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第一章
出会い
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な、なんだ。まさか、中国語で話しかけてきたのか?
思わぬ事態に俺は固まってしまう。
「哎呀……我要低咖啡因的拿铁!」
お客さんは困ったような顔をして、声量を上げてきた。
おいおい、待ってくれ。全くもって意味不明なんだが?
日本語も英語も話せないのだろう。彼は早口で中国語を喋り続けてくるが、俺が理解できるはずもない。メニュー表を見せてやり取りしようとしても、この人が何を求めているのか一ミリも伝わってこないんだ。
ああ、まずい。まずいぞ。翻訳機にでも頼ってどうにかしたいくらいだ。というか、お客さんの方から翻訳アプリかなんかを使ってほしい。それすらも伝えられず、どうにももどかしい。
「あの、お客様。すみませんが、中国語はわかりかねます」
なんてこっちが言っても、相手にはまるっきり伝わっていない。
──しばし俺たちがグダグダしている、そんなときだった。
後ろに並んでいる一人の女の人が、こちらをじっと見つめているのが目に映った。
なんとも冷たい眼差しをしているじゃないか。「早くしてくれる?」とでも訴えているのだろうか。
お客さんの要求が分からないという窮地に立たされながらも、完全に気が逸れている俺は、マニーカフェ店員としては失格だ。
お客様、大変申し訳ございません。中国語はニーハオくらいしか存じ上げませんので、これ以上の対応は致しかねます。予めご了承ください。
俺が心中で平謝りしている、そのさなか。後ろに並んでいた女性客が、ゆっくりとこちらに近づいてきた。
……やっべ。とうとうクレームを入れられてしまうのか。「ちょっとどんだけ時間かかってんのよ。私はね、絶妙な甘さが美味しくて見た目も美しいマニーフラッペを早く飲みたいの。チンタラしてんじゃないわよ。白人ならとっとと英語で対応しなさいファックユー!」とか禁止用語を織り交ぜながら怒鳴られてしまうのか……!?
思わず身構える。
だが、俺のこんなアホみたいな心配とは裏腹に、彼女は男性客に向かって冷静に口を開いた。
「大哥,你需要帮忙吗」
……ん? 今、中国語を喋ったよな。彼女も話せるのか。奇遇にも、中国からのお客さんが二組もこの場に居合わせたのか?
「你要低咖啡因拿铁吧」
状況がいまいち理解できていない俺をよそに、彼女は流暢な中国語でお客さんと話し出した。
なにを言ってるのかさっぱりだ。もはや宇宙語に聞こえる。
俺がカウンター越しで茫然としていると、彼女がパッとこちらに顔を向けた。
「このお客さん、カフェインレスのホットラテがほしいんですって」
「えっ」
俺は一瞬、言葉が出てこなかった。
たった一秒前まで中国語を話していた彼女が、いきなり日本語を口にしている。それも、とても綺麗な発音で。
この人は、中国語が喋れる日本人なのか。いや……それとも、日本語が話せる中国人か?
