灰と麦と夜明けのパンーー夜風のパン屋

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第3話:銅貨一枚の朝

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きっかけは、ティナの一言だった。
焚き火が小さくなって、倉庫の隙間風がまた勝ち始めるころ。
俺は翌日の仕込みのことを考えながら、指先に残った粉を払っていた。

「……あのパン、売ってみたら?」

ティナが、火を見つめたまま言う。
いつもと同じ仏頂面。だけど声だけは、妙に落ち着いていた。

「売る?」

「うん。お兄ちゃん、あたし以外にも食べさせたいんでしょ? だったら、それ、お金にすればいい」

一瞬、言葉が詰まる。
“お金にする”という発想が、俺の中ではまだ現代の感覚に寄っていたからだ。パンは買うもの。作るのは工場か店。少なくとも、スラムの潰れ倉庫じゃない。
でも、ここでは違う。
食べ物は、生き延びるための“道具”で、同時に“価値”だ。
価値は交換できる。交換できるものは――強い。
スラムの暮らしは、日々の食事さえ保障されない。
拾えるものがなければ空腹。運が悪ければ水で腹を壊す。病気になれば、そのまま終わりだってあり得る。
それでも、パンが金になるなら。
パンの匂いが、人を呼ぶなら。
それは、この場所で生きる子どもたちにとって、ほんの少しだけ“明日を買える”手段になる。

「……確かに、銅貨があれば、水も薪も少しは楽になる」

俺が言うと、ティナはほんの少しだけ顎を上げた。
“でしょ”とでも言いたげに。
問題は、どう売るか、だった。

「市場で勝手に売ると、取締りがくる」

ティナは言い切った。
まるで見たことがあるみたいに、迷いがない。

「貴族の許可がないと店は出せない。場所代もいるし、目をつけられたら終わり。……けど」

そこで一拍置いて、ティナは俺を見る。

「あたし、いい場所知ってる」

―――

翌朝――いや、正確には夜が明けきる前。
ティナに連れられて外へ出た。
まだ空気が冷たくて、吐く息が白い。
スラムは暗いうちから動き出している。どこかで咳がして、どこかで金属を叩く音がして、誰かが早足で通り過ぎる。
「朝」は希望じゃなく、生存の時間帯だ。
ティナが案内したのは、市場の裏手へ続く裏路地だった。
表通りの喧噪から少し外れた場所。
だけど完全に人が途切れるわけでもない、絶妙な境目。
しかも――市場のごみ溜めのすぐ脇。
腐りかけの野菜の匂いと、酸っぱい水溜りの臭いが混じる。
足元には踏み固められた泥。壁には煤と落書き。
ここで商売? と普通なら思う。
でも、ティナは平然としていた。

「ここなら……昼前には物乞いもいるし、客も通る。ごまかしもきく」

「ごまかし?」

「店じゃないふり、できる。ちょっと配ってるだけ、みたいに」

言い方がやけに現実的で、俺は変な笑いが出た。
スラムで生きるって、こういう知恵の積み重ねなんだ。

「……完璧だ」

本音だった。
きれいな場所じゃない。
だけど、ここは“人が通る”し、“捨て場の近く”だから、場違いさが逆に紛れる。香りが立てば立つほど、流れに乗って人の鼻に届く。

「じゃ、明日ここで」

ティナはそう言って、さっさと踵を返した。
決めたら早い。迷ってる時間がもったいない、と背中が言っている。

―――

その晩、俺は寝なかった。
ぶどう酵母はまだ安定していない。
昨日うまくいったからといって、今日も同じとは限らない。温度、水、粉、時間――少しズレるだけで発酵は裏切る。腹痛の記憶が、手元の動きを慎重にさせた。
まず水を沸かす。
ぐらぐら煮て、冷まして。
粉をふるう――ふるいなんてないから、指で塊を潰して、砂っぽいものをできるだけ避ける。
酵母液を混ぜ、捏ね、伸ばし、畳んで、また捏ねる。
生地は柔らかい。
まだ“ふわふわ”には程遠いけど、石ではない。
指先にまとわりつく粘りが、確かな手応えとして残る。
布で包み、かまどの近くへ。
火は弱く、余熱だけ残して。
温度が下がりすぎれば動かないし、上がりすぎれば死ぬ。
見えない相手と付き合うって、こんなに神経を使うのか。
ティナは途中まで起きていた。
薪を並べ、布を裂き、手元で何かを作っている。

「それ、何してる?」

「包み。売るなら、そのまま渡せない」

ティナの手は早い。
布を折り、ねじり、結び、簡単な包みを量産していく。雑だけど実用的で、ほどけにくい。
“慣れてる”手つきだった。

「昔、魚売りの手伝いしてたから」

ぽつり、と言う。
その言葉の裏にあるものを想像して、俺はそれ以上聞かなかった。

―――

夜が白んでくるころ、かまどに火を入れた。
煙が細く立ち上り、天井の隙間から外へ逃げていく。
火の熱が頬に当たると、眠気が遠のいた。
布を開く。
生地は昨日より良い。ちゃんと膨らんでいる。指で押すと、ゆっくり戻る。
よし、と心の中で言う。
焼く。
一つずつ、丁寧に。
火の強さを見ながら、表面が焦げすぎないように位置を変える。
焼ける匂いが立ち始めた瞬間、倉庫の空気が変わった。冷たい朝に、甘い香ばしさが混ざる。
出来上がったパンを布に包み、手押し台に並べていく。
リヤカーみたいなそれも、ティナがどこかから引っ張ってきたものだ。車輪が片方少し歪んでいるけど、動く。
数を数える。
全部で十一個。
多いようで少ない。少ないようで、今の俺たちには精一杯。
これが全部売れたら――水と薪を買える。粉だってもう少しマシなものが手に入るかもしれない。

