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能見唯湖編
試合出場
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「能見さん、リラックスだよ」
同じジムの会員である大東の声に、唯湖はこくんと頷いた。わざわざ見に来てくれたらしい。
唯湖たちは今、都内の格闘技ジム『小中道場』に来ていた。荒川ジムよりは大きく、大勢の人間を収容できる。リングもふたつ設置されていた。
周囲を見回してみると、大勢の人がいた。いかつい男たちが半分以上を占めている。中には、プロレスラーのような体格の者もいる。そんな男たちが、一心不乱にウォームアップをしている。明らかに、彼女は場違いであった。
しかも本日、唯湖は試合を行うのだ──
・・・
「試合に出てみないか」
黒崎からそう言われたのは、数日前のことである。唯湖は、何を言われているかわからなかった。きょとんとしている彼女に、黒崎は語り続けた。
「来週、アマチュアよキックボクシング大会が開催。ところが、対戦相手がおらず試合が組めない女子選手がいる。そこで、開催する団体があちこちのジムに呼びかけているそうだ。聞けば、体重はお前とほぼ同じた。出てみるか?」
ようやく事態が飲み込めてきた唯湖は、慌てて首を横に振る。
「ちょ、ちょっと待ってください! あたし、そんなの無理です!」
「無理とは思えん。はっきり言うが、お前には才能がある。柔軟さ、バネのある下半身、技の覚えの早さ、筋力……どれも素晴らしい。お前には、一流のアスリートになれる素質がある」
「でも、あたしは腕が──」
「その程度のハンデなど、お前なら乗り越えられる。いいか、試合はアマチュアだ。十六オンスの大きなグローブをはめ、頭にはヘッドギアを付ける。足にはレガースも付けるし、試合は二分間の一ラウンドで終わりだ。プロのように危険なものではない」
言いかけた唯湖だったが、黒崎の圧に押され口を閉じる。
そんな唯湖に向かい、黒崎は語り続ける。この男、普段は無口だ。必要ないことは、あまり口にしないはすだった。それが、今はひどく雄弁である。
「今のお前に、負けたところで失うものなどあるまい。むしろ、闘いの中から見いだせるものがあるはずだ。勝ち負けに関係なく、な」
その通りだった。
今さら、何を失うというのだろう。負けて当たり前だし、誰も勝ちなど期待していない。
「もちろん、無理強いをする気はない。決めるのは、お前だ」
黒崎は、この言葉で話を終えた。
・・・
黒崎の熱意が、唯湖の心に変化をもたらしたのだ。深く考えることなく、出場を決めてしまった。
そして今、リングサイドにて出番を待っている
三ヶ月前までは、部屋の片隅で膝を抱えていた薬物依存症患者だった。ところが、今日はキックボクシング試合会場にいるのだ。アマチュアとはいえ、選手として出場するのである。
唯湖は、異様な緊張感を覚えていた。体がとても固く感じられ、動きも変だ。今になって、恐怖に襲われている。やめればよかった……という思いが、頭の中を駆け巡っていた。
その時、ぽんと肩を叩く者がいた。
「唯湖、よく聞け。今のお前は、プロのファイターではないのだ。したがって、勝敗にこだわる必要はない。今まで練習してきたことを、リングの上で出し切る……お前のやるべきことは、それだけだ。勝敗を超えた何かを、お前なら掴める」
黒崎の声だ。今ほど、この男の存在が頼もしく思えたことはない。唯湖は、ぺこりと頭を下げる。
「おっちゃん……じゃなかった、黒崎さん、ありがとうございます」
思わず言い間違えていた。今まで、黒崎をおっちゃんと呼んだことはない。そう呼ぶのは便利屋こと田原と他数名だ。やはり、緊張しているのか……などと思った時、横から田原が口を挟んできた。
