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世界のしるし(黒版)
『世界一 こわい いきもの の はなし』
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『世界のしるし』より
これは私が、冒険家とは言い難い浅はかで、血気盛んな若者だった時の話だ。
あの頃の自国は、領地争い、覇権争いが酷く、同じ国民と雖も、屋根が違えば敵と等しく、どこへ行っても息苦しい。そんな時代だった。だからだろうか、私と友人たちはどうしても世界というものを知ってみたかった。自分の脚で山を登り、自然を愛で、動物を狩り、生きたかった。その数々の経験のおかげで得たものは計り知れないが、同時に失ったものも両手には余る。その中のひとつ。マーマレードだ。
北の大陸『牙の地』より少し南西に位置する寒い島。最北にあるわけでもないのに、この島は異常なまでに寒く、一日中雪が降っていた。ここへ、私は当時親友と呼び愛していた男とやってきた。こんな僻地に住んでいる人間はいるのか、いるとすればどんな人たちなのか。ただ、それだけが知りたかったのだ。若さ、とはそういう些細なことが、恐ろしいほどの原動力になってしまう。それが良いときもあれば、悪い時もある、と気付かされたのはまだまだ先のこと。
雪が降り積もった大地は、どんな山道よりも歩きにくい。靴が埋もれ、脚を取られ、一体何度転んだだろうか。これでは動物を狩るどころでもない、ましてや人など住んでいる気配もない、と私と友人は落胆し、先に見えた洞窟で休むことにした。船に戻るには進みすぎたからだ。戻ろうとしている間に日が暮れてしまうのは、今までの経験から容易に分かった。
ところが、洞窟の前にやってきた私は、脚が竦んでしまった。ここに泊まるぐらいなら戻ろう、と友人に縋りついた。勿論豪胆な彼はそんな私を一笑し、何を馬鹿なことを、と腕を掴んで軽々と私を引き摺ったのだ。
私はこの時、意地でも彼を止めるべきだった。何故なら洞窟の入り口には、震えてしまうのも無理がないほど恐ろしい足跡があったのだ。大きなフランスパンのような足底部に、稲妻型の指が三本。私はこの足跡の持ち主について、以前立ち寄った酒場で耳にしたことがあった。
世界一怖い生き物『ビーランデッロ』だ。
記憶力には自信があった私は、その生き物の数々の話を思い出してしまった。奴は人間を好んで食べるのだそうだ。襲われた村は、全滅だったとか。
恐怖からか、それとも寒さからか、震える口で友人の名を呼ぶ。緩いカーブを描いた洞窟は、私たちが来た入り口と、もう一つ逆側にも穴があり、風に影響されないよう丁度真ん中の辺りで腰を下ろす。彼は暢気に火を焚き、大好物のマーマレードの瓶を取り出していた。
「間違いない、あれは、ビーランデッロの足跡だ。とある村を、一人残らず食い散らかした、悪名高い、化け物だ」
「おかしいな。それなら誰がそれを、その…ビーなんとやらの仕業だ、と言いだしたんだい?誰も生き残らなかったんだろう?」
言い淀む私の前で、凍ったマーマレードを熱で溶かしだした友人は、鼻歌さえ歌っていた。
「だけど、」
「おいおい。折角の旅だ、喧嘩はよそう。ほら、もう一つくれてやるから」
私は喧嘩を吹っ掛けたつもりはなかったが、彼は女々しく喚く私が鬱陶しかったのだろう。鞄からまたマーマレードの瓶を取り出すと、私に押し付けた。これで、この話は仕舞だ。彼の目がそう言っていた。
こんな他の人もいない、息をするのがやっとな僻地で、唯一の温もりを失うのは痛い、と私は大人しく口を瞑り、彼に倣って瓶を温めだした。
それから他愛のない話をするうちに、洞窟の前の足跡など、どうでもよくなってしまったのだ。それが無かったわけでも、消えたわけでもなく、ただ確かに、そこに存在していて、私はこの目ではっきりと見たというのに。すっぽり、抜け落ちてしまった。
「風が止んだか」
「明日は晴れるといいが」
ジャムの甘い香りが洞窟に充満しだしたころ、確かに風の音が小さくなっていることに気付いた。しかし、私はその時、風とは違う轟音を耳にした。
「な、なんだ、今の」
「今度はなんだい」
