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●兄は無視して歩いていく。
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人を思い切り殴ると、自分の拳も無事では済まないのか。僕は兄を休憩所の椅子に腰掛けさせて、兄の拳に出来た擦り傷の手当てをした。
「ねぇ、お兄さん」
「何だよ」
兄は未だ興奮状態にあり、まるで手負いの獣の様だ。恐い。でも僕は訊かずにはいられなかった。
「誓二さんと何かあったんですか?」
僕と父が駆けつけた時には、兄は既に誓二さんを殴り倒した後で、一体何がどうしてそうなったのか、不明だったのだ。
「お前には関係ないだろ」
兄は吐き捨てるように言った。僕から背けられた顔の、左の頬が赤い。父に叩かれたからだ。
「お兄さん、僕に全て話してください。僕はお兄さんの番で、味方ですから」
赤くなった頬に口付けようと、僕は兄の二の腕を引いた。だが兄は僕の手を乱暴に振り払った。
「んなもん聞いてどうするんだよっ。お前なんか、勉強べぇで他に何もできないくせに!」
え……?
それは傷つく……。
兄は丸椅子を蹴倒し、二階に駆け上がっていった。寝室のドアが乱暴に閉められる音が、階下まで響いた。
その日以来、兄は誓二さんの一件で気が塞いでしまったのか、それとは無関係に体調が悪化したのか、仕事の時以外は寝込みがちになった。
僕は兄とは寝床を別けることになった。こういう時こそ、側に寄り添ってあげたいという僕の申し出は、「逆にしんどい」の一言で拒絶された。
二週間ほどが過ぎた。昼頃から降り続けていた雨は、予報通り雪に変わった。僕が帰宅した頃には、一階の事務所の明かりは点いていたものの、兄の姿は既になかった。
階段を上がりきったところで母に鉢合わせた。
「お帰り」
「ただいま戻りました。お兄さんは?」
「部屋にいるんじゃない? 調子が悪いって、昼頃に上がっちゃったから」
「へぇ……」
僕は兄の部屋のドアをノックした。返事はない。だが、鍵は開いていた。
「お兄さん」
布団の塊に声を掛けたが、やはり答えはない。そっと近付くと、布団の中から浅い呼吸が聞こえた。
「お兄さん?」
布団を捲ると、少し身動いだ兄の首筋が見えた。そこには血で描いた花のような痣があったはずなのに、今それは輪郭だけを残し、薄く消えかけている。
「痣、治ったんですね」
突然、兄はむくりと起き上がった。ベッドを降り、財布と車の鍵をポケットに入れ、部屋を出て行こうとする。
「どこに行くんですか」
「コンビニ」
体調が良くなく、しかも外は雪。こんな時に不要不急の外出などしなくても。
「なにか欲しいなら言ってくれれば、僕が買って来ますよ」
兄は無視して歩いていく。僕は後を追った。
「お兄さん、ねぇお兄さんっ」
「ほっとけよ」
放っておける訳がない! かなり寒いのに、兄はスエットの上下を着ているだけで、つっかけを履いた足は裸足。歩き方もふらふらとして覚束無い。霙混じりの雪が、兄の肩を濡らしていく。
「せめて上着っ、」
僕が兄に羽織らせようと自分のジャンパーを脱ごうとした時、兄はくずおれ、泥の中に膝を着いた。
絶え間なくびしゃびしゃと泥濘を打つ水音は、他の全ての音をかき消そうとする。それでも僕の叫びは両親に届いた。事務所の戸が開く。室内から伸びた光が、僕らを照らした。
「ねぇ、お兄さん」
「何だよ」
兄は未だ興奮状態にあり、まるで手負いの獣の様だ。恐い。でも僕は訊かずにはいられなかった。
「誓二さんと何かあったんですか?」
僕と父が駆けつけた時には、兄は既に誓二さんを殴り倒した後で、一体何がどうしてそうなったのか、不明だったのだ。
「お前には関係ないだろ」
兄は吐き捨てるように言った。僕から背けられた顔の、左の頬が赤い。父に叩かれたからだ。
「お兄さん、僕に全て話してください。僕はお兄さんの番で、味方ですから」
赤くなった頬に口付けようと、僕は兄の二の腕を引いた。だが兄は僕の手を乱暴に振り払った。
「んなもん聞いてどうするんだよっ。お前なんか、勉強べぇで他に何もできないくせに!」
え……?
それは傷つく……。
兄は丸椅子を蹴倒し、二階に駆け上がっていった。寝室のドアが乱暴に閉められる音が、階下まで響いた。
その日以来、兄は誓二さんの一件で気が塞いでしまったのか、それとは無関係に体調が悪化したのか、仕事の時以外は寝込みがちになった。
僕は兄とは寝床を別けることになった。こういう時こそ、側に寄り添ってあげたいという僕の申し出は、「逆にしんどい」の一言で拒絶された。
二週間ほどが過ぎた。昼頃から降り続けていた雨は、予報通り雪に変わった。僕が帰宅した頃には、一階の事務所の明かりは点いていたものの、兄の姿は既になかった。
階段を上がりきったところで母に鉢合わせた。
「お帰り」
「ただいま戻りました。お兄さんは?」
「部屋にいるんじゃない? 調子が悪いって、昼頃に上がっちゃったから」
「へぇ……」
僕は兄の部屋のドアをノックした。返事はない。だが、鍵は開いていた。
「お兄さん」
布団の塊に声を掛けたが、やはり答えはない。そっと近付くと、布団の中から浅い呼吸が聞こえた。
「お兄さん?」
布団を捲ると、少し身動いだ兄の首筋が見えた。そこには血で描いた花のような痣があったはずなのに、今それは輪郭だけを残し、薄く消えかけている。
「痣、治ったんですね」
突然、兄はむくりと起き上がった。ベッドを降り、財布と車の鍵をポケットに入れ、部屋を出て行こうとする。
「どこに行くんですか」
「コンビニ」
体調が良くなく、しかも外は雪。こんな時に不要不急の外出などしなくても。
「なにか欲しいなら言ってくれれば、僕が買って来ますよ」
兄は無視して歩いていく。僕は後を追った。
「お兄さん、ねぇお兄さんっ」
「ほっとけよ」
放っておける訳がない! かなり寒いのに、兄はスエットの上下を着ているだけで、つっかけを履いた足は裸足。歩き方もふらふらとして覚束無い。霙混じりの雪が、兄の肩を濡らしていく。
「せめて上着っ、」
僕が兄に羽織らせようと自分のジャンパーを脱ごうとした時、兄はくずおれ、泥の中に膝を着いた。
絶え間なくびしゃびしゃと泥濘を打つ水音は、他の全ての音をかき消そうとする。それでも僕の叫びは両親に届いた。事務所の戸が開く。室内から伸びた光が、僕らを照らした。
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