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新人秘書は、多難です。

秘書、並木茉穂

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「並木くん。悪いけれど、この書類頼める?」
渡されたのは、学会の発表用に書いた原稿。
「はい、大丈夫です」
「じゃあ、お願いします」
ボスから入力を依頼された。

ここは皆川総合病院。
関東近郊の地方病院。
そこの副院長秘書が私、並木茉穂(なみきまほ)22歳。
今年地元の大学を卒業したばかりの新社会人。

「並木くん、カンファレンスの資料はどこにやったっけ?」
え?
「先ほどデスクの上までお持ちしましたが」
「ああ、あった」
もー、ボスったら。

フフフ。
私は上司のことをボスと呼んでいる。
でも、これは秘密。
とにかく、うちのボスはとってもかっこいい。
本当に、見ているだけで目の保養になりそうな外見。
その上医者で、大病院の副院長。
こういう人のことを王子様って言うんだと思う。

「何笑ってるんだ?」
「いえ、書類は昼までに用意します」
「ああ、頼む」
そう言えば、今日は外来担当の日。
って事は、ボスは午後まで帰って来ないのね。

***

プププ。
「はい、副院長室です。はい。院長がですか?はい。わかりました。急ぎで仕上げます」
電話は総務課長から。
院長から依頼の文書が、急ぐらしい。
まあ、今はそんなに仕事を抱えてるわけでもないし、大丈夫でしょう。

「俺のが優先」
あれ、いつの間にかボスがデスクの前に。
「分ってます。お戻りまでには必ず仕上げますから」
「俺のを先にして」
「はい、大丈夫ですから。どうぞ、外来にいらしてください」
患者さんも待っているはずだから。

「じゃあ、行ってきます」
「行ってらっしゃい」

***

自分で言うのは何だけれど、キーボードを打つ速度はかなり早い。
ブラインドタッチは当たり前だし、間違えも少ない。
それが特技。
でも、これは普通に打っての場合。
本当に急ぐとき、私には奥の手があって。

まずは副院長室に隣接する秘書室のドアを閉め、
せっかく巻いてきた髪を1つにくくる。
机の引き出しから出したパソコン用めがねを装着。
スーツのジャケットを脱ぎ、ブラウスの袖をめくる。
本当はブラウスも窮屈なんだけれど、仕方ない。
ここまでする必要があるんだろうかと自分でも時々思う。
でも、こうしないとスピードが出ない。
そして、入力中の私はもの凄い顔をしているらしい。
昔付き合った彼氏に、それで振られた経験がある。
だから、誰もいないところでしか急ぎの入力はしない。と言うか、できない。
さあ、準備はできた。
ハイスピードで仕事をしますか。

今日も、『お願いです。誰も開けないでください』と祈りながら、カタカタとパソコンを打ちだした。
ボスが帰ってくるのは2時頃のはずだから、それまでが私の時間。
なんとか、ボスと院長の原稿を打ち込んでしまわないと。

***

1時間後。

はー、やっと1つ終わった。
後はボスの書類だけ。
早く仕上げないと機嫌が悪くなってしまう。

大体、今日は午後から外来の会議も入っていて忙しいから、学会用の書類を見る時間なんてないはず。
夕方までにできれば十分のはずなのに・・・
まあ、それでも急げと言われれば急ぎますが。

うちのボスは二重人格。
内科医として外来に出るときはとっても優しくていい人なのに、
ここでは、わがままで、文句ばかりのまるで暴君。
こんな人について行けるのかと聞かれると、不安しかない。
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