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第7話 反省会、宅飲みは油断の罠
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――ちゅん、ちゅん。
鳥はいつもどおり勤勉。
なのに、世界は二秒ほど遅れて再生される。
頭が少し重い。舌がちょっと塩。喉は砂漠。
視線を右へ。
枕、毛布、そして――
「おはようございます、先輩。水、置きます」
迅蛇。
声は安定。寝癖は最小。手つきは医療従事者。
ベッドサイドにコップと経口補水液。あと胃薬。
「……おはよう。助かる。世界、今どのへん?」
「土曜の朝。宅飲み明け。状態は“さまりコード・オレンジ”です」
「レッドじゃないなら生きてる」
「生きてます。昨日は飲み過ぎましたね」
「飲み過ぎましたね」
二回言うな。反響する。脳の壁で。
枕元のテーブルには、缶のタブが三つ並び、グラスの底で氷が解けかけ、割り箸の袋が一列。
テーブルの端には“極小パンケーキ用メープル”の瓶。出番がなかったのに、なぜここに。
床には唐揚げの残骸が一片。証拠品。カーペットに油の輪が小さく。
――昨夜を巻き戻す。
金曜の夜。
雨。会社前で八木さんが「今日は各自ピットインなー」と散って、僕らは自然に目を合わせた。
「外は寒い。宅飲みにしませんか」
迅蛇が提案。
“同伴”は“同宅”に変換。
買い物。
枝豆、唐揚げ、ポテサラ、冷奴、チーズ少量。
酒は、ビール二、缶チューハイ二、日本酒(小瓶)一。
チェイサーの水二リットル。完璧。完璧のはずだった。
帰宅。
鍵がカチンと鳴る音が、妙に好きになってる自分に気づく。
テーブルに並ぶ茶色と緑。
テレビは消した。BGMは低め。
乾杯の前に合図。
――コースターを“とん、とん”。新設の“節制合図”。
うん、やる気はあった。
一杯目。
枝豆、塩。
会話は軽く、社内のどうでもいい話。
八木さんのマラソンシューズの色が蛍光。杉田さん家の猫がさらに丸。渚さんが“椀音”の収録計画を立ててる疑惑。
二杯目。
唐揚げ、レモン。
話題は“居る練習”。火曜の静けさが良かった件。
沈黙に毛布をかける技術。
“決めない練習”の手応え。
ここまでは良い。良かった。
三杯目。
ポテサラに黒胡椒。
“さまりレッドアラート”の頬色を、誰も見なかった。
僕は見なかった。迅蛇は“話が楽しそうだった”と後で言う。
楽しいと、人はだいたい盲目。
日本酒(小瓶)。
これが悪手。
“ちょっとだけ”って性格の地雷。
口に広がる米の甘さ。脳が“もう一杯”をゴーする。
チェイサーに手が伸びたのは、覚えてる。伸びたけど、短かった。
そして――
僕は、フィギュア棚に向かって語り出した。
「君たちの関節可動、偉いよね。支え合ってる。俺も……支え合っていきたい……」
「その発言、録音はしてません」
「やめて、録音しないで」
「してません」
迅蛇は真顔。けど目はやわやわ。
救い。いや、だめ。今は反省会。
寝落ちの手前。
合図がかろうじて飛んだ。
僕が迅蛇の手の甲を“とん、とん”。
彼は即座に毛布を持ってきて、“居眠り可”の合図を重ねてくれた。
進まず、止まった。
止まる大人。偉い。迅蛇えらい。
――現在地、布団の中。
水を一口。胃が「ありがとう」と言った気がする。
「反省会、開きますか」
「やろう。議題いっぱいありそう」
迅蛇はメモを開く。
僕は枕に寄りかかって、姿勢だけはやる気。
「議題は五本。①宅飲み導入の背景、②飲酒量の逸脱要因、③被害状況、④再発防止策、⑤朝食リカバリ」
