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第二部 - 終章
終章二節 - 老主人の意思
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「帰ってきた。けど、希理さんもおる」
長い間風景を見ていた与羽は、こちらに来る人影に気づいて声をあげた。
「本当に?」
辰海も確認に歩み寄ってくる。たしかに眼下の温泉街を歩いているのは、見慣れた大柄な男二人だ。
「舞行様と白師さんに声をかけて、竜月にお茶と茶うけの準備をしてもらってくる」
辰海はすばやく退室していった。
「気遣いは無用だといつも言っているのに……」
居室にやってきた希理は、丁寧に準備された茶と茶菓子にそう言った。
「そうはいかんよ。お前さんは一国のあるじじゃけぇのぅ!」
舞行は血色の良い顔全体に笑みを浮かべている。舞行と白師は足湯で温泉を楽しんでいたようで、辰海の呼びかけにすぐ戻って来てくれた。
「それを言うなら、あなたも国を治めておられたじゃないですか!」
希理は、空いた時間があると良くこの温泉宿を訪ねてくる。名目は与羽や舞行の様子見だが、どうやら舞行と白師に治世者として相談したいことがたくさんあるようだ。彼らほど長く政治に携わってきた者は少ない。この機会に「中州流の治世術」を身につけたいらしい。
舞行が語るのは、良い官吏の見つけ方や官吏同士の紛争の納め方。神官家や地主、商家との付き合い方などなど。彼自身が「こうすれば良い」と言う法則を見つけているわけではないが、舞行の成功談や失敗談をたくさん聞いてまとめることで、希理はある程度体系化された「やり方」を見いだしつつあるようだ。
白師は文官としての視点から、効率の良い仕事の進め方や、物事を確認する順序、読んでおくべき本や会うべき人など、舞行よりも具体的な話をしてくれる。彼は官吏を辞めて以降、自分の足で中州や天駆の様々な場所を旅したそうだ。そこで得た知識や会った人々の中には、希理の力になるものもある。
希理の口からは、彼らの経験や助言を参考に実践した結果が報告される。うまくいけばそれで良い。失敗した場合は、中州と天駆の違いや相手の気質を考えて、その理由と次の策を考える。
与羽は彼らの話を聞くのが好きだった。内容は難しくてあまりわからない時もあるが、彼らの知識と経験はきっと今後の与羽にも役立つだろう。
「舞行は春になったら帰ってしまうんか? わしはしばらく天駆で希理殿の手助けをしようと思うんじゃが……」
難しい話の合間に白師が言う。
「そう言う約束じゃったからのぅ」
舞行はちらりと外の風景を見た。雪が玻璃の粒をまぶしたように光る世界は、春が近いことを物語っている。与羽には変わりなく見える雪景色も、彼の経験の目を通せば、違った姿に映るのだ。
「私は、じいちゃんがそうしたいならここに残ってくれても構わんけど……」
与羽は悩むそぶりを見せる舞行に言った。
「ここに来て、じいちゃんの足が良く動くようになっとるのは私も感じるけど、それって一時的なものなんでしょ?」
博識な白師によると湯で頻繁に温めるのが効いているらしい。中州に戻れば、きっとまたすぐに悪くなってしまう。
「中州はすぐ近くに敵国がおる危ないところじゃし、じいちゃんと歳の近い官吏もほとんどおらんし、寅治さんも死んでしもうたし。白師さんと一緒におりたいなら――」
与羽は舞行に忠実に仕えてきた、先代古狐家当主の名を出した。舞行と同年代の上級官吏は、もはやふたりしかいない。彼と共に歩んだ仲間の多くが、加齢と病で引退したり、亡くなったりしてしまった。
「もちろん、私も乱兄もじいちゃんが一緒におってくれたら嬉しいし、心強いよ。少ない血の繋がった家族じゃもん。けど、だからこそ長生きして欲しいし……」
祖父の死を想像して与羽はうつむいた。すぐではないだろうが、いつか必ず訪れる別れの時。それをできるだけ引き伸ばしたいと、与羽は考えている。
「たしかにここにおれば、多少生きながらえるかもしれんのぅ。じゃが、そのかわりに、大切な孫たちの顔を見る時間が減ってしまう。共に過ごす時間を伸ばしたいから長生きしたいのに、長生きするために離れては本末転倒じゃなかろうか」
