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第1話 苦い!うるさい!追放!
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瘴気の匂いって、慣れない。
焦げた鉄と、湿った土と、喉の奥にへばりつく苦味――それが混ざって、肺の内側をざらつかせる。現代日本でいうなら、工場の裏手みたいな、居たくない空気だ。
だから俺は、撤退を提案した。
「ここで区切る。今日は帰るぞ」
返ってきたのは、光より眩しい不機嫌だった。
「やだ!」
金髪のツインテールがぴょんと跳ねる。勇者リリィ・ヴァレンシュタイン、九歳。王国が“勇者の資質”だと騒ぎ立て、勅命紋まで与えて囲った子どもだ。
白い外套の裾を掴み、彼女は俺を睨んだ。睨み方だけは一人前で、でも目の奥には“怖い”が透けてる。怖いって言えないから、イヤになる。子どもはそういう生き物だ。
「だって、もうちょっとで奥だもん! 光、いっぱい出せるもん!」
「出せるかどうかじゃない。帰れるかどうかで考えろ」
俺がそう言うと、横から短く舌打ちが飛んだ。
「うるせーな! 俺たちだけでもやれるって!」
盾役のコウタ、十二歳。背丈はある。筋肉もついてきた。でも腕力が増えると、怖さをごまかすのが上手になる。上手になるぶん、危ない。
「やれる、って言葉はさ。腹が減ってる時と、寝てない時には信じるな。今、全員、水飲んだか?」
「……飲んだよ」
斥候のミナト、十一歳。賢い。賢い子は“正しさ”の顔をして、楽な方に流れる。本人だって分かってない時がある。
最後に、魔法のスズが小さく手を上げた。
「……の、飲んだ……けど……」
十歳。声がか細い。争いが嫌いで、嫌いだからこそ黙る。黙ったぶんだけ、あとで自分を責めるタイプだ。
俺は四人の顔を順に見て、息を吐いた。ここで怒鳴れば、反発が強くなる。だから、順番を守る。保護者枠の仕事は、戦うことじゃない。生きて帰すことだ。
「まず水。次に塩。最後に糖。体力は魔法の土台だ。――リリィ、手」
「やだ!」
「手。今すぐ」
俺の声が少しだけ低くなると、リリィは頬を膨らませながらも渋々手を出した。小さな手首に触れて脈を取る。早い。浅い。呼吸も。
瘴気の影響が出始めてる。浄化体質が強いせいで、他の子より先に“毒”を拾う。
「リリィ、今、胃が気持ち悪いだろ」
「……きもちわるくない!」
「嘘つくな。舌が白い」
「……っ」
図星を刺されて、彼女は唇を尖らせた。こういう時に、俺は“嫌われ役”になる。嫌われるのはいい。死なれるよりずっといい。
「帰る。ここで無理すると、明日も動けなくなる」
「やだやだやだ! もうやだ! ユーの言うこと、ぜんぶやだ!」
その“ぜんぶ”の中には、寝ろとか、食えとか、手を洗えとか、刃は研げとか、怪我は隠すなとか、そういう当たり前が入っている。
当たり前は、子どもには自由を奪う鎖に見える。
コウタが俺の前に出て、胸を張った。
「リリィが嫌がってんだろ。薬だって苦いしさ。お前の薬、マジで無理」
……来た。
俺は腰のポーチから、小瓶を一本取り出した。淡い琥珀色。胆味――吸収補助の苦味成分を、ぎりぎりまで削った回復薬だ。香りでごまかすんじゃない。舌のどこに刺激が入るか、温度で苦味が立つか、脂質で膜を作れるか。俺の前世の仕事は“商品開発”で、味はデータだった。だから、苦味は情報で――不快だけ削れる。
ただし。
彼女だけは、別だ。
「リリィ。少しでいい。飲め」
