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閑話
閑話 月見
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これは、ロアたちが『望郷』の出身地であるネレウス王国に出かける少し前の話。
その夜、御者頭のチャックは酒をしこたま飲んでいた。
古い友人と偶然出会い、ちょうど仕事が休みだったこともあって昼過ぎから夜中まで飲んでいたのだ。
チャックは今まで、酒を控えていた。
足に古傷があったため、酔うとすぐに転倒してしまっていたからだ。
日常的な動きには問題はなかったが、それでも酔っていたり疲れていたりするとすぐに足取りに影響が出た。ちょっとした段差で足を取られていた。
それに酒を飲んで血行が良くなると、ひどく痛んだ。
転倒したり痛みを感じたりすると、自分の身体が役立たずのように感じてしまい、自然と酒を飲もうという気が失せていったのである。
しかし今はロアの魔法薬のおかげで、古傷は完治している。
酒を飲んだ程度では転倒することも、足取りが怪しくなることもない。痛みが出ることも、もうない。
足以外の不調も治ってしまったらしく、全身がケガする前よりも調子が良いくらいだった。
それに古傷が治ってからは、御者だけでなくコラルドの護衛も兼任している。
治った足は戦闘の激しい動きにも、急な捻りや衝撃にも問題なく耐えてくれた。若かったころの感覚を取り戻していた。
おかげで護衛分の働きが給料が上乗せされ、懐を気にせずに好きなだけ酒を飲めるようになっていた。
そんなわけで、今日もチャックは気持ちよく酒を飲んで酔っ払い、コラルド商会の敷地内を歩いていた。
チャックの住居は商会内に割り当てられている部屋だ。コラルド商会の本邸から少し離れた別棟にあった。
屋外の通路を歩いていた時、ふと、彼は空を見上げた。
夜の闇の中、空には三日月が登っている。
雲はなく、月はその輝く美しい姿を隠すことなく見せていた。
夜風が、程よく気持ちいい。
「……この月なら居そうだな。少し、飲みなおすか」
誰に聞かせるでもなくチャックはそう呟くと、足早に自分の部屋へと帰り、そしてすぐにまた外へと出た。
手には、一本の酒瓶と、二つの杯。
向かう先はコラルド商会の敷地の隅だ。
そこはロアと従魔たちの家になった建物があった。
以前は物置だったが修理改修されて、庭や畑も整備されたことで立派な住居になっている。
「やっぱり居たか」
チャックはロアの家の庭先へ向かう。
庭にちょっとした宴会ができるように、テーブルや竈が置いてある。
その真ん中を陣取るように、グリおじさんが一匹で寝そべっていた。
その目は天空に向けられ、無心で月を見ていた。
「よお!」
グリおじさんの姿を確認すると、チャックは声を掛ける。
グリおじさんは面倒くさそうに一度チャックに目を向けると、すぐにまた月に視線を戻した。
チャックは気にすることなく近付くと、その横の地面に座り込んだ。
そして杯に酒を注ぐと、グリおじさんの前に差し出した。
グリおじさんは当然のように差し出された杯を嘴でくわえて、器用に中身を飲み干す。
そして、チャックの前に追加の酒を注げとばかりに差し出すのだった。
「相変わらず、良い飲みっぷりだな」
チャックはそんなグリおじさんを見ながら、嬉しそうに自らの杯にも酒を注ぎ、飲み始めた。
住人たちが寝静まっている、真夜中の月明かりの下。
一人と一匹は奇妙な酒宴を始めたのだった。
この深夜の酒宴をチャックとグリおじさんがするようになったのは、数カ月前からだ。
その日はロアが正式な冒険者になった祝いがあった。城塞迷宮から帰って来て、数日が過ぎた頃だった。
少なからずロアとも望郷とも縁が出来ていたチャックは、その祝いの席に呼ばれた。
その場でも酒は出ていたが、主賓のロアや、その仲間の望郷のメンバーたちが酒を飲まないため、皆がほろ酔い程度に抑えて飲む程度だった。
