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九月五日 徳郁、また悩む
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俺は、どうしたらいいんだ?
吉良徳郁は、突っ立ったままでリビングを見ていた。先ほど起床してから、ずっとそのままの体勢である。
リビングでは、サンが床に座り込み、楽しそうな表情でテレビを観ている。いつの間に起きたのかは不明だが、徳郁より早起きなのは確かだ。
しかも彼女は、テレビを観る方法は知っているらしい。あるいは、徳郁のやり方を見て覚えたのかもしれない。時おり、笑みを浮かべる表情は本当にあどけない。一昨日、血まみれの姿で河原に立っていた姿が嘘のようだ。
その横では、安心しきった様子で仰向けになり、腹を見せて寝そべっている黒猫のクロベエがいる。さらにリビングの隅っこには、床に伏せて寝ている白犬のシロスケがいる。時おり、ちらちらとサンの様子を窺っていた。
以前から入り浸っていたクロベエはともかく、気ままな放浪犬であるはずのシロスケまでもが、家に入り込むようになってしまったのだ。これも、サンという少女がもたらしたものである。
この状況に対し、徳郁はどう対応すればいいのかわからなかった。サンは防ぐ暇を与えず徳郁の内に入り込み、あっさりと家に居着いていたのである。
彼は昔から、他の人間がそばに近寄るだけで虫酸が走り不快な気分になる特異体質である。他人に対し何のためらいもなく暴力を振るえるのも、この体質ゆえだ。
かろうじて、友人の藤村正人だけが彼のそばに近寄ることが出来た。もっとも、その正人に対しても不快な気持ちは有る。ただ他の人間と違い、その不快さに耐えることが出来る……という違いでしかない。正人を家の中に招き入れたこともない。
しかし、この少女は違う。サンだけは、近づかれても全く苦にならない。
物心ついてからは、両親ですら近づけないようにしていた。他人に触れられるのが、嫌で嫌でたまらなかった。ところが、サンに触れられても不快感はなかったのだ。
徳郁にとって、有り得ない事態であった。その有り得ない事態を前にし、ただただ戸惑うばかりだった。
「く、ろ……べえ。くろ、べえ」
楽しそうな表情でテレビを観ていたサンが、不意に徳郁の方を向いた。画面を指差し、何やら語りかけてくる。
テレビに視線を移すと、可愛らしい子猫が映っている。ボールにじゃれついている映像が流れていた。
「くろ……くろ、べ、え……」
画面に映る猫を指差しながら、たどたどしい口調で徳郁に話しかけてくる。
何を言っているのだろうか? と徳郁が思案していると、寝ていたクロベエが目を開ける。こちらは、俺に何の用だ? とでも言わんばかりの様子で顔を上げ、じっとサンを見上げている。名前を呼ばれたと思ったのだろうか。
徳郁は思わず笑みを浮かべる。サンが何を言わんとしているのか、やっと理解したのだ。
「サン、あれはクロベエじゃない。あれは違う猫だよ」
徳郁の言葉に、きょとんとした表情をしている。どうやら、彼の言っていることが伝わっていないらしい。もう一度、ゆっくりと話した。
「サン、あれは違う名前の猫だ。クロベエは、こいつの名前だよ」
そう言って、クロベエを指差す。その時になって、改めて己の語彙の貧弱さに気づかされた。もともとが、筋金入りの人間嫌いなのである。他人との会話など、ほとんどない。数キロ先にあるコンビニに買い物に行った時に店員と言葉を交わすか、正人と話をする時の他には、人と会話することなどないのだ。一ヶ月間、誰とも口をきかないことなど珍しくもない。
今までは、それで済んでいた。しかしサンが来てしまった以上、そういうわけにもいかない。
「な、まえ……なま、え」
不意に、サンが立ち上がる。そんなことを言いながら、こちらに近づいて来た。
思わず首を傾げた。彼女は、何を言っているのだろうか。
「なま……え」
言いながら、サンは徳郁の胸をつつく。その行為に徳郁は動揺し、彼女から目を逸らした。どうやら、自分の名前を聞きたいらしい。
「き、吉良徳郁、だ」
やや赤らんだ顔をうつむかせながら、ぶっきらぼうな口調で答える。すると、サンは了解したように頷いた。
「き、ら……きら」
いかにも愉快そうに繰り返すサン。呟きながら、リビングへと戻り、元の位置に座った。手を伸ばし、隣にいるクロベエを撫でる。
そんな様子を見ているうちに、徳郁の顔にも笑みが浮かんだ。
「ああ、キラだよ。キラノリフミだ」
そう言った直後、徳郁の胸に複雑な感情が湧き上がる。確かに、自分はキラーなのだ。人を殺し、解体する……今の自分には、それくらいしか出来ない。正人が拾ってくれなかったら、自分は何をして生きていたのだろう。想像もつかない。
今の自分に出来そうな仕事など、他にあるのだろうか?