呆れた様子の友人は、随分と食べ方が汚い男で、顔じゅうがマーマレードだらけだった。その情けない姿に思わず吹き出していると、もう一度、響く音。今度は友人にも聞こえたようで、彼は少し腰を浮かしていた。
なんと表現すればいいだろうか。風よりも重く、ぬるく、荒い音。そう、まるで獣の吐息のようだ。理解した瞬間、私は立ち上がった。が、すぐに腰を抜かすことになる。
私たちが入ったのと同じ入り口側から、のっそり、のっそり、現れた、巨大な生き物。風が止んだのではない。こいつが入り口を塞ぎ、風の音が遮断されただけだったのだ。
友人が情けない悲鳴を上げたような気がする。正直私も、人には聞かせられないような声を出した覚えがある。
背丈は五メートルほど。身体を少し前屈みにしているが、天井にすれて上から小石が降ってくる。棍棒のような腕に殴られたら、即死だろう。私は、自分の頭と身体が離れ離れになる絵面を連想し、少し吐いた。
こいつが、ビーランデッロ。やはり噂は本当だったのだ。腹が減っているのだろうか。化け物は口元から涎を垂らしていた。口から覗く牙で、頭蓋骨を粉々にされ、脳みそを吸われてしまうのだ。そう考えて、また少し吐いた。
逃げよう。そう言いたくても、からからに乾いた喉からは胃液以外出てこない。
何もできない間に、ビーランデッロはこちらに近付いてくる。奴の棍棒、いや、腕が捕らえたのは、友人の肩だった。しかし、予想していた手付きとは違った。てっきりすぐに殴り掛かってくるかと思いきや、奴はゆったりした動作で腕を持ち上げ、優しく肩に手を乗せただけ。友人が痛がる様子もなく、ビーランデッロは彼に顔を近づけ、しきりに鼻を動かした。匂いを嗅いでいるようだった。それから、大きな舌で、彼の顔を舐めだした。まるで犬が飼い主に甘えているかのような姿に、私は拍子抜けした。
友人が視線だけ私に向け、引き攣る口元で無理矢理笑って見せる。
「ほら、見ろ。噂なんてあてにな」
彼はその後、口をきけなかった。私の耳に届いたのは友人の声ではなく、彼の頭が砕かれる音。可愛らしく顔を舐めているだけだったビーランデッロは、突然大きく口を開け、彼の上顎までを一気に、食べた。
「ああああああああああ」
私は、絶望した。
自分が次の瞬間化け物に食い千切られるなど思わず、嘲笑した友人の能天気さが、不謹慎にも至極羨ましいと思った。だって私は、今にも自分が人間としての形を失い、まともに好きな女に愛される幸せも知らないまま生を終えるのだと、理解してしまったのだ。同じ死でも、そこには大きな差があるだろう。
死にたくない。
もうどうしようもないのだ、と理解していても、人は足掻こうとする情けない生き物だ。
ビーランデッロは、たったの三回噛んだだけで、友人の頭部を呑み込んでしまった。しかし奴はすぐに私を食おうとはせず、ましてや友人の残った身体には目もくれず、彼が死の間際まで握りしめていた瓶に夢中だった。大好物のそれを彼は殆ど食べてしまっていたが、化け物は器用に舌を瓶の中に押し込み、舐めていた。
ここで私は、ひらめいた。手放していた瓶をすぐさま拾い、立ち上がる。一通り舐め終えたビーランデッロがこちらに一歩踏み出した瞬間、私は瓶を投げ捨てた。本当は奴より向こう側に投げる予定だったが、よほど私はへっぴり腰だったのだろう。瓶はビーランデッロの丁度鼻先に激突した。しかしそれが功を奏したのか、奴は瓶の中身が先ほどと同じものであると、匂いで気付き、喜んで食べ始めたのだ。
その隙に私は逆の出口へと走り出した。それからは、もう、わかるだろう。死に物狂いだった。深い雪も、強い風も、抜けて何処かへいった靴も、小水で汚れた服も、どうでもよかった。生きているなら些細なことだった。暗い中船に辿り着けたのは、奇跡と呼んで間違いないだろう。あの時私に誰かが言ったのだ。「生きろ」と。それは神だったかもしれないし、彼だったかもしれない。誰よりもそう願っていたのは、私自身だが。
こうして私は大切なものを失ったが、それでも冒険家として、今でも未知の探求へ心を馳せている。成功には必ず犠牲が付きものだ。それが理解できるのは、本当の意味で夢を叶えたものだけだろう。失うことは悲しいことだ。許し難いことだ。ただあなたが過去に置いてきた大切なものたちを、決して忘れなければ、夢は輝く。
