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帰りたくない
しおりを挟む最近、ヒナタはアオイに読ませるためだと言って、やたら本を持ってくるようになった。
よくわからないのが、どうせなら一度に十冊でも二十冊でも買ってくればいいものを、何度も何度も本屋へ足を運んでは一冊ずつしか買ってこないことだ。
あまり人間の世界を出歩くような奴では無かったのに、アオイに本を買い与えるのがよっぽど楽しいらしく、コソコソと出掛けて行くのを頻繁に目にするようになった。
アオイは毎日毎日、ヒナタから貰った本を夢中で読んだ。
俺は、本を読まないからアオイが喜びそうな小説や参考書を選んでやることが出来ない。
だから、ニンゲンギツネと違って暗闇では何も見えなくなってしまうアオイのために、スタンドライトを買ってやった。
……そのせいで「もうちょっとだけ」とアオイが夜更かしをするようになってしまったのはよくないことだ。
毎晩「早く寝ろ!大きくならないだろうが!」と叱るハメにはなってしまったものの、しぶしぶ枕元に本を置いた後、スヤスヤと幸せそうに眠るアオイの寝顔を眺めていると心が和む。
寝ているアオイの頬を軽くつついたり、指通りのいい髪に触れたりしている瞬間は幸せだった。
まだ幼さの残る寝顔を一生懸命見つめながら、アオイはずっとここで、俺の側で大きくなっていくんだ、とそんなことを考えていた。
□
「アオイ!お兄ちゃんが今日も勉強を教えてやるぞ!って、む……?なんだ、この匂いは?……ずいぶん甘ったるい匂いだな……」
家へ入って来るなり、ヒナタは鼻をひくひくさせながら、怪訝そうな顔をした。いつもは、アオイの匂いばかりを嗅いで「ああ……、なんていい匂いなんだろう…!」と大騒ぎをしているくせに、今日は別の匂いが気になるらしかった。
「アオイ……さては、チューインガムを食べたな」
「俺?食べてないよ」
「おかしいなあ……」
毎日嗅いでいるせいなのか、鼻が慣れてしまって自分の家の匂いに鈍感になってしまうのだろうか。
ヒナタが言っていることが本当なのか確かめようと、注意深く部屋の匂いを嗅いでみたものの、俺にはさっぱりわからなかった。
……ただ、一つ引っかかったのは「チューインガムのような甘ったるい匂い」という表現だ。
今よりもずっと前、小さかった頃に、俺もそんな匂いをかいだことがある。
お遣いで結婚したばかりの若いニンゲンギツネのつがいが暮らす家を訪ねた時、甘ったるい香りが部屋中に充満していたことを思い出した。
本物のイチゴやブドウの香りとはまるで違う、作り物じみたベタベタした甘い香りは、人間の子供が好んで口にする、チューインガムやキャンディーにソックリだった。
好き合っているものどうしが一緒に暮らすとこんな匂いがするのか、毎日こんないい匂いに包まれるなんて、さぞかし幸せだろうな、と子供だった俺は羨ましく感じていて、それで……。
「おい、ホタル、お前今日は寝ないのか?何をボンヤリしてるんだよ?」
「……知るかよっ!ほっといてくれ!」
「何をカリカリしてんだか……赤いきつねばっかり食べていないで、お前、たまには牛乳も飲んだ方がいいぞ」
……昨日の晩も、一昨日の晩も、探るようにしてアオイとお互いの身体を触り合った。
「ホタル……、これ、手で触った方がいい……?
それとも、口にほんの少し含んでみてもいい?
