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第三章 父の異変
66,不安
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◆
普通の日常が幸せに溢れていた。こんな何気ない毎日が続いたらいいなって、心のどこかで思うようになった。
だけど、やっぱり父のことが気がかりで ……違和感が 消えないまま徒に時が過ぎていく。
母も何かを感じてるみたいで、たまにどっと疲れた顔をするの 。だけど私たちは、その件に関してはっきり話をすることができなかった。
ある日の夜。いつものように、私は寝る前にヒルスと電話で話をしていた。
楽しいはずのこの時間。今日は、心が沈んでしまう。
『──今度ロンドン市内で大きなダンスイベントがあるんだ。そこにゲストとしてレイも呼びたいとジャスティン先生が言っていたぞ。俺とペアで踊るか?』
「……」
電話の向こうで、ヒルスが楽しそうに何か話をしている。
意識が半分どこかへ飛んでしまって、彼の話が全然入ってこない。
『レイ?』
「……えっと。なに?」
『どうした? 聞こえているか?』
「あっ、うん。ごめん、なんの話だっけ?」
『だから、イベントのことだよ。レイもゲスト出演して、俺とペアダンスしようって』
「あ、ヒルスと一緒に? うん……楽しそう! 私も踊りたい」
不自然なほど明るい声になってしまった。わざとらしすぎるよね、これじゃ。
『レイ、大丈夫か?』
さすがにヒルスにバレてしまう。心配そうな声で問われ、私は小さく息を吐く。
「ごめんね。考え事しちゃって……」
『どうした? 何か悩んでいるのか?』
「うーん、ちょっとだけ、ね」
『俺でよければ聞くから。どうしたんだ』
「……」
打ち明けるべきか悩んだ。この問題はヒルスにも関係する。
だからこそ、電話じゃなくて顔をしっかり見てから相談したいと思った。
「ヒルス、今度のお休みにまた家に帰ってくる?」
『ああ、そのつもりだよ』
「それならそのときに、お話しするね」
『……そうか』
一時、無言の時間が訪れた。いつもなら電話で会話が途切れることなんてない。変に気まずくしてしまい、申し訳ない気持ちになった。
優しい彼は、それ以上無理に問い質すことはしないの。
『レイ』
「うん?」
『あまり悩みすぎるなよ。俺がついているからな』
ヒルスの言葉に、私の胸が再び高鳴ってしまう。自然と口元が緩んだ。
「うん、ありがとう……」
通話を終え、ベッドに横になりながらそっと目を閉じる。幸せな時間を過ごした後、いつもならすぐに眠れるの。
だけど今日は、今日だけは。なかなか寝つけなかった。昼間にあったあの出来事を、どうしても思い出してしまうから。
──それは、昼過ぎの出来事。仕事が休みだった父は、ランチを食べてからリビングのソファで昼寝をしていた。
気持ち良さそうにいびきをかく父に、私はそっと毛布を掛けてあげたの。
「お父さん、風邪引かないようにね」
寝ているから返事はないと思いつつ、優しく声をかける。
ガーデンでダンスの練習をしようと踵を返し、リビングを出ようとした。正にそのときだ。
「……リミィ」
父が掠れた声でたしかにそう呟いたのが聞こえてきた。
心臓がどくんと唸った。振り返ると──父はまだ寝ているみたい。
「びっくりした。寝言、だよね……?」
毛布を握り締めながら眠る父を眺めていると、私は途端に切なくなる。
『あの子のことは一生忘れない。何があっても』
ふと、あの言葉を思い出した。
子を失った父の気持ちを考えると、私はいつだって胸が締めつけられる。
父は、愛情をたくさん持っている人だから。失ってしまった娘のことをいつまでも想い続けているんだもの。それに何よりも──血が繋がっていない私のことさえも、大切にしてくれる。とんでもなく優しい人。
しばらく父の寝る姿を眺めていた。すると突然父の瞼がパッと開き、バッチリと目が合う。
目が虚ろでまだまだ眠そう。だけど私の顔をじっと見ると、なぜか驚いた表情になる。掠れた声で、父はこんなことを言い始めるの──
「リミィ」
「えっ?」
「リミィか? 生きていたのか!」
「お父さん……?」
真っ直ぐこちらを見つめる父は、たしかに私に向かってそう言っている。その表情はあまりに真剣で……。
どう反応をしていいのか分からず、言葉が出なくなってしまう。
それでも父は、満面の笑みで嬉しそうに続けるの。
「大きくなったなあ。会いたかったよ、リミィ」
「……何、言ってるの?」
違う、違うよ、お父さん。私、リミィじゃない。レイだよ。冗談で言ってるの?
