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◆  ◆

 アンはなるべく他の生徒たちが通らないような道を選び、学校へ向かった。意識していないのに、歩くスペースがどんどん落ちていく。
 ――腹がとてつもなく痛い。吐きそうだ。今朝も何も口にすることができなかった。
 日に日に恐怖が増していくようになった。

 怖くて。恐ろしくて。

 学校の建物が見えてきた。もうこんな所まで来てしまったのか。生徒たちの、騒々しい声が聞こえてきた。

 怖い。怖い。
 消えてしまいたい。
 泣きそうだ。
 誰でもいい、あの学校を破壊しろ――。

 あれこれ考えているうちに、腹痛は更に酷くなる。あっという間に校門前に来てしまった。

 ――あ。見てアレ
 ――うわぁ城所アンナだ。朝から最低なもの見ちゃったね

 かすかに、そんな会話が聞こえてきた。同じクラスの人だろうか。それとも、アンの知らない人だろうか……
 だがこれはもはや、珍しいことではない。わざわざ感情を表に出す必要もなかった。
 アンはずっと下を向いたまま歩き続けた。校舎の周りを歩く生徒は皆、アンを避けている。

 朝はじめに不安なのは、自分の下駄箱に行くまでだ。上履きの中に何か入れられていたら。あるいは上履き自体なくなっていたら……
 犯人は必ず、どこかで見ているのだ。どんな反応をしたらよいのだろう。そこで悲しんでしまったら、今度はもっと酷い仕打ちをされるだろう。そうならない為、何のリアクションも取らない方がいいのだろうか……?
 下駄箱に着きアンは恐る恐る、自分の上履きが置いてあるかを確認する。

 ……ある。

 ちゃんと、アンの上履きが。
 中には……何も、ない。画鋲も何も、入れられていない。
 ひとまず、安心だ。アンは上履きを履いた。
(どうか、今日も靴を履いて家に帰れますように)
 目を閉じて、いるかも分からない神様にアンはお願いした。

 上履きが無事か、などという問題はただの序章に過ぎなかった。これからだ。これからが、地獄の始まりなのである。
 大杉ナオミといかれたクラスメートたちがいる教室へ行くのだ。そう考えただけで、気がおかしくなりそうだった。
 自分がこんな所にいる意味がわからない。今すぐにでも帰りたい。でもできない。

 アンは一歩、また一歩教室へ向かって進んでいく。四階まで行かなくてはならないが、着くまでの時間が馬鹿みたいに長く感じられる。

 ――こうして、地獄は始まってしまった。教室に、着いてしまったのだ。

 扉を開けた瞬間、アンの所に何十枚ものボロ雑巾が襲いかかってきた。不意だったので全てがアンの全身に命中した。ものすごい悪臭がする。何の臭いだ。
 訳が分からないまま、雑巾は床に落ちていった。
 アンの目の前には鬼女が――大杉ナオミがニヤニヤして立っている。その周りには、友だちだったはずの子を含めたクラスメートたちがいる。
「…………!?」
 何かを叫ぼうとしたが、アンの声は声にならなかった。脚がガクガク震えている――。
「汚ねぇな」
 しんとした教室の中から、一人の男子がそう言った。すると――
「うん、汚いね」
「不潔。不潔よ」
「まじキモイ」
 皆が口々にアンに向かって言いはじめた。言葉のひとつひとつが、アンの胸を突き刺していった。

「城所」
 と、大杉がアンのことを見下してきた。そして床に落ちている大量の雑巾を指差して、信じられないことを話しはじめた。
「それ、びしょ濡れで超臭いでしょ。どうしてだか分かる? 実はねぇ、全部サオリん家の犬のおしっこが付いてるんだよ」
「え……!」
「これ全部やるのに、すっごい苦労したんだよー。ね、サオリ?」
 大杉が振り向く目線の先――そこには、隅で黙ったままうつむくサオリの姿が。彼女は、大杉とつるんでいる女たちと一緒にいた。
「……サオリ、なんで……?」
「…………」
 アンが聞いても彼女からの返事はない。その代わりに別の女子が話す。
「決まってんじゃん。サオリはうちらの仲間だから、一緒になってあんたを痛めつけてんのよ」
「ナオミが言ったことは素直に聞いてくれるんだよ。もうあんたの友だちじゃないってさ。そうだよね、サオリ」

「…………。うん」

 アンは今の会話の最後を聞いたが、耳を疑うしかなかった。
 無造作に落ちている雑巾を、アンはもう一度見てみた。
 世界はどんどん、闇に包まれていく気がしてならない……。

(サオリもみんなと一緒なんだね……)

 そう確信してしまうと、アンは心の限界を感じるようになった。いちいち気にしていると、自分自身がおかしくなってしまう。
 この数日の間、何度泣いたことだろう。目がたとえ痛くなっても、腫れても、涙は止まらないのだ。イジメが怖くて、苦しくて、悲しくて。
 こんな思いをするならば、もう何も気にしない方がいいのだ。感情を表に出さず、ずっと無心になっていれば。もう辛い思いをすることなんてなくなる。
 もう、どうでもいい。
 何をされても、どうだっていい。

「おい城所。お前がそれ全部片付けろよ」
 クラスメートに言われると、アンは無言のまましゃがみ雑巾に手を伸ばす。そして少しも躊躇せずに両手で掴み取った。
 ぬるぬるしている……。吐きたくなるような、強烈な悪臭。
 ――我慢するんだ。ここで負けてはならない。感情を無にしろ。
 アンは自分に言い聞かせた。それなのにまた、瞳の中からは涙が溢れ出てくるのだ――。
 悔しい。
 恥ずかしい。
「みじめ」
「みじめな奴!」
 皆はアンを囲んで笑い者にした。

 ――この日から、アンは本当に感情を表に出すことができなくなってしまった。





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