俺もほんの少しでいいから触ってみたい、ホタルに触れないと寂しい……」
アオイは、「ちょっとだけ。大丈夫だよ、ゆっくりね……」と呟きながら、気持ちいい、いやだ、狐に戻りたくない、と身体をバタつかせて嫌がる俺に触れ続けた。
「こんなに、熱くて、それで……あの……」
「…あ、っ……!だめっ、アオイ、やめろよっ……気持ちいいっ……いやだっ……」
「……どうしよう……、俺も、ムズムズしてきた……」
アオイの手の動きには大胆さもいやらしさも一切なく、本当にペタペタと触れたり、軽く握ったりするだけで、ずいぶんぎこちなかった。
それでも、身体が蕩けそうになるくらい気持ちよかった。
早くアオイと一つになりたいよ、アオイの何もかもが欲しい、というようなことを、狐に戻る直前に何度も囁いたような気がする。
アオイは「はい」と確かに頷いていた。
「俺も、ホタルと……一つになりたい……」
……その日は、そのまま狐の身体に戻ってしまったせいで、結局は何も出来なかった。
家中が甘ったるい匂いで一杯になる程、俺はアオイのことが欲しくて堪らないというのに、身体がまだ成熟しきっていないせいで、俺達はまだ結ばれていない。
□
いつものように寝たふりをして、アオイとヒナタの会話に聞き耳を立てていた。
アオイが一番好きな歴史の教科書はもう終わりが近いのか、つい最近の出来事についてヒナタが教えてやっているようだった。
そう言えば「ちょっと政治家になってくる」と狐の里を飛び出したアイツは総理大臣にまでなったんだったな……。ちょっと前のことだと思っているけど、アオイが産まれる何十年も前の出来事か……と昔のことを思い出していると、「こんなに早く教科書に書いてあることを理解出来るなんて、アオイは本当にエライぞ!」とヒナタが大騒ぎしている声が聞こえる。
「……そうかな。俺も、学校へ通っている人達に追い付けたのかな」
「この調子じゃあ、追い付くどころか、すぐに追い抜いてしまうな!よしよし、お兄ちゃんが頑張ったアオイをぎゅっとしてやろう……」
「……ダメ」
「えっ…………」
抱き締めることをアオイに拒絶されてヒナタはわりと本気でショックを受けたようだった。
付き合いが長いせいで、「えっ」の一言だけで、そんなことがわかってしまう。
「ま、まあ、アオイももう15歳だからな、そういう年頃だ……、し、仕方ない」
「……あの、そんなに落ち込まないで。ヒナタが嫌なんじゃなくて、その……」
「いいんだ……俺は、アオイのお兄ちゃんだから……」
いいんだ、と言いつつ、いつまでもウジウジして「ヒナタお兄ちゃんって呼んでくれないと元気が出ないなあ……」と気色悪い呼び方を強要するヒナタに殺意が湧いたものの、アオイが唯一勉強出来る時間なのだからと、必死で我慢した。
怒りはなかなか収まらなかった。この変態を早く何とかしないと、食い縛り続けている俺の奥歯は、いつかきっとボロボロになってしまう。
そんな俺の気も知らずに二人は、今度は何を勉強しようと、キャッキャと楽しそうに声を弾ませていた。
「……なあ、アオイ。ずいぶんいろいろなことを勉強したけど、アオイは将来どんな大人になりたいか決まったか?」
「ん……」
ヒナタは、アオイにやりたいことや目標があるのなら、それを叶えるために必要な勉強をしようと、明るい声でハキハキと説明した。
一方でさっきまでわからないことを質問したり、「歴史の漫画で読んだ」と予習してきたことを得意気に披露したりしていたアオイは黙り込んだままで、いつまでたってもヒナタの質問に答えようとはしなかった。
「アオイ、どうした?ぼんやりして?」
「……なんでもない」
「アオイ」
お兄ちゃんにはなんでもわかってしまうよ、とさっきまでとはまるで違う、囁くような低い声でヒナタがそう言っているのが聞こえた。
ヒナタがじっとりとした目付きでアオイを見ていることも、アオイが動揺しているであろうことも、目を閉じていたって、ハッキリと感じ取れる。
「……ホタルと何かあっただろ」
「な、なな、何も……」
「アオイは嘘が下手くそだな……。いかにも綺麗な人間らしくて可愛いよ」
「何も無い。本当だよ」と言い張るアオイに、いつからだ?何をされた?とヒナタはしつこく食い下がった。
いくらバカとは言え、さすがのヒナタもこの家中に漂っているという甘ったるい匂いで何も気が付かないわけがなかったのだ。
「…………も、もしかして、ホタルと……あ、愛し合っているのか……?」
「うん……」
アオイの「うん」という返事を聞いた瞬間、俺はなぜかひどく動揺していた。
いくら変声前とは言え、アオイの声はこんなに子供っぽかっただろうか。
うん、という言い方もなんだか幼くて頼りない。