驚いた私は、父を残して外へ駆け出した。
胸が苦しい。どういうことなの? 分からない。全然、分からない!
ガーデンを通りすぎ、当てもなく走り続ける。近所にある丘に足を踏み入れ、坂道を上っていった。
呼吸が上がる。胸が痛くて、頭が混乱して、おかしくなりそうだった。
ダンスをして気を紛らわせようとしたけれど、リズムにも乗れずステップも上手く踏めず、まともに踊れなかった。
空を見上げると、黒い雲が太陽を隠して今にも雨が降りそうな天気になっていた。もう、踊る気になんてなれない。
時の流れを忘れ、ぼんやりと町を眺める。蜂蜜色の家々が立ち並ぶ、慣れ親しんだ景色。たまに車や馬が走り去り、近所の人や観光客たちが自然の風景を楽しむ様子が目に入る。なんの変哲もない、日常の中に私はいるはずなのに、景色が灰色に染まっていくような気がした。
心臓がどくどくと煩く脈打ちしている。落ち着かない中で、ズボンのポケットから着信音が鳴り響いた。震えながら携帯電話を確認すると、母からの電話だった。
ふう、と小さく息を吐いてから通話ボタンを押す。
『レイ? 今、どこにいるの?』
「近くの丘の上で散歩してるよ。黙って外に出てごめんなさい」
平静を装うと思ったのに、自分でも分かった。声が暗すぎるって。
『寒いから早めに帰ってきなさいね?」
「……うん」
冷たい風が通りすぎた。思わず身震いしてしまう。
『レイ』
「ん?」
『どうかしたの? 元気ないわね』
そう問われ、すぐには答えられなかった。
最近、私は父のことを考えるとぼんやりしてしまう。今の出来事だって凄く驚いているし、ショックで空元気さえ出ないの。
心配しすぎかもしれない。でも、いくら何でも私をミリィと間違えるなんて絶対におかしい。
携帯電話を握る力が意識しないまま強くなった。
思いきって、自分の中の不安を母にぶつけてみることしたの。
「ねえ、お母さん。訊いてもいい?」
『なに?』
「あの、ね。最近のお父さん、変じゃない……?」
『……』
今度は電話の向こうで、母が口を閉ざす。どんな表情を浮かべているのか見えない。けれど、私と母の間には緊張の空気が流れた。
この問題から逃げるべきじゃない。
「お父さん、物忘れが多くなったよね? ちょっと前に話したこともすぐ忘れたりするし、ぼーっとしてることも多くなったと思わない? どうしたんだろうね?」
『……それは』
敢えて遠回しに言ったりしない。本当は怖かった。じわじわと迫り来る不安に押しつぶされそうで。
母は動揺したような震えた口調になる。
『そうね、お父さんも仕事で疲れているのよ、きっと……。レイは、あまり心配しなくていいのよ』
「本当に疲れてるだけなのかな? 病院で診てもらった方がいいかもよ」
『そんな必要はないわよ。定年退職して、ゆっくり過ごせば前のお父さんみたいに戻ってくれるはずよ』
「で、でも……」
『いいから。レイはあまり考えすぎないで。ほら、風邪引くと大変よ。早く帰ってきなさいね?』
「お母さん……」
もう声を聞くだけで分かっちゃうよ。母が今、どんな顔をしているのか。
母の気持ちは痛いくらい理解できる。だけどこのままだと、いい方向にいかないと思うの。
誰もいない丘の上は、とても静かだ。時折、風が吹くだけで寂しい雰囲気だった。
悶々とした気持ちのまま、私は家に戻った。
普通の日常が幸せに溢れていた。こんな何気ない毎日が続いたらいいなって、心のどこかで思うようになった。
だけど、やっぱり父のことが気がかりで ……違和感が 消えないまま徒に時が過ぎていく。
母も何かを感じてるみたいで、たまにどっと疲れた顔をするの 。だけど私たちは、その件に関してはっきり話をすることができなかった。
ある日の夜。いつものように、私は寝る前にヒルスと電話で話をしていた。
楽しいはずのこの時間。今日は、心が沈んでしまう。
