世にも異様な物語

板倉恭司

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武田という男

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 それを見つけたのは、公園に設置されている公衆トイレに入った時だった。



 飯嶋孝之イイジマ タカユキは最近、この街に越してきたばかりだ。駅から歩いて十分ほどの距離にあるアパートに住んでおり、職場までは駅から電車で八分である。
 交通の便の良さと部屋代の安さから、飯嶋はこの霧野町キリノチョウに越してきたのだが……はっきり言って、パッとしない地域である。駅前には商店街があるが、ほとんどがシャッターを閉めたままだ。住人たちも、どこか暗い雰囲気を漂わせている。
 飯嶋は、この街に越して来たことを少し後悔していた。何とつまらない場所なのだろうか。最近はネット通販などで、家にいながらにして品物を購入できる。したがって、わざわざ商店街で物を買う必要はない。
 それでも、霧野町の駅前を歩いていると気が滅入ってきた。何だか、暗い気分になってくるのだ。遊ぶ場所もない。気のきいたお洒落な店もない。二十五歳の若者が住むには、かなり厳しい所である。



 その日、飯嶋は腹の具合が悪かった。
 仕事の最中は下痢止めを飲んでやり過ごしたものの、帰るころには効果が切れてしまう。
 飯嶋は電車から降りると、慌てて駅の公衆トイレに駆け込む。ところが運の悪いことに、清掃中だったのだ……。
 焦る頭で、どうすればいいか考えた。確か、ここからすぐの場所に公園がある。そこにも公衆トイレがあったはずだ。
 幸いにも、トイレには誰も入っていない。飯嶋は駆け込むと、ズボンを降ろし便座に座る……間に合って良かった。
 ホッとした飯嶋は、改めて周りを見回した。汚い場所だ……壁は得体の知れない染みが付き、落書きも数ヵ所にある。まるで昭和の時代にタイムスリップしたかのようだ。
 ふと、横の壁に書かれていた落書きに目が止まった。

(俺はビッグになる!)

 飯嶋は、クスリと笑った。しょうもない落書きだ。本当にビッグになる人間なら、わざわざこんな場所に書いたりしない。
 そんなことを思いながら、続きを見てみた。その下にも、何か書かれている。

(お前にはなれない)

 実にもっともな意見である。本当にビッグになりたければ、落書きする前にもっと努力しろ……などと思いながら、飯嶋はさらに下の部分を読む。

(お前こそなれない)

 プッと吹き出していた。確かに、どちらもビッグにはなりそうもない……こんな場所で、落書きを夢中で読んでいる自分もまたビッグにはなりそうもないが。

(黙ってろクズ野郎)

 急に好戦的な言葉が飛び出してきた。ここから先は、ラッパーのようなディスりあいになるのだろうか。

(誰がクズ野郎だ! 名乗り出ろ、勝負してやる!)

 おやおや、一気に物騒な空気になってしまった。ここから、リアルファイトへと移行してしまうのだろうか。

(オレだ! 武田信三だ!)

 武田信三? 飯嶋は困惑した。こんな所に本名を書き込むとは思えない。したがって偽名だろう。タケダシンゾウ、とでも読むのだろうか。
 この武田信三なる人物の登場により、事態はどう動く? 飯嶋は、子供っぽい好奇心に導かれて続きを読んでみた。
 だが、そこには意外な展開が待っていたのである。

(すいません、謝ります)

 えっ? と思った。さらに下の部分を見てみるが、続けて書かれた気配はない。どうやら、この落書きバトルは終了してしまったらしい。
 飯嶋は、狐につままれたような気分だった。白熱していた戦い(?)は、武田信三なる人物の参戦により幕を降ろしてしまったのだが……では、その武田とは何者なのだろう。
 このあたりでは、よく知られた人物なのだろうか。
 まあ、いい。自分には関係ないことだ。



 それから、二日後のことだった。
 飯嶋はその日、駅の近くに購入したばかりの自転車を停めていた。仕事帰りに、反対側にあるスーパーに寄って買い物をしてみようかと思ったのだ。仕事帰りに、買い物袋を持ったまま歩きたくはない……となると自転車である。
 やがて仕事が終わり、彼は駅を出た。ここから歩いて一分もしない場所に自転車を停めてある。
 ところが、そこには数人の少年たちがいた。明らかに、公序良俗を尊ぶタイプではない。しかも、よりによって飯嶋の自転車に座り込んでいる。
 思わず顔をしかめた。これはまずい。いったん家に戻り、少年たちが引き上げた頃合いを見計らうとしようか。
 いや、今日はスーパーで肉の半額セールをやっている。安月給の身であるから、この機会は逃したくない。

