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第4話:逃げる匂い、止まる匂い
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「お兄ちゃん、ちょっと……マズいかも」
ティナの声が、いつもより低かった。
その一言だけで、胸の奥がすっと冷える。慣れない。慣れたくもない。こういう“予感”だけは、外れないからだ。
それは三日目の昼だった。
市場の裏路地に足を踏み入れた瞬間、空気が熱い。
いや、陽射しのせいじゃない。熱気。人の体温と息と、欲が混ざった、濁った熱。
人、人、人。
瓦礫の隙間から覗く目。路地の入口を塞ぐ肩。誰かの背中越しに伸びる手。
かまどの煙が、合図みたいに吸い寄せてしまっている。
「昨日のパン、あるか!? 一枚でいい、昨日と同じやつを!」
「二枚払う!あの白いやつ、香ばしい皮のやつ!」
「俺、昨日食った。夢に出てきたぞ、あれ!」
声がぶつかり合って、路地の壁に跳ね返る。
銅貨の音がする。握りしめた金属が擦れる音。
冗談みたいな光景だった。たった三日前、十一個を並べて震えていた俺たちが、今や“路地ひとつ”を塞いでいる。
「……なんだこれ」
ティナが小さく呟いた。仏頂面が、ほんの少しだけ引きつっている。
たった三日。
たった十一個。
それが、こんな騒動になるなんて。
喜ぶより先に、背筋がぞわっとする。
これは、“見つかる”前兆だ。
ティナが、群衆の外側――視線の流れと人の動き――を素早く見回しながら言った。
「こりゃもう、市場の管理人に見つかるの時間の問題だね」
管理人。取締り。許可。
そんな言葉が、急に現実の刃を持って首筋に当たる。
「逃げるか」
「そうしよ」
売る前に、撤退を決めた。
情けないとか、悔しいとか、それを感じる余裕すらない。ここで捕まれば終わる。パンだけじゃない。倉庫も、かまども、ティナも、全部巻き込む。
俺は仕込んでいたパンの包みをティナに手渡した。
「これ、最後に子どもたちに配ってきてくれ。無理はするなよ」
「うん」
ティナは頷くと、すっと人混みの隙間へ滑り込んだ。
体が小さいから、こういうとき強い。
彼女は一つ一つ、手際よく包みを子どもたちの手に押し込んでいく。奪い合いにならないように、目を合わせて、短く言葉を置いて、次へ。あの手つきは“慣れ”だ。スラムの配り方。
俺はその間に、かまどの火を土で消した。
燃え残りを踏み潰し、灰をばら撒く。匂いを薄めるために。痕跡を散らすために。
売り物を並べる時間なんてない。ここに残したものは、全部“言い訳”になる。
リヤカーのような手押し台も放棄した。惜しい。でも命の方が軽くない。
裏路地から抜ける。
背中に熱い視線が刺さる。遅れて怒号が追いかけてくる。
「どこ行った!?」
「パン屋がいねぇ!」
誰かが走り出す足音。
でも、俺たちは戻らない。戻ったら終わりだ。
―――
廃墟の倉庫に戻った俺たちは、火も焚かずに身を潜めた。
いつもなら、火のそばが安心なのに、今日ばかりは逆だ。煙も匂いも、今は危険信号になる。
暗い。冷たい。
けれど、外のざわめきが遠のいていくのを聞きながら、ようやく息が戻ってくる。
「ふぅ……間一髪だね」
ティナが、壁にもたれて言った。
その声は平静を装っているけど、指先が少しだけ震えている。
「ちょっと……悔しいな」
かすれた声。
焚き火のない倉庫の冷えが、言葉まで冷たくする。
「せっかく美味しいって、皆言ってくれたのに……怖くて、逃げなきゃなんてさ」
俺は頷いた。悔しい。
でもそれ以上に、怖い。あの人の渦は、喜びじゃなくて、飢えと執着の渦だった。良い匂いは、人を優しくするだけじゃない。欲しがらせる。
「また焼けるさ。もっといい場所で、もっと自由に」
励ますつもりで言った。
でもティナは首を振る。
「でもここはスラムだよ。パンなんかより、干し肉の方が売れる」
現実的で、正しい。