「はい、議題①。雨。寒い。外が混む予感。家があったかい。――導入は妥当」
「同意。②逸脱要因――“日本酒(小瓶)”」
「名前出すのやめろ。彼に罪はない」
「“小瓶の罠”としてカテゴライズします」
「よし、敵に名を与えた。次」
「“楽しい会話による閾値超過”。先輩の頬色ログが会話の面白さ曲線と相関」
「真面目にグラフを描くな」
「描いてません。脳内にあります」
「おそろしい」
「③被害状況。A:唐揚げの油跡、小円×1。B:Slack “朝ごはんメモ”に『おむすびは尊い』と一言だけ投稿(タイムスタンプ 23:58)。C:フィギュアへのスピーチ。D:先輩、居間で“む”を書きまくる」
「“む”書いたの?」
「僕の手の甲に五回。自分の腕にも三回。テーブルにも空中にも」
「空中の“む”は無罪でしょ」
「視覚的被害はゼロです」
枕に顔を埋める。
恥ずかしさで布団が熱い。
でも、笑える。
迅蛇も、笑ってないけど肩が一ミリだけ動く。これは笑ってる。
「④再発防止策。提案三本」
「どうぞ」
「一、“一杯一水”の厳密化。アルコール一口ごとに水一口。コースター合図“とんとん”は僕からも出す」
「相互合図、いい。合図の民主化」
「二、“小瓶の罠”プロトコル。日本酒は“おちょこ二杯まで”を厳守。二杯目を注いだ時点で、おちょこを冷蔵庫の上に退避」
「届かない位置に置くの、合理的で腹立つけど賛成」
「三、“21:30カットオフ”。宅飲みは21:30で完全終了。以降はノンアルとお茶、もしくは“白湯会”」
「白湯会、渋い」
「渋さは翌朝の幸福に変換されます」
「名言っぽい」
「仕様です」
「僕から一本。“つまみの水分率”。唐揚げポテサラばっかだと喉が砂漠になる。冷奴・胡瓜・トマト・おでん等、水分多めの皿をひとつは入れる」
「採用。“水分皿KPI=1”」
「あと、“酔いどめBGM”。テンポ落とし。歌わない曲」
「昨日、昭和歌謡を口ずさみましたね」
「やめろ、そこ掘るな」
迅蛇が小さく頷く。
議事録はサクサク進む。
僕の羞恥心もサクサク削られる。
でも、ここを笑えるのがたぶん救い。
「⑤朝食リカバリ。今日は“梅粥+しじみ味噌汁+胡瓜の塩こんぶ”で行きます」
「神。肝臓の神友」
「準備します」
すっと立ち上がる。
二日酔い対応モードの迅蛇は、いつもの“できる”のさらに静かな版だ。
米を洗う音。鍋の小さな沸騰。梅の酸が湯気に溶ける。
しじみは冷凍。沸いたところに入れて、蓋。
胡瓜は板ずりして、塩こんぶと和える。
台所が“優しい科学”で満ちていく。
僕はテーブルの油跡を拭く。
唐揚げの残骸を回収。
“尊い”のSlack投稿を消すか悩んで、いや残す。未来の自分への警告として。いやメモとして。いや供養として。
“尊い”。尊かったのは事実だし。
「先輩」
「はい」
「“尊い”は残しておきましょう。渚さんが『良い言葉ですね』とスタンプしてました」
「渚さん……!」
“ピッ”という炊飯器の落ち着いた呼吸。
湯気の温度が、胃の不機嫌をなだめてくれる。
「どうぞ」
テーブルに白い器。
梅粥は淡い。
スプーンで一口。
塩気が、喉を撫でて、体の奥で“よしよし”と言う。
しじみの味噌汁は、海の音。
胡瓜はカリ、カリ、と現実を戻す。
「……うまい。生き返る。世界、再生速度1.0に戻った」
「良かったです」
「迅蛇」
「はい」
「昨日、止まってくれてありがとう」
「合図が来たので。止まるのは簡単です。止められることの方が、むしろ難易度が高い」
「それ、どういう」
「“止めたい”と言えるのは信頼です」
