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kemu_sato

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賢者は耳を塞ぐ

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 部屋を揺るがす、音と衝撃。それは隣室からもたらされたものだった。まぁ、いつものことなのだが。

 僕は、部屋の真ん中に敷いた布団の上に正座していた。この部屋は狭い。約20平米の1Kマンション。布団を敷くために、雑多なものを載せた低いテーブルを壁際に寄せる必要がある。住み始めた頃は、あらゆるものにすぐに手が届くこの広さに満足していたが、数年が経過し、持ち物が増えた今となっては、部屋の印象は檻のようなものにすっかり変わっていた。無理もないことだ。

 再び、隣室から音と衝撃。現代社会を生きる読者諸賢ならばお察しだろう。そう、壁ドンだ。眉目秀麗な男子が異性に対して行うあれではない。あまり好ましくない方の、壁を殴ったり蹴ったり、物をぶつけたりする、あの壁ドンなのだ。

 いつからか、それが日常茶飯事になった。なぜだろう。何が切っ掛けだったのだろう。

 住み始めてからの数年は、こんなことはなかった。ひょんなことから知ったのだが、隣室は個人が借りている部屋なのではなく、自動車学校が契約しているようだった。自動車やバイクの免許を取得するための、いわゆる短期コース受講者が住むための、教習所の寮なのであった。であるにも関わらず、いや、だからこそなのか、隣人というか、隣室の住人は、日常的に壁ドンを仕掛けてくるのである。なぜだ。どうしてこうなった。

 思い当たる原因と言うか、要因が一つある。こちらの部屋が静かになったせいではないか。どういう意味か、解説しよう。

 自然でも同じことが起こるという話を、何かの本で読んだことがある。大木に囲まれて、背の低い木があるとする。なにかの要因で周りの大木が倒れたり弱ったりすると、ここぞとばかりに、背の低い木が成長する、というのだ。それと同じような状態なのではないか、と考えるのだ。つまり、隣室の住人は、こちらの部屋が静かになったのをいいことに、調子に乗ったのか、ビビらせいのかはわからないが、暴力的な行為に出始めたのではないか、ということだ。

 次に、なぜこちらの部屋が静かになったのか、それについて語ろう。一言でいうと、友達と疎遠になったせいだ。うん、それが結論だ。色々あって、友達が遊びに来る機会が激減した。というよりも、ほぼゼロになったと言ってもいい。詳細は伏せるが、それが原因と言うか、要因というか、切っ掛けというか、引き金だったのではないか。
 さて、ここまでお読みになって、疑問に思われた方もいるかも知れない。そう、隣人による壁ドンがあっても、特に困ってはいないのだ。なぜか。秘密の対策を本邦初公開するとしよう

 それは、ワイヤレスイヤホンだ。それで、クラブミュージックの動画を大音量で視聴していて、耳を塞いでいるのだ。

 一般的な音楽は、4分か5分くらいで終わって、次の曲が始まるまでに無音の時間ができる。そのときに壁ドンをお見舞いされると、それはもう大ダメージなのである。その、ふいの被弾を避けるために、クラブミュージックなのだ。動画配信サイトに、クラブイベントの公式チャンネルが存在する。クラブDJと呼ばれる人が、曲と曲を延々とつないでパフォーマンスをする、その動画を視聴できるのだ。そういった動画では、短くても1時間、長ければ5,6時間、途切れることなく音が流れる。つまり、ワイヤレスイヤホンでそれらの動画を視聴すれば、数時間に渡って防御できるということなのだ。控えめに言って、無敵である。現代風に言うと、オートガードだろうか。そんな言葉あるかどうかは知らないが。

 このようにして、防音性の低い賃貸物件で、隣人が暴力的だった場合にも、快適に過ごすことは可能なのだ。快適というよりは、真冬にしっかりと防寒して外出するようなものだ。気温をどうすることもできないように、乱暴な隣人のことも、こちらにはどうすることもできないのだ。他人は変えることはできない、と太古の昔から言われている。良い意味で、諦めているのだ。諦めが肝心、これも大昔からある言葉だ。つまりは、そういうことなのだ。

 しかし、この防衛策も万全ではない。問題もある。そう、イヤホンの電池切れだ。

 クラブミュージックによる気分の高揚、隣人が預かり知ることのない絶対防御による安心感、それらが、電池切れにより、唐突に失われることがある。予期せぬ無音。その瞬間の絶望感たるや。一瞬にして全身が恐怖に染まる。その時、自分は戦場で丸裸同然の状態なのだ。いま、一撃を喰らえば、精神的致命傷は免れない。いかん、まずい、怖い。しかし、慌てるな。まだ次の手がある。そう、耳栓だ。シンプルイズベスト、信頼と実績の最後の砦、耳栓である。冷静さを取りもどし、落ち着いて、ワイヤレスイヤホンに充電コードを差し、耳栓を装着するのだ。そう、一つ一つを、確実に行えばいいのだ。隣人に気付かれないように。こちらの恐怖を悟られてはならない。そうだ、安全策というのは常に複数を用意しておくものだ。甘く見るなよ、隣人よ。心に冷や汗をかきながらも、思わずほくそ笑んだ。そして僕は、震える手を、耳栓へと伸ばした。
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