その量はすでに古傷も治り、酒を飲みたいという気持ちも復活していたチャックには物足りないものだった。
同じように思った者も多かったらしく、祝いの浮かれた雰囲気から流れるように酒飲む者が集まって街へ繰り出した。
帰りは夜中になり、チャックは酔い覚ましと見回りを兼ねて、深夜のコラルド商会の敷地を散歩していたのだった。
その時、グリおじさんが一匹で庭に寝そべり月を見ているのを見かけた。
その時のチャックは、まだグリおじさんを怖がっていた。
ロアの従魔で、ロアも望郷のメンバーたちも平気で接していることから、グリおじさんがチャックに危害を加えるとは思っていない。
しかし、凶悪な魔獣だと思うと、ロアたちのように気安く近付くことはできなかった。
だが、この時のチャックは酔って気が大きくなっていた。
酔い覚ましに散歩していたのだが、まったく酔いが醒めておらず、正常な判断が出来ていなかった。
「よお!どうした?こんなところで何してるんだ?」
返事が返ってくるはずのないのに、軽く声を掛けた。
グリおじさんはチャックに目を向けると、そのまま無視してまた月を見上げる。
チャックは無視するグリおじさんの姿が拗ねた子供のように見えて、思わず横に座り込んだ。
ただ、座り込んでみたものの、何をしていいか分からなかった。
あくまで酔った勢いの行動だ。何も考えていなかった。
これが人間相手なら世間話でもするところだろうが、グリフォンでは話し相手にもならないし、一人話していても虚しいだけだ。
チャックは無言で座り込んでいることに間が持たなくなり、ちょうど持っていた酒瓶に手を伸ばした。
街の居酒屋で葡萄酒を瓶ごと買い、余ったものを持ち帰って来たものだった。
その酒瓶の栓を開け、直接飲もうとした瞬間。
「え?」
横から奪われた。
気付くと、嘴で酒瓶を摘まみ上げたグリおじさんが、器用に酒瓶を傾けて葡萄酒を飲んでいるところだった。
「……酒……飲むのか?」
驚き、そう言うのがやっとだった。
グリおじさんは中身を半分ほど飲むと、チャックに瓶を返してくる。
そして、嘴に付いた酒を舐め取ると、満足げに目を細めた。
「いける口かよ」
そう言いながら、チャックも返された酒瓶に直接口を付けて、一口飲む。
酒瓶から口を話すと、また横からグリおじさんに奪われた。
今度はグリおじさんも一口だけ飲み、瓶を返してきた。
一人と一匹は、無言で見つめ合い、笑みを浮かべる。
この瞬間から、チャックはグリおじさんのことを怖い魔獣などと思わなくなった。
どこか人間臭い、親しみのある存在に変わっていた。
その後も、月が綺麗な夜にチャックがふらりとロアの家の庭に訪れると、二回に一回くらいはグリおじさんが月見をしている姿が見られた。
そんな時は、必ず酒を持って行き、一人と一匹で真夜中の月見酒を楽しむようになったのだった。
いつも互いに何も語らず、ただ月を見ながら酒を酌み交わすだけだ。
もっとも、何を言ったところで、お互いに話は通じないと思っているのだから無言になるのは仕方がないだろう。
そして今日も、ただひたすら無言で酒を飲むだけになる、はずだった……。
<……たく……ぞうときたら……>
「ん?」
突然、話し声のようなもの聞こえて、チャックは誰か来たのかと周囲を見渡す。内容は聞き取れなかったが、間違いなく誰がの話し声だった。
しかし、真夜中の庭には誰もいない。いるのは自分とグリおじさんだけだ。
<すでに三カ月は経つのだぞ?小僧は根に持ちすぎる……>
「……」
先ほどと同じ声が、今度はすぐ近くで聞こえた。
近くにいるのは、グリおじさん……話すはずがない魔獣だけだった。
