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14章 痛みの意味
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「……」
薄暗い地下牢。空気はカビ臭く、じめじめとしけっている。風の通らない地下は絶えずこの調子だが、今日に関してはそれらに加えて、炭の焼ける焦げ臭いにおいも追加されていた。
「……」
その淀んだ地下牢に、ライラはうずくまって、光のない瞳で床を見つめていた。いや、床を見ていたわけではない。何も見ていないのだ。
「……」
この二十四時間の間に、幼い少女は、その小さな体に課されるにはあまりに過剰な、苛烈極まる拷問を受けた。その想像を絶する痛みと恐怖は、少女から言葉を奪ってしまった。叫んでも、泣きわめいても、状況が変わることはないと分かってしまったからだ。
「……」
一度言葉を発さなくなると、次は思考が滞り始めた。言語を放棄するということは、すなわちコミュニケーションの放棄につながる。元々、ここにライラの言葉をまともに聞く相手がいなかったのも相まって、ライラの心は次第に、分厚い殻の中へと閉じこもっていった。すると次は、聴覚や感覚といった五感が鈍り始める。ライラの体は次第に、外界との繋がりを断ち始めていた。
「……」
今日、ライラは真っ赤に焼けた剣を背中に押し当てられた。炭の焼ける匂いはその名残だ。肌が焼き切られる痛みは耐えがたいものだったが、ライラは心のどこかで、それを他人事のように感じていた。あらゆる感覚が鈍ってきている。痛みを、前ほど痛いと感じない。体も、心も。
「……」
これが、慣れというものなのだろうか。それとも……
「なにか話をしよう」
声がした気がする。分からない。ライラの聴覚は、まるで耳に水が溜まっているかのようにくぐもっていた。どちらにしても、どっちでもよかった。彼女に掛けられるのは、罵声か、心を折らせようとする悪魔の囁きだけだったから。
「聞いているのか。話をするんだ」
今度は声がもっと近くで聞こえた。それでも無視をすると、ライラの小さなあごがむんずと掴まれ、ぐいと上に向けられた。ライラの顔を掴んで見下ろしていたのは、赤髪の寡黙な男。ついさっきまで、ライラを痛めつけていた張本人だった。もっとも彼は、命令のままに動くに過ぎない人間ではあるのだが。
「廃人になるつもりか」
「……」
「みなそうだ。ここに落ちた者は、最後には一切口を利かなくなる。そうして次第に、“内側”から死んでいくのだ」
「……」
「だがハザール様は、お前が死ぬことを許さない。私と話をしろ。思考を止めるな。現実を受け止め、そしてあの方に忠誠を誓うのだ」
「……だ……」
「嫌か。それなら、私と話せ。会話は心を生き返らせる。お前はまだ、死んではならん」
男はあくまで、事務的な口調で言った。だがわずかに、ほんのわずかにだったが、目の前の小さな命への哀れみがにじみ出ていた。
「……あの少年たちは、まだ生きている」
「……っ」
ライラの目に、初めて光が宿った。
「明日、ここに連れて来てやる。だからそれまで死ぬな」
「……ん、とに……?」
「ああ。だが、それはお前を自由にするためではない。ハザール様は、あの者たちからも、お前を説得させるおつもりだ。お前もそれならば、決心がつくだろう」
そんなことはない、とライラは思った。だが、口に出しはしなかった。もし桜下たちだったら、敵の口車に乗ったふりをして、地下のダンジョンを脱出するに違いないと考えたからだ。あの老魔導士は、自らの策に溺れることになる。きっとそうなる。千載一遇のチャンスの到来に、ライラの心に希望が戻った。
「さあ、これで話をする気になったな」
男は掴んでいたライラのあごを離した。ライラは小さくうなずく。
「……うん。でも、何を話すの」
「そうだな……」
男はライラの正面にあぐらをかいて座った。
「お前の母親は、どこの生まれだ」
「え?おかーさんの……知らない」
「知らん?聞かなかったのか。なら、髪の色は?容姿はお前と似ていたか?」
「え、う、うん」
ライラの赤毛は、親譲りだった。ただ、母親の過去はほとんど聞いたことがなかったと、ライラは改めて思う。あの老魔導士は、ライラの母親も自分の奴隷だったと言った。ライラの母も、どこかから攫われてきたのだろうか?
