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第三章

弱い自分

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 ──翌朝。

 身体の具合に問題がないと判断され、僕は集中治療室から一般病棟へと移された。手術が終わってから十七時間が経っていた。
 ……いや、まだそんなもんか? 時の流れが遅すぎる。

 しかも、背中の痛みがじわじわと増してきていた。痛み止めがあっても、この苦痛を完全に防いでくれるわけじゃない。

 ナースステーションのすぐ目の前にある病室へ移動した後、お茶をもらった。横になったままストローでゴクゴクと一気に飲み干す。

 ──ああ、おいしい。すごく、おいしいよ。

 麦茶がこんなにうまいって思ったのは生まれて初めてだ。冷たくて、喉をあっという間に潤わせてくれて、最高の味だ。
 喉の渇きは、これで大丈夫になった。でも……。

「コウキ君。ごはん、食べられるかな?」
「……ちょっとだけ」

 起き上がることができないので、食事は横になったままだ。看護師さんに手伝ってもらって一切れの食パンを口に含める。だけど、驚くほど食欲が湧かないんだ。
 おかしい。丸一日何も口にしてなくて、お腹が空いているはずなのに。

「まだ術後の疲れが取れないんだね。無理しなくてもいいよ。お昼はもっと食べられるといいね」
「うん……」

 覇気のない返事しかできない。デザートのオレンジを二口もらい、あとは全部残してしまった。
 もったいないな……すごくおいしそうなのに。

 でも、問題はこれだけじゃない。

「ねえ、看護師さん」
「うん?」
「背中が……痛いよ」

 思わず涙声になってしまう。でも、訴えずにはいられないんだ。
 どんどん背中が熱くなって、確実に痛みが大きくなっているのが分かった。
 得体の知れない恐怖が襲ってくるみたいだ。逃げ出したいのに、逃げられない。
 背中からじんわりと汗が滲み出る。

「そうだね、痛いよね。痛み止め、処方してもらおっか」
「お願い」

 ──その後、痛み止めはすぐに出してもらった。けれど、やっぱり完全に落ち着くわけじゃなかった。
 二時間に一度の寝返りの際は悲鳴が出るほど辛くて、僕は赤ちゃんのように泣き叫んだ。

 できるだけ眠ろうとするけれど、目が冴えてしまって寝ることすらも難しい。かと言って、起きていると時の流れが信じられないほど遅く感じる。気が狂いそうなほど辛かった。

 僕が今いる部屋は、小さな赤ちゃんや年下の子たちが入院してた。みんながみんな延々と泣いている。「ママ」「ママ」と叫び続ける子もいた。親と離れて寂しいよな……。
 気持ちはすごく分かるんだけど、その泣き叫ぶ声は、今の僕にとっては耳に響く。痛くて痛くてたまらないんだ。

 リョウのいる部屋に戻りたいよ。今頃リョウは何をしているかな。学校で授業を受けているかな。リハビリをしているのかな。
 同じ病棟にいるのに会えないなんて、寂しいなぁ。
 考えてもどうしようもないことが、頭の中でぐるぐる回転する。

 そんなとき──ふと、手元に置いてあるものが目に映った。可愛らしい茶色の猫がひとつ葉のクローバーを手に持つ、大切なお守りだ。
 入院前に交わしたユナとの約束を、僕は必ず果たさなきゃいけないんだ。正直かなり苦痛だけど、これを乗りこえてユナと一緒に町を歩く旅に出るんだろ……!

 強くそう思ったときに、腕に変な力が入ってしまった。手の甲にお守りが当たり、ベッドガードの隙間から勢いよく落ちていく。コツンと、お守りが床に当たった音が虚しく僕の耳に届いた。

 ……ああ、どうしよう。やってしまった。お守りが、落ちちゃった。自分で拾うことができない。ナースコールで看護師さんを呼ばなきゃ。
 でも、運が悪いことに、コールボタンが手の届かないところにあるんだ。ほんの少しだけ動けば押せる場所にあるのに、それすらもできない。

 どうしよう。どうすればいい?

 ユナからもらった大事なものなんだぞ。チャコにそっくりな猫のお守りなのに。ひとつ葉のクローバーには「困難に打ち勝つ」という花言葉があるはずだろ。
 ……できるのか? こんな僕に。自分じゃ何もできなくて、ただただ痛みに悶えて、弱り切っているこの僕が、ユナとの約束を守ることなんてできるのかよ……?
 考えているうちに、自分が情けなくなった。視界がぼやけていく。涙が勝手にあふれ、嗚咽も漏れた。

 泣くな、泣くんじゃない! 泣いたってどうしようもないだろ! 昨日の夜からこれで何回目だよ!

 どんなに我慢しようとしても、だめだった。
 痛いから辛いのか、弱い自分に嫌気がさしているのか、それとも今の状況全てが苦痛なのか。一体何に対して泣いているのか、自分でもまるで分からない。 

 誰にもバレないよう、僕は声を殺して泣き続けた。
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