。階段から上がってくるらしい数人のチンピラ。さらに、室内には荒事に慣れていそうな四人。完全に挟み打ちの状態である。実際、池野は勝利を確信した顔だ。郁紀から見ても、この池野は数々の修羅場をくぐった者特有の雰囲気を醸し出している。
 だが、詰めが甘い。やるなら、さっさと攻撃を仕掛けるべきだった。口で脅しておとなしくなるとでも思っていたのだろうか。
 郁紀は、パッと向きを変える。ドアを開けると同時に、階段へとダッシュした。

「待てや! このクソガキが!」

 階段を上がって来たチンピラが吠える。だが、直後に荒い息を吐いた。その威勢とは裏腹に、足がガタガタなのは明白だ。おそらく四階まで、一気に駆け上がって来たのだろう。 
 郁紀は躊躇せず、一気に飛び上がった。
 そのまま、手近なチンピラに飛び膝蹴りを見舞う。いや、飛び膝蹴りというよりは、プロレスのニードロップに近い形だ──

 チンピラは、完全に不意を突かれた。
 彼らは、階段を四階まで駆け上がって来ている。日頃からタバコや酒をやり、運動とは縁がない生活をしている者たちだ。当然ながら体力はなく、もはや足はガタガタである。その上、足場が悪い階段に数人が固まっているという状態だ。
 郁紀の飛び膝蹴りを受け、一番前にいたチンピラがバランスを崩し倒れる。そうなると、背後にいた者たちも巻き込まれていく。将棋倒しの状態となり、階段を転げ落ちていった──
 そんな彼らを踏み付けながら、郁紀は階段を駆け降りていく。倒れているチンピラたちには、彼を止められなかった。皆、狭い階段で折り重なって倒れている。起き上がることすら出来ない状態だ。
 郁紀は小山ビルを出て、辺りを見回した。ビルの中の騒ぎが嘘のように、ひっそりと静まりかえっている。桑原興行の関係者らしき者はいない。今なら、さっさと逃げられるだろう。
 だが、逃げる気はなかった。まだ、やることがある。

「てめら、寝てんじゃねえ!」

 喚きながら、階段を降りてくる者がいた──
 それは池野だった。この男は、他の連中とは違う。桑原徳馬の恐ろしさが、心身に刻み込まれているのだ。このまま郁紀を逃がしたら、自分もただでは済まない。
 もっとも、彼を突き動かしているものは、桑原への恐怖だけではなかった。ただのチンピラで終わっていたかもしれない自分を拾い、それなりの地位に着けてくれた……池野の中には、その思いもある。
 桑原に対する恐怖と恩義が入り混じり、池野の中に異様な忠誠心を生み出していたのだ。今の池野は、その忠誠心に突き動かされるまま動いていた。
 
「山木ぃ! 逃げんじゃねえ!」

 吠えながら、外に出た池野。と、視界の端に何かか映る。池野は、反射的に拳を上げて顔面をガードした。
 次の瞬間、腕に衝撃が走る。郁紀のハイキックをまともに受けたのだ。片腕でガードはしたものの、手首に強烈な痛みを感じた。池野は、思わず表情を歪める。
 直後、彼の腹を強烈なボディーブローが襲う。さすがの池野も、これには耐えられなかった。一瞬の間を置き、両手で腹を押さえてうずくまる。
 郁紀は、池野の襟首を掴み起き上がらせた。

「おいコラ、お前は桑原興行ではそこそこ偉いんだよな?」

 尋ねると、池野は激しい憎しみを込めた目で睨みつけてきた。

「このガキが……こんなことして、ただで済むと思ってんの──」
 
 言い終える前に、郁紀の拳が振り下ろされる。鈍い音とともに、池野の口から折れた歯の欠片が飛んでいった──
 さらに、襟首を掴み立ち上がらせる。直後、左のボディアッパーを叩き込んだ。
 池野は、腹を押さえて崩れ落ちる。たが郁紀は、そこで終わらせるほど甘くはない。襟首を掴んで、無理やり立ち上がらせる。

「俺が知りたいのはな、桑原徳馬の居場所だ。教えねえなら、てめえの歯を全部叩き折ってやる」

 郁紀は、再び拳を振り上げる。その時、どこからか視線を感じた。
 パッと振り向くと、数メートル先の物陰から伸びる手が見えた。その手は、スマホを握っている。
 その途端、郁紀の中で何かが変化した。池野の襟首を掴んでいた手を離し、彼を放り出す。直後、次の獲物へとダッシュする──

「お前、何やってんだ?」

 言いながら、スマホを持つ手を掴み強引に引きずり倒す。見れば、まだ中学生か。いや、幼く見えるが高校生かもしれない。どちらかといえば、学校でも目立たないタイプだと思われる風貌だ。事件に遭遇し、野次馬根性からスマホで録画したのだろう。もっとも今は、怯えきった表情で震えているが。
 郁紀は、猛烈に腹が立ってきた。人が痛め付けられている場面に遭遇しているのに、ヘラヘラ笑いながらスマホで撮影するとは。

「何をしてんのかと聞いて──」

 不意に言葉を止めた。少年の顔は、何かに似ている。弱い者を、一方的にいたぶる自分も──
 その両者が何に似ているのか気づいた瞬間、郁紀の全身を不快なものが駆け巡った。怒りの矛先は少年にではなく、自分自身に向けられる。
 おもむろに少年のスマホを取り上げ、道路に思い切り叩きつける。スマホの画面は割れ、少年はヒッと声をあげる。
 
「さっさと失せろ。でないと殺すぞ」

 凄むと、少年はしゃがみこんだまま頷いた。どうやら腰が抜け、すぐには動けないらしい。
 その時、郁紀は人の気配を感じた。周囲を見ると、いつのまにか人が集まって来ている。好奇の目で、じっとこちらを見ている……中には、スマホで撮影している者もいる。
 チッと舌打ちし、素早くその場を離れていった。




 
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