もし、サンが自分の仕事を知ってしまったら、どう思うのだろうか?
「き、ら……きら」
そんな気持ちをよそに、サンはニコニコしながら繰り返し呟いている。覚えたての言葉を繰り返す幼児のようだ。そんなサンの姿は、見ていて微笑ましかった。
「そう、キラだよ。よく覚えたな。サン、偉いぞ」
徳郁は、暖かい気持ちに包まれていた。他人がそばに居たというのに、全く不快に感じない。いや、むしろ心地よかった。他人の存在が心地よい、そんな心境は生まれて初めてだ。
サンの方は、楽しそうな表情でテレビの前に座っている。すると、クロベエが体を起こした。喉をごろごろ鳴らしながら、彼女の手に顔を擦り付けていく。
サンは、微笑みながらクロベエを見つめた。
「く、ろべ、え……なまえ、くろ、べえ」
言いながら、サンはクロベエの背中を撫でる。それに対し、クロベエは体を丸くして座り込んだ。四足をしまう「香箱座り」の体勢である。そばにいる人間を、信頼しきっている証だ。
すると、部屋の隅に伏せていたシロスケが起き上がった。のそのそと歩いていき、サンの左隣に体を寄せて床に伏せる。俺の背中も撫でてくれ、と言わんばかりの様子だ。
「し、ろ、すけ……なまえ、しろ、す、け……」
呟きながら、サンはシロスケの背中も撫でている。白犬はリラックスしきった様子で、じっと身を任せていた。
不思議な光景だった。クロベエとシロスケは、積極的に争ったりはしていなかった。しかし、仲が良い訳でもないのだ。現に昨日は、いきなり近づいて来たシロスケに対し、クロベエは威嚇するような唸り声を上げていたのだ。
それなのに、今は落ち着いている。あれだけ近くにいるというのに、もめるような気配がないのだ。
黒猫と白犬とサンは、のんびりとした様子でリビングにてくつろいでいる。まるで家族のようだ。徳郁はその光景を、突っ立ったまま見つめていた。
この光景を、いつまでも見ていたい……形容の出来ない暖かい何かが、胸に湧き上がるのを感じていた。
と、不意にサンが振り向いた。
「き、ら……なまえ、きら」
徳郁に向かい、語りかけてくる。手は、上下に揺れている。徳郁は一瞬、彼女が何を言わんとしているのか理解できなかった。
数秒後、その意図を察する。お前もこちらに来い、と言っているのではないだろうか?
