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第一章
ファーマー家の事情
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月曜日の朝。
寝起きの身体を無理やりベッドから引きずり出し、自室のカーテンを開ける。
マンションの五階から眺める風景には、今日も忙しなさが描かれていた。アスファルトに塗られた道を歩くサラリーマンや学生たちの姿。彼らは皆、眠そうな目をして町の中を行き交っている。
大型連休が終わり、日常が戻ったんだ。
休み明けの朝って、なんでこんなに怠いんだろうな……。
胸中で嘆きながらあくびを一発、俺は学校へ行く準備を始めた。
洗面所で歯を磨いてから顔を洗い、髭を剃り、フェイスクリームで肌を整える。
軽く髪を梳かして、それから高校の制服に手を伸ばした。
まだまだ新しいワイシャツ。不器用な手で青いネクタイを首に巻きつけ、ダークグレーのブレザーを羽織った。
入学してからそろそろ一ヶ月が経つが、あまり馴染んでいない気がする。鏡に映る自分の姿は、見るからに寝ぼけていてみっともなかった。
寝起きだとしても、俺の腹は朝食を求めて音を鳴らしている。重い足取りでリビングへ移動した。
「おはよう、イヴァン!」
ライトグレーの瞳を俺に向け、母がキラキラした笑顔で俺を出迎えた。
表情も声も明るい母は、四十代後半とは思えないくらい若々しい。実子である俺から見ただけでなく、友人たちにだって美人だとよく言われるほど。
母はちょうどダイニングテーブルに朝食を並べ終わったようだ。大きな皿の上には目玉焼きとビーンズ、焼いたウィンナーやおにぎりが盛られている。
フォークを手に取り、椅子に腰かけて俺は食事をとりはじめた。日本人の習慣として「いただきます」も忘れずに。
俺が黙々と食事を進める中、やがて父もリビングへやって来た。
「モーニング、ダーリン!」
母は満面の笑みで父にも挨拶をする。
愛おしそうに目を合わせると、父と母は軽くハグをした。
両親は昔から仲がいい。俺の前でも構わずハグやキスをする。小さい頃から見せつけられているから、別に……今さら気にならないが。
ひと通りスキンシップを取った父は、ゆっくりと椅子に腰かける。シワひとつないシャツを着ているが、アッシュブラウンの短髪には寝癖がついたままだ。癖っ毛の父は、毎朝髪を整えるが大変そうなんだ。
俺の髪質に関しては母親譲りだから、それはよかったと心から思っている。
母も椅子に座り、三人で食卓を囲んだ。夕飯はバラバラになることが多いので、朝は家族団らんの貴重なひとときと言うべきなのかな。
「朝から悪いんだが、二人に話したいことがある」
ミルクティーを一口含んで、父は急に姿勢を正した。
なんだろう、急に改まって。
ふう、と息を吐き、どこか緊張した面持ちでひとことだけ口にした。
「時間がないから手短に話す。イギリスへ、帰ろうと思うんだ」
その声は、普段よりもはるかに低いものだった。
というか今なんて言った? 帰ろう? イギリスへ帰ろう、と言いやがったのか。
胸騒ぎがする。たったひとつの単語の意味を、理解したくなかった。
……いや、慌てる必要はない。帰ると言っても、一時的にという意味だろう。
数年に一度、両親の故郷に帰省しているんだ。今回だって、そういうことに違いないはず。
──しかし、俺の現実逃避な考えなど、あっさりと覆されてしまうものだ。
小首を傾げ、母は父に問いかけた。
「一時帰国する、ということかしら?」
「いいや。向こうで暮らそうという意味だ」
「まあ。大胆ね!」
母は目を見開いた。
おいおい、冗談だろ父さん。一体なにを言い出すんだ。イギリスで暮らす、だって? ずいぶん唐突なんだな。
家族の中で最も驚いたのは、間違いなくこの俺だ。大袈裟すぎるくらい大きく首を横に振った。
「やめてくれよ。俺はこの春から高校に入学したばかりなんだぞ。いきなり言われても困る」
「安心しろ。お前が卒業するまでは待ってやる。進学や就職は向こうでするといい」
「簡単に言わないでくれ。父さんは『あの日のこと』を忘れたのかよ」
「いや。ちゃんと覚えているさ。しかしな……お前は、いつまで過去を引きずる気だ。あの日のことに囚われたままでは、人生を豊かにできないぞ」
無神経な父のひとことに、一気に俺の怒りが沸点に達してしまう。
なに言ってんだこの親父は?
母が慌てたように父に「やめて」と訴えるが、もう遅い。
「ふざけんな! 俺の気持ち……わかってくれてなかったのかよ? 父さんは、自分の都合ばかり押しつけようとするんだな」
「そんなわけあるか。今回の件は、お前のためを思ってだな」
「どこが俺のためなんだよ。イギリスに帰る理由はなんだ!」
あたかも決定事項というように話を進める父に対して、俺は全力で拒否し続ける。
しんみりした表情になると、父はその理由を語りだした。
「実は、以前働いていたイギリスの会社から、戻ってこないかと言われてな。この機会を逃したくないんだ」
恐ろしいほどに、父の口調は真面目だった。
俺はそれを聞いて、言葉が出ない。
父は元々、英国に本社を置く電子部品関連会社の社員だった。俺が生まれる前から日本の駐在員として働いてたらしいが、十年ほど前に日本企業に転職したという。父はたびたび前職での話を母にしていたから、俺も知っている。
「おれの信頼している元上司が誘ってくれたんだよ。イギリス本社でまた働こうと。長く日本で生活してきた経験と語学力があれば、断然収入が増える。そうすれば、お前の大学費用や将来のためのお金ももっと用意ができると思ってな」
「だからってイギリスに帰るのか? 前の会社に戻るなら、日本の支社に行けばいいだろう? なんでわざわざ本社に配属される前提なんだ」
「いいか、イヴァン。今と昔は違うんだ。おれは歳を取った。日本支社で働くのは主に若い世代に任されている。おれは本社に腰を据えて、上の立場として若者たちに……」
「もういい、やめろ」
うんざりだ。なんだかんだ言っているが、結局はイギリスへ帰るための口実にしか聞こえない。
父のキャリアアップに付き合ってられるか。ぶさけるもの、いい加減にしろ。
「俺は反対だ。イギリスへ帰るなら勝手にすればいい。俺は日本に残る」
喉が枯れそうになるほど、絶叫した。
最低だ。どうしていつも、こうなんだ。家族に関係することは、父さんが勝手に決めてしまう。俺や母さんの意見なんて聞かずに。というか、母さんは昔から父さんの提案をあまり拒否するタイプじゃなく、はいはい付いていく人だった。俺もそれに流されて生きてきたけれど──今回はそうはいかない。
イギリスには帰らない。帰省だけなら百歩譲っていいとしても、向こうで暮らすなんて百%受け入れられない。
イギリスで暮らす【あの人】の顔が、頭の中を過った。俺のこの赤毛を貶し、俺が口を開けば罵ってきた。
思い出すだけでも腹が立って仕方がない。
僕はイライラした気持を抱えながら、リビングから背を向けた。
「待って……イヴァン、朝ごはんがまだ残っているわ」
「いらねぇよ!」
俺は母にも毒を吐き、鞄を持って自宅を飛び出した。
高校生にもなって、反抗的な態度を取るなんてみっともない奴。それでも、父の話にはどうしても頷けないんだ。
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