「あのね唯湖ちゃん、黒崎さんなんて堅苦しい言い方しなくていいよ。この男は、おっちゃんでいいんだから」
聞いた唯湖は、くすりと笑った。田原は相変わらず飄々としている。このような緊張する場面では、田原のような人間がいてくれると助かる。
「何でもいい。お前の呼びたいように呼べ」
そう言ったのは黒崎である。そんなやり取りを続けるうちに、緊張感もほぐれてきた気がした。
やがて、唯湖の番が来た。
黒崎がヘッドギアを被せ、グローブをはめてくれる。唯湖は軽く頭を下げると、ゆっくりとリングに上がった。軽く肩を回してみる。
対戦相手は、確実に自分より若い。おそらく十代ではないだろうか。身長は百五十センチ強か。飾り気のない地味な風貌だが、肩回りや下半身の筋肉の付き方からして、何かスポーツに打ち込んだ経験があるのだろう。
そんな対戦相手だが、リングに上がった唯湖を見て、明らかに戸惑っている。唯湖が隻腕だとは、予想もしていなかったのだろう。
レフェリーが簡単なルール説明をした後、ゴングが鳴る。ついに試合が始まったのだ──
唯湖は、軽快な動きでリングを一周する。体は軽い。絶好調だ。先ほどの固さが嘘のようである。
一方、相手はまだ戸惑っているように見えた。オーソドックススタイル(左手と左足を前に出しており、唯湖とは逆)で、ガッチリとガードを固め、こちらの様子を見ている。身長が高く手足が長い上、片腕がない……唯湖のようなタイプが、対戦相手としてリングに立つとは想定していなかったのだろう。本気を出していいのか、迷っているのかもしれない。
ならば、こちらから仕掛けるだけだ。唯湖はスッと間合いを詰めていき、右の前蹴りを放つ。
唯湖の爪先が、相手の腹に突き刺さる。途端に、女の表情が変わった。ようやく本気になったらしい。苛立った表情で、前進しパンチをブンブン振ってくる。
しかし大振りだ。恐らく、突進力と大振りのパンチ連打がウリのタイプなのだろうが、攻めが単調である。唯湖は簡単に見切り、回り込んで躱した。
余裕だ。ジムで黒崎とやったスパーリングの方が、よっぽど怖い。
相手はなおも接近しようとするが、唯湖のステップが早く捕らえられない。前蹴りで前進を止められ、あっさり回り込まれる。
直後、唯湖はさらに前蹴りを放つ。今度は、相手の腹にクリーンヒットし、動きが止まった。こちらの前蹴りを警戒しているのか。
今だ──
次の瞬間、唯湖の右膝が上がる。前蹴りのモーションだ。
しかし、次の動きが違っていた。唯湖の膝から先は、内側に曲がったのだ。あぐらをかく時のような形である。
直後、足先が内から外に向けて伸びる。爪先が、相手のみぞおちに突き刺さった──
普通の回し蹴りは、外側から内に向け放たれる。しかし、今の唯湖の蹴りは完全に逆だ。例えるなら、空手の内回し蹴りに近い。無論、回し蹴りほどの襲撃力はないが、唯湖の爪先は相手のみぞおちに当たっている。いわば、内回しの三日月蹴りだ。
相手の表情が歪む。みぞおちに硬く鋭い爪先が当たり、息がつまるような衝撃に襲われたのだ。例えるなら、小型の鈍器で殴られたようなものである。一瞬、体が硬直した。
その瞬間、唯湖は動いた。右の拳が、横から放飛んでいく。右のフックを打ったのだ。
放たれたフックが、相手の顎をまともに捉える──
相手は、ガクッと崩れ落ちた。みぞおちへの変則的な三日月蹴りにより、意識がそちらに集中していた。そこに、パンチがクリーンヒットしたのだ。最高のタイミングである。耐えられるはすがなかった。
すると、黒崎が叫ぶ。
「唯湖、コーナーに戻れ!」
唯湖はハッとなった。目の前で、相手がバタリと倒れたのだ。初めての経験に戸惑っていたが、黒崎の声でようやく我に返る。慌ててコーナーへと下がった。
すると、レフェリーがダウンした対戦相手に近づいていく。倒れた相手の顔を見て、何事か話しかけた。しかし反応がない。