干し肉は腹にたまる。保存できる。噛みしめれば塩が出る。
パンは、匂いが良いぶん贅沢に見える。贅沢は、余裕がないと憎まれることもある。
それでも――俺は、あの路地で見た目を思い出す。
銅貨を握りしめた手。夢に出てきたと言った男の顔。
あれは、贅沢じゃなく“救い”を求めていた目だった。
「それでも、パンが食べたい奴がいた。俺たちのパンを待ってる奴がいた。なら、次はもうちょい上手くやるさ」
俺の言葉に、ティナはしばらく黙って――それから、ゆっくりと笑った。
大げさじゃない。声も出さない。でも、確かに笑った。
「……ほんと、変なお兄ちゃん」
その夜、俺たちは小さな火を起こし、少しだけ水を温めて飲んだ。
腹を壊さないように、ちゃんと煮る。
あの日の痛みが、まだ身体のどこかに残っている。
次の一手はまだ決まっていない。
けれど、もう一度あの匂いを街に届けるために。
新しい場所を探す旅が、始まる。
―――
撤退から三日。
潜伏生活は、早くも限界が近づいていた。
薪が減ると、火が弱くなる。火が弱いと、水を煮られない。水を煮られないと、腹を壊す。
結局、“生きる”の全部が一本の糸で繋がっていて、その糸が今、細くなっている。
「お兄ちゃん、もう薪がない。水も……井戸が干上がりそう」
ティナが言う。
仏頂面のままなのに、目だけは本気だ。
「わかった。じゃあ、動くか」
無理に粘れば、次は逃げる体力も残らない。
それに――匂いが出せない場所で、パンは作れない。
情報を拾って回った結果、ひとつの噂に辿りついた。
城壁の外れ。かつて工場として使われていた建物群が、今は空き家になっているという。
火事で屋根が焼け落ち、煤と崩れた梁だけが残って、誰も近寄らないらしい。
誰も来ない。
煙が立っても、すぐには見つからない。
そして何より、広い。
それは俺たちにとって、願ってもない拠点だった。
―――
翌朝、ティナとともに城壁の影に広がる廃墟へ向かった。
石壁の影は冷たく、町の中心より風が強い。
人の気配が薄い分、音がよく響く。靴底が砂利を踏む音が、やけに大きい。
焼け跡にはまだ煤の香りが残っていた。
黒く焦げた柱。崩れた屋根。錆びた扉。
でも、空は見える。煙は上へ逃がせる。窓の穴が風を通す。
「ここ……使えるかも」
「煙突は塞がれてるけど、窓がある。通気も悪くない」
俺たちは二人で見回った。
床の崩れ具合。梁の危なさ。雨の入り方。
火を使うなら、崩れた木材は邪魔にも燃料にもなる。使い方次第だ。
――そのとき。
「……おい。何してる」
突然、上から声が落ちてきた。
背筋が跳ねる。
反射で身構え、視線を上げる。
崩れた二階の梁に座る、痩せた青年がいた。
ぼさぼさの黒髪。汚れたロングコート。
体つきはやつれているのに、眼だけが異様に澄んでいる。獣みたいに、こちらの動きを全部追っている。
「お前ら、パン焼いてた連中だろ」
言い当てられて、心臓が一つ重く打つ。
「市場が騒いでる。スラムの連中が“あの匂い”が忘れられねぇって、毎日騒いでんだ」
ティナが警戒して前に出た。
釘抜きも包丁も今はない。それでも彼女は、身体を盾みたいにして俺の前に立つ。
「……見てたの?」
「全部じゃねぇ。でも、匂いは届いた。俺も、食いたかったさ」
青年はひょいと飛び降りた。
驚くほど音がしない。着地の衝撃が土に吸われたみたいに静かだ。
そして、俺たちの目の前に立つ。
歳は十七か十八か。
若いのに、顔つきが擦り減っている。
笑っていないのに、どこか諦めが滲む。
「ここ、貸してやるよ。条件がある」
「……なんだ?」
喉が乾く。
条件、という言葉が怖い。ここで何かを貸す、という言葉が怖い。
この世界の“条件”は、だいたい刃物か鎖だ。
青年は肩をすくめるように言った。
「パンを、一つ。俺にもくれ。毎日とは言わねぇ。一週間に一度でいい」
「……それだけ?」
「それだけだ。どうせ誰も来ねぇ場所だ。俺も、もう誰からも必要とされてねぇしな」