──まあ、そんなことはどうでもいい。
とにかく、彼女はこのピンチから俺を救おうとしてくれているようだ。なんて、ありがたいんだろうか。
「なにボーッとしてるのよ。さっさとこのお客さんにラテを用意してあげたら?」
彼女の言葉にハッとした。
「失礼しました。カフェインレスのホットラテですね、ただ今ご用意します」
テンパるのは一旦やめだ。
会計を済ませ、それから俺はラテを丁寧になおかつ超特急でカップに注いだ。出来上がった商品を、お客さんにさらりと差し出した。
「お待たせしました。カフェインレスのホットラテです!」
商品を受け取ると、お客さんは満足そうな顔をして店内から去っていった。
よかった。要求に応えられて……。
安堵しながらも俺は、中国語で助けてくれた彼女に向かって勢いよく頭を下げる。
「ありがとうございます。お姉さんのおかげで、助かりました」
「別に。早く注文したかっただけだから。顔上げて」
そう言われ、俺はゆっくりと面を上げる。
──このとき、初めて彼女の顔をはっきりと見た。
よく手入れされたショートボブは、艶のある黒色がとても綺麗だった。こちらを見つめるブラウンの瞳は大きく、表情はどこか冷たい。けれど、すごく美人なんだ。
彼女を前にして、俺は息を呑む。
思わずドキッとしたが、今はあくまでも業務中だ。平静を装い、俺はマニーカフェの店員として接客を続ける。
「お待たせしてしまいすみませんでした。ご注文は?」
「そうね。新商品って今日からよね?」
「はい。チョコレートチップ抹茶フラッペのことですね」
「ええ。それのSサイズをちょうだい」
「かしこまりました。ただ今お作りいたします」
お金を受け取ってから、俺はドリンク作りを開始した。
抹茶ミルクとホワイトクリームをカップに注ぎ、丁寧にチョコチップを載せていく。
ただ機械的に入れるだけではダメだ。マニーカフェのドリンクは見た目も大事。美しく、色鮮やかに作らなければならない。
……と、関さんから教わった。
全身全霊で商品を作り終え、俺はそっと彼女にカップを差し出した。
「お待たせしました。期間限定販売のチョコレートチップ抹茶フラッペです」
彼女は商品を眺めながら、ふっと微笑んだ。
「すごく綺麗ね」
「ありがとうございます。ほろ苦い抹茶の味とホワイトクリームの甘さがほどよくマッチしていて、すごく美味しいんですよ」
「そう。味わっていただくわ」
「ぜひ! ごゆっくりどうぞ」
フラッペを片手に、彼女は客席へ歩いていった。カウンターから背を向ける形で窓際の席に座る。
なにかの参考書を開き、どうやら勉強するらしい。雰囲気は大人っぽい人だが、もしかしたら学生なのかな。
──と、俺が彼女のことを気にしている、そんなときだった。
背後から、殺気が漂ってきた。恐る恐る、振り返ってみる。
案の定と言うべきか。やはり睨まれていた。
……恐怖の先輩、関さんに!
『おいてめぇ、お客さんにはもっと丁寧に接客しやがれ!』
と言いたげな目をしているじゃないか。
関さんの鬼の形相を見ただけで俺は息が止まりそうになる。焦りつつアイコンタクトで返事をした。
『いやいや、関さん。あれでも丁重にもてなしたつもりなんですよ』
『つもりになってるんじゃねぇ! 日本語が通じない客でもなんでも、公平に対応できるようになれよ!』
マジで関さんはおっかない。さすがバイトリーダー。俺みたいなぺーぺーにだって容赦しないんだ。
──その日、ランチタイムに入るなり更にお客さんの数が増えて、俺たちは死ぬ想いをした。瞬く間に長蛇の列になり、席も満席になり、息をつく間もないくらい人が押し寄せてきた。
関さんは忙しくなればなるほど更に機嫌が悪くなって、業務速度を爆上がりさせている。キッチン内の作業を迅速に確実にこなしながらオーダーを捌き続けた。
俺も営業スマイルを保ち、何百人ものお客さんを対応し、正直疲れた。その中でも何人か外国のお客さんもいて、余計に疲労がヤバかった。
ここのマニーカフェは海外から来たお客さんが多い。
ただでさえ俺は「白人」だ。ネームプレートにはファーマーと記名もされている。みんながみんな俺を見るなり、英語で対応してくれるものだという前提で話しかけてくるんだ。
俺は無理だよ、英語での対応なんて。心や習慣、言語は日本人なんだ。見た目と血統だけがイギリス人というだけだからな。
──それにしても、中国語で助けてくれた彼女は凄かった。日本語も普通に話していた。留学経験があるのか、それともバイリンガルなのか。
マニーカフェの店員である俺が、お客さんに対して私情を聞き出すなんてことはできない。それでも、つい考え込んでしまった。
しかし俺が帰る頃、気になる彼女はとっくに店から姿を消していた。
いつかまた、店に来てくれるのだろうか。
思わぬ事態に俺は固まってしまう。
「哎呀……我要低咖啡因的拿铁!」
お客さんは困ったような顔をして、声量を上げてきた。
おいおい、待ってくれ。全くもって意味不明なんだが?
