人魚の祈りが届くまで

サトー

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7.私の本質

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 新居には何も持ってこないでいいと言われている。確かにエリアスの準備した豪邸に見合う家具なんて僕は一つも持っていないのだからそれもそうだと思った。
 だから、どうしても手放したくない必要なものだけ。家族の写真と僕がずっと大切にしていたものだけを鞄に詰め込んだらあっという間に引っ越しの準備は終わってしまった。

 形だけとは言え、一緒に暮らすことになっているのだから、後はもう挙式までエリアスとは会わなくていいだろうと思っていた。海の様子については欠かさず手紙で伝えていたし、それでいいだろうと。けれど、式の前日に大事な用があるから仕事を休むようにとエリアスから言われた。

 あまり気は進まないけれど、言うことを聞かなかったら職場にやって来るかもしれない。だから、どうかダメだと言って欲しいと思いながら上司に相談したら「逆に、挙式なんて大事な日の前日になぜ君は仕事に来ようとしている?」と叱られて、仕事を休むことになってしまった。


「……珍しい。どうせ絶対に会わないと言い張るだろうと思っていたのに」

 二人きりの馬車の中で、そんなことを言いながらエリアスが僕をじろじろ見てくる。言う通りにしたのにこんなことを言われるなんてあんまりだと思う。だいたい、僕は大事な用がなんなのかも、馬車がどこへ向かっているのかも知らないと言うのに。

「大事な用があるって、言ってたから……」
「……そもそも私にとっては、毎回君を訪ねるのは大事な用だが。君は違うのか?」
「どうして、そんなことばかり言うんです……?」

 明日結婚式を挙げるというのに。愛のない結婚だということはわかってる。あれだけ大金を払った相手にエリアスが愛情を持てるはずがないということも。
 でも、こうして正しい答えのない質問を会う度にぶつけられるのは苦しい。エリアスだって不機嫌になるし、僕は悲しくなる。

 エリアスに迷惑はかけない。もっとお金が欲しいと望むつもりもない。僕のことを好きでいて欲しいとも思わない。僕は道具として役割を果たすつもりでいるだけで、エリアスのことを怒らせたいと思っているわけではないと、どうかわかって欲しい。

 そう望むことさえも許されない関係だ。ノエル、と呼ぶのが聞こえるけど僕はエリアスから顔を背けた。どんな表情をしているか、知られたくなかったから。

「ノエル」
「……もういいです。今日は疲れていて。着くまでの間、休ませてください」

 これからどこに行くかはわからないけれど。明日は大事な日だ。だから絶対に泣いちゃダメだ。極限まで身体を離し、エリアスに背を向ける。明日の結婚式では。ちゃんと愛を誓うから大丈夫。
 そんな思いでいると、怒ったのかと、どこか焦った様子でエリアスが言う。あのエリアスが僕のことで動揺するはずがない。……わかってはいたけれど、少しだけ気になって、振り返ってエリアスの様子を窺ってしまった。そしたら。

「ん、んうっ……」

 振り向いた僕に、エリアスが後ろから覆い被さるようにして強引に唇を塞いでくる。いや、と僕が身を捩って抵抗したのは最初の数秒だけだった。エリアスの大きな手の温もりや舌の熱さ、そして音を立てる激しい口づけに、すぐに僕の身体からは力が抜ける。

 結婚することと、愛し合う二人がする行為。人魚の祝福を受けるためにはその両方が必要だとエリアスは考えているのだろう。僕の職場まで迎えに来るようになってからは、二人きりの馬車の中でキスをしたり僕の身体に触ったりするようになった。まだ結婚していないから、最後まではしていない、けど。心ではダメだとわかっているのに、僕の身体はエリアスから求められていると錯覚して、エリアスを欲しがり、簡単にエリアスを受け入れようとする。

「や、あっ、だめ、だめです……」

 エリアスの唇が僕の首筋を這う。ゆっくりと胸を揉まれながら、僕はただ馬車に揺られていた。そして、エリアスの唇が「可愛い」と動いた瞬間、僕は自分の耳を疑った。

「う、嘘……」

 嘘じゃないさ。
 それっきりエリアスは一言も喋らずに、目的の場所に着くまで、僕に手のひらと唇で触れた。服は脱がされなかったけれど。シャツの上から、胸の、敏感な場所を撫で回されて。とても恥ずかしいことだけど、僕は小さな声を漏らしながら、慣れない快感に夢中になっていた。
 