「たしかに……。考えなしじゃったね」
与羽もここに残るという手もあるが……。城下町に残してきた仲間や友人と会えないのはやはり寂しい。
「いやいや、それもお前さんの思いやり深さよ。与羽はきっと白師や希理のことも考えたんじゃろう」
舞行は目尻のしわを深くした。
「中州には、卯龍と北斗をはじめ、信頼できる官吏がぎょうさんおる。この旅で確信したが、絡柳や大斗や下の世代も見事に成長しとるようじゃ。……たしかに、天駆に残って、この国のためにできることをするのも楽しいかもしれんのぅ。ここならば銀山や銀工町も近い。普段見られん中州を楽しむのも、良い思い出になりそうじゃ」
「え……?」
与羽が舞行の顔を見た。与羽だけではない。部屋にいる全員の目が、老主人の決断に注視している。
全員がわずかな緊張を見せる中、舞行は普段と変わらない穏やかさで希理を向いた。
「希理、悪いんじゃが、一年ほどここにおらせてもらってもいいかのぅ? もちろん宿泊代は護衛分合わせて上乗せするゆえ」
「よろしいのですか?」
希理は戸惑うように自分の額を撫でている。完全に中州城下町に帰る話の流れだったように思うが……。
「中州に伺いは立てとらんが、わしが言うのだからよかろうよ。孫や中州のことは大事じゃが、そっちは信頼できる者たちが全力で守り続けてくれる確信がある。わしはこの年になっても、自分の好奇心と治世者としての情熱が捨てきれんらしい」
天駆の政治や、中州北部の現在の様子に興味をそそられているらしい。
ためらいのない舞行の言葉に、与羽は困惑した。
周りが思いもよらない決断を突然行い、それを強行する。城主一族が時々起こしてきた行動だ。普段の与羽は周りを巻き込む側だが、巻き込まれる方はこんな気持ちになるのか……。驚きと不安に、祖父の健康への期待と安堵。正と負の感情が同時に沸き起こって、ひどく混乱した。
「わかりました。では、中州にその旨を伝えますね」
いち早く状況を整理して実行に移そうとしたのは、辰海だ。与羽に振り回されすぎて、慣れてしまったのだろう。
彼には与羽が思っている以上に迷惑をかけているのかもしれない。一応心に留めておこうと、与羽は今の複雑な感情を記憶した。
長い間風景を見ていた与羽は、こちらに来る人影に気づいて声をあげた。
「本当に?」
辰海も確認に歩み寄ってくる。たしかに眼下の温泉街を歩いているのは、見慣れた大柄な男二人だ。
「舞行様と白師さんに声をかけて、竜月にお茶と茶うけの準備をしてもらってくる」
辰海はすばやく退室していった。
「気遣いは無用だといつも言っているのに……」
居室にやってきた希理は、丁寧に準備された茶と茶菓子にそう言った。
「そうはいかんよ。お前さんは一国のあるじじゃけぇのぅ!」
舞行は血色の良い顔全体に笑みを浮かべている。舞行と白師は足湯で温泉を楽しんでいたようで、辰海の呼びかけにすぐ戻って来てくれた。
「それを言うなら、あなたも国を治めておられたじゃないですか!」
希理は、空いた時間があると良くこの温泉宿を訪ねてくる。名目は与羽や舞行の様子見だが、どうやら舞行と白師に治世者として相談したいことがたくさんあるようだ。彼らほど長く政治に携わってきた者は少ない。この機会に「中州流の治世術」を身につけたいらしい。
舞行が語るのは、良い官吏の見つけ方や官吏同士の紛争の納め方。神官家や地主、商家との付き合い方などなど。彼自身が「こうすれば良い」と言う法則を見つけているわけではないが、舞行の成功談や失敗談をたくさん聞いてまとめることで、希理はある程度体系化された「やり方」を見いだしつつあるようだ。
白師は文官としての視点から、効率の良い仕事の進め方や、物事を確認する順序、読んでおくべき本や会うべき人など、舞行よりも具体的な話をしてくれる。彼は官吏を辞めて以降、自分の足で中州や天駆の様々な場所を旅したそうだ。そこで得た知識や会った人々の中には、希理の力になるものもある。
希理の口からは、彼らの経験や助言を参考に実践した結果が報告される。うまくいけばそれで良い。失敗した場合は、中州と天駆の違いや相手の気質を考えて、その理由と次の策を考える。