<ことあるごとに、あの時は我に騙されたとグチグチと。冗談のつもりかもしれぬが、我だって傷つくのだぞ?騙したわけではなく、ルーとフィーに名付けさせやすいように促してやっただけだというのに。そもそも魔狼の双子も計画に加担していたのだぞ?なのになぜ我ばかり責めるのだ?ルーとフィーが責められる姿は見たくないが、だからといってすべて我の仕業のように言われるのは……む?こやつ、どうして我を見つめておるのだ?>
チャックはグリおじさんを見つめていた。
今聞こえている声が、どう考えても目の前にいるグリおじさんから聞こえている気がしたのだ。
その真偽を確かめようと、グリおじさんの顔を穴が開くほどに見つめていた。
「今更ながら我の可愛らしさが気になったのか?このような酒飲みオヤジに見惚れられても仕方がないが、悪い気分ではない。見つめることを許してやろう」
「……」
声の傲慢な口調が、グリフォンの勇猛な姿に似つかわしい。可愛いとは思えないが。
それに声の主が見つめられていることを話題にした瞬間に、グリおじさんはチャックの視線に気づいてその目を覗き込んで見返してきていた。その動作も声の内容に合っていた。
<……酒がなくなったぞ。ほれ、注げ、御者頭よ>
「はあ……」
言われるままに、差し出された杯にチャックは酒を注ぐ。
<御者頭は葡萄酒が好きなのかもしれぬが、たまには別の酒も飲みたいものだな。小僧や寝坊助どもは酒を飲まぬし、ハゲとは対等な関係でいたいのでなかなか集りにくい。飲ませてくれる者がいるだけありがたいと思うべきか……>
「……その、どんな酒がお好きなんで?」
<そうだな、喉を焼くようなきつい酒精の蒸留酒もたまには飲みたいものだ>
「蒸留酒ですか?さすがに高価で私の給金じゃ手を出しにくいですねぇ」
蒸留酒はどれも原料となる酒を大量に蒸留して作るので、高価なのだ。チャックが最近裕福になってきたと言っても、日頃から飲めるような金額ではない。
<金か!金なら問題ない。小僧が貯め込んでいる物をいくつか渡すので、それを換金すればいい。小僧の物は我の物だからな!まったく問題ない!!ただ、小僧に知られぬように、こっそり換金し、こうやって小僧たちが寝静まった後で飲ませるのだぞ!小僧は一度怒ると長いのだ>
「それなら買ってきましょう!その、私もご相伴にあずかっていいんですよね?」
<もちろんであろう!貴様とは飲み友達だぞ!」
「ありがとうございます!蒸留酒なんて、滅多に飲めないですからねぇ、こりゃ嬉しいや!」
<んん?>
「はい?」
突然、奇妙な声を漏らしてグリおじさんはチャックを見た。
驚いたように目をまん丸に見開いた後、すっと目を細めて顔をくっ付きそうなほど近づけて睨みつけた。
見慣れてきたとはいえ、その迫力には耐え切れずチャックは後ずさってしまった。
<……御者頭。貴様、我の声が聞こえているのか?>
唸るようなその声に、チャックは先ほどまでの酔いが一気に冷めていくのを感じた。
殺されるかもしれない。そう感じるほどに、迫力があった。
チャックは声の主を確認するのを兼ねて聞こえてくる声に返答してみたのだが、グリおじさんはそのことに驚いたらしい。
チャックとしては、自分の方が驚いたと言いたいところだ。
「その、聞こえているようです」
<…………本当に、聞こえているようだな。いつからだ?>
「つい、さきほどで……」
<……まったく、寝坊助たち、ハゲと続いて御者頭にまで聞こえるようになるとは。いったい何が作用しているのだ?小僧が原因なのは間違いないだろうが、しかしそれだけでは無い気がするな。分からぬ!!>
吠えるように言うと、グリおじさんは杯の中の酒を一気にあおった。
「……聞こえるとマズいんですか?私は、殺されるとか?」
<なぜ殺さねばならんのだ?>
「秘密を知ったら、処分するとかそういう感じで?」
<酒を持ってきてくれる貴重な人間なのだぞ?なぜそんなつまらぬことで殺さねばならぬのだ?殺すなら代わりに寝坊助を殺すぞ!>
誰だか分からない寝坊助という人、ご愁傷様……と思いながら、身の安全を保障されてチャックは安堵の息を吐いた。
