上 下
5 / 17

しおりを挟む

 同年六月某日

 その日はコウイチの十八歳になる誕生日であった。部活とバイトで忙しい一歳年下の彼女とは学校でちらりとしか会えなかったが、その彼女からずっと欲しかった腕時計を貰ったのだ。コウイチはとても気分がよかった。
 今日だけは大学の受験勉強などやる気はないので、リビングのソファで横になりながらテレビを見ていた。
 ――夜九時頃になると、玄関の扉が開く音がした。妹が塾から帰ってきたようである。
「おっ。お帰りアン!」
「…………」
 返事もしないアン。様子を窺うと、彼女は顔色を悪くしてコップを片手に冷蔵庫の中をあさっていた。そしてジュースのペットボトルを取ると、コップいっぱいにジュースを注ぐ。それからアンはものすごい勢いで飲み干してしまった。
 最近思うのだが、アンの様子は何だかおかしい。コウイチは心配だった。
「おい、お前……腹でも減っているのか。ごはん食ってないなら、ピザでも注文するか?」
「…………」
「なぁ、アン」
「……いらないよ」
 コウイチは少し驚いた。異常なほどアンの声が低く暗かったのだ。まるで赤の他人の声を聞いているようだった。
 コウイチは立ち上がってアンの所に近寄ろうとした。が、アンはペットボトルとコップを素早く片付けて逃げ出すように部屋へ戻っていった。
「ホントにあいつ、どうしたんだ」
 ただ独り言を呟くしかなかった。
 せっかくの誕生日だというのに、彼女から祝の言葉すらもらえなかった――。






 部屋の中は、暗闇に包まれている。
電気を点けないだけで夜がこんなにも寂しいなんて、最近になって知った。アンの心はいつもこの部屋のように暗く寂しい。もしかすると、それ以上かもしれない。心にあったはずの電気が、壊されてしまったからだ。

「学校に行きたくない」

 ベッドで横になり、アンはかすれた声を漏らした。


「学校に行きたくない」

「学校に行きたくない」

「学校に行きたくない」

「学校に行きたくない」

「学校に行きたくない」

「学校に行きたくない」

「学校に行きたくない」

「学校に行きたくない」

「学校に行きたくない」

「学校に行きたくない」

「学校に行きたくない」

「学校に行きたくない」

「学校に行きたくない」

「学校に行きたくない」

「学校に行きたくない」

「学校に行きたくない」

 アンは何回も、何十回も、何百回も同じ台詞を口にしていた。毎日変わらないその言葉が、一体誰が言っているのか分からなくなる時さえある。
 部屋中にガッコウニイキタクナイという呪いの呪文が永遠に響き渡る。

 ――明日は何をされるんだろう。大杉に、何をされると言うのだろう。
 上履きの中に画鋲をたくさん入れられた。悪い噂も全校に流されてしまった。物を取られたり隠されたり壊されたりもされた。クラスからも孤立している。

 ――なぜこんなことに。

 大切な親友も二人、失ってしまった。彼女たちは今では、大杉たちにいい顏をしている。
 なぜこんなことに。分からない。
 なぜこんなことに。分かるはずがない。
 明日、熱でも出ないだろうか。
 明日、台風でもやってこないだろうか。
 明日、学校が崩壊しないだろうか。
「学校に行きたくない……もう、嫌だよ……」
 無理なのだ。いくらいくら現実から逃避しても、確実に朝は来て学校に行かなければならない。
 受験生のアンは学校を登校拒すすることができない。
 アンには夢がある。それを叶える為には、高校へ行って大学に進学して勉強していかなくてはならない。夢を壊されるのはありえないし、大杉たちに負けるのも嫌だった。
 ――今、耐えなくてはならないのだ。どんなことをされても。たとえ、独りぼっちでも。

「……あ」

 寝転がるアンの耳の中が濡れた。一粒の涙がいつものように流れ落ちたのである。拭う必要はない、どうせ止まりはしないのたから。

 アンはそのまま夢の中へと落ちていくのだった。








しおりを挟む

処理中です...