レフェリーは立ち上がり、両手を大きく振った。直後、ゴングが鳴らされる。
唯湖のKO勝ちだ──
同じジムの会員である大東の声に、唯湖はこくんと頷いた。わざわざ見に来てくれたらしい。
唯湖たちは今、都内の格闘技ジム『小中道場』に来ていた。荒川ジムよりは大きく、大勢の人間を収容できる。リングもふたつ設置されていた。
周囲を見回してみると、大勢の人がいた。いかつい男たちが半分以上を占めている。中には、プロレスラーのような体格の者もいる。そんな男たちが、一心不乱にウォームアップをしている。明らかに、彼女は場違いであった。
しかも本日、唯湖は試合を行うのだ──
・・・
「試合に出てみないか」
黒崎からそう言われたのは、数日前のことである。唯湖は、何を言われているかわからなかった。きょとんとしている彼女に、黒崎は語り続けた。
「来週、アマチュアよキックボクシング大会が開催。ところが、対戦相手がおらず試合が組めない女子選手がいる。そこで、開催する団体があちこちのジムに呼びかけているそうだ。聞けば、体重はお前とほぼ同じた。出てみるか?」
ようやく事態が飲み込めてきた唯湖は、慌てて首を横に振る。
「ちょ、ちょっと待ってください! あたし、そんなの無理です!」
「無理とは思えん。はっきり言うが、お前には才能がある。柔軟さ、バネのある下半身、技の覚えの早さ、筋力……どれも素晴らしい。お前には、一流のアスリートになれる素質がある」
「でも、あたしは腕が──」
「その程度のハンデなど、お前なら乗り越えられる。いいか、試合はアマチュアだ。十六オンスの大きなグローブをはめ、頭にはヘッドギアを付ける。足にはレガースも付けるし、試合は二分間の一ラウンドで終わりだ。プロのように危険なものではない」
言いかけた唯湖だったが、黒崎の圧に押され口を閉じる。
そんな唯湖に向かい、黒崎は語り続ける。この男、普段は無口だ。必要ないことは、あまり口にしないはすだった。それが、今はひどく雄弁である。
「今のお前に、負けたところで失うものなどあるまい。むしろ、闘いの中から見いだせるものがあるはずだ。勝ち負けに関係なく、な」
その通りだった。
今さら、何を失うというのだろう。負けて当たり前だし、誰も勝ちなど期待していない。
「もちろん、無理強いをする気はない。決めるのは、お前だ」
黒崎は、この言葉で話を終えた。
・・・
黒崎の熱意が、唯湖の心に変化をもたらしたのだ。深く考えることなく、出場を決めてしまった。
そして今、リングサイドにて出番を待っている
三ヶ月前までは、部屋の片隅で膝を抱えていた薬物依存症患者だった。ところが、今日はキックボクシング試合会場にいるのだ。アマチュアとはいえ、選手として出場するのである。
唯湖は、異様な緊張感を覚えていた。体がとても固く感じられ、動きも変だ。今になって、恐怖に襲われている。やめればよかった……という思いが、頭の中を駆け巡っていた。
その時、ぽんと肩を叩く者がいた。
「唯湖、よく聞け。今のお前は、プロのファイターではないのだ。したがって、勝敗にこだわる必要はない。今まで練習してきたことを、リングの上で出し切る……お前のやるべきことは、それだけだ。勝敗を超えた何かを、お前なら掴める」
黒崎の声だ。今ほど、この男の存在が頼もしく思えたことはない。唯湖は、ぺこりと頭を下げる。
「おっちゃん……じゃなかった、黒崎さん、ありがとうございます」
思わず言い間違えていた。今まで、黒崎をおっちゃんと呼んだことはない。そう呼ぶのは便利屋こと田原と他数名だ。やはり、緊張しているのか……などと思った時、横から田原が口を挟んできた。
「あのね唯湖ちゃん、黒崎さんなんて堅苦しい言い方しなくていいよ。この男は、おっちゃんでいいんだから」
聞いた唯湖は、くすりと笑った。田原は相変わらず飄々としている。このような緊張する場面では、田原のような人間がいてくれると助かる。