「準備よし」

ティナが包みを確認して言った。
俺は頷いて、手押し台の取っ手を握る。

「行こう」

―――

裏路地に立つと、初めての空気が肌にまとわりついてきた。
表通りの市場は、朝からざわめいている。
商人の声、荷車の軋む音、誰かの怒鳴り声、笑い声。
そして――視線。
軽蔑。
興味。
好奇心。
警戒。
スラムの人間が、市場の近くで“何か”をする。それだけで、周囲の目は刺さってくる。
俺は背筋を伸ばしすぎないようにした。堂々としすぎると目立つし、怯えすぎると舐められる。
ティナは俺の横に立って、腕を組む。
その仏頂面が、妙に頼もしい。
パンの匂いが風に乗って流れる。
最初は通り過ぎる足が、少しだけ遅くなる。
鼻が動く。顔がこちらに向く。

「ねえ、それ、何?」

最初に声をかけてきたのは、年寄りの女だった。
背が低く、肩が固そうで、手には傷だらけの木箱と数枚の銅貨。
目だけが、値踏みするみたいに鋭い。

「パンです。できたて」

俺が言うと、老婆は鼻を鳴らした。

「いくらだい?」

ここが一番怖い。
高すぎれば誰も買えない。
安すぎれば、足元を見られる。
そして、売れる量が減れば、俺たちが先に潰れる。
俺は一瞬だけ迷って、現実的な線を口にした。

「……一個、銅貨一枚でどうですか?」

老婆は眉を寄せる。
一瞬、“高い”と言われるのを覚悟した。

「ふん。見かけ倒しかもしれんが、匂いは……悪くないね」

そう言って、老婆は銅貨を一枚放った。
俺は慌てて受け取り、布包みを渡す。
老婆は包みをほどき、躊躇なく齧った。

ぱく。

噛む音。
数秒の沈黙。
俺の心臓が、変なところで跳ねる。
次の瞬間。

「……こりゃ、うまい!」

老婆の声が、路地に響いた。
その声は、俺の緊張を一気にほどいた。
同時に、周囲の耳を引っ張った。
“うまい”という一言は、何より強い宣伝だった。

―――

そこから先は、流れが変わった。
通りかかった労働者が足を止める。
空腹そうな少年が近づく。
物珍しさに惹かれた少女が覗き込む。

「ほんとに銅貨一枚?」

「焼きたてか?」

「腹にたまる?」

質問が飛ぶ。
俺は答える。簡単に、短く。嘘はつかない。
嘘をつくと、次はない。
銅貨が手のひらに落ちるたび、胸の奥が熱くなる。
パンが減るたび、不安が消えていく。
ティナは横で、包みを渡す手を止めない。
目の動きが忙しい。客の顔、路地の奥、通りの様子。
誰か怪しいやつが来たらすぐ引く――そういう“売り方”をしている。
俺はその背中に、こっそりと感謝した。
パンは、次々に消えた。
十一個あったはずなのに、手押し台の上があっという間に寂しくなる。
そして最後のひとつが、ティナの手に残った。
ティナはそれを見つめて、しばらく動かなかった。

「……全部、売れたね」

声が、小さい。
嬉しいはずなのに、笑わない。
静かな目で、布包みを握っている。

「うん。全部だ」

俺も笑えなかった。
胸の奥がいっぱいで、顔の筋肉がうまく動かない。
ティナが、ちらりと俺を見る。

「食べていい?」

「もちろん」

ティナは包みをほどいて、かぶりついた。
頬が動き、喉が鳴る。
焼きたての温かさが、彼女の口元に湯気みたいに残る。
そして――ティナの頬に、ほんのすこしだけ赤みがさした。

「……やっぱり、うまい」

それは自分に言い聞かせるみたいな声だった。
“うまい”という言葉が、今日の全部を肯定してくれる。

―――

パンの匂いが消えたあと。
俺たちの足元に残ったのは、小さな山のような銅貨だった。
銅貨一枚が、こんなに重いなんて。
十一枚が、こんなに眩しいなんて。
俺はしゃがみ込んで、銅貨を手のひらに集めた。
冷たい金属の感触が、現実を教えてくる。
これで水が買える。
薪も買える。
粉も、少しはマシになる。
俺はティナを見る。
ティナは銅貨の山を見て、そして――目を細めた。

「……明日も、焼く?」

その問いは、確認じゃない。
もう決まっている未来を、言葉にしただけだ。
俺は頷いた。

「焼く。明日も、ちゃんと」

そう答えると、ティナは相変わらず仏頂面のまま、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。
路地の空に、遅れて煙が上がる。
今日もまた、俺たちのかまどは――世界の片隅で、確かに火を灯していた。
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