日本語も英語も話せないのだろう。彼は早口で中国語を喋り続けてくるが、俺が理解できるはずもない。メニュー表を見せてやり取りしようとしても、この人が何を求めているのか一ミリも伝わってこないんだ。
ああ、まずい。まずいぞ。翻訳機にでも頼ってどうにかしたいくらいだ。というか、お客さんの方から翻訳アプリかなんかを使ってほしい。それすらも伝えられず、どうにももどかしい。
「あの、お客様。すみませんが、中国語はわかりかねます」
なんてこっちが言っても、相手にはまるっきり伝わっていない。
──しばし俺たちがグダグダしている、そんなときだった。
後ろに並んでいる一人の女の人が、こちらをじっと見つめているのが目に映った。
なんとも冷たい眼差しをしているじゃないか。「早くしてくれる?」とでも訴えているのだろうか。
お客さんの要求が分からないという窮地に立たされながらも、完全に気が逸れている俺は、マニーカフェ店員としては失格だ。
お客様、大変申し訳ございません。中国語はニーハオくらいしか存じ上げませんので、これ以上の対応は致しかねます。予めご了承ください。
俺が心中で平謝りしている、そのさなか。後ろに並んでいた女性客が、ゆっくりとこちらに近づいてきた。
……やっべ。とうとうクレームを入れられてしまうのか。「ちょっとどんだけ時間かかってんのよ。私はね、絶妙な甘さが美味しくて見た目も美しいマニーフラッペを早く飲みたいの。チンタラしてんじゃないわよ。白人ならとっとと英語で対応しなさいファックユー!」とか禁止用語を織り交ぜながら怒鳴られてしまうのか……!?
思わず身構える。
だが、俺のこんなアホみたいな心配とは裏腹に、彼女は男性客に向かって冷静に口を開いた。
「大哥,你需要帮忙吗」
……ん? 今、中国語を喋ったよな。彼女も話せるのか。奇遇にも、中国からのお客さんが二組もこの場に居合わせたのか?
「你要低咖啡因拿铁吧」
状況がいまいち理解できていない俺をよそに、彼女は流暢な中国語でお客さんと話し出した。
なにを言ってるのかさっぱりだ。もはや宇宙語に聞こえる。
俺がカウンター越しで茫然としていると、彼女がパッとこちらに顔を向けた。
「このお客さん、カフェインレスのホットラテがほしいんですって」
「えっ」
俺は一瞬、言葉が出てこなかった。
たった一秒前まで中国語を話していた彼女が、いきなり日本語を口にしている。それも、とても綺麗な発音で。
この人は、中国語が喋れる日本人なのか。いや……それとも、日本語が話せる中国人か?