 馬車が止まってからもエリアスは僕を抱き締めたまましばらく降りようとしなかった。御者が変に思うんじゃないかって、僕はハラハラしていたけれど、エリアスは「誰も来ないから。早く普段の顔に戻るんだ」と言うだけで絶対に僕を離さなかった。

「普段の顔って?」
「……その、欲情した顔では外へ連れていけない。誰にも見せられない」
「そんな顔してません! ……仮にそうだったとしたら、エリアスが、離してくれないからで……」

 僕だけが振り回されていて、エリアスは顔色一つ変わらない。愛していない、とハッキリ言葉で伝えられなかったとしても、それくらい察することは出来る。僕だって、慣れない行為にビックリしているだけで、エリアス自身のことを求めているわけじゃない。それは許されないことだと、ちゃんとわかってる。

 エリアスが離してくれないから、と言われたことが気に障ったのか。エリアスはすごく怒った様子で僕を押し倒した後、もう一度めちゃくちゃに唇を塞いできた。



 馬車が着いたのは大きな建物の前だった。
 降りる前に乱れた髪と服を直す。僕の口元をエリアスがハンカチで拭いてきたことがすごく恥ずかしく感じられたから、なるべく目を合わさないようにしてエリアスの後を着いていくつもりだった。だけど、時間がない、と言ってエリアスは僕の腰を抱き、ぴったりと身体をくっつけて建物の中へ入った。

 そこはエリアスの会社で働く人達のための作業場だった。
 服飾の事業を任されているとは聞いていたけど、どんなふうにエリアスの会社が服を作っているのかは知らなかったし、出来上がった商品をお店で手に取ったこともなかった。エリアスの会社は僕が到底買えないような高級な服を作っているから。

 中にはたくさんの人が働くための作業机があり、皆そこで黙々と手を動かしている。機械の大きな音や誰かと誰かの話し声が聞こえることもない、とても静かな場所だ。聞こえるのは布を切る鋏のシュッ、シュッという規則正しい音と時折、針を落とす小さな金属音。

 すべての机がびっしりと人で埋まっているわけではなく、所々空席もあった。そして、何より僕が驚いたのはエリアスがやって来ても、挨拶どころか一切顔を上げずに作業を続ける人がいることだった。もちろん手を止めて立ち上がって「ハーヴェルマン様こんにちは」「ハーヴェルマン様おかえりなさい」と挨拶する人もいたけれど、その様子が耳に入っているはずなのに、エリアスが側に立っていても、まるで無視をするかのように作業を止めない。エリアスが怒り出すんじゃないかと、側にいる僕は気が気じゃなかった。

 エリアスはその様子を側でじっと眺めながら時計を確認していた。しばらくしてから、その女性の肩をそっと叩いて「休憩の時間だよ」と言うだけだった。


「……彼女は過度に集中することがある。休憩することも忘れて。だから決められた時間に誰かが声をかける必要がある」

 自分の職場で目にすることのない光景に目を丸くする僕に、エリアスは他にも作業所で働いている人達についていろいろと教えてくれた。挨拶をすることが苦手な人にはしなくてもいいと言ってあるし、毎日出勤するのが苦しいという人には好きな時に来たらいいと言ってあるのだと言う。
 エリアスは僕にゆっくりと説明をしている間に、作業をしている人に声をかけたり、何かを教えたり、ただ見守ったりしていた。人によっては筆談や手を使って話をする。

 僕にとってはわからないことだらけだった。僕の職場で自由に休むことが許されれば、誰かがその人の分の仕事を引き受けなければならなくなるし、「どうしてあの人だけそんなことが許されるの?」と不満に思う人だって出てくるだろう。