「お前は……おかーさんのこと、知ってるの」
「いいや。存在は知っていたが、直接話をしたことはない。お前たちに関する実験は、ハザール様の肝煎りで、極秘中の極秘だった」
「実験……あれ、ほんとうなの。ライラたちが、造られたって……」
「私には何も言えない。何も知らされていなかったから」
男は瞳を伏せて言った。ライラは出来れば、あれはデタラメなんだと否定をしてほしかった。だけど心の奥底では、真実が知りたいとも思っていた。男はどちらにも応えてくれなかったが。
「私はお前たちについては何も知らない。だが、お前の母親の出身地になら心当たりがある」
「え?」
「海を越えた先に、その地で暮らす民族があるのだ。お前の赤毛は、その民族の特徴を色濃く引き継いでいる」
ライラは自分の赤毛に触れた。そして視線を、目の前の男の頭へと移す。男もまた赤毛だ。
「じゃあ、お前も……?」
「そうだ。私も、そしておそらくあの三つ編みの少女も、同郷だろう」
「三つ編みちゃんも……!ねえ、三つ編みちゃんはどうなったの?」
「今は閉じ込められている。ただ、あの子らは大公からの客人だ。ほどなく解放されるだろう」
ライラは塞いでいた心が、少しだけ軽くなった気がした。
「そっか……」
「あの子も、奴隷として連れてこられたのだったな。ならやはり、そうだ。我々は皆、ヤーダラ族だったのだ」
「や、え?」
聞きなれない単語に、ライラは顔をしかめた。
「ヤーダラ。かの地の言語で、神の子を表す。かつて我々は、ヤーダラ族の一員だった。私も、あの少女も、そしてお前の母親も」
「おかーさんが……」
自分の母親が異邦人だったとは。意外なルーツに、ライラはぽかんとした。
「その、ヤーダラ族は、どんな暮らしをしてたの?」
「……我々の故郷は、こちらの大陸とは違って、手つかずの自然が多く残っていた。大自然の驚異もあったが、ヤーダラ族は自然と調和する術に長けていた。我々は、大地と共に生きていた……だが」
男はそこで言い淀むと、ゆるゆると首を振った。
「……いまさら何を言っても、全ては過去のことだ。我々は連れてこられた。この地で生きて行くしかない」
「どうして。帰れるかもしれないじゃん!まだ、諦めなければ……」
「どうやって?私は、ここがどこかも知らない。この屋敷の外のことなど、全くの未知数だ。仮に幸運にも故郷へ戻れたとしても、そこに私を待つものはいない。私がここに来たのは、もう十年以上前のことだ」
十年……その数字の重さに、ライラは口をつぐんだ。十年と言えば、ライラが人間だった頃の歳と同じだ。
「お前……家族は、いないの?」
「いた」
過去形だった。
「私と共に連れてこられた。母は旅の途中で息を引き取り、残ったのは私と兄だけだったが」
「……その、おにーさんは?」
「お前と同じだ。私は牢に、兄は迷宮に」
どういうことかと、ライラは脳裏に疑問符を浮かべた。男は、当時を思い出すかのように、地下牢をちらりと眺める。
「私は、魔術という観点において、やや特異な体質をしていたらしい。その点がハザール様の目に留まった。……初めは、私は抵抗した。だがその結果、兄が落とされた。そして兄はそのまま帰らぬ人となった……その時私は、自分が愚かにも、希望にすがっていたことに気が付いたのだ」
ライラはハッとした。以前、この寡黙な男が一度だけ、人間らしい感情を覗かせたことがあった。その時語った内容は、彼自身の実体験だったのだ。
「これは、お前を貶めたいわけでも、罠に嵌めたいわけでもない。同郷のよしみだ。できるだけ早く、仲間のことは忘れろ。そして、新しい環境を受け入れるんだ。それが早ければ早いほど、お前は早く楽になれる」
「ど……どうして。どうしてそんなこと、言うの。お前も、無理やり連れてこられたんでしょ?だったら、いっしょにあいつをやっつけよーよ!桜下たちが絶対に助けに来てくれるから、そしたらいっしょにここを出て、それから……」