その笑みには、捨てたような諦めがあった。
でも、目の奥にだけ、小さな渇きがある。
“欲しい”という渇き。匂いに引かれる渇き。生きてる側の渇き。
「名前は?」
俺が問うと、青年は少しだけ顎を上げた。
「レノ。昔は“落ち貴族の忘れ子”とか言われてたけどな。今はただの廃墟暮らしさ」
俺とティナは顔を見合わせた。
警戒は消えない。けれど――条件は、悪くない。
少なくとも、今の俺たちに必要なのは「場所」だ。
「悪い条件じゃない」
「うん、悪くない」
ティナが小さく言って、ようやく肩の力を少し抜いた。
こうして、俺たちの第二の拠点が決まった。
―――
焼け跡の工場で、錆びた扉と崩れた壁の中に、新しいかまどを組み直す。
石を探して積む。隙間を土で埋める。火が漏れないようにする。
煙突の代わりに、天井の穴を少しずつ広げていく。煙が逃げる道を作る。
レノは器用だった。
木材の扱いがうまい。崩れた板を拾って、釘の代わりになるものを探し、使える形に整えていく。
作業道具も、錆びたまま残っていた。使うたびに手が汚れるけど、それでも“ある”のはありがたい。
「こんなふうに、何かを作るのは……ひさしぶりだな」
レノがぽつりと呟く。
その声は、火のない場所の冷えと同じ温度だった。
それでも、火が灯る。
―――
初めて、レノにパンを渡したのは、月が昇りきった夜だった。
焼き上がったばかりの丸パンを、皿代わりの木板に乗せて差し出す。
湯気が立つ。香ばしさが、煤の匂いに勝つ。
「……ほんとに、いいのか?」
レノは一度、真剣な眼差しで俺を見ると、黙ってパンを受け取った。
その受け取り方が、妙に慎重だった。熱さへの警戒だけじゃない。何かを受け取ること自体に慣れていない、そんな手つき。
「熱いから気をつけてな」
「……いただきます」
最初のひと口で、レノの眉がふっと緩んだ。
「……あったけぇ」
それは炎の温度じゃない。
口の中に広がる柔らかさと、腹に落ちる安心と、胸の奥がほどける感じ。
もっと別の何かに触れたような声だった。
ティナは焚き火越しに、じっと見ていた。
「レノ、うまい?」
「……うまい。信じられねぇくらい」
ティナは鼻を鳴らして、少しだけ得意げに胸を張る。
「ふふん、でしょ」
その日から、パン作りは三人の仕事になった。
ティナは火加減と水の計量を担当する。
目盛りなんてないのに、彼女は同じ器で同じ量を繰り返せる。失敗の少ない人間の手だ。
レノは薪割りと窯の修繕を手際よくこなす。崩れた壁の危険を見抜き、先に補強する。
俺は粉を捏ねて、酵母を見張る。泡の立ち方、匂いの変化、温度の揺れ。見えない相手に神経を尖らせる役目。
まるでずっと昔からそうだったみたいに、作業は自然と分担された。
誰も“指示”しないのに、必要なことが必要な順番で埋まっていく。
「……なんだろう、家族みたいだね」
ぽつりとティナが言った。
レノは顔を伏せたまま、そっと笑った。
笑ったというより、笑い方を思い出したみたいに。
「俺にはなかったな、家族。拾われたけど、邪魔者扱いで。仕えてた屋敷も、もうない。戦で燃えた」
焚き火がぱち、と鳴る。
その音の隙間に、レノの言葉が落ちる。
「……それで、ここに?」
「あぁ。逃げて、隠れて、それっきりさ。だから……パンが焼ける音がして、煙が昇ってくるのを見たとき、なんか、止まれたんだよ。逃げなくてもいいって、思えた」
静かな夜だった。
パンの焼ける香ばしい匂いが、煙とともに空へ溶けていく。
煤と灰の町に、わずかな“生きてる匂い”が混じる。
「ここはいい匂いがする。生きてる匂いだ」
「……変なの」
ティナがそう呟いたけれど、目は優しく細められていた。
俺は火を見つめながら、胸の奥で何かが形になるのを感じていた。
焼け落ちた家、失った過去、必要とされない場所。
それでも、温かいパンを口にして、少しだけ笑える今。
「また、焼こうな。明日も、明後日も」
「あぁ」
「うん」
三人の声が、火の音に混ざって消えていく。