ああ、最後に一つだけ。旅にマーマレードを忘れるな。
語り クル・ア・イズ
これは私が、冒険家とは言い難い浅はかで、血気盛んな若者だった時の話だ。
あの頃の自国は、領地争い、覇権争いが酷く、同じ国民と雖も、屋根が違えば敵と等しく、どこへ行っても息苦しい。そんな時代だった。だからだろうか、私と友人たちはどうしても世界というものを知ってみたかった。自分の脚で山を登り、自然を愛で、動物を狩り、生きたかった。その数々の経験のおかげで得たものは計り知れないが、同時に失ったものも両手には余る。その中のひとつ。マーマレードだ。
北の大陸『牙の地』より少し南西に位置する寒い島。最北にあるわけでもないのに、この島は異常なまでに寒く、一日中雪が降っていた。ここへ、私は当時親友と呼び愛していた男とやってきた。こんな僻地に住んでいる人間はいるのか、いるとすればどんな人たちなのか。ただ、それだけが知りたかったのだ。若さ、とはそういう些細なことが、恐ろしいほどの原動力になってしまう。それが良いときもあれば、悪い時もある、と気付かされたのはまだまだ先のこと。
雪が降り積もった大地は、どんな山道よりも歩きにくい。靴が埋もれ、脚を取られ、一体何度転んだだろうか。これでは動物を狩るどころでもない、ましてや人など住んでいる気配もない、と私と友人は落胆し、先に見えた洞窟で休むことにした。船に戻るには進みすぎたからだ。戻ろうとしている間に日が暮れてしまうのは、今までの経験から容易に分かった。
ところが、洞窟の前にやってきた私は、脚が竦んでしまった。ここに泊まるぐらいなら戻ろう、と友人に縋りついた。勿論豪胆な彼はそんな私を一笑し、何を馬鹿なことを、と腕を掴んで軽々と私を引き摺ったのだ。
私はこの時、意地でも彼を止めるべきだった。何故なら洞窟の入り口には、震えてしまうのも無理がないほど恐ろしい足跡があったのだ。大きなフランスパンのような足底部に、稲妻型の指が三本。私はこの足跡の持ち主について、以前立ち寄った酒場で耳にしたことがあった。
世界一怖い生き物『ビーランデッロ』だ。
記憶力には自信があった私は、その生き物の数々の話を思い出してしまった。奴は人間を好んで食べるのだそうだ。襲われた村は、全滅だったとか。
恐怖からか、それとも寒さからか、震える口で友人の名を呼ぶ。緩いカーブを描いた洞窟は、私たちが来た入り口と、もう一つ逆側にも穴があり、風に影響されないよう丁度真ん中の辺りで腰を下ろす。彼は暢気に火を焚き、大好物のマーマレードの瓶を取り出していた。
「間違いない、あれは、ビーランデッロの足跡だ。とある村を、一人残らず食い散らかした、悪名高い、化け物だ」
「おかしいな。それなら誰がそれを、その…ビーなんとやらの仕業だ、と言いだしたんだい?誰も生き残らなかったんだろう?」
言い淀む私の前で、凍ったマーマレードを熱で溶かしだした友人は、鼻歌さえ歌っていた。
「だけど、」
「おいおい。折角の旅だ、喧嘩はよそう。ほら、もう一つくれてやるから」
私は喧嘩を吹っ掛けたつもりはなかったが、彼は女々しく喚く私が鬱陶しかったのだろう。鞄からまたマーマレードの瓶を取り出すと、私に押し付けた。これで、この話は仕舞だ。彼の目がそう言っていた。
こんな他の人もいない、息をするのがやっとな僻地で、唯一の温もりを失うのは痛い、と私は大人しく口を瞑り、彼に倣って瓶を温めだした。
それから他愛のない話をするうちに、洞窟の前の足跡など、どうでもよくなってしまったのだ。それが無かったわけでも、消えたわけでもなく、ただ確かに、そこに存在していて、私はこの目ではっきりと見たというのに。すっぽり、抜け落ちてしまった。
「風が止んだか」
「明日は晴れるといいが」
ジャムの甘い香りが洞窟に充満しだしたころ、確かに風の音が小さくなっていることに気付いた。しかし、私はその時、風とは違う轟音を耳にした。
「な、なんだ、今の」
「今度はなんだい」
呆れた様子の友人は、随分と食べ方が汚い男で、顔じゅうがマーマレードだらけだった。その情けない姿に思わず吹き出していると、もう一度、響く音。今度は友人にも聞こえたようで、彼は少し腰を浮かしていた。
