灰と麦と夜明けのパン

第22話

「……このたびは、何卒、よろしくお願いいたします。」

その声は、極めて小さかった。

工房の裏手、夜明け前のしじまの中で、黒い外套の貴族が頭を下げていた。

「次女でして……物静かで、主張のない子ですが……屋敷では、居場所を見つけられず。」

その少女は、綺麗な手をしていた。

でも、ぎこちなく、まるで“掴む”ことに慣れていない指。

「こちらで、“火”を教えていただけると聞きました。」

俺は静かにうなずいた。

「名前は、ここでは必要ありません。与えるのは、“パンを焼く手”と、“明日の居場所”だけです。」

それが始まりだった。

噂は、“見えないところ”でゆっくりと広がった。

立場を持たない貴族の子たち――次男、三男、次女、末娘。

家名ではなく、個人として生きたい者。

世襲に押し潰される前に、ひとまず“火の傍”で呼吸をしたい者。

そうした者たちが、時折ひっそりと工房を訪ねてくるようになった。

だが、俺たちの工房はもう手狭だった。

だから、彼らは“分火された者たち”のもとへと送られた。

マルクのいる屋敷付き工房。

港町で工房を立ち上げた、元・三男。

彼らは教え方を知っていた。

「これは、計算じゃなくて、“感覚の積み重ね”だ。失敗して覚えろ。」

「火は、命令しても動かない。機嫌を取るんだ。」

「自分のパンを見つけろ。“誰かの後ろ”じゃなくて、“おまえの一歩”で焼けるパンをな。」

その言葉は、血統でも学識でもなく、“火と粉”から出たものだった。

少女はやがて、焼き上げたパンに香草の模様を刻む技を覚えた。

若い貴族の少年は、薪の配分から温度を読む感覚に長けていった。

彼らの名前は、やはり誰も知らない。

けれど、ある日ふと――

「最近、あの家の次女が変わったらしいな。」

「○○家の三男、どうやら商会に顔を出してるとか……あいつ、前は何をしても続かなかったのに。」

そんな囁きが、貴族たちの間で流れはじめた。

夜風の工房の名は、やはりどこにもなかった。

けれど、そこを出た者たちは、確かに“誰かの役に立つ”人になっていた。

見えない風は、今日も静かに吹いていた。