灰と麦と夜明けのパンーー夜風のパン屋

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第1話:ただひとつ、焼きたてのパンが食べたい。

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「死ぬかと思った……」

息を吸うたび、鼻の奥がじんと痛む。
カビと湿気と、古い鉄みたいな臭い。人が長く居座っていい場所じゃない、と本能が言う。
天井が、低い。
背を丸めていないと頭をぶつける。
石で組まれた壁は、触れなくても冷たいのがわかる。
指先を当てると、ひんやり、というより、体温を吸われる感じがした。湿ったざらつきが掌に残って、すぐ離したくなる。
ここがどれだけ底辺か。
喉の渇きと空腹より先に、空気が教えてくる。

―――

異世界に転移して、早三日。
剣も、魔法も、チート能力も。
俺には何ひとつ与えられなかった。
最初は、笑うしかなかった。
テンプレみたいな光、テンプレみたいな落下感、テンプレみたいな「ここはどこだ」。
でも、現実はテンプレじゃない。
腹は減るし、喉は乾く。夜は冷える。
それでも俺が今、欲しいものは一つだけだった。
焼きたてのパンが食べたい。
――それだけ。
パンって、どうしてあんなに安心するんだろう。
外側がぱりっとして、中がふわっとして、噛めば温かい甘さが広がる。
バターでもジャムでも何でもいい。何なら何もなくていい。
ただ、あの香りがほしい。
現代なら、店に入って、棚から取って、袋に入れて終わりだ。
この世界じゃ、それが「夢」になる。

―――

「お兄ちゃん、そこ、泊まるつもり?」

声がした。
入口の方。
暗い穴みたいな出入口の縁に、逆光で輪郭だけが浮いている。
小柄な少女だった。
浅黒い肌に、藁みたいな金髪。手入れしてないのに妙に目立つ色で、汚れと汗が絡んで少しだけ束になっている。
目の端には、薄い傷跡。たぶん、昔ついたやつだ。
年の頃は十か十二か。
その手に、釘抜きと包丁。
どっちも「道具」って顔をしてるのが、逆に怖かった。生きるために必要なものは、たいてい刃物になる。
視線が、こちらを値踏みしている。
逃げる気配はないし、近寄ってくる気配もない。
距離を保って、俺の反応を見ている。
俺は、両手をゆっくり見える位置に出した。
敵意がない、と伝えるための動き。

「……いや。泊まるっていうか」

口を開くと、声がかすれていた。
喉が乾いている。
それでも言う。俺はこの三日で学んだ。遠慮してる余裕があるやつは、たぶんここでは生き残れない。

「ここに住みたい。できれば……パンを焼ける小さなキッチンがほしい」

自分で言って、自分で変だと思う。
でも本音だった。
「は?」
少女は、瞬きを一回。
次に、眉だけ動かした。
沈黙が落ちる。
たぶん、今ので刺されても文句は言えない。
……いや、刺されるより恥ずかしさで死にたい。
けれど彼女は、すぐに刺してこなかった。
釘抜きも包丁も、構えは崩していないのに。
じっと見て、見て、見て。
そして、目を細めた。
「変なやつ」
言い切って、鼻で笑う。
でも、笑い方は悪くなかった。
こいつは、面白いものに対してちゃんと面白いと言える種類の人間だ。

「でも、面白いから、貸してあげてもいいよ。家と、囲いのあるかまど。薪と水道は自分でなんとかして」

条件を並べる口調が、妙に手慣れていた。
誰かに何かを「貸す」って概念がこのスラムにあることに驚く。
同時に、その条件の厳しさにも納得する。
薪と水。
生きるのに必要で、しかも簡単に手に入らない。
それでも――俺にとっては救いだった。

「助かる!」

勢いよく頭を下げたら、低い天井の存在を思い出して首が痛い。
情けなくて笑いそうになる。

―――

彼女の名前はティナ。
生まれも育ちもスラム。
両親はもういないらしい。言い方が淡々としていて、そこに涙や怒りを混ぜる余裕すら削られてきたのが伝わる。
彼女の「家」は、家というより。
潰れた倉庫を、どうにか人が寝られる形にしただけの箱だった。
壁はところどころ崩れていて、隙間風が容赦なく入り込む。
石と木片を積んだだけの簡易な仕切りがあって、奥が寝床、手前が生活の場。
床は土のままで、歩くと砂が鳴る。
でも、俺にはそれが「希望の小屋」に見えた。
屋根がある。
雨をしのげる。
そして何より、囲いのあるかまどがある。
火を扱える場所がある、というのは、この世界では大きい。
火があれば、温まれる。湯が沸かせる。煮ることができる。
焼くことだってできる。
焼ける。
パンが。