なんと表現すればいいだろうか。風よりも重く、ぬるく、荒い音。そう、まるで獣の吐息のようだ。理解した瞬間、私は立ち上がった。が、すぐに腰を抜かすことになる。
私たちが入ったのと同じ入り口側から、のっそり、のっそり、現れた、巨大な生き物。風が止んだのではない。こいつが入り口を塞ぎ、風の音が遮断されただけだったのだ。
友人が情けない悲鳴を上げたような気がする。正直私も、人には聞かせられないような声を出した覚えがある。
背丈は五メートルほど。身体を少し前屈みにしているが、天井にすれて上から小石が降ってくる。棍棒のような腕に殴られたら、即死だろう。私は、自分の頭と身体が離れ離れになる絵面を連想し、少し吐いた。
こいつが、ビーランデッロ。やはり噂は本当だったのだ。腹が減っているのだろうか。化け物は口元から涎を垂らしていた。口から覗く牙で、頭蓋骨を粉々にされ、脳みそを吸われてしまうのだ。そう考えて、また少し吐いた。
逃げよう。そう言いたくても、からからに乾いた喉からは胃液以外出てこない。
何もできない間に、ビーランデッロはこちらに近付いてくる。奴の棍棒、いや、腕が捕らえたのは、友人の肩だった。しかし、予想していた手付きとは違った。てっきりすぐに殴り掛かってくるかと思いきや、奴はゆったりした動作で腕を持ち上げ、優しく肩に手を乗せただけ。友人が痛がる様子もなく、ビーランデッロは彼に顔を近づけ、しきりに鼻を動かした。匂いを嗅いでいるようだった。それから、大きな舌で、彼の顔を舐めだした。まるで犬が飼い主に甘えているかのような姿に、私は拍子抜けした。
友人が視線だけ私に向け、引き攣る口元で無理矢理笑って見せる。
「ほら、見ろ。噂なんてあてにな」
彼はその後、口をきけなかった。私の耳に届いたのは友人の声ではなく、彼の頭が砕かれる音。可愛らしく顔を舐めているだけだったビーランデッロは、突然大きく口を開け、彼の上顎までを一気に、食べた。
「ああああああああああ」
私は、絶望した。
自分が次の瞬間化け物に食い千切られるなど思わず、嘲笑した友人の能天気さが、不謹慎にも至極羨ましいと思った。だって私は、今にも自分が人間としての形を失い、まともに好きな女に愛される幸せも知らないまま生を終えるのだと、理解してしまったのだ。同じ死でも、そこには大きな差があるだろう。
死にたくない。
もうどうしようもないのだ、と理解していても、人は足掻こうとする情けない生き物だ。
ビーランデッロは、たったの三回噛んだだけで、友人の頭部を呑み込んでしまった。しかし奴はすぐに私を食おうとはせず、ましてや友人の残った身体には目もくれず、彼が死の間際まで握りしめていた瓶に夢中だった。大好物のそれを彼は殆ど食べてしまっていたが、化け物は器用に舌を瓶の中に押し込み、舐めていた。
ここで私は、ひらめいた。手放していた瓶をすぐさま拾い、立ち上がる。一通り舐め終えたビーランデッロがこちらに一歩踏み出した瞬間、私は瓶を投げ捨てた。本当は奴より向こう側に投げる予定だったが、よほど私はへっぴり腰だったのだろう。瓶はビーランデッロの丁度鼻先に激突した。しかしそれが功を奏したのか、奴は瓶の中身が先ほどと同じものであると、匂いで気付き、喜んで食べ始めたのだ。
その隙に私は逆の出口へと走り出した。それからは、もう、わかるだろう。死に物狂いだった。深い雪も、強い風も、抜けて何処かへいった靴も、小水で汚れた服も、どうでもよかった。生きているなら些細なことだった。暗い中船に辿り着けたのは、奇跡と呼んで間違いないだろう。あの時私に誰かが言ったのだ。「生きろ」と。それは神だったかもしれないし、彼だったかもしれない。誰よりもそう願っていたのは、私自身だが。
こうして私は大切なものを失ったが、それでも冒険家として、今でも未知の探求へ心を馳せている。成功には必ず犠牲が付きものだ。それが理解できるのは、本当の意味で夢を叶えたものだけだろう。失うことは悲しいことだ。許し難いことだ。ただあなたが過去に置いてきた大切なものたちを、決して忘れなければ、夢は輝く。
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