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●茜ちゃん。その①

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 講義の後もサークル活動やらなんやかんやあって、僕は遅めに帰宅した。一階の土間まで漂う、醤油と野菜の煮える良い匂い。誘われるように階段を上がり、「ただいま戻りました」と茶の間の入り口に立った瞬間、手から教科書の束がバサリと落ちた。
「お帰りー。今日は遅かったじゃない」
「どうもお邪魔してます」
 母の向かい側、僕の指定席に座る茜ちゃんが、炬燵から脚を抜いてこちらを向き、深々と頭を下げた。
 聞いてない! いや、あとでうちに来るとは彼女本人の口から聞いていたけれど、まさかこんな風に、一家団欒の中にガッツリと入り込んで来るなんて。
「ほらほら、遠慮しねぇでどんどん食え。肉も野菜も沢山あっから」
「ありがとうございます、いただきますっ」
 兄が甲斐甲斐しく茜ちゃんの世話を焼いている。せっかく久しぶりのすき焼きなのに、ショックで全然嬉しくない。僕は母と兄の間にちんまりと座り、味の分からない肉を咀嚼そしゃくした。
 父までもが相好を崩しているし、兄がそれに舌打ちをすることもない。母はいつもの調子だし、まるでごく普通の幸せ四人家族だ。僕だけが、透明人間のよう。

「丸々今週いっぱいですか?」
「そ。小説のネタに、うちの仕事を取材したいんだとよ。で、うちは始業時間が早いから、いっそ泊まり込んだら? ってことになった」
「なんだぁー。そういうことですか」
 僕はいつものように兄のベッドにもぐり込んだ。茜ちゃんの目があるので、当面は自分の部屋で寝ようと考えていたが、
「うちの子達変わってるんだよ。この歳になってもまだ、一人で寝られないの」
 母によって、兄弟で毎晩同じベッドに寝ていることを彼女にバラされた。僕は幼い頃からビビりで、中学まで両親の部屋で寝ていた。それで、最近僕が兄の部屋に入り込んでいるのはその延長のようなもの、と母には思われているらしい。
「なに?」
 兄は僕の頭を撫でて言った。
「キスくらいなら、してもいいですよね」
「おぉ」
 音を立てないよう慎重に、兄の唇に口付ける。探るように舌を這わせ、背中に腕を回すと、やはり物足りなくなってしまう。見透かすように、兄の手は僕の背中をトントン叩いた。
「やらないぞ」
「わかってます」
 抱き合い、脚を絡め合って目を閉じる。茜ちゃんがうちに来たことを両親は大層喜んでいたのは、なぎさちゃんを失って空いた穴を埋めるようなものなのだろうか。なぎさちゃんが近々結婚するというニュースに、両親は兄以上にショックを受けていた。まさか、あわよくば茜ちゃんをなぎさちゃんの後釜に……?
 薄目を開けると兄もまだ起きていて、目が合えば、兄は目を細めて微笑んだ。兄にとっては今は僕が一番。そう思わせる笑顔だ。嬉しいなぁ。つい春先までは目も合わせてくれず、家族から逃げるように遊び歩いていた、お兄さん。だが今は毎晩のように家にいて、僕と一緒に寝てくれる。なんて幸せなんだろう。ずっとこのままがいいな。だから僕は、将来誰とも結婚しないし、就職も近場でしようと思う。
 ところが翌朝、兄の運転する四トンのミキサー車の助手席で、茜ちゃんが満面の笑顔で僕に手を振った。僕は笑顔で手を振り返しながらも、不安で胸が苦しくなった。
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