<我の声が聞こえるということは、ルーとフィー……双子の魔狼の声も聞こえるようになったはずだ。しかし……そうだな、しばらくは今まで通り聞こえていないフリをしておいた方が良いかもしれぬな。そのあたりの判断は……面倒だな、ハゲ商人に丸投げしておくか。明日の朝にでも我の声が聞こえることをハゲ商人に伝えて、どういった対応した方がいいか相談しろ。あとは好きにしろ>
「ハゲ商人というのは、コラルド様のことで?」
<それ以外に誰がいるか?>
まあ、いないだろう。チャックは納得した。
先ほどから出てきている『小僧』というのは、ロアだろう。御者頭というのが自分のことだ。
この酒飲みグリフォンは人間の名前を覚える気がないらしい。そう理解して、チャックは改めて自分の名を告げるのは止めることにした。
「わかりました。コラルド様に相談してみます」
<それから、なんだその口調は?なぜその様な遜った話し方をするのだ?今まで普通に話していたであろう?>
「それは……」
お前が偉そうな貴族みたいな話し方だから、思わずそうなったんだよ……と言いかけて口を噤む。たしかに急に口調を変えたのは自分の方だ。
「ははっ。そうだな、魔獣が話すなんて珍しいから、緊張しただけだ」
弾けるように笑い、チャックは今までの口調に戻した。
<その方が、貴様らしい>
「そうか?」
<そうだな。……杯が開いた、注げ>
「はいよ」
<また酒を持ってくるのだぞ?>
「蒸留酒だな?その前に換金できる物を渡せよ?そんな金は持ってないからな?」
こうして、無言の月見の酒宴は、月を見ながらおじさんが語り合う酒宴に変わったのだった。
月は変わりなく、美しく輝いていた。
※ ※ ※ ※ ※
本日、第4木曜は宇崎鷹丸先生によるコミック版『追い出された万能職に新しい人生が始まりました』の更新日となります。https://www.alphapolis.co.jp/manga/official/852000274
コミックシーモアの電子コミック大賞2021の男性部門を受賞して乗りに乗っています。
是非お読みください。
その夜、御者頭のチャックは酒をしこたま飲んでいた。
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足に古傷があったため、酔うとすぐに転倒してしまっていたからだ。
日常的な動きには問題はなかったが、それでも酔っていたり疲れていたりするとすぐに足取りに影響が出た。ちょっとした段差で足を取られていた。
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転倒したり痛みを感じたりすると、自分の身体が役立たずのように感じてしまい、自然と酒を飲もうという気が失せていったのである。
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酒を飲んだ程度では転倒することも、足取りが怪しくなることもない。痛みが出ることも、もうない。
足以外の不調も治ってしまったらしく、全身がケガする前よりも調子が良いくらいだった。
それに古傷が治ってからは、御者だけでなくコラルドの護衛も兼任している。
治った足は戦闘の激しい動きにも、急な捻りや衝撃にも問題なく耐えてくれた。若かったころの感覚を取り戻していた。
おかげで護衛分の働きが給料が上乗せされ、懐を気にせずに好きなだけ酒を飲めるようになっていた。
そんなわけで、今日もチャックは気持ちよく酒を飲んで酔っ払い、コラルド商会の敷地内を歩いていた。
チャックの住居は商会内に割り当てられている部屋だ。コラルド商会の本邸から少し離れた別棟にあった。
屋外の通路を歩いていた時、ふと、彼は空を見上げた。
夜の闇の中、空には三日月が登っている。
雲はなく、月はその輝く美しい姿を隠すことなく見せていた。
夜風が、程よく気持ちいい。