「どうしてこの会社はそれでも上手くいっているのですか? もし、仕事に行きたくないと言って、ずーっと休んでしまう人がいたら? その人はどうなりますか?」

 馬車に戻ってからも聞きたいことは山ほどあった。エリアスは僕の質問にも一つ一つきちんと答えてくれた。
 出来ることで力を発揮して長く勤めて欲しい。この会社は能力や成果によって労働者に優劣をつけない。一人一人をかけがえのない存在だと思っている。
 もし仕事に行かないといけない、という意識自体に苦しんでいるのだとしたら、その人にとって一番いい選択が出来るように、本人や必要であれば医師と相談する。一時的に働くことから離れたとしても、それは悪いことではないよと言って……。


「……エリアスの下で働く人は幸せですね」

 今の僕は毎日朝から夕方まで働くことが出来ているけれど。それはきっと当たり前のことじゃない。誰だってそうだ。本人が気をつけていたとしても、ある日突然、働きたくても思うように働けなくなる時が来るかもしれない。

「もし、自分がそんな状況になった時に……お金が必要だけど、上手く働けない。そんな時に、一緒に寄り添ってくれる仕事場があるとすごく安心出来ると思います」

 例えばだけど、僕は声を失ってしまえば、今と同じように仕事をこなすことが難しくなるだろう。そうなってしまった時に、出来ることでいい、と認めてくれる場所があったらすごく嬉しいし、きっと頑張れると思う。

 昔と同じようにエリアスと付き合っていけるかと言われたら自信がない。だけど、働いている人達への向き合い方は尊敬出来ると思えたし、エリアスが自分の会社をとても大切にしていることもわかった。ハーヴェルマン家の名前を使えば、「どうか私に仕事をください、きっと成果をあげてみせます」という人材はいくらでも見つかるはずなのに。
 僕の話にじっと耳を傾けていたエリアスは「……何か勘違いしてるんじゃないのか」と静かに呟いた。

「私は聖人でもなければ、彼等に無償の愛を注いでいるわけでもない。……実際彼等は環境さえ整えてやれば、機械では到底任せられないような繊細な仕事を常人の倍以上の速さでこなす者もいる。手縫いでグローブに特注スパンコールを千粒縫い付けろと言ってもそれを二日足らずでやり遂げる。信じられるか? ……私は彼等を使ってどうやって金を稼ぐかを常に考えている。きっと君も、私の本質をすぐに見抜くだろう」

 作業所の中で「ゆっくりでいい。疲れているんじゃないのか?」と声をかけて回っていた時とはまるで別人のような冷たい言い方。突き放されているのだと感じる。けれど、それだけではなくて。なぜかはわからないけど僕は、エリアスが本心を話そうとしてくれているんじゃないかと思っていた。

「……じゃあ、どうして、災害で荒れた地域へわざわざ物資を運んだりするのです? これも名前を売ってお金を稼ぐため? お金を稼ぐためだけに、会社で働く一人一人の得意なことや配慮が必要なことを覚えて、毎日見守っている? ……お金のためだって言うんなら、エリアスならもっと効率のいい方法で上手にお金を増やせるでしょう?」

 虐められていた僕を助けてくれた時のエリアスと、今のエリアスは、本当は何も変わっていないんじゃないかって、僕は心のどこかで期待している。思えば再会して以来、こんなに真剣にエリアスと話すのは初めてだった。どうして僕は半ば意地になってエリアスの心の、優しい部分を探そうとしているのだろう。

「……私は身体に問題はないのに、精神の不安や不調で働けない人間のことをつい最近まで心底軽蔑していた。根性がないから、そうやって嫌なことから逃げるのだと。片足を引き摺りながら父の仕事を手伝っていた時は、毎日そんなことに苛ついていた。本来の私は思いやりや優しさといったものを持ち合わせていない人間だ」

 ポツリと呟かれた言葉は、エリアスがそのことを後悔しているのだと感じさせた。

「じゃあ、どうして今は、そういった人達ともお仕事を……?」
「……新しいことを始めるためには、まずは私自身が変わる必要があると思ったからだ。それでひたすら学問を修めた」