「ちょ、ちょっといいかな?」

 笑顔を作り、少年たちに話しかける。そう、彼らを見た目で判断してはいけない。ひょっとしたら、優しい心の持ち主かもしれないのだから──

「ああ? 何が?」

 少年のひとりが、挑発的な目でこちらを見ている。どうやら、彼らは見た目通りの人格らしい。

「い、いや、この自転車は僕のだから──」

「だから何?」

 少年の口調は、完全にこちらを馬鹿にしているものだ。飯嶋の足は震えだしていた。

「い、いいよね」

 言いながら、飯嶋は自転車に乗る。こうなったら、速やかに逃げるしかない。逃げれば、さすがに追って来ないだろう。
 だが甘かった。自転車の前に、別の少年が立ちはだかる。と同時に、自転車をがっちり押さえられた。

「ちょっと待ってよ。何を勝手に行こうとしてんの?」

 少年たちの顔に、共通の表情が浮かんでいる。弱者をいたぶり歪んだ快感を得る、そんな感覚に支配さるているのだ。
 飯嶋は震えながら、どうすれば今の状況から解放されるのか必死で考えた……その時、ある名前が思い浮かぶ。
 気が付いた時、無我夢中でその名を口にしていた。

「あの! 俺は武田さんの知り合いなんだけど!」

 その時、驚くべきことが起きた。少年たちの動きが、ピタリと止まったのだ。さらに、顔つきも変化する。先ほどまでは、鼠をいたぶる猫のような雰囲気であった。しかし今は、戸惑いと恐怖と疑い……それらが入り混じったような表情を浮かべている。

「う、嘘だろ……お前、武田さんのこと知ってんのかよ……」

 ひとりの少年が、呟くように言った。すると、別の少年がキッと睨む。

「んなわけねえだろ! こんなクソ雑魚が、武田さんのこと知っているわけねえよ!」

「でも今、武田さんの知り合いだって言ったぞ!」

「嘘に決まってんだろうが!」

「嘘じゃなかったらどうすんだ!? てめえ責任とれんのかよ!」

 少年たちの間で、内輪揉めが始まってしまった。だが、飯嶋にとってはありがたいことである。その隙に、さっさと逃げ出した。



 買い物を済ませ、無事に家にたどり着いた飯嶋。
 ふと、不安を覚えた。もし武田なる人物に、自分の存在が知られてしまったら、どうなるだろうか……念のため、ネットで武田信三なる人物を調べてみた。
 すると……引っ掛かる人物はいたものの、噂の人物とは程遠い者ばかりであった。
 霧野町にいる不良少年たちから、崇拝に近い感情を抱かれている男……にもかかわらず、ネットでは武田を知る人物を見つけられなかった。噂すら無い。
 これは、どういうことだろうか?
 念のため、ヒットした人たちをチェックしてみた。大学にて教鞭を取っている物理学の教授、三年前に行方不明になったサラリーマン、野球部のエースだった高校生、度重なるセクハラで辞任させられた地方議員、もらい事故で亡くなったバイク便のライダーなどなど。
 はっきり言って、みんな飯嶋の想像する者からはかけ離れていた。分かったことは一つだけ。これ以上、ネットを用いても無駄ということだけである。



 翌日、飯嶋は仕事帰りに商店街を歩いてみた。
 平日の六時過ぎだというのに、ほとんどの店にシャッターが降りている。この霧野町という場所からは、終末の匂いしかしない。たまにすれ違う若者たちは、暗く淀んだ目をしている。この町にいたら、生気を吸いとられてしまうのだろうか……そんな気さえしていた。
 そんな中、一軒の喫茶店を見つけた。古びた感じの外見が、店の歴史を見る者に伝えてきている。この店の人間なら、武田のことを知っているかもしれない。

「いらっしゃい」

 店に入った飯嶋を迎えたのは、いかにも気だるそうな中年男の声だった。いかにも人の良さそうな雰囲気を漂わせた、Tシャツにエプロン姿の男だ。恐らく、この店のマスターだろう。

「あ、コーヒーください」

 言いながら、飯嶋はカウンター席に座った。店は薄暗く、昭和の刑事ドラマの舞台になっていそうな雰囲気だ。壁には奇妙な絵やレコード、さらには見たこともない無名のボクサーやバンドマンらしき人物の写真が幾つも飾られている。

「その写真ね、みんな霧野町の人間なんだよ。俺の、かつての同級生なんだよ」

 店の奥から、マスターが言った。

「はあ、そうですか」

 飯嶋は返事をしたが、その時に閃く。この男なら、武田信三を知っているのでは?