幸福で安心していて満ち足りているというよりは、「愛し合う」ということを知らなかった清らかな心を侵食されて、熱に浮かれてぼんやりとした状態で頷いているようにしか思えなかった。
はあ、とため息のような声で返事をした後、ヒナタは「そうか……」と何度も呟いた。
アオイの「うん」という返事に対して納得しているというわけではなく、何かを口にしないと落ち着いていられないから、そう言っているようだった。
「……本気じゃないなら、お前の妙な術を使う前に、綺麗な身体のまま元いた世界にアオイを帰せ。まだ子供だぞ」
ヒナタが初めてアオイと会った日に言っていたことを思い出す。
きっと、今頃、俺におまじないをかけられていないかどうか調べるために、アオイの目つきや顔色をよく観察しているに違いなかった。
それから、ほんの少しアオイの方へ近付いて気付かれないように匂いを嗅ぐに決まっていた。降ったばかりの雪に似ている、清潔な匂いがアオイの身体から失われていないかどうかをヒナタはきっと確認している。
「……アオイは、帰らないのか?」
……俺はアオイにはおまじないも、術も一切使ってなんかいない。だから、「俺とアオイはちゃんと好き合っている。この先もずっと一緒に暮らすんだ」と二人の間に割って入ることだって出来るはずだった。
けれど、なぜか俺は「ヒナタの問いかけの続きを聞かなければならない」という気がして、起き上がることが出来ずに、息を殺してただ布団に横になっていた。
「……帰らない。帰る場所なんかない……」
「……家族はいるだろ?もし、ホタルに言いにくいのなら俺が連れて行ってやるから、一度帰ってみるのはどうだ?」
「……帰りたくなんかない。お母さんも、前に一緒に住んでたおばあちゃんも、俺がいると嫌がるから」
「……嫌がるって?」
「言いたくない……」
アオイに母親がいるということは何となく知っていた。
けれど、ここへやって来てからアオイは一度も「お母さんに会いたい」というようなことを言ったことは無かった。
それに、アオイの「帰りたくなんかない」の言い方は、ひどく冷ややかだった。
俺にはヒナタの提案どころか、「お母さん」と「おばあちゃん」という存在そのものを拒絶し、この会話を続けることすらもアオイが放棄したがっているように聞こえた。
長い長い沈黙の後、わかった、とヒナタが喉から絞り出すような声でアオイに返事をした。
「……もし、元の家に帰りたくないという理由で、ホタルと……そういう関係になっているのなら、俺に教えて欲しい」
「な、に……?えっ?え……?」
違う、と思わず手のひらを強く握りしめる。アオイは、そんなつもりなんかなかったはずだ。
違う、違う……。「ここにいさせて」と手を握って懇願してきた時も、「今夜はどこにも行かないで」とモジモジとしていた時も、「苦しい時も側にいるから、もっとくっつきたい」と初めて肌を触れ合わせた時も……。
アオイは確かに何も知らない子供だ。けれど、何も知らない子供なりに考えて、未熟な俺に寄り添おうとしてくれていた。
アオイの勇気や優しさ、子供らしい甘え、可愛らしさといったものの連なりで、俺とアオイの結びつきは強くなったに違いなかった。
それなのに、飛び起きて「わけのわからないことを言うのはやめろ!」とヒナタを怒鳴りつけることは出来なかった。
……きっと俺は心のどこかで、ヒナタと同じようなことを何度か考えたはずなのに、それに気が付かないフリをして、いつまでもアオイを自分の側に置いておこうとしていた。
「……もし、アオイが元の世界へ戻って、学校に通いたいのなら、俺が手を尽くして、何不自由なく他の人間の子供と同じような生活が送れるようにしてやる。
それが嫌で、どうしてもここで暮らしたいのだとしたら……。アオイがなんにもしなくても……そう出来るようにしてやるから……」
「やだ……。嫌だ。ホタルと一緒にいたい。なんで?ヒナタはなんで、そんなことを言うの……?」
「アオイが」
まだ15歳だから、とヒナタが答えた途端、「なにそれ!」とアオイが金切り声をあげた。
「ヒナタはズルイよ!いっつも、まだ15だからとか、もう15だからとか、都合のいいように使い分ける!俺は、小さい子供なんかじゃない!
ちゃんと、ちゃんと……ホタルが好きだから……。俺、わけのわからないうちに、ホタルと、あ、愛し合ったわけじゃない……」
噛み付くような勢いで感情をむき出しにしてアオイが話しているのを聞くのは初めてだった。目を開けて確認しなくたってわかる。アオイが泣いている。
「俺には家なんかないよっ……。帰って!ヒナタなんか、大嫌いだ……」
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