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アンはなるべく他の生徒たちが通らないような道を選び、学校へ向かった。意識していないのに、歩くスペースがどんどん落ちていく。
――腹がとてつもなく痛い。吐きそうだ。今朝も何も口にすることができなかった。
日に日に恐怖が増していくようになった。
怖くて。恐ろしくて。
学校の建物が見えてきた。もうこんな所まで来てしまったのか。生徒たちの、騒々しい声が聞こえてきた。
怖い。怖い。
消えてしまいたい。
泣きそうだ。
誰でもいい、あの学校を破壊しろ――。
あれこれ考えているうちに、腹痛は更に酷くなる。あっという間に校門前に来てしまった。
――あ。見てアレ
――うわぁ城所アンナだ。朝から最低なもの見ちゃったね
かすかに、そんな会話が聞こえてきた。同じクラスの人だろうか。それとも、アンの知らない人だろうか……
だがこれはもはや、珍しいことではない。わざわざ感情を表に出す必要もなかった。
アンはずっと下を向いたまま歩き続けた。校舎の周りを歩く生徒は皆、アンを避けている。
朝はじめに不安なのは、自分の下駄箱に行くまでだ。上履きの中に何か入れられていたら。あるいは上履き自体なくなっていたら……
犯人は必ず、どこかで見ているのだ。どんな反応をしたらよいのだろう。そこで悲しんでしまったら、今度はもっと酷い仕打ちをされるだろう。そうならない為、何のリアクションも取らない方がいいのだろうか……?
下駄箱に着きアンは恐る恐る、自分の上履きが置いてあるかを確認する。
……ある。
ちゃんと、アンの上履きが。
中には……何も、ない。画鋲も何も、入れられていない。
ひとまず、安心だ。アンは上履きを履いた。
(どうか、今日も靴を履いて家に帰れますように)
目を閉じて、いるかも分からない神様にアンはお願いした。
上履きが無事か、などという問題はただの序章に過ぎなかった。これからだ。これからが、地獄の始まりなのである。
大杉ナオミといかれたクラスメートたちがいる教室へ行くのだ。そう考えただけで、気がおかしくなりそうだった。
自分がこんな所にいる意味がわからない。今すぐにでも帰りたい。でもできない。
アンは一歩、また一歩教室へ向かって進んでいく。四階まで行かなくてはならないが、着くまでの時間が馬鹿みたいに長く感じられる。
――こうして、地獄は始まってしまった。教室に、着いてしまったのだ。
扉を開けた瞬間、アンの所に何十枚ものボロ雑巾が襲いかかってきた。不意だったので全てがアンの全身に命中した。ものすごい悪臭がする。何の臭いだ。
訳が分からないまま、雑巾は床に落ちていった。
アンの目の前には鬼女が――大杉ナオミがニヤニヤして立っている。その周りには、友だちだったはずの子を含めたクラスメートたちがいる。
「…………!?」
何かを叫ぼうとしたが、アンの声は声にならなかった。脚がガクガク震えている――。
「汚ねぇな」
しんとした教室の中から、一人の男子がそう言った。すると――
「うん、汚いね」
「不潔。不潔よ」
「まじキモイ」
皆が口々にアンに向かって言いはじめた。言葉のひとつひとつが、アンの胸を突き刺していった。
「城所」
と、大杉がアンのことを見下してきた。そして床に落ちている大量の雑巾を指差して、信じられないことを話しはじめた。
「それ、びしょ濡れで超臭いでしょ。どうしてだか分かる? 実はねぇ、全部サオリん家の犬のおしっこが付いてるんだよ」
「え……!」
「これ全部やるのに、すっごい苦労したんだよー。ね、サオリ?」
大杉が振り向く目線の先――そこには、隅で黙ったままうつむくサオリの姿が。彼女は、大杉とつるんでいる女たちと一緒にいた。
「……サオリ、なんで……?」
「…………」
アンが聞いても彼女からの返事はない。その代わりに別の女子が話す。
「決まってんじゃん。サオリはうちらの仲間だから、一緒になってあんたを痛めつけてんのよ」
「ナオミが言ったことは素直に聞いてくれるんだよ。もうあんたの友だちじゃないってさ。そうだよね、サオリ」
「…………。うん」
アンは今の会話の最後を聞いたが、耳を疑うしかなかった。
無造作に落ちている雑巾を、アンはもう一度見てみた。
世界はどんどん、闇に包まれていく気がしてならない……。
(サオリもみんなと一緒なんだね……)
そう確信してしまうと、アンは心の限界を感じるようになった。いちいち気にしていると、自分自身がおかしくなってしまう。
この数日の間、何度泣いたことだろう。目がたとえ痛くなっても、腫れても、涙は止まらないのだ。イジメが怖くて、苦しくて、悲しくて。
こんな思いをするならば、もう何も気にしない方がいいのだ。感情を表に出さず、ずっと無心になっていれば。もう辛い思いをすることなんてなくなる。
もう、どうでもいい。
何をされても、どうだっていい。
「おい城所。お前がそれ全部片付けろよ」
クラスメートに言われると、アンは無言のまましゃがみ雑巾に手を伸ばす。そして少しも躊躇せずに両手で掴み取った。
ぬるぬるしている……。吐きたくなるような、強烈な悪臭。
――我慢するんだ。ここで負けてはならない。感情を無にしろ。
アンは自分に言い聞かせた。それなのにまた、瞳の中からは涙が溢れ出てくるのだ――。
悔しい。
恥ずかしい。
「みじめ」
「みじめな奴!」
皆はアンを囲んで笑い者にした。
――この日から、アンは本当に感情を表に出すことができなくなってしまった。
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