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第一話 - 野菜泥棒
江戸時代中期。山陽地方のとある山村──。
「はぁ……」
大きなため息は、青い空に溶けて消えた。
豊かに実った夏野菜、穂を出しはじめた青い稲。小川では小魚の群れが銀色の腹をひるがえし、小さな集落を囲む山々には松の若木が見える。のどかで少し退屈な農村の日常だ。
「おなかすいたな」
──あの大きな入道雲が食べ物だったら良いのに。
そんなどうでもいいことを考えながら、どうでもいいことを呟く。何か意図があって発したわけではない、ただの独り言。
……そのはずだった。
「わかる!!」
予想外の返事に、僕の肩は跳ね上がった。その驚きたるや、「太陽が返事をよこしたのか?」と考えてしまったほどだ。
しかし、声の主は地上にいる何か。背後の茂みが動く大きな音に、僕は転がるように振り返って──。その瞬間、目の端で何かが動いた。
「うわ!」
この村では久しく見ないすばやい動きに、僕は思わず驚きの声を上げた。
何が出たのか。声が聞こえたのだから人間か。いや、声だと思ったのは空腹による幻聴で、畑を荒らす獣の可能性もある。それくらい突然の現れだった。
僕は背後の茂みから離れて膝をつくと、一気に緊張を高めた。すぐに応戦できるように……。
「やっほー」
前屈みで警戒する僕の目の前に飛び出して来たのは、両腕いっぱいに食べ物を抱えた少女だった。こげ茶色の旅装束と見慣れない顔の。言葉が通じる相手らしいが、得体のしれない旅人だ。
「はいっ」
厳しい顔で状況を理解しようとする僕の鼻先に、少女は瓜を突き出してきた。
「おなかすいてるんでしょ?」と言う陽気な笑顔とともに。
僕は警戒をとかずに、少女の差し出す作物と彼女の顔を見比べた。長い黒髪を頭の高い位置で一つに束ねた十代後半の少女。化粧っ気のない顔は良く日に焼けている。
敵意は、感じられない。
「あの……、これはどこから?」
僕は次に、彼女が抱えているものを確認した。瓜にかぼちゃに芋に青菜──。そのどれもが今収穫してきたばかりのように土で汚れている。
「腹ペコだったから、取ってきたの!」
彼女は悪びれずに答えた。
「つまり盗んだ、と」
僕は情報を整理しながらあたりを見回した。予想通り、野菜泥棒を追って村の衆が駆けている。「いたぞ」「あいつだ」と話す声も聞こえた。
「捕まるよ」
僕が追手を指差して、少女はやっと自分の罪を理解したらしい。それでも、彼女の口から出たのは、「ありゃまー」と言う気の抜けた言葉だったが……。
「こりゃ、逃げなきゃだね」
言うと同時に、少女は野兎のような俊敏さで駆け出した。
……なぜか僕を連れて。僕の両足が地面を離れ、少女とともに移動していく。
「なんで僕まで!」
僕は下に見える少女の頭に向かって叫んだ。
というか待て。これはどういう状態だ?
「だってキミ、あたしの瓜を受け取ったじゃん」
「受け取ってない!」
「そうだっけ?」
きょとんとまあるくなった目に、間の抜けた返事。思わず彼女のペースに乗せられそうになったが、重大な疑問を忘れてはいけない。
僕は慎重に自分の足を動かした。しかし、足先に当たるものはない。僕の足は完全に宙に浮いている。荷物のごとく運ばれている状態だ。この少女は僕を持ち上げられるほど怪力なのだろうか。
「君は……」
尋ねようと話しかけたものの、次の言葉は出なかった。少女が両手に農作物を抱えたまま走っているのを見てしまったから。
僕は少女の手で運ばれているわけではないらしい。それなら、僕の胴に巻き付いているこれは何だ? 腹に感じる圧迫感。ここに僕の体を支える「何か」があるはずなのだ。
おそるおそる、僕は視線を自分の体に向けた。本当ならばもっと慎重になるべきだったのかもしれない。しかし、この時の僕は敵意を感じさせない陽気な少女に少し油断していた。
「ちょ……! これ!!」
僕が絞り出せた言葉は、それだけだった。
「元気でよく食べる髪の毛!」
それでも、少女は僕が尋ねたかったことを正確に察したようだ。とっさの叫びにすぐの返答。しかし僕の頭は混乱する一方だった。
胴に巻き付いているのは少女の頭から伸びる黒いもの。それは彼女の言う通り髪の毛なのかもしれない。しかし、そいつはいくつかの束になって分かれ、意志を持っているかのようにうごめきながら僕の胴を持ち上げているのだ。
「あ、あやかし!!」
僕は叫んだ。
こいつ、人じゃない! 一刻も早く彼女から離れなければ!
