灰と麦と夜明けのパンーー夜風のパン屋

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第2話:腹痛と酵母と、はじめての香り

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翌朝、目覚めた瞬間に理解した。
腹が――終わっている。
胃の奥が、ぐる、と嫌な音を立てたと思ったら、次の瞬間には身体が勝手に折れ曲がる。冷たい汗が背中に貼りつき、喉の奥が酸っぱくなる。
俺は布切れみたいな毛布を跳ねのけて、よろよろと外へ……行こうとして、足がもつれて壁に肩をぶつけた。
痛い。けど、それどころじゃない。
スラムの朝は早い。
朝焼けよりも先に、誰かの咳、誰かの罵声、どこかで叩く金属音が聞こえてくる。湿った土と煤の匂いが鼻にまとわりつく。
その全部が、今日の俺には拷問だった。

「……っ、死ぬ……」

昨日、言ったばかりの台詞を、今度は別の意味で呟くことになるとは。

―――

「だから言ったのに。落ちた小麦なんか……って、言ってないか。ごめん」

ティナが、俺のそばにしゃがみ込む。
仏頂面は相変わらずで、口元がまっすぐなままなのに、手だけは妙に丁寧だった。布を水で濡らして、それを俺の額に当てる。
ひやり、として、少しだけ楽になる。
布から落ちる水滴がこめかみを伝って、首筋へ滑った。

「お前……やさしいな……」

「そういうの、いいから。動かないで」

言い方はぶっきらぼうなのに、額を拭く手つきは本当にやさしい。
この世界のやさしさって、だいたいこんな形なんだろう。言葉じゃなく、行動で。余計な飾りがない。
俺は腹を抱えながら、かろうじて笑った。

「水……もうちょい煮沸したほうがいいかもな……」

自分の声が情けないほど弱い。
腹の中のものが全部出ていく感覚のあと、身体が空っぽになったみたいだった。

「しゃふつ?」

「沸騰させるってこと。ぐらぐら煮る。……菌を殺すために」

「……きん?」

ティナが眉をひそめる。
しまった、と思った。ここには“菌”の概念なんてない。目に見えないものが悪さをする、って話自体が怪談に近い。
俺は言葉を探しながら、喉の渇きを舌でなぞった。

「ええと……小さすぎて見えない、汚れみたいなもの。水の中とか、粉の中とかにいて、腹を壊させたり、逆に……役に立ったりする」

「役に立つ汚れって、なに」

ティナの声に、露骨な胡散臭さが混じる。
そりゃそうだ。俺だって初めて聞いたら嫌だ。

「パンを膨らませる小さな命……だと思ってくれ」

思ってくれ、としか言えない。
科学の説明なんて、このスラムの寒さと空腹の前では贅沢だ。

「それ、気持ち悪くない?」

「まあ、慣れれば愛着わくよ」

言った自分が一番信用していない。
でも、言い切るしかない。ここで引いたら、また“石の塊”を焼いて終わりだ。
ティナは布を絞り直しながら、俺の顔を覗き込んだ。

「お兄ちゃん、ほんと変」

「うるさい……」

腹が痛いと、反論の勢いすら出ない。
情けない。けど――助かっている。

―――

結局、腹痛は一日で治った。
治ったというより、出し切って枯れた、と言う方が正しい。身体が軽くなった代わりに、立ち上がるとふらつく。
水を煮る。
火を起こす。
その手間が、昨日までとは違う意味で重く見えた。

「水、ちゃんと沸かすの、面倒だね」

ティナが、かまどの前で薪を弄りながら言う。

「面倒だけど……腹がこうなるよりはマシだ」

俺は腹を押さえる仕草をして見せた。ティナが一瞬だけ口角を上げる。笑った、というより、面白がった、に近い。
それでも――俺のパン計画は、振り出しに戻った。
酵母がなければ、パンはただの焼いた粉だ。
昨日のあの硬さ。あの香りの無さ。噛むたびに歯が折れそうな感じ。
“パン”とは呼びたくない。
じゃあ、どうする。
スーパーマーケットがない。
イーストもない。
知識だけが頭にあるのに、手元の道具が足りない。
俺は焚き火の熱に手をかざしながら、記憶の隅を必死に探った。
発酵――自然――野生の酵母。

「……そうだ、果物!」

口から出た言葉に、自分で驚く。
ティナが、薪を持ったまま固まった。

「は?」

「果物の皮。そこに酵母がついてるかもしれない。リンゴとか、ぶどうとか」

説明しながら、頭の中で組み立てる。
皮の表面にいる“何か”。
それを水に移して、甘さを餌にして増やす。
発酵した液体を、粉に混ぜる。
理屈は雑だ。でも、方向は合ってるはずだ。
ティナは、相変わらず疑う目で俺を見た。