「き、ら……きら……」
戸惑う徳郁に、サンは右手を動かしながら語りかけてくる。撫でるような仕草だ。お前も撫でてやろうか? と言っているのではないだろうか。
その点に思い当たった時、頬が紅潮した。耳まで赤くなり、思わず首を横に振る。
「お、俺はいいよ!」
うろたえながら放った言葉は、思わぬ強い語気を帯びていた。すると、怒られたとでも思ったのだろうか。サンは悲しそうな表情で下を向く。
ほぼ同時に、クロベエとシロスケが体を起こした。向きを変え、じっと徳郁を見つめる。いや、睨んでいるようにも思える。
二匹の視線に、強い抗議の意思を感じた。お前、何てことを言うんだ! とでも言われているかのようだ。
無言の圧力に負け、サンに声をかける。
「サン、俺は怒ってるわけじゃないんだよ。嫌な思いをさせてゴメンな」
吉良徳郁は、突っ立ったままでリビングを見ていた。先ほど起床してから、ずっとそのままの体勢である。
リビングでは、サンが床に座り込み、楽しそうな表情でテレビを観ている。いつの間に起きたのかは不明だが、徳郁より早起きなのは確かだ。
しかも彼女は、テレビを観る方法は知っているらしい。あるいは、徳郁のやり方を見て覚えたのかもしれない。時おり、笑みを浮かべる表情は本当にあどけない。一昨日、血まみれの姿で河原に立っていた姿が嘘のようだ。
その横では、安心しきった様子で仰向けになり、腹を見せて寝そべっている黒猫のクロベエがいる。さらにリビングの隅っこには、床に伏せて寝ている白犬のシロスケがいる。時おり、ちらちらとサンの様子を窺っていた。
以前から入り浸っていたクロベエはともかく、気ままな放浪犬であるはずのシロスケまでもが、家に入り込むようになってしまったのだ。これも、サンという少女がもたらしたものである。
この状況に対し、徳郁はどう対応すればいいのかわからなかった。サンは防ぐ暇を与えず徳郁の内に入り込み、あっさりと家に居着いていたのである。
彼は昔から、他の人間がそばに近寄るだけで虫酸が走り不快な気分になる特異体質である。他人に対し何のためらいもなく暴力を振るえるのも、この体質ゆえだ。
かろうじて、友人の藤村正人だけが彼のそばに近寄ることが出来た。もっとも、その正人に対しても不快な気持ちは有る。ただ他の人間と違い、その不快さに耐えることが出来る……という違いでしかない。正人を家の中に招き入れたこともない。
しかし、この少女は違う。サンだけは、近づかれても全く苦にならない。
物心ついてからは、両親ですら近づけないようにしていた。他人に触れられるのが、嫌で嫌でたまらなかった。ところが、サンに触れられても不快感はなかったのだ。
徳郁にとって、有り得ない事態であった。その有り得ない事態を前にし、ただただ戸惑うばかりだった。
「く、ろ……べえ。くろ、べえ」
楽しそうな表情でテレビを観ていたサンが、不意に徳郁の方を向いた。画面を指差し、何やら語りかけてくる。
テレビに視線を移すと、可愛らしい子猫が映っている。ボールにじゃれついている映像が流れていた。
「くろ……くろ、べ、え……」
画面に映る猫を指差しながら、たどたどしい口調で徳郁に話しかけてくる。
何を言っているのだろうか? と徳郁が思案していると、寝ていたクロベエが目を開ける。こちらは、俺に何の用だ? とでも言わんばかりの様子で顔を上げ、じっとサンを見上げている。名前を呼ばれたと思ったのだろうか。
徳郁は思わず笑みを浮かべる。サンが何を言わんとしているのか、やっと理解したのだ。
「サン、あれはクロベエじゃない。あれは違う猫だよ」
徳郁の言葉に、きょとんとした表情をしている。どうやら、彼の言っていることが伝わっていないらしい。もう一度、ゆっくりと話した。
「サン、あれは違う名前の猫だ。クロベエは、こいつの名前だよ」
そう言って、クロベエを指差す。その時になって、改めて己の語彙の貧弱さに気づかされた。もともとが、筋金入りの人間嫌いなのである。他人との会話など、ほとんどない。数キロ先にあるコンビニに買い物に行った時に店員と言葉を交わすか、正人と話をする時の他には、人と会話することなどないのだ。一ヶ月間、誰とも口をきかないことなど珍しくもない。
今までは、それで済んでいた。しかしサンが来てしまった以上、そういうわけにもいかない。
「な、まえ……なま、え」
不意に、サンが立ち上がる。そんなことを言いながら、こちらに近づいて来た。
思わず首を傾げた。彼女は、何を言っているのだろうか。
「なま……え」
言いながら、サンは徳郁の胸をつつく。その行為に徳郁は動揺し、彼女から目を逸らした。どうやら、自分の名前を聞きたいらしい。
「き、吉良徳郁、だ」
やや赤らんだ顔をうつむかせながら、ぶっきらぼうな口調で答える。すると、サンは了解したように頷いた。
「き、ら……きら」
いかにも愉快そうに繰り返すサン。呟きながら、リビングへと戻り、元の位置に座った。手を伸ばし、隣にいるクロベエを撫でる。
そんな様子を見ているうちに、徳郁の顔にも笑みが浮かんだ。
「ああ、キラだよ。キラノリフミだ」
そう言った直後、徳郁の胸に複雑な感情が湧き上がる。確かに、自分はキラーなのだ。人を殺し、解体する……今の自分には、それくらいしか出来ない。正人が拾ってくれなかったら、自分は何をして生きていたのだろう。想像もつかない。
今の自分に出来そうな仕事など、他にあるのだろうか?