「何でもいい。お前の呼びたいように呼べ」
そう言ったのは黒崎である。そんなやり取りを続けるうちに、緊張感もほぐれてきた気がした。
やがて、唯湖の番が来た。
黒崎がヘッドギアを被せ、グローブをはめてくれる。唯湖は軽く頭を下げると、ゆっくりとリングに上がった。軽く肩を回してみる。
対戦相手は、確実に自分より若い。おそらく十代ではないだろうか。身長は百五十センチ強か。飾り気のない地味な風貌だが、肩回りや下半身の筋肉の付き方からして、何かスポーツに打ち込んだ経験があるのだろう。
そんな対戦相手だが、リングに上がった唯湖を見て、明らかに戸惑っている。唯湖が隻腕だとは、予想もしていなかったのだろう。
レフェリーが簡単なルール説明をした後、ゴングが鳴る。ついに試合が始まったのだ──
唯湖は、軽快な動きでリングを一周する。体は軽い。絶好調だ。先ほどの固さが嘘のようである。
一方、相手はまだ戸惑っているように見えた。オーソドックススタイル(左手と左足を前に出しており、唯湖とは逆)で、ガッチリとガードを固め、こちらの様子を見ている。身長が高く手足が長い上、片腕がない……唯湖のようなタイプが、対戦相手としてリングに立つとは想定していなかったのだろう。本気を出していいのか、迷っているのかもしれない。
ならば、こちらから仕掛けるだけだ。唯湖はスッと間合いを詰めていき、右の前蹴りを放つ。
唯湖の爪先が、相手の腹に突き刺さる。途端に、女の表情が変わった。ようやく本気になったらしい。苛立った表情で、前進しパンチをブンブン振ってくる。
しかし大振りだ。恐らく、突進力と大振りのパンチ連打がウリのタイプなのだろうが、攻めが単調である。唯湖は簡単に見切り、回り込んで躱した。
余裕だ。ジムで黒崎とやったスパーリングの方が、よっぽど怖い。
相手はなおも接近しようとするが、唯湖のステップが早く捕らえられない。前蹴りで前進を止められ、あっさり回り込まれる。
直後、唯湖はさらに前蹴りを放つ。今度は、相手の腹にクリーンヒットし、動きが止まった。こちらの前蹴りを警戒しているのか。
今だ──
次の瞬間、唯湖の右膝が上がる。前蹴りのモーションだ。
しかし、次の動きが違っていた。唯湖の膝から先は、内側に曲がったのだ。あぐらをかく時のような形である。
直後、足先が内から外に向けて伸びる。爪先が、相手のみぞおちに突き刺さった──
普通の回し蹴りは、外側から内に向け放たれる。しかし、今の唯湖の蹴りは完全に逆だ。例えるなら、空手の内回し蹴りに近い。無論、回し蹴りほどの襲撃力はないが、唯湖の爪先は相手のみぞおちに当たっている。いわば、内回しの三日月蹴りだ。
相手の表情が歪む。みぞおちに硬く鋭い爪先が当たり、息がつまるような衝撃に襲われたのだ。例えるなら、小型の鈍器で殴られたようなものである。一瞬、体が硬直した。
その瞬間、唯湖は動いた。右の拳が、横から放飛んでいく。右のフックを打ったのだ。
放たれたフックが、相手の顎をまともに捉える──
相手は、ガクッと崩れ落ちた。みぞおちへの変則的な三日月蹴りにより、意識がそちらに集中していた。そこに、パンチがクリーンヒットしたのだ。最高のタイミングである。耐えられるはすがなかった。
すると、黒崎が叫ぶ。
「唯湖、コーナーに戻れ!」
唯湖はハッとなった。目の前で、相手がバタリと倒れたのだ。初めての経験に戸惑っていたが、黒崎の声でようやく我に返る。慌ててコーナーへと下がった。
すると、レフェリーがダウンした対戦相手に近づいていく。倒れた相手の顔を見て、何事か話しかけた。しかし反応がない。
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唯湖のKO勝ちだ──
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