与羽は彼らの話を聞くのが好きだった。内容は難しくてあまりわからない時もあるが、彼らの知識と経験はきっと今後の与羽にも役立つだろう。
「舞行は春になったら帰ってしまうんか? わしはしばらく天駆で希理殿の手助けをしようと思うんじゃが……」
難しい話の合間に白師が言う。
「そう言う約束じゃったからのぅ」
舞行はちらりと外の風景を見た。雪が玻璃の粒をまぶしたように光る世界は、春が近いことを物語っている。与羽には変わりなく見える雪景色も、彼の経験の目を通せば、違った姿に映るのだ。
「私は、じいちゃんがそうしたいならここに残ってくれても構わんけど……」
与羽は悩むそぶりを見せる舞行に言った。
「ここに来て、じいちゃんの足が良く動くようになっとるのは私も感じるけど、それって一時的なものなんでしょ?」
博識な白師によると湯で頻繁に温めるのが効いているらしい。中州に戻れば、きっとまたすぐに悪くなってしまう。
「中州はすぐ近くに敵国がおる危ないところじゃし、じいちゃんと歳の近い官吏もほとんどおらんし、寅治さんも死んでしもうたし。白師さんと一緒におりたいなら――」
与羽は舞行に忠実に仕えてきた、先代古狐家当主の名を出した。舞行と同年代の上級官吏は、もはやふたりしかいない。彼と共に歩んだ仲間の多くが、加齢と病で引退したり、亡くなったりしてしまった。
「もちろん、私も乱兄もじいちゃんが一緒におってくれたら嬉しいし、心強いよ。少ない血の繋がった家族じゃもん。けど、だからこそ長生きして欲しいし……」
祖父の死を想像して与羽はうつむいた。すぐではないだろうが、いつか必ず訪れる別れの時。それをできるだけ引き伸ばしたいと、与羽は考えている。
「たしかにここにおれば、多少生きながらえるかもしれんのぅ。じゃが、そのかわりに、大切な孫たちの顔を見る時間が減ってしまう。共に過ごす時間を伸ばしたいから長生きしたいのに、長生きするために離れては本末転倒じゃなかろうか」
「たしかに……。考えなしじゃったね」
与羽もここに残るという手もあるが……。城下町に残してきた仲間や友人と会えないのはやはり寂しい。
「いやいや、それもお前さんの思いやり深さよ。与羽はきっと白師や希理のことも考えたんじゃろう」
舞行は目尻のしわを深くした。
「中州には、卯龍と北斗をはじめ、信頼できる官吏がぎょうさんおる。この旅で確信したが、絡柳や大斗や下の世代も見事に成長しとるようじゃ。……たしかに、天駆に残って、この国のためにできることをするのも楽しいかもしれんのぅ。ここならば銀山や銀工町も近い。普段見られん中州を楽しむのも、良い思い出になりそうじゃ」
「え……?」
与羽が舞行の顔を見た。与羽だけではない。部屋にいる全員の目が、老主人の決断に注視している。
全員がわずかな緊張を見せる中、舞行は普段と変わらない穏やかさで希理を向いた。
「希理、悪いんじゃが、一年ほどここにおらせてもらってもいいかのぅ? もちろん宿泊代は護衛分合わせて上乗せするゆえ」
「よろしいのですか?」
希理は戸惑うように自分の額を撫でている。完全に中州城下町に帰る話の流れだったように思うが……。
「中州に伺いは立てとらんが、わしが言うのだからよかろうよ。孫や中州のことは大事じゃが、そっちは信頼できる者たちが全力で守り続けてくれる確信がある。わしはこの年になっても、自分の好奇心と治世者としての情熱が捨てきれんらしい」
天駆の政治や、中州北部の現在の様子に興味をそそられているらしい。
ためらいのない舞行の言葉に、与羽は困惑した。
周りが思いもよらない決断を突然行い、それを強行する。城主一族が時々起こしてきた行動だ。普段の与羽は周りを巻き込む側だが、巻き込まれる方はこんな気持ちになるのか……。驚きと不安に、祖父の健康への期待と安堵。正と負の感情が同時に沸き起こって、ひどく混乱した。
「わかりました。では、中州にその旨を伝えますね」
いち早く状況を整理して実行に移そうとしたのは、辰海だ。与羽に振り回されすぎて、慣れてしまったのだろう。
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