「……この月なら居そうだな。少し、飲みなおすか」
誰に聞かせるでもなくチャックはそう呟くと、足早に自分の部屋へと帰り、そしてすぐにまた外へと出た。
手には、一本の酒瓶と、二つの杯。
向かう先はコラルド商会の敷地の隅だ。
そこはロアと従魔たちの家になった建物があった。
以前は物置だったが修理改修されて、庭や畑も整備されたことで立派な住居になっている。
「やっぱり居たか」
チャックはロアの家の庭先へ向かう。
庭にちょっとした宴会ができるように、テーブルや竈が置いてある。
その真ん中を陣取るように、グリおじさんが一匹で寝そべっていた。
その目は天空に向けられ、無心で月を見ていた。
「よお!」
グリおじさんの姿を確認すると、チャックは声を掛ける。
グリおじさんは面倒くさそうに一度チャックに目を向けると、すぐにまた月に視線を戻した。
チャックは気にすることなく近付くと、その横の地面に座り込んだ。
そして杯に酒を注ぐと、グリおじさんの前に差し出した。
グリおじさんは当然のように差し出された杯を嘴でくわえて、器用に中身を飲み干す。
そして、チャックの前に追加の酒を注げとばかりに差し出すのだった。
「相変わらず、良い飲みっぷりだな」
チャックはそんなグリおじさんを見ながら、嬉しそうに自らの杯にも酒を注ぎ、飲み始めた。
住人たちが寝静まっている、真夜中の月明かりの下。
一人と一匹は奇妙な酒宴を始めたのだった。
この深夜の酒宴をチャックとグリおじさんがするようになったのは、数カ月前からだ。
その日はロアが正式な冒険者になった祝いがあった。城塞迷宮から帰って来て、数日が過ぎた頃だった。
少なからずロアとも望郷とも縁が出来ていたチャックは、その祝いの席に呼ばれた。
その場でも酒は出ていたが、主賓のロアや、その仲間の望郷のメンバーたちが酒を飲まないため、皆がほろ酔い程度に抑えて飲む程度だった。
その量はすでに古傷も治り、酒を飲みたいという気持ちも復活していたチャックには物足りないものだった。
同じように思った者も多かったらしく、祝いの浮かれた雰囲気から流れるように酒飲む者が集まって街へ繰り出した。
帰りは夜中になり、チャックは酔い覚ましと見回りを兼ねて、深夜のコラルド商会の敷地を散歩していたのだった。
その時、グリおじさんが一匹で庭に寝そべり月を見ているのを見かけた。
その時のチャックは、まだグリおじさんを怖がっていた。
ロアの従魔で、ロアも望郷のメンバーたちも平気で接していることから、グリおじさんがチャックに危害を加えるとは思っていない。
しかし、凶悪な魔獣だと思うと、ロアたちのように気安く近付くことはできなかった。
だが、この時のチャックは酔って気が大きくなっていた。
酔い覚ましに散歩していたのだが、まったく酔いが醒めておらず、正常な判断が出来ていなかった。
「よお!どうした?こんなところで何してるんだ?」
返事が返ってくるはずのないのに、軽く声を掛けた。
グリおじさんはチャックに目を向けると、そのまま無視してまた月を見上げる。
チャックは無視するグリおじさんの姿が拗ねた子供のように見えて、思わず横に座り込んだ。
ただ、座り込んでみたものの、何をしていいか分からなかった。
あくまで酔った勢いの行動だ。何も考えていなかった。
これが人間相手なら世間話でもするところだろうが、グリフォンでは話し相手にもならないし、一人話していても虚しいだけだ。
チャックは無言で座り込んでいることに間が持たなくなり、ちょうど持っていた酒瓶に手を伸ばした。
街の居酒屋で葡萄酒を瓶ごと買い、余ったものを持ち帰って来たものだった。
その酒瓶の栓を開け、直接飲もうとした瞬間。
「え?」
横から奪われた。
気付くと、嘴で酒瓶を摘まみ上げたグリおじさんが、器用に酒瓶を傾けて葡萄酒を飲んでいるところだった。
「……酒……飲むのか?」
驚き、そう言うのがやっとだった。
