灰と麦と夜明けのパン

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第10話

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「ねえ、“あのパン”って覚えてる?」

広場から帰ってきた少年が、目を輝かせてそう言った。

「ばあちゃんが言ってた。“昔、スラムの路地で、ふわっとしてて、やさしい甘さの丸パンがあった”って。たぶん、それ、お兄ちゃんのパンだよ。」

ティナが、そっと息を飲む。

「……最初の、あの一つだけ焼けた丸いやつか。」

「うん。あれ、また焼いてよ。あたしも……食べたい。」

工房の子たちも、次々にうなずいた。

「でも……酵母の加減が、難しい。あのときは偶然、ぶどうが熟していて、空気が暖かくて、湿気もちょうどよくて……。」

「だったら、また祈ればいいじゃない。」

ティナがそう言った。

「“穀霊様、どうかこのパンに息吹をください”って。あのとき、そうして焼いたよね。」

この世界では、発酵は“生地に宿る命”とされている。人々はそれを「息づいた」と呼ぶ。
菌や酵母の仕組みは知られていない。
だが、パンが膨らむと、人々は神の加護を信じる。

俺は、そっと目を閉じて、かつての記憶を呼び起こした。

「……じゃあ、やってみよう。」

干しぶどうを水に浸し、布で覆い、工房のあたたかな陽だまりの角に置く。
日々の火を扱う者として、俺には今なら“あの奇跡”を再現できる気がした。

数日後、壺の中から、かすかな泡と甘い匂いが立ちのぼった。

「……生きてる。」

「ほんとに……穀霊様が、来てくれたんだ。」

その酵母を使って、ゆっくり、小麦をこねる。

生地は湿気を含んで、じんわりとふくらみ、やがて生き物のような手触りになる。

「包んで、寝かせる。」

「布はあたしが新しく洗っといた。あったかいから、いい夢見られるよ。」

一晩、寝かせた生地をそっと窯に入れる。
火加減は、レノが細かく調整した。

焼きあがった丸パンは、ふっくらとして、皮はやさしく弾けるように薄く、中は湯気と甘さを含んでいた。

「……できた。」

子どもたちが手を伸ばす。その目には空腹ではなく、希望が灯っていた。

「おいしい!」

「これだよ、これ……。」

「昔の“丸いパン”、戻ってきたんだ!」

神の加護が宿ると言われる、ふっくらとした丸パン。

その“奇跡”が、今また、小さな工房から、静かに広がっていく。
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