―――

「パン、って言ったっけ」

ティナが、かまどの周りをぐるっと見回しながら言った。
興味はあるけど、警戒もある。そんな距離感。

「あたし、食べたことないよ」

その言葉が、胸に刺さった。
パンを知らない。食べたことがない。
それが当たり前の場所で、彼女は生きてきた。

「よし、それなら一緒に作ろう」

俺は言い、すぐに続けて息を吐いた。

「問題は……酵母なんだよな」

そう。
ふくらませるための「何か」がない。
イースト菌。
現代なら袋を開けて混ぜればいい。
でも俺は、作り方なんて知らない。
そもそも、この世界に「菌」って概念があるのか?
目に見えない小さなものが発酵を起こす、なんて説明しても、笑われるだけかもしれない。
それでも、パンを焼きたい。
焼きたての香りで、息をしたい。

「小麦粉は?」

尋ねると、ティナは少し得意げに手を伸ばした。
布に包んだものをほどく。

「これ。近くの市場で落ちたのを拾ってきた」

出てきたのは、灰混じりの粉。
白というより、くすんだ薄茶色。粒も粗い。
触ると、指先にざらざらが残る。
これでパンになるのか。
なるかどうかは知らない。
でも、やるしかない。

―――

水。
たぶん綺麗じゃない。
飲むだけで腹を壊すかもしれない。
でも、粉をこねるには必要だ。

「……少しずつ、な」

独り言みたいに言って、俺は粉に水を落とした。
手で混ぜる。
まとまらない。
また水。
また混ぜる。
指の間に粉が入り込み、ぬるりとした感触が増していく。
うまくいかない。
粘りがない。

「それ、ねばねばして気持ち悪い」

ティナが顔をしかめる。
そりゃそうだ。俺だって気持ち悪い。
でも、今さら引けない。
丸める。
とにかく丸めて、形にして、布で包む。

「暖かいところに置けば……」

俺は、かまどの近くにそれを寄せた。
火の余熱が残る場所。
人の体温みたいな、ぎりぎりの温かさ。
あとは、待つ。
二人で見守ること、三時間。
沈黙が長い。
時間が経つほど、期待が重くなる。
俺は何度も布をそっとめくりたくなった。
ティナは逆に、途中から興味をなくしたふりをして、でも目だけは時々こちらに向けてくる。
――そして。
何も起きない。
ふくらまない。
変わらない。
ただの、重たい粉の塊のまま。

―――

「……ねえ、これ、食べられる?」

ティナの声には、半分あきらめが混じっていた。
もう半分は、期待の残り香。

「焼いてみるか」

俺は言って、立ち上がる。
膝が少し笑った。腹が減っている。
かまどに火を起こす。
薪は十分じゃない。だから無駄にできない。
火種を育てるみたいに、慎重に息を吹き、細い木片から太い木片へ。
やがて火が安定し、熱が顔を撫でる。
それだけで、少しだけ生き返った気がした。
石の上に、生地を置く。
ジュッ、と水分が逃げる音。
ほんのわずかな、焦げの匂い。
待つ。
焼ける香りを、俺は全身で探した。
記憶の中のパンの匂いを、必死に引き寄せようとした。
でも――香りは、あまりしない。
焼き上がりは焦げて、表面は硬く、ところどころひび割れている。
ふくらみは、ほとんどない。
嫌な予感しかしない。
それでも、ちぎって口に入れる。
噛む。
……石みたいだった。

「まずっ!」

思わず叫ぶと、ティナが噴き出した。
笑いながら水をがぶ飲みする。
その様子が、悔しいのに少し可笑しい。

「でも、あたし、ちょっとだけ……好きかも」

笑いの合間に、ティナはそう言った。
強がりじゃない。
たぶん、本気だ。
まずいけど、温かいから。
まずいけど、一緒に作ったから。
まずいけど、「パン」ってものに触れたから。
その「ちょっと」が、胸の奥を熱くした。

―――

その夜。
焚き火の前で、俺とティナは並んで座った。
倉庫の隙間風は相変わらず冷たい。
火の側だけが、世界の中心みたいに温かい。
俺は、火を見つめながら決めた。
ここで、もう一度始めよう。
酵母の作り方も。
薪の扱いも。
水の浄化も。
一つずつ学んで、いつか本当に、ふわふわのパンを焼いてやる。
そしてティナに。
この世界に。
朝のパンの香りを、届けよう。
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