「それは、無理だ」
「無理じゃないよ……なんで、信じてくれないの……」
少しも揺るがない男に、ライラはうんざりと頭を垂れた。
「お前の仲間が、信じられないわけじゃない。私自身が、もう希望を信じられないのだ」
「え……?」
うつむいていた顔を上げる。男は相変わらず、無表情な顔で……いや、無表情だからこそ……
「もう私の中に、希望は残っていない。希望は痛みを伴う。私は痛みを捨て、ここに順応した……慣れ過ぎた。私は、悪魔だ。お前のような同胞を、何人も手に掛けてきた。私のような醜い怪物の居場所は、陽の差さない地下以外にないのだよ」
男があまりにも淡々と言うので、その言葉に秘められた絶望は、じんわりとライラに伝わってきた。この男が、たびたび機械のように見えていた理由。それはとっくの昔に、心を失くしていたからだったのだ。だからライラを鞭打ったその手で、傷を治療するようなことができたのだ。
この男こそが、この地下牢に閉じ込められた者の末路なのだ。ライラ自身もまた、心を閉ざし、この男のようになりかけていた!そのことに気付き、ライラは恐ろしさのあまり、ぶるりと震えた。
「お、まえは……」
「……ふっ。身の上話ばかりをしてしまったな。もう私のことはいいだろう。さあ、次はお前のことを聞かせてくれ」
ライラはもうこれ以上、この男と話をしていたくはなかった。ただ、この男がはじめに言った通り、話をしたことによって、ライラの心は回復していた。明日になったら桜下たちが、老魔導士の策を逆手にとって脱出してくるかもしれない。その時に嬉しいと思える心を、ライラは失いたくはなかった。
「……何を話せばいいの?」
「そうだな。ならまずは、お前たちがハザール様の屋敷を逃げ出した時から……」
「……それで、ライラは四属性を使えるようになったの。なんでおにぃちゃんを食べたら、属性が増えたかは分かんない。おにぃちゃんは、何か知ってたみたいだけど……」
ライラは、かつてサイレン村で起こった事の一部始終を話して聞かせた。さすがに自分がグールであることは伏せたが、それ以外はほとんどそのままを喋った。あまり人に聞かせることではなかったが、目の前の心を失った男になら、何を話したところで意味はないだろうと思ったことも大きかった。
「ふむ……お前たちは、もともと一人で産まれてくる計画だったと聞いている。それが関係しているのかもしれん。いずれにしても、お前が四属性を持っていることは確かなのだな」
「うん……」
「ハザール様は、お前の四属性を強く望んでいる。ハザール様に忠誠を誓いさえすば、お前を害することはないはずだ。私なんかよりも、よほど大切にされるだろう」
「あんなやつに大事にされても、嬉しくなんかないよ……」
ライラがそばにいて欲しいと思い、主として認めるのは、一人の少年以外にはいなかった。
「……明日になれば、そんな考えも変わってくるか。なんにせよ、今日はもう十分だろう。だが、よく考えることだ。私の言ったことを、特にな」
男は立ちあがると、牢から出て行こうとした。ふと思い立って、その背中をライラが呼び止める。
「あ、ねえ。お前、なんていう名前なの?」
すると男が足を止めた。
「……名はない。私はもう、人ではない」
男は振り向かずにそう言うと、背中を向けたまま牢を出て行った。
つづく
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読了ありがとうございました。
続きは【翌日0時】に更新予定です(日曜日はお休み)。
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その淀んだ地下牢に、ライラはうずくまって、光のない瞳で床を見つめていた。いや、床を見ていたわけではない。何も見ていないのだ。