「やだ! あれ、世界一まずい! にがい! くさい! おえってなる!」
「それでも飲む。今は“好き嫌い”の話じゃない」
「好き嫌いだもん! うえぇぇぇ……!」
涙が出る。子どもは泣く。泣いて、吐き気が増えて、さらに飲めなくなる。悪循環だ。
俺は瓶の口を閉め直して、短く言った。
「……落ち着け。怒る前に水。まず水」
「水じゃ治らない!」
「水で喉を濡らせ。胆味が舌に残ると、次の一口がもっと地獄になる」
「……ユーって、ほんとムカつく!」
ムカつく、で済むなら安いものだ。
俺は膝をついて、目線を合わせた。子どもを見下ろすのは簡単だ。簡単なやり方は、あとで取り返しがつかない。
「リリィ。怖いんだろ」
「こわくない!」
「怖いって言え」
「……っ、こわくない!」
言えない。だから強がる。強がって突っ込んで、怪我をする。俺は知ってる。知ってるから止める。止めるから嫌われる。
背後で、ミナトが小さく息を吸った。
「……保護者がいると、行動が遅い。効率が悪い」
その言葉が、火種に油を注いだ。
「そうだよ! ユーがいるとさ、いちいち止まるじゃん!」
「俺たちだって、勅命紋もらってんだぞ。勇者様のパーティだ。大人の言うこと聞かなきゃいけないなんて、おかしいだろ!」
コウタの声が大きくなる。スズがびくりと肩をすくめる。リリィは泣きながら頷く。ミナトは理屈の仮面を被り直す。
集団心理ってやつだ。誰も悪人じゃない。ただ、“怖い”が形を変えて、俺を押し出す。
俺は立ち上がり、四人を見回した。
「――撤退だ。今、ここで帰る。反論は受け付けない。保護者枠としての権限で決める」
その瞬間。
空気が、ひやりとした。
ダンジョンの奥からじゃない。俺の背後――木陰に立つ、黒い外套の男。王国監察の紋章。勅命任務には必ず付く、“視線”。
彼は言葉少なに、片手を上げた。光が走る。子どもたちの胸元に刻まれた勅命紋が、淡く脈打つ。
「内部決議が可能です。勇者勅命パーティ――役割解除の権限、確認」
……やめろ。
俺が口を開く前に、リリィが叫んだ。
「する! する! ユー、いらない! だって美味しくないし、うるさいし!」
胸の奥が、すうっと冷える。
これが制度だ。子どもでも、感情で保護者枠を外せてしまう仕組み。王国にとっては“勇者を管理するための安全装置”。だが同時に、子どもの衝動で大人の人生が切り捨てられる刃でもある。
「リリィ、待て」
「やだ! みんなも、そう思うよね!?」
コウタが拳を握りしめて頷いた。
「……ああ。俺たちだけで行く」
ミナトは一拍遅れて、目を逸らしながら言った。
「合理的だと思う。保護者がいると、判断が遅れる」
スズは唇を噛み、何も言わなかった。
沈黙の加担。小さな罪。あとで一番痛くなるやつだ。
監察官が淡々と宣言する。
「決議成立。保護者枠、ユージン・クラフト。役割解除。勅命任務より排除。――以後、接触制限対象」
最後の一言が、杭みたいに心臓に刺さった。
接触制限。
つまり、俺は戻れない。戻れば“誘拐”と見なされる可能性すらある。子どもたちを守りたくて近づけば近づくほど、政治に巻き込んで危険にする。そういう罠だ。
――制度上、俺は外された。
見捨てたんじゃない。見捨てられたんでもない。
“外された”のだ。
俺は息を吐いて、荷物を背負い直した。ポーチ、薬箱、調合器具。いつもの動作が手に馴染みすぎていて、逆に笑える。
「ユー!」
リリィが叫んだ。勝ち誇った声……のはずなのに、最後が震えている。
「……ほんとに、いらないんだからね!」