灰に包まれた工場跡で、パンと笑い声と、ほんの少しの希望が、また一つ焼き上がった。
ティナの声が、いつもより低かった。
その一言だけで、胸の奥がすっと冷える。慣れない。慣れたくもない。こういう“予感”だけは、外れないからだ。
それは三日目の昼だった。
市場の裏路地に足を踏み入れた瞬間、空気が熱い。
いや、陽射しのせいじゃない。熱気。人の体温と息と、欲が混ざった、濁った熱。
人、人、人。
瓦礫の隙間から覗く目。路地の入口を塞ぐ肩。誰かの背中越しに伸びる手。
かまどの煙が、合図みたいに吸い寄せてしまっている。
「昨日のパン、あるか!? 一枚でいい、昨日と同じやつを!」
「二枚払う!あの白いやつ、香ばしい皮のやつ!」
「俺、昨日食った。夢に出てきたぞ、あれ!」
声がぶつかり合って、路地の壁に跳ね返る。
銅貨の音がする。握りしめた金属が擦れる音。
冗談みたいな光景だった。たった三日前、十一個を並べて震えていた俺たちが、今や“路地ひとつ”を塞いでいる。
「……なんだこれ」
ティナが小さく呟いた。仏頂面が、ほんの少しだけ引きつっている。
たった三日。
たった十一個。
それが、こんな騒動になるなんて。
喜ぶより先に、背筋がぞわっとする。
これは、“見つかる”前兆だ。
ティナが、群衆の外側――視線の流れと人の動き――を素早く見回しながら言った。
「こりゃもう、市場の管理人に見つかるの時間の問題だね」
管理人。取締り。許可。
そんな言葉が、急に現実の刃を持って首筋に当たる。
「逃げるか」
「そうしよ」
売る前に、撤退を決めた。
情けないとか、悔しいとか、それを感じる余裕すらない。ここで捕まれば終わる。パンだけじゃない。倉庫も、かまども、ティナも、全部巻き込む。
俺は仕込んでいたパンの包みをティナに手渡した。
「これ、最後に子どもたちに配ってきてくれ。無理はするなよ」
「うん」
ティナは頷くと、すっと人混みの隙間へ滑り込んだ。
体が小さいから、こういうとき強い。
彼女は一つ一つ、手際よく包みを子どもたちの手に押し込んでいく。奪い合いにならないように、目を合わせて、短く言葉を置いて、次へ。あの手つきは“慣れ”だ。スラムの配り方。
俺はその間に、かまどの火を土で消した。
燃え残りを踏み潰し、灰をばら撒く。匂いを薄めるために。痕跡を散らすために。
売り物を並べる時間なんてない。ここに残したものは、全部“言い訳”になる。
リヤカーのような手押し台も放棄した。惜しい。でも命の方が軽くない。
裏路地から抜ける。
背中に熱い視線が刺さる。遅れて怒号が追いかけてくる。
「どこ行った!?」
「パン屋がいねぇ!」
誰かが走り出す足音。
でも、俺たちは戻らない。戻ったら終わりだ。
―――
廃墟の倉庫に戻った俺たちは、火も焚かずに身を潜めた。
いつもなら、火のそばが安心なのに、今日ばかりは逆だ。煙も匂いも、今は危険信号になる。
暗い。冷たい。
けれど、外のざわめきが遠のいていくのを聞きながら、ようやく息が戻ってくる。
「ふぅ……間一髪だね」
ティナが、壁にもたれて言った。
その声は平静を装っているけど、指先が少しだけ震えている。
「ちょっと……悔しいな」
かすれた声。
焚き火のない倉庫の冷えが、言葉まで冷たくする。
「せっかく美味しいって、皆言ってくれたのに……怖くて、逃げなきゃなんてさ」
俺は頷いた。悔しい。
でもそれ以上に、怖い。あの人の渦は、喜びじゃなくて、飢えと執着の渦だった。良い匂いは、人を優しくするだけじゃない。欲しがらせる。
「また焼けるさ。もっといい場所で、もっと自由に」
励ますつもりで言った。
でもティナは首を振る。
「でもここはスラムだよ。パンなんかより、干し肉の方が売れる」
現実的で、正しい。
干し肉は腹にたまる。保存できる。噛みしめれば塩が出る。
パンは、匂いが良いぶん贅沢に見える。贅沢は、余裕がないと憎まれることもある。
それでも――俺は、あの路地で見た目を思い出す。