もし、サンが自分の仕事を知ってしまったら、どう思うのだろうか?
「き、ら……きら」
そんな気持ちをよそに、サンはニコニコしながら繰り返し呟いている。覚えたての言葉を繰り返す幼児のようだ。そんなサンの姿は、見ていて微笑ましかった。
「そう、キラだよ。よく覚えたな。サン、偉いぞ」
徳郁は、暖かい気持ちに包まれていた。他人がそばに居たというのに、全く不快に感じない。いや、むしろ心地よかった。他人の存在が心地よい、そんな心境は生まれて初めてだ。
サンの方は、楽しそうな表情でテレビの前に座っている。すると、クロベエが体を起こした。喉をごろごろ鳴らしながら、彼女の手に顔を擦り付けていく。
サンは、微笑みながらクロベエを見つめた。
「く、ろべ、え……なまえ、くろ、べえ」
言いながら、サンはクロベエの背中を撫でる。それに対し、クロベエは体を丸くして座り込んだ。四足をしまう「香箱座り」の体勢である。そばにいる人間を、信頼しきっている証だ。
すると、部屋の隅に伏せていたシロスケが起き上がった。のそのそと歩いていき、サンの左隣に体を寄せて床に伏せる。俺の背中も撫でてくれ、と言わんばかりの様子だ。
「し、ろ、すけ……なまえ、しろ、す、け……」
呟きながら、サンはシロスケの背中も撫でている。白犬はリラックスしきった様子で、じっと身を任せていた。
不思議な光景だった。クロベエとシロスケは、積極的に争ったりはしていなかった。しかし、仲が良い訳でもないのだ。現に昨日は、いきなり近づいて来たシロスケに対し、クロベエは威嚇するような唸り声を上げていたのだ。
それなのに、今は落ち着いている。あれだけ近くにいるというのに、もめるような気配がないのだ。
黒猫と白犬とサンは、のんびりとした様子でリビングにてくつろいでいる。まるで家族のようだ。徳郁はその光景を、突っ立ったまま見つめていた。
この光景を、いつまでも見ていたい……形容の出来ない暖かい何かが、胸に湧き上がるのを感じていた。
と、不意にサンが振り向いた。
「き、ら……なまえ、きら」
徳郁に向かい、語りかけてくる。手は、上下に揺れている。徳郁は一瞬、彼女が何を言わんとしているのか理解できなかった。
数秒後、その意図を察する。お前もこちらに来い、と言っているのではないだろうか?
「き、ら……きら……」
戸惑う徳郁に、サンは右手を動かしながら語りかけてくる。撫でるような仕草だ。お前も撫でてやろうか? と言っているのではないだろうか。
その点に思い当たった時、頬が紅潮した。耳まで赤くなり、思わず首を横に振る。
「お、俺はいいよ!」
うろたえながら放った言葉は、思わぬ強い語気を帯びていた。すると、怒られたとでも思ったのだろうか。サンは悲しそうな表情で下を向く。
ほぼ同時に、クロベエとシロスケが体を起こした。向きを変え、じっと徳郁を見つめる。いや、睨んでいるようにも思える。
二匹の視線に、強い抗議の意思を感じた。お前、何てことを言うんだ! とでも言われているかのようだ。
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