僕は慌てて身をよじった。しかし、空中に持ち上げられた体は、思うように動かせない。
「あやかしじゃないもん! それと、動かないで!!」
暴れる僕のせいで、少女の体が均衡を崩す。その拍子に、彼女の腕からたくさんの農作物がバラバラとこぼれ落ちた。
「あー、もう!」
少女の意識と視線が地面を転がっていく芋を向いた。逃げるなら今がチャンスだ。
僕は携帯している小刀を抜いた。真っすぐ一閃。僕を縛り付けている蛇のような髪の毛へ。その瞬間、ばさりと太い毛束を断ち切る感触があった。
「あっ!」
少女の叫びと短い浮遊感。地面に転がって着地した僕は、次にその刃を少女に向けた。
一つに束ねた黒髪は不格好に一部が短くなっている。地面に切り落とされた毛にも視線を向けたが、もう意志を持って動く力はないようだ。
「ひどい!!」
僕を糾弾する少女の大きな目は、少し潤んで見えた。
「髪の毛切るとかひどいよ、キミ! 確かにちょっと呪われてるかもしれないけど、あたしはニンゲンだもん!!」
怒りを見せつつも、腰に両手を当てた彼女に反撃の意思はないらしい。
それでも、僕は警戒を解かなかった。少女の髪はすでに普通の毛に戻っているが、いつまた蛇の姿になるかわからないのだ。
僕は少女に刃と意識を向けたまま、すばやくあたりを見回した。誰か援護に来てくれそうな人はいないかと。
しかしいない。先ほどまで少女を追いかけていた村の男たちは、すでに走り疲れてしまったらしく、道の真ん中で膝をついていた。この村の人間はみんなそうだ。疲れやすく、常に空腹と戦っている。
僕も例外ではない。今は死と隣り合わせの極限状態だから立っているが、本当ならば地べたに座り込んでぼんやりしていたい。この少女と出会う直前までしていたように。
「はぁ……」
大きなため息は、青い空に溶けて消えた。
豊かに実った夏野菜、穂を出しはじめた青い稲。小川では小魚の群れが銀色の腹をひるがえし、小さな集落を囲む山々には松の若木が見える。のどかで少し退屈な農村の日常だ。
「おなかすいたな」
──あの大きな入道雲が食べ物だったら良いのに。
そんなどうでもいいことを考えながら、どうでもいいことを呟く。何か意図があって発したわけではない、ただの独り言。
……そのはずだった。
「わかる!!」
予想外の返事に、僕の肩は跳ね上がった。その驚きたるや、「太陽が返事をよこしたのか?」と考えてしまったほどだ。
しかし、声の主は地上にいる何か。背後の茂みが動く大きな音に、僕は転がるように振り返って──。その瞬間、目の端で何かが動いた。
「うわ!」
この村では久しく見ないすばやい動きに、僕は思わず驚きの声を上げた。
何が出たのか。声が聞こえたのだから人間か。いや、声だと思ったのは空腹による幻聴で、畑を荒らす獣の可能性もある。それくらい突然の現れだった。
僕は背後の茂みから離れて膝をつくと、一気に緊張を高めた。すぐに応戦できるように……。
「やっほー」
前屈みで警戒する僕の目の前に飛び出して来たのは、両腕いっぱいに食べ物を抱えた少女だった。こげ茶色の旅装束と見慣れない顔の。言葉が通じる相手らしいが、得体のしれない旅人だ。
「はいっ」
厳しい顔で状況を理解しようとする僕の鼻先に、少女は瓜を突き出してきた。
「おなかすいてるんでしょ?」と言う陽気な笑顔とともに。
僕は警戒をとかずに、少女の差し出す作物と彼女の顔を見比べた。長い黒髪を頭の高い位置で一つに束ねた十代後半の少女。化粧っ気のない顔は良く日に焼けている。
敵意は、感じられない。
「あの……、これはどこから?」
僕は次に、彼女が抱えているものを確認した。瓜にかぼちゃに芋に青菜──。そのどれもが今収穫してきたばかりのように土で汚れている。
「腹ペコだったから、取ってきたの!」
彼女は悪びれずに答えた。
「つまり盗んだ、と」
僕は情報を整理しながらあたりを見回した。予想通り、野菜泥棒を追って村の衆が駆けている。「いたぞ」「あいつだ」と話す声も聞こえた。
「捕まるよ」
僕が追手を指差して、少女はやっと自分の罪を理解したらしい。それでも、彼女の口から出たのは、「ありゃまー」と言う気の抜けた言葉だったが……。
「こりゃ、逃げなきゃだね」
言うと同時に、少女は野兎のような俊敏さで駆け出した。
……なぜか僕を連れて。僕の両足が地面を離れ、少女とともに移動していく。
「なんで僕まで!」
僕は下に見える少女の頭に向かって叫んだ。
というか待て。これはどういう状態だ?