銅貨を握りしめた手。夢に出てきたと言った男の顔。
あれは、贅沢じゃなく“救い”を求めていた目だった。
「それでも、パンが食べたい奴がいた。俺たちのパンを待ってる奴がいた。なら、次はもうちょい上手くやるさ」
俺の言葉に、ティナはしばらく黙って――それから、ゆっくりと笑った。
大げさじゃない。声も出さない。でも、確かに笑った。
「……ほんと、変なお兄ちゃん」
その夜、俺たちは小さな火を起こし、少しだけ水を温めて飲んだ。
腹を壊さないように、ちゃんと煮る。
あの日の痛みが、まだ身体のどこかに残っている。
次の一手はまだ決まっていない。
けれど、もう一度あの匂いを街に届けるために。
新しい場所を探す旅が、始まる。
―――
撤退から三日。
潜伏生活は、早くも限界が近づいていた。
薪が減ると、火が弱くなる。火が弱いと、水を煮られない。水を煮られないと、腹を壊す。
結局、“生きる”の全部が一本の糸で繋がっていて、その糸が今、細くなっている。
「お兄ちゃん、もう薪がない。水も……井戸が干上がりそう」
ティナが言う。
仏頂面のままなのに、目だけは本気だ。
「わかった。じゃあ、動くか」
無理に粘れば、次は逃げる体力も残らない。
それに――匂いが出せない場所で、パンは作れない。
情報を拾って回った結果、ひとつの噂に辿りついた。
城壁の外れ。かつて工場として使われていた建物群が、今は空き家になっているという。
火事で屋根が焼け落ち、煤と崩れた梁だけが残って、誰も近寄らないらしい。
誰も来ない。
煙が立っても、すぐには見つからない。
そして何より、広い。
それは俺たちにとって、願ってもない拠点だった。
―――
翌朝、ティナとともに城壁の影に広がる廃墟へ向かった。
石壁の影は冷たく、町の中心より風が強い。
人の気配が薄い分、音がよく響く。靴底が砂利を踏む音が、やけに大きい。
焼け跡にはまだ煤の香りが残っていた。
黒く焦げた柱。崩れた屋根。錆びた扉。
でも、空は見える。煙は上へ逃がせる。窓の穴が風を通す。
「ここ……使えるかも」
「煙突は塞がれてるけど、窓がある。通気も悪くない」
俺たちは二人で見回った。
床の崩れ具合。梁の危なさ。雨の入り方。
火を使うなら、崩れた木材は邪魔にも燃料にもなる。使い方次第だ。
――そのとき。
「……おい。何してる」
突然、上から声が落ちてきた。
背筋が跳ねる。
反射で身構え、視線を上げる。
崩れた二階の梁に座る、痩せた青年がいた。
ぼさぼさの黒髪。汚れたロングコート。
体つきはやつれているのに、眼だけが異様に澄んでいる。獣みたいに、こちらの動きを全部追っている。
「お前ら、パン焼いてた連中だろ」
言い当てられて、心臓が一つ重く打つ。
「市場が騒いでる。スラムの連中が“あの匂い”が忘れられねぇって、毎日騒いでんだ」
ティナが警戒して前に出た。
釘抜きも包丁も今はない。それでも彼女は、身体を盾みたいにして俺の前に立つ。
「……見てたの?」
「全部じゃねぇ。でも、匂いは届いた。俺も、食いたかったさ」
青年はひょいと飛び降りた。
驚くほど音がしない。着地の衝撃が土に吸われたみたいに静かだ。
そして、俺たちの目の前に立つ。
歳は十七か十八か。
若いのに、顔つきが擦り減っている。
笑っていないのに、どこか諦めが滲む。
「ここ、貸してやるよ。条件がある」
「……なんだ?」
喉が乾く。
条件、という言葉が怖い。ここで何かを貸す、という言葉が怖い。
この世界の“条件”は、だいたい刃物か鎖だ。
青年は肩をすくめるように言った。
「パンを、一つ。俺にもくれ。毎日とは言わねぇ。一週間に一度でいい」
「……それだけ?」
「それだけだ。どうせ誰も来ねぇ場所だ。俺も、もう誰からも必要とされてねぇしな」
その笑みには、捨てたような諦めがあった。
でも、目の奥にだけ、小さな渇きがある。
“欲しい”という渇き。匂いに引かれる渇き。生きてる側の渇き。
「名前は?」
俺が問うと、青年は少しだけ顎を上げた。
