灰と麦と夜明けのパンーー夜風のパン屋

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第6話:煙を追ってきた足音

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「ここに……煙、立ってたぞ!」

「昨日も匂いしてた!ここだってば!」

夜明けの光が、焼け落ちた工場の骨組みを薄く照らすころ。
その声は、石と煤に吸われず、まっすぐ工房の中まで届いた。
数日、俺たちは慎重だった。
煙が高く上がりすぎないように。焼く時間をずらし、火を強くしすぎず、匂いが町の中心へ流れないように風を読んだ。
それでも、完全に消すことはできない。
パンの匂いは、嘘をつかない。
そして、腹を空かせた鼻は、驚くほどしつこい。
工房の外――崩れた壁の向こうから、複数の足音が泥を踏む音がする。
軽くて、速くて、迷いがない。大人の足じゃない。

「……来たか」

レノが工具を置いて、短く息を吐いた。
そのため息は諦めじゃなく、「予想どおり」という種類のものだった。

「わざわざ隠れて焼いてたのに」

ティナが呟く。
けれど、その声に怒気はなかった。むしろ少しだけ、困ったような、でもどこか納得したような響きが混じっている。
工房の入口に立つと、そこにはスラムの子供たちが五、六人。
顔も手も薄汚れていて、服はサイズが合っていないのに、必死に着ている。膝も肘も擦りむけて、どの子も痩せている。
けど、目だけが光っていた。
あの光を、俺は知っている。
食べ物を見つけたときの目。
「宝物をみつけた」と思ったときの目だ。

「にーちゃん、あの、パン……!」

一番前の子が、思い切ったように声を張り上げた。
頬がこけているのに、その声だけはよく通る。

「昨日くれたやつ、すっごくうまかった!」

続いて別の子が、半歩前に出る。
銅貨の気配はない。けれど両手を掲げるみたいにして、必死に言った。

「もう一個、だめ? 銅貨はないけど……手、貸すから!」

その言葉で、胸の奥が少しだけ痛んだ。
俺は一瞬、戸惑った。
警戒すべきか。追い返すべきか。
集まれば集まるほど、匂いは大きくなる。煙も増える。見つかる確率は上がる。
それでも、目の前の子供たちは「危険」じゃなく「腹」だった。
腹が空いているだけの体は、言葉より先に震えてしまう。
レノの視線が俺に来る。
“どうする”という問い。
ティナは、子供たちを見たまま黙っている。いつもの仏頂面。けれど、口元が少しだけ硬い。
その沈黙を破ったのは、ティナだった。

「……じゃあ、交換ね」

ティナの声は、淡々としていた。
優しさを飾らない言い方。だからこそ、子供たちの耳にまっすぐ入る。

「薪と水と、できれば干しぶどう。拾ってきて。そしたら……“あれ”を一個、あげる」

“あれ”――夜風のかりかりパン。
あの音がする三日月のやつ。

「ほんとに!?」

子供たちの目が一気に明るくなる。
嬉しさというより、希望に火がついた色だ。

「うそじゃないよね!?」

「うそついてどうするの。ほら、行って」

ティナが顎で外を指すと、子供たちは勢いよく散っていった。
迷う子は一人もいない。走り出す背中が、瓦礫の陰に次々と消える。
工房に残ったのは、煤の匂いと、さっきまでのざわめきの余韻だけ。
急に静かになって、俺は自分が息を止めていたことに気づいた。

「……大丈夫か?」

俺はティナに小さく問うた。
子供たちを巻き込むのが怖い。
ここが居場所になりかけているからこそ、壊れるのが怖い。
ティナは肩をすくめた。

「子供はね。仕事をくれるってだけで命がけになる」

さらっと言うのに、重い。
彼女自身が、それで生きてきたからだ。

「でも、パンがあるなら、ちゃんと帰ってくる」

言い切った。
信じているというより、信じるしかない現実を知っている顔だった。
レノは腕を組んで、入口の方を一度だけ見た。

「……戻ってきたら、約束は守れよ」

「もちろん」

俺は答えた。
約束が守られない世界で、約束を守ることだけが人を人にする。

―――

夕方。
日が傾いて、焼け跡の影が長く伸びるころ。
足音が戻ってきた。
朝より少し重い。疲れている。けれど、どこか弾んでいる。
子供たちは本当に帰ってきた。
背中には薪。腕にはひび割れた水瓶。
そして――潰れかけの干しぶどうの房。握りしめた手の中で、粒が少し潰れている。
それは宝物みたいに大事に抱えられていた。