 会社を興すためにいかに自分が苦労をしたかということについて、エリアスはほとんど話そうとはしなかった。ただ、「仮に私が彼等よりも優れている人間だったとして。それが私自身の努力のみによるものだと証明出来る方法はどこにもない。彼等と私との違いはたまたまそういうふうに産まれたかどうか、それだけなのだとわかってからは、彼等に対して腹を立てることはやめようと思った」「私の持っている能力や家の財力は私個人のものではなく、この世界に還していくべきものと考えるようになってからは、ずっと生きることが楽になった」と言い、ぼんやりと馬車の揺れに身体を預けている。

 会えなくなってからの六年の間に、僕もそうだったようにエリアスにもいろいろなことがあった。……ハッキリそうだとは言わないけれど、エリアスが自分を見つめ直していたのは、足の怪我の影響が大きいのだろうと思う。自分の抱えている悲しみとだけ向き合っていてもよかったはずだ。それなのに、自分の持っている恵まれている部分や、同じ世界で生きている人々、両方について考え、答えを探そうとしたエリアスのことを、お金を稼ぐことだけに一生懸命だと考えるのは無理がある。
 弱さを見せるのと同じくらい、自分の優しさや心の温かい部分を見せるのが嫌なのかもしれない。……側にいるのが僕じゃなかったら。エリアスはもっと自然に自分の全てをさらけ出すことが出来て、その人と支え合えたのかもしれないと思うと、罪悪感で胸が苦しくなる。それでも僕は。

「今日はエリアスの大切にしている会社に、僕を連れていってくれて、ありがとう。いつかまた、エリアスのお仕事のお話を聞きたい……」

 本心だった。僕とエリアスの関係が直接変わるわけではないけれど、それでも、連れていってもらえてよかったと思う。作業机の間を静かに歩き、働く人達、一人一人をそっと見守っているエリアスの姿は、希望となって僕の心の片隅を照らしてくれる。エリアスの優しさが誰かに伝わっているのだと。

 エリアスが自分の会社や家を大切にしているのはわかっているから邪魔にはなりたくない。だけど、もしまたエリアスの気が向く時があれば、もっといろいろなことを教えて欲しい。
 エリアスは驚いた様子で一瞬目を見開いた後、側へ、と僕を呼んだ。今度は僕が身体を固まらせる番だった。子供の頃ならともかく、今のエリアスにはいつも強引に抱き寄せられるのが当たり前だったから。こんなふうに、近くへ来るよう誘われるのはずいぶん久しぶりのことだった。

「船は、彼等が作ったものを他の国へ運ぶ。質のよさが広まり、需要が高まれば彼等の自信に繋がる。……そして、ありすぎる程の私の資産を運び、誰かへ分配する。ノエル、ここまではわかるだろう?」

 ぴったりと太ももどうしが触れる距離に移動した僕の肩を抱き、エリアスが首筋へ唇を近づける。エリアスの唇が音をたてて触れた途端、僕は下を向いたまま微かに首を縦に振ることしか出来なかった。くすぐったい、と感じる度に僕の何もかもがエリアスでいっぱいになっていくのを止められない自分に戸惑っていたから。

「……もし船が沈むようなことがあれば、私は信用を失い会社自体が危うくなる。そうすれば彼等は生活する術と居場所を失う」

 わかっています、と僕は小さく頷いた。エリアスとエリアスが大切にしているものを守るために、僕は自分の力を使う。そのために結婚するのだから。

「いい子だ」
「ん……」

 いつものような激しいものではなく、触れるだけの口づけが何度も僕の唇に贈られた。髪や頬に触れるエリアスの手の温もりが心地いい。エリアス。名前を呼んで、思いきり抱き合えたら。そんなことを考えてしまう自分に躊躇う。少しでも気を抜いたらこのままエリアスに思いきりしがみついてしまいそうだった。じっと座っていることがもどかしいと感じられるような身体の疼きを抑えようと僕はキツく目を閉じる。呼吸が荒くなっていることや、頬が熱くなっていることについてエリアスも気がついているのかもしれない。

 口づけでぼんやりしている僕にエリアスがもう少しだけ一緒にいられないかと囁く。僕は行き先も聞かずに目を閉じたまま頷いて、エリアスの身体にそっと手を伸ばした。

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