「レノ。昔は“落ち貴族の忘れ子”とか言われてたけどな。今はただの廃墟暮らしさ」
俺とティナは顔を見合わせた。
警戒は消えない。けれど――条件は、悪くない。
少なくとも、今の俺たちに必要なのは「場所」だ。
「悪い条件じゃない」
「うん、悪くない」
ティナが小さく言って、ようやく肩の力を少し抜いた。
こうして、俺たちの第二の拠点が決まった。
―――
焼け跡の工場で、錆びた扉と崩れた壁の中に、新しいかまどを組み直す。
石を探して積む。隙間を土で埋める。火が漏れないようにする。
煙突の代わりに、天井の穴を少しずつ広げていく。煙が逃げる道を作る。
レノは器用だった。
木材の扱いがうまい。崩れた板を拾って、釘の代わりになるものを探し、使える形に整えていく。
作業道具も、錆びたまま残っていた。使うたびに手が汚れるけど、それでも“ある”のはありがたい。
「こんなふうに、何かを作るのは……ひさしぶりだな」
レノがぽつりと呟く。
その声は、火のない場所の冷えと同じ温度だった。
それでも、火が灯る。
―――
初めて、レノにパンを渡したのは、月が昇りきった夜だった。
焼き上がったばかりの丸パンを、皿代わりの木板に乗せて差し出す。
湯気が立つ。香ばしさが、煤の匂いに勝つ。
「……ほんとに、いいのか?」
レノは一度、真剣な眼差しで俺を見ると、黙ってパンを受け取った。
その受け取り方が、妙に慎重だった。熱さへの警戒だけじゃない。何かを受け取ること自体に慣れていない、そんな手つき。
「熱いから気をつけてな」
「……いただきます」
最初のひと口で、レノの眉がふっと緩んだ。
「……あったけぇ」
それは炎の温度じゃない。
口の中に広がる柔らかさと、腹に落ちる安心と、胸の奥がほどける感じ。
もっと別の何かに触れたような声だった。
ティナは焚き火越しに、じっと見ていた。
「レノ、うまい?」
「……うまい。信じられねぇくらい」
ティナは鼻を鳴らして、少しだけ得意げに胸を張る。
「ふふん、でしょ」
その日から、パン作りは三人の仕事になった。
ティナは火加減と水の計量を担当する。
目盛りなんてないのに、彼女は同じ器で同じ量を繰り返せる。失敗の少ない人間の手だ。
レノは薪割りと窯の修繕を手際よくこなす。崩れた壁の危険を見抜き、先に補強する。
俺は粉を捏ねて、酵母を見張る。泡の立ち方、匂いの変化、温度の揺れ。見えない相手に神経を尖らせる役目。
まるでずっと昔からそうだったみたいに、作業は自然と分担された。
誰も“指示”しないのに、必要なことが必要な順番で埋まっていく。
「……なんだろう、家族みたいだね」
ぽつりとティナが言った。
レノは顔を伏せたまま、そっと笑った。
笑ったというより、笑い方を思い出したみたいに。
「俺にはなかったな、家族。拾われたけど、邪魔者扱いで。仕えてた屋敷も、もうない。戦で燃えた」
焚き火がぱち、と鳴る。
その音の隙間に、レノの言葉が落ちる。
「……それで、ここに?」
「あぁ。逃げて、隠れて、それっきりさ。だから……パンが焼ける音がして、煙が昇ってくるのを見たとき、なんか、止まれたんだよ。逃げなくてもいいって、思えた」
静かな夜だった。
パンの焼ける香ばしい匂いが、煙とともに空へ溶けていく。
煤と灰の町に、わずかな“生きてる匂い”が混じる。
「ここはいい匂いがする。生きてる匂いだ」
「……変なの」
ティナがそう呟いたけれど、目は優しく細められていた。
俺は火を見つめながら、胸の奥で何かが形になるのを感じていた。
焼け落ちた家、失った過去、必要とされない場所。
それでも、温かいパンを口にして、少しだけ笑える今。
「また、焼こうな。明日も、明後日も」
「あぁ」
「うん」
三人の声が、火の音に混ざって消えていく。
灰に包まれた工場跡で、パンと笑い声と、ほんの少しの希望が、また一つ焼き上がった。
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