「あの、すみません。マスターは、この町の出身なんですよね?」

「俺? そうだよ。俺はこの町に五十年近く住んでるよ」

 マスターは、にこやかな表情で答える。この人なら、知っているかもしれない。

「すみません、武田信三って人を知っていますか?」

 飯嶋が軽い口調で尋ねた瞬間、マスターの顔から笑顔が消えた。無言で、じっと飯嶋を見つめる。

「えっ、あ、あのう……」

 彼は口ごもり、マスターから視線を外す。この反応は何なのだろう。武田という男は、それほどの大物なのだろうか。

「知りたい?」

 不意に、マスターが聞いてきた。飯嶋が顔を上げると、真剣な表情でこちらを見ている。

「どうなの? 知りたいの? 知りたくないの?」

 黙っている飯嶋に苛立ったのか、マスターは更にきつい口調で聞いてきた。飯嶋は勢いに押され、思わず頷いてしまう。

「は、はい」

 すると、マスターはにっこり笑った。

「わかった。じゃあ、十時を過ぎたら、もう一度この店に来て。武田に会わせてあげるから」



 十時になり、飯嶋は再び商店街を歩いていた。たまにチンピラのような若者とすれ違う以外、人通りはない。この町は、大丈夫なのだろうか……限界集落を歩いているような気さえしていた。
 やがて、喫茶店に到着した。今になって気づいたが、店の名前はどこにも書かれていないし、看板も出していない。
 ここは、なんという店なのだろうか……などと思いながら、ドアを開けて入って行った。

 中には、先ほどと同じくマスターが立っている。他には、誰もいない。
 マスターは飯嶋の顔を見ると、にっこり微笑んだ。

「来てくれたんだね。武田は、奥で待ってるよ。さあ、来るんだ」

 その言葉に、飯嶋は首を傾げた。待ってる、とはどういうことだろう?

「た、武田さんはいるんですか?」

「うん。奥の部屋に来てるよ。彼は忙しい身だけど、わざわざ君のために時間を作ってくれたんだ。さあ、どうぞ」

 そう言って、マスターは扉を開ける。飯嶋は、恐る恐る中に入って行った。



 奇妙な場所だった。
 奥には、六畳ほどの広さの部屋がある。壁は剥き出しのコンクリートだ。家具らしき物は、中央に置かれた藤の椅子以外には何もない。天井からは裸電球がぶら下がり、異様な雰囲気を醸し出している。
 藤の椅子には、スーツ姿の男が座っていた。髪は短めで、黒いスーツを着てネクタイを締めている。体は中肉中背、大きめのサングラスをかけている。
 明らかに、普通ではない空気が漂っていた……。

 なんだここは?

 飯嶋は、この部屋の異様な雰囲気に完全に呑まれていた。そのため、マスターが背後にいることに気づかなかった。
 不意に、何かが鼻と口に押し当てられる。湿ったタオルのようなものだ……突き刺すような刺激臭を感じ、飯嶋は必死で抵抗した。だが、押し当てられたものは動かない。
 刺激臭を大量に吸い込み、飯嶋はむせた。と同時に、意識が闇に包まれていく……。
 やがて、膝から崩れ落ちる。最後に彼が見たものは、マスターが藤の椅子に近づき、座っている人物からサングラスを外す光景だった。
 さらに、マスターの声も──

「武田くん、三年間ご苦労さま。もう、帰っていいからね」



 次の日、奇妙なニュースが報道され、ちょっとした話題になっていた。
 ある日突然、行方不明になり……それから三年の間、音信不通であった武田信三。ところが昨夜、繁華街のど真ん中で眠っているところを、パトロール中の警官に発見されたのである。
 不思議なことに、武田信三には三年間の記憶が全くなかった。どこで、何をしていたのか……本人は、全く覚えていなかった。



 それから一年後──

 霧野町の商店街を、我が物顔でのし歩く三人のチンピラがいた。彼らは、隣町からバイクで来たのだが、傍若無人な態度でキョロキョロしながら徘徊していた。

「何だここ、しょうもねえとこだなあ」

「この店、ぶっ壊してやろうか」

 口々に言いながら、閉められたシャッターを蹴飛ばすチンピラたち。
 そんな彼らの前に、奇妙な者が現れた。黒いスーツを着た中肉中背の男……ただしサングラスをかけているため、どんな顔かは分からないが。

「おい、何だてめえ? 俺らに何か用か?」

 チンピラのひとりが、威嚇するような表情で聞いた。彼らは、突然現れた男を怖いとは感じていない。むしろ、新しく現れた玩具の一つとしか思っていなかった。
 しかし、それは大きな間違いだった。

「覚えておけ。俺の名は飯嶋孝之だ」

 感情の全くこもっていない声で言った直後、男はチンピラたちに襲いかかった──

 ・・・

 さらに一年後。
 海藤武司カイトウ タケシは、最近この霧野町に来た学生である。家賃の安さに惹かれて引っ越して来たのだが、あまりにつまらない場所ゆえに後悔していた。
 ある日、海藤は公園の公衆トイレに入る。すると、書かれていた落書きが目に止まる。

(俺、喧嘩つええよ!)

(嘘つけネット弁慶が)

(はあ? ここネットじゃねえだろ)

(こまけえこたぁいいんだよ、チキン野郎)

(誰がチキンだ? 名乗り出ろ勝負してやっからよ)

(飯嶋孝之だ)



 そこで落書きは終わっていた。
 海藤はクスリと笑う。この飯嶋というのは、霧野町の有名人なのだろうか。
 何故か、無性に気になる人物だ……。




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