凶気の呼び声~狭間の世界にうごめく者~

板倉恭司

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一郎、混乱する

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 目が覚めると、既に三時を過ぎている。
 昨日のうちに、休みの連絡を入れておいて正解だった。でないと無断欠勤になるところだ。正社員が無断欠勤など、シャレにならない。
 仁美一郎は、胸の中で呟きながら立ち上がる。まだ頭がふらつくが、それでも、だいぶ良くなった。明日には会社にも行けるだろう。
 あくびをしながら、テレビのスイッチを入れる。すると、両手両足をへし折られ目を潰された男が発見された、とのニュースを伝えてきた。これで三人目だという。若手芸人の覚醒剤所持使用事件の方が依然として扱いは大きいが、それでも猟奇的事件として報道されている。
 しかし、一郎にとってはどうでもいい話だった。自分の生活には、どちらも関係ない。

 俺はただ、普通に生きていければいい。
 ごく普通に。
 何者とも関わらず、静かに。
 今まで通り、誰とも話さずに。

 その時、一郎は違和感を覚えた。自分は何を考えているのだ? 自分は今までに、会社やそれ以外で色んな人間と話していたではないか。

 大森部長。
 事務員の女。
 刑事の高山。
 そして、あの女。
 待てよ。
 他の人間は?

 必死で思いだそうとした。会社で会ってきた大勢の人間、そのほとんどの者の名前を知らない。今までは、忘れたで済ませていた。いや、そもそも名前を忘れている事実すら忘れていた。
 そのことに、今まで疑問すら感じていなかった。

 どういうことだ?
 俺は一体、何者なんだ?

 違和感が、どんどん膨れ上がっていく。自分の存在が、非常に不安定な物の上に成り立っているような気がしてきた。何かの本で見た、古代インド人の世界観を思い出す。三匹の象が世界を支え、その象を巨大な亀が支え、さらにその亀をとぐろを巻いた巨大な蛇が支えていた。
 だが、その巨大な蛇がある日突然、支えるのを止めたとしたら?
 とぐろを巻くのをやめ、巨大な鎌首をもたげて自分を呑み込もうとしたら?

「バカバカしい!」

 思わず大声が出ていた。そう、バカバカしい話だ。自分は今まで、何の問題もなくやってきた。大学を卒業し、そして羽場商事に就職したのだ。

 俺は何を考えている?
 こんな狭い部屋にとじ込もっているから、おかしな事を考えるようになるんだよ。
 外を歩いてみよう。

 一郎は服を着替え、外に出た。いつの間にか、陽は沈みかけている。ほんの僅かな時間、考え事をしていたつもりだったのだが……時計を見ると、六時を過ぎていた。
 時間の感覚に、ズレが生じている気がする。自分の存在が、不安定な気もしていた。歩いていても、どこかふわふわしているのだ。一歩踏み出すたびに、地面が僅かに揺れるような気がする。



 気が付くと、あの公園に来ていた。吸い寄せられるように入りこむ。公園を歩き、ベンチに座った。
 ふと、あの巨大な遊具を見る。怪物の顔を模したようなデザインの滑り台。あの女と出会い、そして消えた場所。
 一郎は立ち上がり、遊具に付いた階段を昇る。周囲には誰もいない。一郎の行動を見ている者はどこにもいないのだ。
 だから、どんなことでもできる。
 誰も見ていない時ならば、人殺しでもできる。

 遊具の上に昇り、辺りを見回した。前の時は高山が話しかけて、ぶち壊しになってしまったが……今は誰にも邪魔されない。

 あの女は、何を見ていたのだろう。

「一郎」

 後ろから声が聞こえた。振り返るまでもない。彼女の声だ。
 ゆっくりと振り返り、彼女を見つめる。

「助けてください。俺は誰なんです?」

 思わず口をついて出た言葉だが、一郎は真剣だった。彼女以外、自分を救済できる者などいない。
 いや、自分だけではないのだ。自分を取り巻く世界……今までは何の問題もなく機能していたはずの全てが、崩壊の危機に瀕している。

 このままだと、全てが崩壊してしまう。
 俺は怪物に変わる。
 夢で見た、あの醜い怪物に変わってしまう。
 人間を貪り喰らう怪物に──

「一郎……私には、あなたを助けることはできない」

 女は哀しげな瞳で、一郎を見つめる。
 その時、確信した。目の前にいる女こそが女神なのだ。彼女以外に、自分を救える者はいない。彼女は知っている。一郎が何者であるのか。

「どうすれば、あなたと会えるんです? どうすれば会いに来てくれるんです? 教えてください」

「あなたは、本当に知りたいの?」

 女は哀しげな瞳で尋ねてくる。
 一郎は頷いた。自分が何者であるのか? 少し前までは、そんなことはどうでも良かった。
 だが、今は違う。

 俺は、誰なんだ?



 気がつくと、女は消えていた。
 一郎は、よろめきながら家に向かい歩いていく。これから、どうすればいいのだろう。

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