「果物なんて、どこにあるの。高いよ」

「買うんじゃない。……探す」

スラムでは、探す、はだいたい“拾う”と同義だ。

―――

市場の端。
活気の中心から外れた場所は、別の匂いがする。
生肉の匂いでも、香辛料でもなく、腐りかけの甘さと、酸っぱさと、泥の匂い。
廃棄物の山がある。
売れ残り、傷もの、踏まれたもの、誰かが落として気づかなかったもの。
それを漁る人たちがいて、彼らはそこで「今日」を見つける。
その中に、老人がいた。
背中が丸く、指が節くれだっていて、目だけがやけに鋭い。
俺たちを見て、何か言うでもなく、手元の袋を守るように引き寄せる。
ティナが、少し前に出る。

「おじさん、それ……ちょっとだけ、分けて」

いつもこうやっているのだろう。
媚びるでもなく、怯えるでもなく、交渉の声。
老人は俺をちらりと見て、それからティナを見る。
しばらくの沈黙のあと、袋の中から潰れかけの小さなぶどうの房を一つ取り出した。
房は半分潰れて、粒の皮が破れている。
でも、甘い匂いが微かに残っていた。
俺は思わず喉が鳴る。食べたい。けど、食べたら終わりだ。

「……ありがと」

ティナが言うと、老人は何も返さず、また黙って山を漁り始めた。
俺はぶどうを両手で受け取りながら、胸の中で何度も頭を下げた。
これが、俺の“酵母”になるかもしれない。

―――

倉庫に戻り、壺を用意する。
壺はティナの家に元からあった、欠けたやつだ。
中をよく洗って、煮沸した水を冷ましてから入れる。熱すぎると、せっかくの“命”が死ぬ気がした。

「さっきの“菌”、殺したいのか生かしたいのか、どっち」

ティナが呆れた顔で言う。

「腹壊すやつは殺す。パンにしてくれるやつは生かす」

「……勝手だね」

「人間ってそういうもんだ」

ぶどうの粒を軽く潰して、皮ごと壺へ。
粉も少し混ぜる。餌になる糖が足りない気がしたから、潰れた果肉を残すようにした。
あとは、暖かい場所へ。
かまどの近く、火の余熱が残るあたり。
布を被せて、外気と埃が入りにくいようにする。
待つしかない。

「これでパンになるなら、すごい」

ティナが言う。

「なる。……はず」

自信は半分。残り半分は意地だった。

―――

三日後。
壺を開ける瞬間、俺の胸は変に高鳴っていた。
たかが壺。たかが水。たかがぶどう。
でも、ここまでの三日間は、腹を壊さないように水を煮て、薪を節約して、何度も壺を確認しそうになる衝動と戦った三日だった。
布を取る。
蓋を持ち上げる。
ふわり、と匂いが立ち昇った。
甘酸っぱい。
腐敗の刺すような臭さじゃなく、鼻の奥がきゅっとなる、果物の酸味。
そして、どこか酒っぽい、温かい匂い。

「……発酵した」

思わず、声が漏れた。
壺の中で小さく泡が立っている。水面がほんの少しだけ生きている。
ティナが顔を近づけ、すぐに引っ込める。

「くさってるだけじゃないの?」

「腐り方が違う。たぶん……これは、いける」

俺は壺の液体を少しだけ取り、粉に混ぜた。
昨日とは違う。指先にまとわりつく感触が、ほんのわずかに粘る。
空気を含ませるように捏ねる。伸ばして、畳んで、また捏ねる。
ティナがじっと見ている。
眉間の皺が、いつもより浅い。
丸める。
布に包む。
そして、また暖かい場所へ。
今度こそ。
今度こそ、頼む。

―――

翌朝。
布を開いた瞬間、俺は息を止めた。
ふくらんでいる。
ほんのわずか。
指で押せば戻る程度の柔らかさ。昨日の石みたいな塊とは違う。

「よし……!」

声が震えた。
成功だ。小さくても、確かに“変化”がある。
ティナも、布の中を覗き込んで、目を細くする。

「ふえた?」

「ふくらんだ。増えたっていうか、膨らんだ」

「……へえ」

その一言が、やけに重かった。
この世界で、初めて見るものに対する、純粋な驚き。
俺は急いでかまどに火を起こした。
薪は大事だ。でも今日は惜しまない。
火の勢いを整え、石を熱して、熱のムラがないようにする。昨日の焦げは、たぶん火が強すぎた。
生地を置く。
しゅっ、と小さく蒸気が上がる。
焼ける音が違う。水分が弾ける、軽い音。
そして。
香りが来た。
焦げの匂いじゃない。
小麦が焼ける香ばしさ。
鼻の奥が「これだ」と叫ぶ匂い。
かまどの周りの空気が変わる。
狭い倉庫の中に、朝の匂いが広がる。