脳内のどこかが、静かに鳴った。
信頼、か。
止める力じゃなく、止めたいと言える関係。
昨日の“とんとん”は、酔いの中でもちゃんと届いた。
今、この粥の湯気の中で、その実感がほどける。
「レビュー、しましょう」
「まだやるの?」
「軽く。総評:宅飲みは雰囲気が良いが、油断しやすい。改善点は三つ。①小瓶の罠プロトコル徹底、②一杯一水の厳密化、③終了時刻の明示化。――それと、“フィギュア棚前説法”は次回から禁止」
「説法って言うな。語りかけだよ」
「語りかけも禁止」
「はい」
笑って、スプーンを置く。
胃が落ち着いた。頭痛は小さくなった。
人はグルコースで動く生き物。梅で整う生き物。
わかった。今さら。
食器を洗う。
渚さんなら“二日酔いモードの水音”とかログに名前を付けそうだ。
いや、付けてもいい。今日の僕は、名前があると落ち着く。
身支度。
歯磨き、顔、シャツ。
迅蛇がゴミ袋を縛る。
缶のタブは列をなして“反省の勲章”。
ベランダに一瞬出て風を吸う。
雲の高さは普通。世界は大丈夫。
玄関。
靴。
いつもの手つきで、迅蛇が紐をきゅっと。
結び終わった甲に、僕はそっと“とん、とん”。
今日は“ありがとう”と“ごめん”のミックス。
それを言葉にすると、多すぎてこぼれるから、合図で。
「合図、増やしすぎてない?」
「増えます。でも、使うのは必要な時だけ」
「うん」
外へ。
空気が冷たい。
パン屋の匂いが、粥の後ろでやさしく笑う。
足取りはゆっくり。
今日は反省会。駅までの五分も、反省モード。
「来週の朝ごはん会議、議題に“二日酔い対策メニュー”を追加しよう」
「“回復セット”ですね。梅粥、しじみ、たまご雑炊、具なしうどん、ポカリ氷」
「ポカリ氷、天才」
「“冷凍庫の危険物”の隣に置きます」
「危険物って言うな。小瓶は友達。距離を置く友達」
「良い表現です」
横断歩道。
信号待ちの間、僕はふと、昨夜の“尊い”を思い出す。
恥ずかしい。でも、嘘じゃない。
酔っていない今も、ちょっと思う。
この家の空気は、尊い。
尊いつもりで、節制する。
尊いを守るのは、白湯かもしれない。白湯会、やろう。
「先輩」
「ん」
「来週は“白湯会+おでん”のプロトタイプを」
「最高。大根、玉子、こんにゃく。スジも……いや脂っこいか。練り物にしよう」
「水分皿KPIは達成されます」
「KPIの言い方、好きになってきた自分が怖い」
「大丈夫です。KPIは安心のための言葉です」
駅前。
人流は穏やか。
ガラスに映った僕の顔は、まだ少し眠い。けど、目は生きてる。
迅蛇の目は、相変わらず真面目で、でも温度は高い。
「ありがとな。粥、救われた」
「よかったです。――そして、昨日の“尊い”、僕は好きでした」
「やめて、その引用」
「“尊い”を守るための再発防止策、やります」
「やろう」
指先で、空気に小さく合図。
“進んでいい”のサイン。
そして、人差し指でちょんとコースターの代わりに自分の胸を“とん”。
“水を飲め”の念押し。
迅蛇は目だけで笑って、首を一ミリだけ縦に。
「行ってくる」
「行ってらっしゃいませ。水筒、持ってください」
「あ、忘れてた。ありがとう」
水筒を受け取り、改札へ。
ポケットの鍵が、小さく当たる。
昨日の小瓶は罠だったけど、鍵は味方だ。
家は、慎重に、でも楽しく。
飲むなら美味しく。止まるなら合図で。
“尊い”を、酔いに沈めない。
佐万里、二十九歳。
宅飲み明けの反省会は、胃にやさしい議事録で終了。
鳥はちゅんちゅん。白湯会、近日実装。