『──今度ロンドン市内で大きなダンスイベントがあるんだ。そこにゲストとしてレイも呼びたいとジャスティン先生が言っていたぞ。俺とペアで踊るか?』
「……」
電話の向こうで、ヒルスが楽しそうに何か話をしている。
意識が半分どこかへ飛んでしまって、彼の話が全然入ってこない。
『レイ?』
「……えっと。なに?」
『どうした? 聞こえているか?』
「あっ、うん。ごめん、なんの話だっけ?」
『だから、イベントのことだよ。レイもゲスト出演して、俺とペアダンスしようって』
「あ、ヒルスと一緒に? うん……楽しそう! 私も踊りたい」
不自然なほど明るい声になってしまった。わざとらしすぎるよね、これじゃ。
『レイ、大丈夫か?』
さすがにヒルスにバレてしまう。心配そうな声で問われ、私は小さく息を吐く。
「ごめんね。考え事しちゃって……」
『どうした? 何か悩んでいるのか?』
「うーん、ちょっとだけ、ね」
『俺でよければ聞くから。どうしたんだ』
「……」
打ち明けるべきか悩んだ。この問題はヒルスにも関係する。
だからこそ、電話じゃなくて顔をしっかり見てから相談したいと思った。
「ヒルス、今度のお休みにまた家に帰ってくる?」
『ああ、そのつもりだよ』
「それならそのときに、お話しするね」
『……そうか』
一時、無言の時間が訪れた。いつもなら電話で会話が途切れることなんてない。変に気まずくしてしまい、申し訳ない気持ちになった。
優しい彼は、それ以上無理に問い質すことはしないの。
『レイ』
「うん?」
『あまり悩みすぎるなよ。俺がついているからな』
ヒルスの言葉に、私の胸が再び高鳴ってしまう。自然と口元が緩んだ。
「うん、ありがとう……」
通話を終え、ベッドに横になりながらそっと目を閉じる。幸せな時間を過ごした後、いつもならすぐに眠れるの。
だけど今日は、今日だけは。なかなか寝つけなかった。昼間にあったあの出来事を、どうしても思い出してしまうから。
──それは、昼過ぎの出来事。仕事が休みだった父は、ランチを食べてからリビングのソファで昼寝をしていた。
気持ち良さそうにいびきをかく父に、私はそっと毛布を掛けてあげたの。
「お父さん、風邪引かないようにね」
寝ているから返事はないと思いつつ、優しく声をかける。
ガーデンでダンスの練習をしようと踵を返し、リビングを出ようとした。正にそのときだ。
「……リミィ」
父が掠れた声でたしかにそう呟いたのが聞こえてきた。
心臓がどくんと唸った。振り返ると──父はまだ寝ているみたい。
「びっくりした。寝言、だよね……?」
毛布を握り締めながら眠る父を眺めていると、私は途端に切なくなる。
『あの子のことは一生忘れない。何があっても』
ふと、あの言葉を思い出した。
子を失った父の気持ちを考えると、私はいつだって胸が締めつけられる。
父は、愛情をたくさん持っている人だから。失ってしまった娘のことをいつまでも想い続けているんだもの。それに何よりも──血が繋がっていない私のことさえも、大切にしてくれる。とんでもなく優しい人。
しばらく父の寝る姿を眺めていた。すると突然父の瞼がパッと開き、バッチリと目が合う。
目が虚ろでまだまだ眠そう。だけど私の顔をじっと見ると、なぜか驚いた表情になる。掠れた声で、父はこんなことを言い始めるの──
「リミィ」
「えっ?」
「リミィか? 生きていたのか!」
「お父さん……?」
真っ直ぐこちらを見つめる父は、たしかに私に向かってそう言っている。その表情はあまりに真剣で……。
どう反応をしていいのか分からず、言葉が出なくなってしまう。
それでも父は、満面の笑みで嬉しそうに続けるの。
「大きくなったなあ。会いたかったよ、リミィ」
「……何、言ってるの?」
違う、違うよ、お父さん。私、リミィじゃない。レイだよ。冗談で言ってるの?