グリおじさんは中身を半分ほど飲むと、チャックに瓶を返してくる。
そして、嘴に付いた酒を舐め取ると、満足げに目を細めた。
「いける口かよ」
そう言いながら、チャックも返された酒瓶に直接口を付けて、一口飲む。
酒瓶から口を話すと、また横からグリおじさんに奪われた。
今度はグリおじさんも一口だけ飲み、瓶を返してきた。
一人と一匹は、無言で見つめ合い、笑みを浮かべる。
この瞬間から、チャックはグリおじさんのことを怖い魔獣などと思わなくなった。
どこか人間臭い、親しみのある存在に変わっていた。
その後も、月が綺麗な夜にチャックがふらりとロアの家の庭に訪れると、二回に一回くらいはグリおじさんが月見をしている姿が見られた。
そんな時は、必ず酒を持って行き、一人と一匹で真夜中の月見酒を楽しむようになったのだった。
いつも互いに何も語らず、ただ月を見ながら酒を酌み交わすだけだ。
もっとも、何を言ったところで、お互いに話は通じないと思っているのだから無言になるのは仕方がないだろう。
そして今日も、ただひたすら無言で酒を飲むだけになる、はずだった……。
<……たく……ぞうときたら……>
「ん?」
突然、話し声のようなもの聞こえて、チャックは誰か来たのかと周囲を見渡す。内容は聞き取れなかったが、間違いなく誰がの話し声だった。
しかし、真夜中の庭には誰もいない。いるのは自分とグリおじさんだけだ。
<すでに三カ月は経つのだぞ?小僧は根に持ちすぎる……>
「……」
先ほどと同じ声が、今度はすぐ近くで聞こえた。
近くにいるのは、グリおじさん……話すはずがない魔獣だけだった。
<ことあるごとに、あの時は我に騙されたとグチグチと。冗談のつもりかもしれぬが、我だって傷つくのだぞ?騙したわけではなく、ルーとフィーに名付けさせやすいように促してやっただけだというのに。そもそも魔狼の双子も計画に加担していたのだぞ?なのになぜ我ばかり責めるのだ?ルーとフィーが責められる姿は見たくないが、だからといってすべて我の仕業のように言われるのは……む?こやつ、どうして我を見つめておるのだ?>
チャックはグリおじさんを見つめていた。
今聞こえている声が、どう考えても目の前にいるグリおじさんから聞こえている気がしたのだ。
その真偽を確かめようと、グリおじさんの顔を穴が開くほどに見つめていた。
「今更ながら我の可愛らしさが気になったのか?このような酒飲みオヤジに見惚れられても仕方がないが、悪い気分ではない。見つめることを許してやろう」
「……」
声の傲慢な口調が、グリフォンの勇猛な姿に似つかわしい。可愛いとは思えないが。
それに声の主が見つめられていることを話題にした瞬間に、グリおじさんはチャックの視線に気づいてその目を覗き込んで見返してきていた。その動作も声の内容に合っていた。
<……酒がなくなったぞ。ほれ、注げ、御者頭よ>
「はあ……」
言われるままに、差し出された杯にチャックは酒を注ぐ。
<御者頭は葡萄酒が好きなのかもしれぬが、たまには別の酒も飲みたいものだな。小僧や寝坊助どもは酒を飲まぬし、ハゲとは対等な関係でいたいのでなかなか集りにくい。飲ませてくれる者がいるだけありがたいと思うべきか……>
「……その、どんな酒がお好きなんで?」
<そうだな、喉を焼くようなきつい酒精の蒸留酒もたまには飲みたいものだ>
「蒸留酒ですか?さすがに高価で私の給金じゃ手を出しにくいですねぇ」
蒸留酒はどれも原料となる酒を大量に蒸留して作るので、高価なのだ。チャックが最近裕福になってきたと言っても、日頃から飲めるような金額ではない。
<金か!金なら問題ない。小僧が貯め込んでいる物をいくつか渡すので、それを換金すればいい。小僧の物は我の物だからな!まったく問題ない!!ただ、小僧に知られぬように、こっそり換金し、こうやって小僧たちが寝静まった後で飲ませるのだぞ!小僧は一度怒ると長いのだ>