俺は振り返らなかった。振り返ったら、何かを言ってしまう。言ったら、もっと嫌われるか、もっと縋ってしまうか、どっちかだ。
だから、仕事だけ残す。
薬箱の蓋に、短い札を挟んだ。子どもにも読める字で。
『薬は棚の二段目。緊急用は赤紐。撤退は私がいないならコウタが決めろ』
監察官の視線が刺さる。俺は札を閉じ、静かに言った。
「……帰れるを選べ。行けるじゃない。帰れる、だ」
「うるさいっ!」
その言葉に、俺は小さく頷いた。
うるさい。そうだろう。そうでいい。
俺は背を向け、森の外へ歩き出した。瘴気が薄くなる。空気が少しだけ軽くなる。
その時、肩から提げた布袋の口が緩み――中の一冊が、滑りかけた。
記録帳。
体温、食事量、睡眠時間、薬の配合、危険区域の回避理由。子どもごとの癖――リリィは甘い香りだと少し飲める、コウタは空腹だと突っ込む、ミナトは眠いと罠の見落としが増える、スズは我慢して倒れる。
俺の“うるささ”の証拠。
落ちる。
俺は反射で手を伸ばし、掴んだ。紙の角が指先に当たる。薬草の染みがついた指で、きつく握り直す。
――持って行く。
これだけは、置いていけない。置いていったら、俺が何者だったか、俺自身が分からなくなる。
森を抜け、街道に出る。王都の喧騒は遠く、夕日が低い。
手の中には、契約解除の証文があった。紙切れ一枚で、人は“守る役”から降ろされる。
次の行き先は、辺境。地図の端にある薬草の村――ミズナ村。
金は少ない。知り合いもいない。戻る場所は、ない。
それでも。
俺は、腹が減った。
生きるために、まず食う。食って、眠って、明日を作る。俺の人生を、他人に明け渡さないために。
「……さて」
独り言が、風に溶ける。
「田舎で、飯でも作るか」
背負った薬箱が、かすかに鳴った。赤紐の緊急薬が、中で揺れている。
――子どもたちの泣き声は、もう聞こえなかった。
焦げた鉄と、湿った土と、喉の奥にへばりつく苦味――それが混ざって、肺の内側をざらつかせる。現代日本でいうなら、工場の裏手みたいな、居たくない空気だ。
だから俺は、撤退を提案した。
「ここで区切る。今日は帰るぞ」
返ってきたのは、光より眩しい不機嫌だった。
「やだ!」
金髪のツインテールがぴょんと跳ねる。勇者リリィ・ヴァレンシュタイン、九歳。王国が“勇者の資質”だと騒ぎ立て、勅命紋まで与えて囲った子どもだ。
白い外套の裾を掴み、彼女は俺を睨んだ。睨み方だけは一人前で、でも目の奥には“怖い”が透けてる。怖いって言えないから、イヤになる。子どもはそういう生き物だ。
「だって、もうちょっとで奥だもん! 光、いっぱい出せるもん!」
「出せるかどうかじゃない。帰れるかどうかで考えろ」
俺がそう言うと、横から短く舌打ちが飛んだ。
「うるせーな! 俺たちだけでもやれるって!」
盾役のコウタ、十二歳。背丈はある。筋肉もついてきた。でも腕力が増えると、怖さをごまかすのが上手になる。上手になるぶん、危ない。
「やれる、って言葉はさ。腹が減ってる時と、寝てない時には信じるな。今、全員、水飲んだか?」
「……飲んだよ」
斥候のミナト、十一歳。賢い。賢い子は“正しさ”の顔をして、楽な方に流れる。本人だって分かってない時がある。
最後に、魔法のスズが小さく手を上げた。
「……の、飲んだ……けど……」
十歳。声がか細い。争いが嫌いで、嫌いだからこそ黙る。黙ったぶんだけ、あとで自分を責めるタイプだ。
俺は四人の顔を順に見て、息を吐いた。ここで怒鳴れば、反発が強くなる。だから、順番を守る。保護者枠の仕事は、戦うことじゃない。生きて帰すことだ。