「取ってきた!」

「薪、これ!」

「水、落とさなかった!」

口々に報告してくる。
息が切れて、汗で顔が汚れて、それでも得意げだ。
俺は受け取って、まず水瓶の口を覗いた。
濁っている。でも、煮沸すれば使える。
薪は細いのも太いのも混ざっている。火を起こすのにちょうどいい。
干しぶどうは形が崩れているけれど、甘さは残っている。酵母にも使えるし、今日の生地に混ぜてもいい。

「すごいじゃないか……これ、ちゃんと使えるよ」

俺が言うと、子供たちはそれだけで少し胸を張った。
役に立つ、と言われるのが、こんなにも嬉しいのか。

「ほら、“夜風の”やつ、くれる?」

朝の一番前の子が言う。
遠慮がない。でも、それでいい。遠慮は腹を満たさない。
俺は頷いて、包みをほどいた。
三日月型のパンを、焼きたてに近い温度で渡せるよう、火の近くに置いていたやつだ。
手のひらに乗せると、軽い。表面は乾いていて、指先が少しだけ引っかかる。
小さな手のひらに、一つずつ。
落とさないように、受け取る側も必死だ。
子供たちは無言で頬張り――すぐに黙り込み――そして。

「うっま!」

「これ、魔法みたいだ!」

「皮が、音する!」

噛んだ瞬間の“ぱき”という音が、工房の中に小さく跳ねる。
その音に、俺の胸の奥がまた熱くなる。
俺が作りたかったのは、味だけじゃない。
噛んだ瞬間の驚きと、腹に落ちる安心と、そのあとに残る「生きてる」って感覚だ。

「また明日も、来ていい?」

一人が恐る恐る言った。
その言い方だけが、やけに丁寧だった。拒まれるのを知っている声。
ティナが俺を見る。
レノも俺を見る。
俺は、一瞬だけ考えた。
危険は増える。
でも、薪と水が増える。
何より、ここに来る理由が“盗む”じゃなく“働く”になる。
ティナが先に口を開いた。

「明日も来るなら、今日と同じ。交換。勝手に火は触らない。走って中に入らない。約束できる?」

子供たちは一斉に頷いた。
頷き方が揃いすぎていて、可笑しいくらい真剣だ。

「できる!」

「約束!」

「火、触んない!」

ティナはそれを聞いて、ほんの少しだけ頷いた。
顔は相変わらず仏頂面なのに、その目は柔らかい。

―――

その日から、廃工場には小さな働き手たちが集まり始めた。
薪割りをする子。
壺を洗う子。
粉をふるう子。
石を集める子。布を運ぶ子。水を見張る子。
誰かが勝手に役割を決めたわけじゃないのに、自然と“やれること”に分かれていく。
ティナは火の扱いを教えた。
火に近づきすぎない距離。薪の置き方。煙が溜まるときの合図。

「火は味方だけど、油断すると噛む」

――その言い方に、子供たちは真面目に頷いた。
レノは木箱を改造して道具箱を作った。
錆びた釘を抜き、割れた板を合わせ、蓋がちゃんと閉まるように調整する。
子供たちはそれを見て「すげぇ」と囁く。レノは照れたように目を逸らす。
俺は少しずつ、作る量を増やしていった。
酵母の壺を増やすわけにはいかないから、使い方を工夫する。
生地を寝かせる時間をずらし、火のタイミングを合わせる。
失敗が出ないように、水は必ず煮る。甘さはほんの少しだけ。塩は入れすぎない。
パンの香りと子供たちの笑い声が交差するこの場所は、もはや“かまど”ではなかった。
煤の町の片隅で、灰の中から生まれた、小さな灯り。
食べ物の匂いが、喧嘩じゃなく、仕事を連れてくる。
奪うための集まりじゃなく、作るための集まりになっていく。
それは、スラムに生まれた子供たちの、初めての“居場所”になりつつあった。
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