来週の金曜は、21:30カットオフ。
僕らは、ほどよく。
進む。止まる。笑う。
そして、水を飲む。
鳥はいつもどおり勤勉。
なのに、世界は二秒ほど遅れて再生される。
頭が少し重い。舌がちょっと塩。喉は砂漠。
視線を右へ。
枕、毛布、そして――
「おはようございます、先輩。水、置きます」
迅蛇。
声は安定。寝癖は最小。手つきは医療従事者。
ベッドサイドにコップと経口補水液。あと胃薬。
「……おはよう。助かる。世界、今どのへん?」
「土曜の朝。宅飲み明け。状態は“さまりコード・オレンジ”です」
「レッドじゃないなら生きてる」
「生きてます。昨日は飲み過ぎましたね」
「飲み過ぎましたね」
二回言うな。反響する。脳の壁で。
枕元のテーブルには、缶のタブが三つ並び、グラスの底で氷が解けかけ、割り箸の袋が一列。
テーブルの端には“極小パンケーキ用メープル”の瓶。出番がなかったのに、なぜここに。
床には唐揚げの残骸が一片。証拠品。カーペットに油の輪が小さく。
――昨夜を巻き戻す。
金曜の夜。
雨。会社前で八木さんが「今日は各自ピットインなー」と散って、僕らは自然に目を合わせた。
「外は寒い。宅飲みにしませんか」
迅蛇が提案。
“同伴”は“同宅”に変換。
買い物。
枝豆、唐揚げ、ポテサラ、冷奴、チーズ少量。
酒は、ビール二、缶チューハイ二、日本酒(小瓶)一。
チェイサーの水二リットル。完璧。完璧のはずだった。
帰宅。
鍵がカチンと鳴る音が、妙に好きになってる自分に気づく。
テーブルに並ぶ茶色と緑。
テレビは消した。BGMは低め。
乾杯の前に合図。
――コースターを“とん、とん”。新設の“節制合図”。
うん、やる気はあった。
一杯目。
枝豆、塩。
会話は軽く、社内のどうでもいい話。
八木さんのマラソンシューズの色が蛍光。杉田さん家の猫がさらに丸。渚さんが“椀音”の収録計画を立ててる疑惑。
二杯目。
唐揚げ、レモン。
話題は“居る練習”。火曜の静けさが良かった件。
沈黙に毛布をかける技術。
“決めない練習”の手応え。
ここまでは良い。良かった。
三杯目。
ポテサラに黒胡椒。
“さまりレッドアラート”の頬色を、誰も見なかった。
僕は見なかった。迅蛇は“話が楽しそうだった”と後で言う。
楽しいと、人はだいたい盲目。
日本酒(小瓶)。
これが悪手。
“ちょっとだけ”って性格の地雷。
口に広がる米の甘さ。脳が“もう一杯”をゴーする。
チェイサーに手が伸びたのは、覚えてる。伸びたけど、短かった。
そして――
僕は、フィギュア棚に向かって語り出した。
「君たちの関節可動、偉いよね。支え合ってる。俺も……支え合っていきたい……」
「その発言、録音はしてません」
「やめて、録音しないで」
「してません」
迅蛇は真顔。けど目はやわやわ。
救い。いや、だめ。今は反省会。
寝落ちの手前。
合図がかろうじて飛んだ。
僕が迅蛇の手の甲を“とん、とん”。
彼は即座に毛布を持ってきて、“居眠り可”の合図を重ねてくれた。
進まず、止まった。
止まる大人。偉い。迅蛇えらい。
――現在地、布団の中。
水を一口。胃が「ありがとう」と言った気がする。
「反省会、開きますか」
「やろう。議題いっぱいありそう」
迅蛇はメモを開く。
僕は枕に寄りかかって、姿勢だけはやる気。
「議題は五本。①宅飲み導入の背景、②飲酒量の逸脱要因、③被害状況、④再発防止策、⑤朝食リカバリ」
「はい、議題①。雨。寒い。外が混む予感。家があったかい。――導入は妥当」
「同意。②逸脱要因――“日本酒(小瓶)”」
「名前出すのやめろ。彼に罪はない」