「まず水。次に塩。最後に糖。体力は魔法の土台だ。――リリィ、手」
「やだ!」
「手。今すぐ」
俺の声が少しだけ低くなると、リリィは頬を膨らませながらも渋々手を出した。小さな手首に触れて脈を取る。早い。浅い。呼吸も。
瘴気の影響が出始めてる。浄化体質が強いせいで、他の子より先に“毒”を拾う。
「リリィ、今、胃が気持ち悪いだろ」
「……きもちわるくない!」
「嘘つくな。舌が白い」
「……っ」
図星を刺されて、彼女は唇を尖らせた。こういう時に、俺は“嫌われ役”になる。嫌われるのはいい。死なれるよりずっといい。
「帰る。ここで無理すると、明日も動けなくなる」
「やだやだやだ! もうやだ! ユーの言うこと、ぜんぶやだ!」
その“ぜんぶ”の中には、寝ろとか、食えとか、手を洗えとか、刃は研げとか、怪我は隠すなとか、そういう当たり前が入っている。
当たり前は、子どもには自由を奪う鎖に見える。
コウタが俺の前に出て、胸を張った。
「リリィが嫌がってんだろ。薬だって苦いしさ。お前の薬、マジで無理」
……来た。
俺は腰のポーチから、小瓶を一本取り出した。淡い琥珀色。胆味――吸収補助の苦味成分を、ぎりぎりまで削った回復薬だ。香りでごまかすんじゃない。舌のどこに刺激が入るか、温度で苦味が立つか、脂質で膜を作れるか。俺の前世の仕事は“商品開発”で、味はデータだった。だから、苦味は情報で――不快だけ削れる。
ただし。
彼女だけは、別だ。
「リリィ。少しでいい。飲め」
「やだ! あれ、世界一まずい! にがい! くさい! おえってなる!」
「それでも飲む。今は“好き嫌い”の話じゃない」
「好き嫌いだもん! うえぇぇぇ……!」
涙が出る。子どもは泣く。泣いて、吐き気が増えて、さらに飲めなくなる。悪循環だ。
俺は瓶の口を閉め直して、短く言った。
「……落ち着け。怒る前に水。まず水」
「水じゃ治らない!」
「水で喉を濡らせ。胆味が舌に残ると、次の一口がもっと地獄になる」
「……ユーって、ほんとムカつく!」
ムカつく、で済むなら安いものだ。
俺は膝をついて、目線を合わせた。子どもを見下ろすのは簡単だ。簡単なやり方は、あとで取り返しがつかない。
「リリィ。怖いんだろ」
「こわくない!」
「怖いって言え」
「……っ、こわくない!」
言えない。だから強がる。強がって突っ込んで、怪我をする。俺は知ってる。知ってるから止める。止めるから嫌われる。
背後で、ミナトが小さく息を吸った。
「……保護者がいると、行動が遅い。効率が悪い」
その言葉が、火種に油を注いだ。
「そうだよ! ユーがいるとさ、いちいち止まるじゃん!」
「俺たちだって、勅命紋もらってんだぞ。勇者様のパーティだ。大人の言うこと聞かなきゃいけないなんて、おかしいだろ!」
コウタの声が大きくなる。スズがびくりと肩をすくめる。リリィは泣きながら頷く。ミナトは理屈の仮面を被り直す。
集団心理ってやつだ。誰も悪人じゃない。ただ、“怖い”が形を変えて、俺を押し出す。
俺は立ち上がり、四人を見回した。
「――撤退だ。今、ここで帰る。反論は受け付けない。保護者枠としての権限で決める」
その瞬間。
空気が、ひやりとした。
ダンジョンの奥からじゃない。俺の背後――木陰に立つ、黒い外套の男。王国監察の紋章。勅命任務には必ず付く、“視線”。
彼は言葉少なに、片手を上げた。光が走る。子どもたちの胸元に刻まれた勅命紋が、淡く脈打つ。
「内部決議が可能です。勇者勅命パーティ――役割解除の権限、確認」