「だってキミ、あたしの瓜を受け取ったじゃん」
「受け取ってない!」
「そうだっけ?」
きょとんとまあるくなった目に、間の抜けた返事。思わず彼女のペースに乗せられそうになったが、重大な疑問を忘れてはいけない。
僕は慎重に自分の足を動かした。しかし、足先に当たるものはない。僕の足は完全に宙に浮いている。荷物のごとく運ばれている状態だ。この少女は僕を持ち上げられるほど怪力なのだろうか。
「君は……」
尋ねようと話しかけたものの、次の言葉は出なかった。少女が両手に農作物を抱えたまま走っているのを見てしまったから。
僕は少女の手で運ばれているわけではないらしい。それなら、僕の胴に巻き付いているこれは何だ? 腹に感じる圧迫感。ここに僕の体を支える「何か」があるはずなのだ。
おそるおそる、僕は視線を自分の体に向けた。本当ならばもっと慎重になるべきだったのかもしれない。しかし、この時の僕は敵意を感じさせない陽気な少女に少し油断していた。
「ちょ……! これ!!」
僕が絞り出せた言葉は、それだけだった。
「元気でよく食べる髪の毛!」
それでも、少女は僕が尋ねたかったことを正確に察したようだ。とっさの叫びにすぐの返答。しかし僕の頭は混乱する一方だった。
胴に巻き付いているのは少女の頭から伸びる黒いもの。それは彼女の言う通り髪の毛なのかもしれない。しかし、そいつはいくつかの束になって分かれ、意志を持っているかのようにうごめきながら僕の胴を持ち上げているのだ。
「あ、あやかし!!」
僕は叫んだ。
こいつ、人じゃない! 一刻も早く彼女から離れなければ!
僕は慌てて身をよじった。しかし、空中に持ち上げられた体は、思うように動かせない。
「あやかしじゃないもん! それと、動かないで!!」
暴れる僕のせいで、少女の体が均衡を崩す。その拍子に、彼女の腕からたくさんの農作物がバラバラとこぼれ落ちた。
「あー、もう!」
少女の意識と視線が地面を転がっていく芋を向いた。逃げるなら今がチャンスだ。
僕は携帯している小刀を抜いた。真っすぐ一閃。僕を縛り付けている蛇のような髪の毛へ。その瞬間、ばさりと太い毛束を断ち切る感触があった。
「あっ!」
少女の叫びと短い浮遊感。地面に転がって着地した僕は、次にその刃を少女に向けた。
一つに束ねた黒髪は不格好に一部が短くなっている。地面に切り落とされた毛にも視線を向けたが、もう意志を持って動く力はないようだ。
「ひどい!!」
僕を糾弾する少女の大きな目は、少し潤んで見えた。
「髪の毛切るとかひどいよ、キミ! 確かにちょっと呪われてるかもしれないけど、あたしはニンゲンだもん!!」
怒りを見せつつも、腰に両手を当てた彼女に反撃の意思はないらしい。
それでも、僕は警戒を解かなかった。少女の髪はすでに普通の毛に戻っているが、いつまた蛇の姿になるかわからないのだ。
僕は少女に刃と意識を向けたまま、すばやくあたりを見回した。誰か援護に来てくれそうな人はいないかと。
しかしいない。先ほどまで少女を追いかけていた村の男たちは、すでに走り疲れてしまったらしく、道の真ん中で膝をついていた。この村の人間はみんなそうだ。疲れやすく、常に空腹と戦っている。
僕も例外ではない。今は死と隣り合わせの極限状態だから立っているが、本当ならば地べたに座り込んでぼんやりしていたい。この少女と出会う直前までしていたように。
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