「……」
この二十四時間の間に、幼い少女は、その小さな体に課されるにはあまりに過剰な、苛烈極まる拷問を受けた。その想像を絶する痛みと恐怖は、少女から言葉を奪ってしまった。叫んでも、泣きわめいても、状況が変わることはないと分かってしまったからだ。
「……」
一度言葉を発さなくなると、次は思考が滞り始めた。言語を放棄するということは、すなわちコミュニケーションの放棄につながる。元々、ここにライラの言葉をまともに聞く相手がいなかったのも相まって、ライラの心は次第に、分厚い殻の中へと閉じこもっていった。すると次は、聴覚や感覚といった五感が鈍り始める。ライラの体は次第に、外界との繋がりを断ち始めていた。
「……」
今日、ライラは真っ赤に焼けた剣を背中に押し当てられた。炭の焼ける匂いはその名残だ。肌が焼き切られる痛みは耐えがたいものだったが、ライラは心のどこかで、それを他人事のように感じていた。あらゆる感覚が鈍ってきている。痛みを、前ほど痛いと感じない。体も、心も。
「……」
これが、慣れというものなのだろうか。それとも……
「なにか話をしよう」
声がした気がする。分からない。ライラの聴覚は、まるで耳に水が溜まっているかのようにくぐもっていた。どちらにしても、どっちでもよかった。彼女に掛けられるのは、罵声か、心を折らせようとする悪魔の囁きだけだったから。
「聞いているのか。話をするんだ」
今度は声がもっと近くで聞こえた。それでも無視をすると、ライラの小さなあごがむんずと掴まれ、ぐいと上に向けられた。ライラの顔を掴んで見下ろしていたのは、赤髪の寡黙な男。ついさっきまで、ライラを痛めつけていた張本人だった。もっとも彼は、命令のままに動くに過ぎない人間ではあるのだが。
「廃人になるつもりか」
「……」
「みなそうだ。ここに落ちた者は、最後には一切口を利かなくなる。そうして次第に、“内側”から死んでいくのだ」
「……」
「だがハザール様は、お前が死ぬことを許さない。私と話をしろ。思考を止めるな。現実を受け止め、そしてあの方に忠誠を誓うのだ」
「……だ……」
「嫌か。それなら、私と話せ。会話は心を生き返らせる。お前はまだ、死んではならん」
男はあくまで、事務的な口調で言った。だがわずかに、ほんのわずかにだったが、目の前の小さな命への哀れみがにじみ出ていた。
「……あの少年たちは、まだ生きている」
「……っ」
ライラの目に、初めて光が宿った。
「明日、ここに連れて来てやる。だからそれまで死ぬな」
「……ん、とに……?」
「ああ。だが、それはお前を自由にするためではない。ハザール様は、あの者たちからも、お前を説得させるおつもりだ。お前もそれならば、決心がつくだろう」
そんなことはない、とライラは思った。だが、口に出しはしなかった。もし桜下たちだったら、敵の口車に乗ったふりをして、地下のダンジョンを脱出するに違いないと考えたからだ。あの老魔導士は、自らの策に溺れることになる。きっとそうなる。千載一遇のチャンスの到来に、ライラの心に希望が戻った。
「さあ、これで話をする気になったな」
男は掴んでいたライラのあごを離した。ライラは小さくうなずく。
「……うん。でも、何を話すの」
「そうだな……」
男はライラの正面にあぐらをかいて座った。
「お前の母親は、どこの生まれだ」
「え?おかーさんの……知らない」
「知らん?聞かなかったのか。なら、髪の色は?容姿はお前と似ていたか?」
「え、う、うん」
ライラの赤毛は、親譲りだった。ただ、母親の過去はほとんど聞いたことがなかったと、ライラは改めて思う。あの老魔導士は、ライラの母親も自分の奴隷だったと言った。ライラの母も、どこかから攫われてきたのだろうか?