……やめろ。
俺が口を開く前に、リリィが叫んだ。
「する! する! ユー、いらない! だって美味しくないし、うるさいし!」
胸の奥が、すうっと冷える。
これが制度だ。子どもでも、感情で保護者枠を外せてしまう仕組み。王国にとっては“勇者を管理するための安全装置”。だが同時に、子どもの衝動で大人の人生が切り捨てられる刃でもある。
「リリィ、待て」
「やだ! みんなも、そう思うよね!?」
コウタが拳を握りしめて頷いた。
「……ああ。俺たちだけで行く」
ミナトは一拍遅れて、目を逸らしながら言った。
「合理的だと思う。保護者がいると、判断が遅れる」
スズは唇を噛み、何も言わなかった。
沈黙の加担。小さな罪。あとで一番痛くなるやつだ。
監察官が淡々と宣言する。
「決議成立。保護者枠、ユージン・クラフト。役割解除。勅命任務より排除。――以後、接触制限対象」
最後の一言が、杭みたいに心臓に刺さった。
接触制限。
つまり、俺は戻れない。戻れば“誘拐”と見なされる可能性すらある。子どもたちを守りたくて近づけば近づくほど、政治に巻き込んで危険にする。そういう罠だ。
――制度上、俺は外された。
見捨てたんじゃない。見捨てられたんでもない。
“外された”のだ。
俺は息を吐いて、荷物を背負い直した。ポーチ、薬箱、調合器具。いつもの動作が手に馴染みすぎていて、逆に笑える。
「ユー!」
リリィが叫んだ。勝ち誇った声……のはずなのに、最後が震えている。
「……ほんとに、いらないんだからね!」
俺は振り返らなかった。振り返ったら、何かを言ってしまう。言ったら、もっと嫌われるか、もっと縋ってしまうか、どっちかだ。
だから、仕事だけ残す。
薬箱の蓋に、短い札を挟んだ。子どもにも読める字で。
『薬は棚の二段目。緊急用は赤紐。撤退は私がいないならコウタが決めろ』
監察官の視線が刺さる。俺は札を閉じ、静かに言った。
「……帰れるを選べ。行けるじゃない。帰れる、だ」
「うるさいっ!」
その言葉に、俺は小さく頷いた。
うるさい。そうだろう。そうでいい。
俺は背を向け、森の外へ歩き出した。瘴気が薄くなる。空気が少しだけ軽くなる。
その時、肩から提げた布袋の口が緩み――中の一冊が、滑りかけた。
記録帳。
体温、食事量、睡眠時間、薬の配合、危険区域の回避理由。子どもごとの癖――リリィは甘い香りだと少し飲める、コウタは空腹だと突っ込む、ミナトは眠いと罠の見落としが増える、スズは我慢して倒れる。
俺の“うるささ”の証拠。
落ちる。
俺は反射で手を伸ばし、掴んだ。紙の角が指先に当たる。薬草の染みがついた指で、きつく握り直す。
――持って行く。
これだけは、置いていけない。置いていったら、俺が何者だったか、俺自身が分からなくなる。
森を抜け、街道に出る。王都の喧騒は遠く、夕日が低い。
手の中には、契約解除の証文があった。紙切れ一枚で、人は“守る役”から降ろされる。
次の行き先は、辺境。地図の端にある薬草の村――ミズナ村。
金は少ない。知り合いもいない。戻る場所は、ない。
それでも。
俺は、腹が減った。
生きるために、まず食う。食って、眠って、明日を作る。俺の人生を、他人に明け渡さないために。
「……さて」
独り言が、風に溶ける。
「田舎で、飯でも作るか」
背負った薬箱が、かすかに鳴った。赤紐の緊急薬が、中で揺れている。
――子どもたちの泣き声は、もう聞こえなかった。
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