「それなら買ってきましょう!その、私もご相伴にあずかっていいんですよね?」
<もちろんであろう!貴様とは飲み友達だぞ!」
「ありがとうございます!蒸留酒なんて、滅多に飲めないですからねぇ、こりゃ嬉しいや!」
<んん?>
「はい?」
突然、奇妙な声を漏らしてグリおじさんはチャックを見た。
驚いたように目をまん丸に見開いた後、すっと目を細めて顔をくっ付きそうなほど近づけて睨みつけた。
見慣れてきたとはいえ、その迫力には耐え切れずチャックは後ずさってしまった。
<……御者頭。貴様、我の声が聞こえているのか?>
唸るようなその声に、チャックは先ほどまでの酔いが一気に冷めていくのを感じた。
殺されるかもしれない。そう感じるほどに、迫力があった。
チャックは声の主を確認するのを兼ねて聞こえてくる声に返答してみたのだが、グリおじさんはそのことに驚いたらしい。
チャックとしては、自分の方が驚いたと言いたいところだ。
「その、聞こえているようです」
<…………本当に、聞こえているようだな。いつからだ?>
「つい、さきほどで……」
<……まったく、寝坊助たち、ハゲと続いて御者頭にまで聞こえるようになるとは。いったい何が作用しているのだ?小僧が原因なのは間違いないだろうが、しかしそれだけでは無い気がするな。分からぬ!!>
吠えるように言うと、グリおじさんは杯の中の酒を一気にあおった。
「……聞こえるとマズいんですか?私は、殺されるとか?」
<なぜ殺さねばならんのだ?>
「秘密を知ったら、処分するとかそういう感じで?」
<酒を持ってきてくれる貴重な人間なのだぞ?なぜそんなつまらぬことで殺さねばならぬのだ?殺すなら代わりに寝坊助を殺すぞ!>
誰だか分からない寝坊助という人、ご愁傷様……と思いながら、身の安全を保障されてチャックは安堵の息を吐いた。
<我の声が聞こえるということは、ルーとフィー……双子の魔狼の声も聞こえるようになったはずだ。しかし……そうだな、しばらくは今まで通り聞こえていないフリをしておいた方が良いかもしれぬな。そのあたりの判断は……面倒だな、ハゲ商人に丸投げしておくか。明日の朝にでも我の声が聞こえることをハゲ商人に伝えて、どういった対応した方がいいか相談しろ。あとは好きにしろ>
「ハゲ商人というのは、コラルド様のことで?」
<それ以外に誰がいるか?>
まあ、いないだろう。チャックは納得した。
先ほどから出てきている『小僧』というのは、ロアだろう。御者頭というのが自分のことだ。
この酒飲みグリフォンは人間の名前を覚える気がないらしい。そう理解して、チャックは改めて自分の名を告げるのは止めることにした。
「わかりました。コラルド様に相談してみます」
<それから、なんだその口調は?なぜその様な遜った話し方をするのだ?今まで普通に話していたであろう?>
「それは……」
お前が偉そうな貴族みたいな話し方だから、思わずそうなったんだよ……と言いかけて口を噤む。たしかに急に口調を変えたのは自分の方だ。
「ははっ。そうだな、魔獣が話すなんて珍しいから、緊張しただけだ」
弾けるように笑い、チャックは今までの口調に戻した。
<その方が、貴様らしい>
「そうか?」
<そうだな。……杯が開いた、注げ>
「はいよ」
<また酒を持ってくるのだぞ?>
「蒸留酒だな?その前に換金できる物を渡せよ?そんな金は持ってないからな?」
こうして、無言の月見の酒宴は、月を見ながらおじさんが語り合う酒宴に変わったのだった。
月は変わりなく、美しく輝いていた。
※ ※ ※ ※ ※
本日、第4木曜は宇崎鷹丸先生によるコミック版『追い出された万能職に新しい人生が始まりました』の更新日となります。https://www.alphapolis.co.jp/manga/official/852000274
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