「お前は……おかーさんのこと、知ってるの」
「いいや。存在は知っていたが、直接話をしたことはない。お前たちに関する実験は、ハザール様の肝煎りで、極秘中の極秘だった」
「実験……あれ、ほんとうなの。ライラたちが、造られたって……」
「私には何も言えない。何も知らされていなかったから」
男は瞳を伏せて言った。ライラは出来れば、あれはデタラメなんだと否定をしてほしかった。だけど心の奥底では、真実が知りたいとも思っていた。男はどちらにも応えてくれなかったが。
「私はお前たちについては何も知らない。だが、お前の母親の出身地になら心当たりがある」
「え?」
「海を越えた先に、その地で暮らす民族があるのだ。お前の赤毛は、その民族の特徴を色濃く引き継いでいる」
ライラは自分の赤毛に触れた。そして視線を、目の前の男の頭へと移す。男もまた赤毛だ。
「じゃあ、お前も……?」
「そうだ。私も、そしておそらくあの三つ編みの少女も、同郷だろう」
「三つ編みちゃんも……!ねえ、三つ編みちゃんはどうなったの?」
「今は閉じ込められている。ただ、あの子らは大公からの客人だ。ほどなく解放されるだろう」
ライラは塞いでいた心が、少しだけ軽くなった気がした。
「そっか……」
「あの子も、奴隷として連れてこられたのだったな。ならやはり、そうだ。我々は皆、ヤーダラ族だったのだ」
「や、え?」
聞きなれない単語に、ライラは顔をしかめた。
「ヤーダラ。かの地の言語で、神の子を表す。かつて我々は、ヤーダラ族の一員だった。私も、あの少女も、そしてお前の母親も」
「おかーさんが……」
自分の母親が異邦人だったとは。意外なルーツに、ライラはぽかんとした。
「その、ヤーダラ族は、どんな暮らしをしてたの?」
「……我々の故郷は、こちらの大陸とは違って、手つかずの自然が多く残っていた。大自然の驚異もあったが、ヤーダラ族は自然と調和する術に長けていた。我々は、大地と共に生きていた……だが」
男はそこで言い淀むと、ゆるゆると首を振った。
「……いまさら何を言っても、全ては過去のことだ。我々は連れてこられた。この地で生きて行くしかない」
「どうして。帰れるかもしれないじゃん!まだ、諦めなければ……」
「どうやって?私は、ここがどこかも知らない。この屋敷の外のことなど、全くの未知数だ。仮に幸運にも故郷へ戻れたとしても、そこに私を待つものはいない。私がここに来たのは、もう十年以上前のことだ」
十年……その数字の重さに、ライラは口をつぐんだ。十年と言えば、ライラが人間だった頃の歳と同じだ。
「お前……家族は、いないの?」
「いた」
過去形だった。
「私と共に連れてこられた。母は旅の途中で息を引き取り、残ったのは私と兄だけだったが」
「……その、おにーさんは?」
「お前と同じだ。私は牢に、兄は迷宮に」
どういうことかと、ライラは脳裏に疑問符を浮かべた。男は、当時を思い出すかのように、地下牢をちらりと眺める。
「私は、魔術という観点において、やや特異な体質をしていたらしい。その点がハザール様の目に留まった。……初めは、私は抵抗した。だがその結果、兄が落とされた。そして兄はそのまま帰らぬ人となった……その時私は、自分が愚かにも、希望にすがっていたことに気が付いたのだ」
ライラはハッとした。以前、この寡黙な男が一度だけ、人間らしい感情を覗かせたことがあった。その時語った内容は、彼自身の実体験だったのだ。
「これは、お前を貶めたいわけでも、罠に嵌めたいわけでもない。同郷のよしみだ。できるだけ早く、仲間のことは忘れろ。そして、新しい環境を受け入れるんだ。それが早ければ早いほど、お前は早く楽になれる」