驚いた私は、父を残して外へ駆け出した。
胸が苦しい。どういうことなの? 分からない。全然、分からない!
ガーデンを通りすぎ、当てもなく走り続ける。近所にある丘に足を踏み入れ、坂道を上っていった。
呼吸が上がる。胸が痛くて、頭が混乱して、おかしくなりそうだった。
ダンスをして気を紛らわせようとしたけれど、リズムにも乗れずステップも上手く踏めず、まともに踊れなかった。
空を見上げると、黒い雲が太陽を隠して今にも雨が降りそうな天気になっていた。もう、踊る気になんてなれない。
時の流れを忘れ、ぼんやりと町を眺める。蜂蜜色の家々が立ち並ぶ、慣れ親しんだ景色。たまに車や馬が走り去り、近所の人や観光客たちが自然の風景を楽しむ様子が目に入る。なんの変哲もない、日常の中に私はいるはずなのに、景色が灰色に染まっていくような気がした。
心臓がどくどくと煩く脈打ちしている。落ち着かない中で、ズボンのポケットから着信音が鳴り響いた。震えながら携帯電話を確認すると、母からの電話だった。
ふう、と小さく息を吐いてから通話ボタンを押す。
『レイ? 今、どこにいるの?』
「近くの丘の上で散歩してるよ。黙って外に出てごめんなさい」
平静を装うと思ったのに、自分でも分かった。声が暗すぎるって。
『寒いから早めに帰ってきなさいね?」
「……うん」
冷たい風が通りすぎた。思わず身震いしてしまう。
『レイ』
「ん?」
『どうかしたの? 元気ないわね』
そう問われ、すぐには答えられなかった。
最近、私は父のことを考えるとぼんやりしてしまう。今の出来事だって凄く驚いているし、ショックで空元気さえ出ないの。
心配しすぎかもしれない。でも、いくら何でも私をミリィと間違えるなんて絶対におかしい。
携帯電話を握る力が意識しないまま強くなった。
思いきって、自分の中の不安を母にぶつけてみることしたの。
「ねえ、お母さん。訊いてもいい?」
『なに?』
「あの、ね。最近のお父さん、変じゃない……?」
『……』
今度は電話の向こうで、母が口を閉ざす。どんな表情を浮かべているのか見えない。けれど、私と母の間には緊張の空気が流れた。
この問題から逃げるべきじゃない。
「お父さん、物忘れが多くなったよね? ちょっと前に話したこともすぐ忘れたりするし、ぼーっとしてることも多くなったと思わない? どうしたんだろうね?」
『……それは』
敢えて遠回しに言ったりしない。本当は怖かった。じわじわと迫り来る不安に押しつぶされそうで。
母は動揺したような震えた口調になる。
『そうね、お父さんも仕事で疲れているのよ、きっと……。レイは、あまり心配しなくていいのよ』
「本当に疲れてるだけなのかな? 病院で診てもらった方がいいかもよ」
『そんな必要はないわよ。定年退職して、ゆっくり過ごせば前のお父さんみたいに戻ってくれるはずよ』
「で、でも……」
『いいから。レイはあまり考えすぎないで。ほら、風邪引くと大変よ。早く帰ってきなさいね?』
「お母さん……」
もう声を聞くだけで分かっちゃうよ。母が今、どんな顔をしているのか。
母の気持ちは痛いくらい理解できる。だけどこのままだと、いい方向にいかないと思うの。
誰もいない丘の上は、とても静かだ。時折、風が吹くだけで寂しい雰囲気だった。
悶々とした気持ちのまま、私は家に戻った。
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