──まあ、そんなことはどうでもいい。
とにかく、彼女はこのピンチから俺を救おうとしてくれているようだ。なんて、ありがたいんだろうか。
「なにボーッとしてるのよ。さっさとこのお客さんにラテを用意してあげたら?」
彼女の言葉にハッとした。
「失礼しました。カフェインレスのホットラテですね、ただ今ご用意します」
テンパるのは一旦やめだ。
会計を済ませ、それから俺はラテを丁寧になおかつ超特急でカップに注いだ。出来上がった商品を、お客さんにさらりと差し出した。
「お待たせしました。カフェインレスのホットラテです!」
商品を受け取ると、お客さんは満足そうな顔をして店内から去っていった。
よかった。要求に応えられて……。
安堵しながらも俺は、中国語で助けてくれた彼女に向かって勢いよく頭を下げる。
「ありがとうございます。お姉さんのおかげで、助かりました」
「別に。早く注文したかっただけだから。顔上げて」
そう言われ、俺はゆっくりと面を上げる。
──このとき、初めて彼女の顔をはっきりと見た。
よく手入れされたショートボブは、艶のある黒色がとても綺麗だった。こちらを見つめるブラウンの瞳は大きく、表情はどこか冷たい。けれど、すごく美人なんだ。
彼女を前にして、俺は息を呑む。
思わずドキッとしたが、今はあくまでも業務中だ。平静を装い、俺はマニーカフェの店員として接客を続ける。
「お待たせしてしまいすみませんでした。ご注文は?」
「そうね。新商品って今日からよね?」
「はい。チョコレートチップ抹茶フラッペのことですね」
「ええ。それのSサイズをちょうだい」
「かしこまりました。ただ今お作りいたします」
お金を受け取ってから、俺はドリンク作りを開始した。
抹茶ミルクとホワイトクリームをカップに注ぎ、丁寧にチョコチップを載せていく。
ただ機械的に入れるだけではダメだ。マニーカフェのドリンクは見た目も大事。美しく、色鮮やかに作らなければならない。
……と、関さんから教わった。
全身全霊で商品を作り終え、俺はそっと彼女にカップを差し出した。
「お待たせしました。期間限定販売のチョコレートチップ抹茶フラッペです」
彼女は商品を眺めながら、ふっと微笑んだ。
「すごく綺麗ね」
「ありがとうございます。ほろ苦い抹茶の味とホワイトクリームの甘さがほどよくマッチしていて、すごく美味しいんですよ」
「そう。味わっていただくわ」
「ぜひ! ごゆっくりどうぞ」
フラッペを片手に、彼女は客席へ歩いていった。カウンターから背を向ける形で窓際の席に座る。
なにかの参考書を開き、どうやら勉強するらしい。雰囲気は大人っぽい人だが、もしかしたら学生なのかな。
──と、俺が彼女のことを気にしている、そんなときだった。
背後から、殺気が漂ってきた。恐る恐る、振り返ってみる。
案の定と言うべきか。やはり睨まれていた。
……恐怖の先輩、関さんに!
『おいてめぇ、お客さんにはもっと丁寧に接客しやがれ!』
と言いたげな目をしているじゃないか。
関さんの鬼の形相を見ただけで俺は息が止まりそうになる。焦りつつアイコンタクトで返事をした。
『いやいや、関さん。あれでも丁重にもてなしたつもりなんですよ』
『つもりになってるんじゃねぇ! 日本語が通じない客でもなんでも、公平に対応できるようになれよ!』
マジで関さんはおっかない。さすがバイトリーダー。俺みたいなぺーぺーにだって容赦しないんだ。
──その日、ランチタイムに入るなり更にお客さんの数が増えて、俺たちは死ぬ想いをした。瞬く間に長蛇の列になり、席も満席になり、息をつく間もないくらい人が押し寄せてきた。
関さんは忙しくなればなるほど更に機嫌が悪くなって、業務速度を爆上がりさせている。キッチン内の作業を迅速に確実にこなしながらオーダーを捌き続けた。
俺も営業スマイルを保ち、何百人ものお客さんを対応し、正直疲れた。その中でも何人か外国のお客さんもいて、余計に疲労がヤバかった。
ここのマニーカフェは海外から来たお客さんが多い。
ただでさえ俺は「白人」だ。ネームプレートにはファーマーと記名もされている。みんながみんな俺を見るなり、英語で対応してくれるものだという前提で話しかけてくるんだ。
俺は無理だよ、英語での対応なんて。心や習慣、言語は日本人なんだ。見た目と血統だけがイギリス人というだけだからな。
──それにしても、中国語で助けてくれた彼女は凄かった。日本語も普通に話していた。留学経験があるのか、それともバイリンガルなのか。
マニーカフェの店員である俺が、お客さんに対して私情を聞き出すなんてことはできない。それでも、つい考え込んでしまった。
しかし俺が帰る頃、気になる彼女はとっくに店から姿を消していた。
いつかまた、店に来てくれるのだろうか。
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