「……なんか、いいにおいする」

ティナの目が、かすかに見開かれた。
普段は何を見ても揺れないみたいな顔が、ほんの少しだけ柔らかくなる。
焼き上がったそれは、不格好だ。丸じゃないし、表面も均一じゃない。
でも――軽い。
指で叩くと、乾いた音がする。皮が薄く、ぱきっと割れそうだ。
俺はちぎって、湯気が立つうちにティナへ差し出した。

「ほら」

ティナは一瞬だけ躊躇って、すぐに受け取った。
ちぎった断面は白っぽく、昨日みたいに詰まっていない。
息を吸い込むみたいに匂いを嗅ぎ、それから口に入れる。

「……うまっ!」

短い叫び。
ティナは目を見開いたまま、無言で何度も咀嚼した。
噛むたびに表情が変わる。驚きが、確信に変わっていく。

「……うまい、ほんとに。こんなの、初めて食べた」

その声が、少しだけ震えていた。
俺の方が、先に泣きそうになる。
俺は思わず、笑っていた。

「これがパンだよ」

―――

その日、匂いは壁を抜けた。
煙と一緒に、香りがスラムに流れていった。
瓦礫の向こうから、顔を出す影が増える。
子供たちだ。目が光っている。腹を押さえている子もいる。鼻をひくひくさせている子もいる。

「ねえ、それ、食えるの?」

問いかけは遠慮がない。
でも、遠慮なんてしていたら死ぬ場所だ。

「食えるどころか、うまいぞ」

俺は言って、手を止めずに次の生地を捏ねた。
酵母液は少しずつしかない。だから回数は限られる。
でも、今日は見せたい。匂いは希望になる。

「明日また焼く。お前ら、薪と水を運んでくれたら、分けてやるよ」

条件は、現実的で、対等だ。
施しじゃない。交換だ。
ここでそれは大事だと、三日で学んだ。
子供たちは顔を見合わせ、次の瞬間には散っていった。
すぐ戻ってくるだろう。薪を抱えて。水を持って。
彼らの“明日”を少しでも軽くするために。
ティナが、その背中を見ながら呟く。

「……ほんと、変なことするね」

「変でも、生きる」

「……うん」

―――

こうして、俺とティナのパン屋――いや、ただのかまど小屋は、スラムの中で小さな評判になっていった。
不格好で、膨らみもまちまち。
発酵が強い日はよく膨らむし、弱い日はぺちゃんこだ。
火加減を間違えれば焦げる。水が悪ければ腹を壊す。
成功と失敗が、毎日一緒に並ぶ。
それでも、皆が笑って食べてくれた。
「硬い!」と言いながら笑って、でも最後まで噛みしめて、指についた粉を舐めて。
それが、ここでは贅沢な時間だった。

―――

夜。
焚き火の炎が、小さく揺れる。
パンの匂いはもう消えて、代わりに煤と湿気が戻ってくる。
それでも、今日の倉庫は少しだけ温かい気がした。薪が増えたからじゃない。
人の気配が増えたからだ。

「お兄ちゃん」

ティナがぼそりと呟いた。
炎の光が横顔を照らして、目の端の傷跡だけが少し強く影になる。

「お兄ちゃん、パン屋になればいいよ。この世界で。戦わなくても、生きていけるなら……」

その言葉は、提案みたいで、祈りみたいだった。
“戦わない”という選択肢が、ここではどれだけ難しいか。
彼女は知っている。だからこそ言う。
俺は焚き火を見つめたまま、ゆっくり頷いた。

「……そうだな。パンを焼いて、生きていく。それも、ありだ」
「じゃあ、君は?」

俺がそう返すと、ティナは一瞬だけ口を閉じた。
炎がぱち、と弾ける音のあと、彼女は小さく息を吐く。

「……あたしは、もうちょいここにいたい。あったかいから」

あったかいから。
たったそれだけの理由が、ここでは一番強い。
俺はうなずいた。
この世界で、パンを焼いて生きていく。
きっとそれは、世界を救う冒険なんかよりもずっと遠く、ずっと大切なことなのかもしれない。
灰と麦と、夜明けのパン。
今日もまた、俺たちのかまどは煙を上げる。
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