灰と麦と夜明けのパン

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第48話

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風が変わった。

かつて金と軍事が支配していた貴族の社会に、
“もう一つの価値”が静かに流れ込んでいた。

「お前の次男、工房に入れたんだって?」

「お嬢さんも……“パンの匂いが似合うようになって”帰ってきたよ。」

公然と口にする者はいない。

だが、夜会の端々で、食卓の端で、
“焼きたての香り”が、いつしか静かな権威を持ちはじめた。

政の交渉に出される甘い火の香り。

婚儀に添えられる花型のちぎりパン。

騎士の遠征に持たされる包み火パン。

「夜風のパンか?」とは誰も聞かない。

ただ、「この焼き目は、“火の気配”がする」と、誰もが口をつぐむ。

一方で、夜風の工房は――なにも、変わっていなかった。

古びた木の柱。いまだに隙間風の吹く窓。

石を積んだだけの素朴な窯。

小麦の山、果実の籠、仕分けられた布の束。

子供たちが歌いながら生地をこねる姿。

ティナが小言を言い、レノが火の加減にうなる。

そして、その中央に、いつものように、

――火のそばで、静かに目を伏せる人の姿があった。

名を持たなかった焼き手。

性別も、出自も、語られない者。

ただ、「焼くためにいる」、それだけの人。

けれど、その手がこねる生地からは、
どの火よりも深く、やさしい焼き目が生まれる。

「……どうして、まだここにいるの?」

かつて巣立っていった誰かが訪ねてくる。

焼き手は、窯から目を離さず、こう答える。

「火は、“誰かのいる場所”を作るものだから。」

「だから、ここを焼き続けるよ。誰かが、帰ってこられるように。」

その言葉に、訪れた者は笑って、
そっと焼きたての丸パンを手に取る。

火の味がした。

それは、どこまでも変わらない、“夜風の味”だった。

そして、今日もまた。

窯の火が、静かに灯る。

街が変わり、国が変わり、人々が火を手にしようとも――

この小さな工房は、ただ“焼き続ける”。

パンの名前は、きっと誰も知らない。

でも、誰もがその香りに、胸をあたためる。

それが、“夜風”だった。
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