「“小瓶の罠”としてカテゴライズします」
「よし、敵に名を与えた。次」
「“楽しい会話による閾値超過”。先輩の頬色ログが会話の面白さ曲線と相関」
「真面目にグラフを描くな」
「描いてません。脳内にあります」
「おそろしい」
「③被害状況。A:唐揚げの油跡、小円×1。B:Slack “朝ごはんメモ”に『おむすびは尊い』と一言だけ投稿(タイムスタンプ 23:58)。C:フィギュアへのスピーチ。D:先輩、居間で“む”を書きまくる」
「“む”書いたの?」
「僕の手の甲に五回。自分の腕にも三回。テーブルにも空中にも」
「空中の“む”は無罪でしょ」
「視覚的被害はゼロです」
枕に顔を埋める。
恥ずかしさで布団が熱い。
でも、笑える。
迅蛇も、笑ってないけど肩が一ミリだけ動く。これは笑ってる。
「④再発防止策。提案三本」
「どうぞ」
「一、“一杯一水”の厳密化。アルコール一口ごとに水一口。コースター合図“とんとん”は僕からも出す」
「相互合図、いい。合図の民主化」
「二、“小瓶の罠”プロトコル。日本酒は“おちょこ二杯まで”を厳守。二杯目を注いだ時点で、おちょこを冷蔵庫の上に退避」
「届かない位置に置くの、合理的で腹立つけど賛成」
「三、“21:30カットオフ”。宅飲みは21:30で完全終了。以降はノンアルとお茶、もしくは“白湯会”」
「白湯会、渋い」
「渋さは翌朝の幸福に変換されます」
「名言っぽい」
「仕様です」
「僕から一本。“つまみの水分率”。唐揚げポテサラばっかだと喉が砂漠になる。冷奴・胡瓜・トマト・おでん等、水分多めの皿をひとつは入れる」
「採用。“水分皿KPI=1”」
「あと、“酔いどめBGM”。テンポ落とし。歌わない曲」
「昨日、昭和歌謡を口ずさみましたね」
「やめろ、そこ掘るな」
迅蛇が小さく頷く。
議事録はサクサク進む。
僕の羞恥心もサクサク削られる。
でも、ここを笑えるのがたぶん救い。
「⑤朝食リカバリ。今日は“梅粥+しじみ味噌汁+胡瓜の塩こんぶ”で行きます」
「神。肝臓の神友」
「準備します」
すっと立ち上がる。
二日酔い対応モードの迅蛇は、いつもの“できる”のさらに静かな版だ。
米を洗う音。鍋の小さな沸騰。梅の酸が湯気に溶ける。
しじみは冷凍。沸いたところに入れて、蓋。
胡瓜は板ずりして、塩こんぶと和える。
台所が“優しい科学”で満ちていく。
僕はテーブルの油跡を拭く。
唐揚げの残骸を回収。
“尊い”のSlack投稿を消すか悩んで、いや残す。未来の自分への警告として。いやメモとして。いや供養として。
“尊い”。尊かったのは事実だし。
「先輩」
「はい」
「“尊い”は残しておきましょう。渚さんが『良い言葉ですね』とスタンプしてました」
「渚さん……!」
“ピッ”という炊飯器の落ち着いた呼吸。
湯気の温度が、胃の不機嫌をなだめてくれる。
「どうぞ」
テーブルに白い器。
梅粥は淡い。
スプーンで一口。
塩気が、喉を撫でて、体の奥で“よしよし”と言う。
しじみの味噌汁は、海の音。
胡瓜はカリ、カリ、と現実を戻す。
「……うまい。生き返る。世界、再生速度1.0に戻った」
「良かったです」
「迅蛇」
「はい」
「昨日、止まってくれてありがとう」
「合図が来たので。止まるのは簡単です。止められることの方が、むしろ難易度が高い」
「それ、どういう」
「“止めたい”と言えるのは信頼です」
脳内のどこかが、静かに鳴った。
信頼、か。
止める力じゃなく、止めたいと言える関係。
昨日の“とんとん”は、酔いの中でもちゃんと届いた。
今、この粥の湯気の中で、その実感がほどける。