「ど……どうして。どうしてそんなこと、言うの。お前も、無理やり連れてこられたんでしょ?だったら、いっしょにあいつをやっつけよーよ!桜下たちが絶対に助けに来てくれるから、そしたらいっしょにここを出て、それから……」
「それは、無理だ」
「無理じゃないよ……なんで、信じてくれないの……」
少しも揺るがない男に、ライラはうんざりと頭を垂れた。
「お前の仲間が、信じられないわけじゃない。私自身が、もう希望を信じられないのだ」
「え……?」
うつむいていた顔を上げる。男は相変わらず、無表情な顔で……いや、無表情だからこそ……
「もう私の中に、希望は残っていない。希望は痛みを伴う。私は痛みを捨て、ここに順応した……慣れ過ぎた。私は、悪魔だ。お前のような同胞を、何人も手に掛けてきた。私のような醜い怪物の居場所は、陽の差さない地下以外にないのだよ」
男があまりにも淡々と言うので、その言葉に秘められた絶望は、じんわりとライラに伝わってきた。この男が、たびたび機械のように見えていた理由。それはとっくの昔に、心を失くしていたからだったのだ。だからライラを鞭打ったその手で、傷を治療するようなことができたのだ。
この男こそが、この地下牢に閉じ込められた者の末路なのだ。ライラ自身もまた、心を閉ざし、この男のようになりかけていた!そのことに気付き、ライラは恐ろしさのあまり、ぶるりと震えた。
「お、まえは……」
「……ふっ。身の上話ばかりをしてしまったな。もう私のことはいいだろう。さあ、次はお前のことを聞かせてくれ」
ライラはもうこれ以上、この男と話をしていたくはなかった。ただ、この男がはじめに言った通り、話をしたことによって、ライラの心は回復していた。明日になったら桜下たちが、老魔導士の策を逆手にとって脱出してくるかもしれない。その時に嬉しいと思える心を、ライラは失いたくはなかった。
「……何を話せばいいの?」
「そうだな。ならまずは、お前たちがハザール様の屋敷を逃げ出した時から……」
「……それで、ライラは四属性を使えるようになったの。なんでおにぃちゃんを食べたら、属性が増えたかは分かんない。おにぃちゃんは、何か知ってたみたいだけど……」
ライラは、かつてサイレン村で起こった事の一部始終を話して聞かせた。さすがに自分がグールであることは伏せたが、それ以外はほとんどそのままを喋った。あまり人に聞かせることではなかったが、目の前の心を失った男になら、何を話したところで意味はないだろうと思ったことも大きかった。
「ふむ……お前たちは、もともと一人で産まれてくる計画だったと聞いている。それが関係しているのかもしれん。いずれにしても、お前が四属性を持っていることは確かなのだな」
「うん……」
「ハザール様は、お前の四属性を強く望んでいる。ハザール様に忠誠を誓いさえすば、お前を害することはないはずだ。私なんかよりも、よほど大切にされるだろう」
「あんなやつに大事にされても、嬉しくなんかないよ……」
ライラがそばにいて欲しいと思い、主として認めるのは、一人の少年以外にはいなかった。
「……明日になれば、そんな考えも変わってくるか。なんにせよ、今日はもう十分だろう。だが、よく考えることだ。私の言ったことを、特にな」
男は立ちあがると、牢から出て行こうとした。ふと思い立って、その背中をライラが呼び止める。
「あ、ねえ。お前、なんていう名前なの?」
すると男が足を止めた。
「……名はない。私はもう、人ではない」
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