「レビュー、しましょう」
「まだやるの?」
「軽く。総評:宅飲みは雰囲気が良いが、油断しやすい。改善点は三つ。①小瓶の罠プロトコル徹底、②一杯一水の厳密化、③終了時刻の明示化。――それと、“フィギュア棚前説法”は次回から禁止」
「説法って言うな。語りかけだよ」
「語りかけも禁止」
「はい」
笑って、スプーンを置く。
胃が落ち着いた。頭痛は小さくなった。
人はグルコースで動く生き物。梅で整う生き物。
わかった。今さら。
食器を洗う。
渚さんなら“二日酔いモードの水音”とかログに名前を付けそうだ。
いや、付けてもいい。今日の僕は、名前があると落ち着く。
身支度。
歯磨き、顔、シャツ。
迅蛇がゴミ袋を縛る。
缶のタブは列をなして“反省の勲章”。
ベランダに一瞬出て風を吸う。
雲の高さは普通。世界は大丈夫。
玄関。
靴。
いつもの手つきで、迅蛇が紐をきゅっと。
結び終わった甲に、僕はそっと“とん、とん”。
今日は“ありがとう”と“ごめん”のミックス。
それを言葉にすると、多すぎてこぼれるから、合図で。
「合図、増やしすぎてない?」
「増えます。でも、使うのは必要な時だけ」
「うん」
外へ。
空気が冷たい。
パン屋の匂いが、粥の後ろでやさしく笑う。
足取りはゆっくり。
今日は反省会。駅までの五分も、反省モード。
「来週の朝ごはん会議、議題に“二日酔い対策メニュー”を追加しよう」
「“回復セット”ですね。梅粥、しじみ、たまご雑炊、具なしうどん、ポカリ氷」
「ポカリ氷、天才」
「“冷凍庫の危険物”の隣に置きます」
「危険物って言うな。小瓶は友達。距離を置く友達」
「良い表現です」
横断歩道。
信号待ちの間、僕はふと、昨夜の“尊い”を思い出す。
恥ずかしい。でも、嘘じゃない。
酔っていない今も、ちょっと思う。
この家の空気は、尊い。
尊いつもりで、節制する。
尊いを守るのは、白湯かもしれない。白湯会、やろう。
「先輩」
「ん」
「来週は“白湯会+おでん”のプロトタイプを」
「最高。大根、玉子、こんにゃく。スジも……いや脂っこいか。練り物にしよう」
「水分皿KPIは達成されます」
「KPIの言い方、好きになってきた自分が怖い」
「大丈夫です。KPIは安心のための言葉です」
駅前。
人流は穏やか。
ガラスに映った僕の顔は、まだ少し眠い。けど、目は生きてる。
迅蛇の目は、相変わらず真面目で、でも温度は高い。
「ありがとな。粥、救われた」
「よかったです。――そして、昨日の“尊い”、僕は好きでした」
「やめて、その引用」
「“尊い”を守るための再発防止策、やります」
「やろう」
指先で、空気に小さく合図。
“進んでいい”のサイン。
そして、人差し指でちょんとコースターの代わりに自分の胸を“とん”。
“水を飲め”の念押し。
迅蛇は目だけで笑って、首を一ミリだけ縦に。
「行ってくる」
「行ってらっしゃいませ。水筒、持ってください」
「あ、忘れてた。ありがとう」
水筒を受け取り、改札へ。
ポケットの鍵が、小さく当たる。
昨日の小瓶は罠だったけど、鍵は味方だ。
家は、慎重に、でも楽しく。
飲むなら美味しく。止まるなら合図で。
“尊い”を、酔いに沈めない。
佐万里、二十九歳。
宅飲み明けの反省会は、胃にやさしい議事録で終了。
鳥はちゅんちゅん。白湯会、近日実装。
来週の金曜は、21:30カットオフ。
僕らは、ほどよく。
進む。止まる。笑う。
そして、水を飲む。
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