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外伝 - 第六章 炎狐と龍姫
六章八節 - 主従と兄弟
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「与羽が良くなったら、どうする?」
その問いかけはとても穏やかで、やさしい声色だった。太一は辰海の乳兄弟で、辰海よりもひと月だけ早く生まれている。兄のようだと、辰海は彼のことを初めてそう思った。辰海は雇い主で、太一は使用人だからと主従の関係を意識することが多かったが、本当の兄弟のように頼って甘えてもいいのだろうか。
「まずは、……謝るよ」
辰海は明るい庭を見ながら、小さな声で答えた。
「与羽が頭を打ったのは僕のせいだし、僕がここ数ヶ月与羽に冷たく当たったことも謝らないといけない」
「謝るのも大事だけど、俺は辰海と与羽にしっかり話し合って欲しい」
「うん……」
太一の提案はもっともだ。与羽には自分の気持ちをすべて吐きつけた。嫉妬に満ちた心も、劣等感の苦しみも、与羽みたいになれたらと言うあこがれも。ただ、あの時の辰海は感情的すぎた。冷静にちゃんと話したい気持ちは辰海にもある。
「何をどう話せばいいのかは、わからないけど……」
「それなら、まずは俺と話し合わないか?」
横顔に太一の強い視線を感じた。
「太一と?」
辰海はそれを横目で見た。うなじで束ねた黒い髪にこげ茶色の目、何か目立った特徴があるわけでもない平凡な容姿の乳兄弟。
「俺も辰海に謝らないといけないことがあるんだ。俺は古狐の使用人で、辰海を主人としているのにそれを全うできていなかった。俺が尽くすべきは辰海で、俺は辰海の味方であるべきなのに、そうなれていなかった」
「いいよ。謝らないで」
床に手をついて頭を下げようとした太一を、辰海は言葉で制した。
「これからも、僕が間違ってる時はそう言って欲しい」
「いや、もしかすると俺の方こそ間違っていたかもしれない。俺は必要以上に与羽をひいきしすぎていた。それはたぶん、俺以外の人もそうだ。辰海は『与羽が死にそうになるまで』と言ったが、俺もお前がそれほど思いつめるまで、お前のことがわかっていなかった」
辰海はまじめで努力家で、不安や不満をあまり見せなかった。だから、ほとんどの人が辰海が心のうちに抱える気持ちに気づくのが遅くなった。耐えきれなくなって漏れ出してはじめて辰海の隠していた「弱さ」を知ったものの、それまでの辰海が優等生だったために今まで通り「教え諭せば」改善される問題だと考えてしまった。辰海に必要なのは、彼の孤独に寄り添うことだったのに。対応を間違って、取り返しのつかない状況になりかけるまで気づけなかったのは、太一も同じだ。
「いいよ。もう終わったことだから」
「そう言うところだぞ!」
穏便に済ませようとした辰海に、太一が語気を強めた。
「辰海は自分が耐えれば解決すると思って、我慢する癖があると思う。辰海は忍耐強い方だと思うが、限界がないわけじゃないだろう? 不満があれば、遠慮なく言って欲しい。俺の主人はお前だ。旦那様にも城主にも主の話は一切漏らさないから」
「与羽にも?」
「当たり前だ」
太一は深くうなずいた。辰海が言わないで欲しいと言えば、彼は本当に誰にも言わないだろう。彼が誠実な人間であることは知っている。
「与羽には話していいよ、何でも」
辰海は言いながらゆっくりと腰を上げた。
「話すなら僕の部屋で話そう」
すぐ背後は辰海の書斎だ。そちらの方が落ち着いて話せるかもしれない。
「わかった」
太一はすぐについてきた。
正直に言うと、辰海はひとりで自室に入るのが怖かったのだ。与羽と口論した場所だから。しかし、外よりも冷たい空気が溜まる書斎は、普段通りだった。机の位置も本棚も。与羽の首を絞めようとした床は、見慣れた薄黄色の畳でしかない。
「……つぁ」
辰海の吐く息が震えた。与羽の痕跡が何もないことが、逆に不安だった。このまま与羽が消えて、いなくなってしまう暗示に思えて。
「辰海、俺は別に外でも――」
部屋の敷居をまたぐ直前で足を止めてしまった辰海の背に太一の手が触れた。夏用のうすい着物を通してぬくもりが感じられる。
「だい、じょうぶ」
辰海は息を吸うと、それを肺に溜めたまま自室に入った。大きな机の前の定位置に座り、止めていた息を吐きだす。
「……僕、これからはちゃんと与羽を大切にしたいんだ。父上に言われたからでも、古狐としての務めでもなく、自分の意志で」
「それは……、良いことだと思う」
太一も辰海の斜め前に腰を下ろした。
「まだ、納得できていないことはたくさんあるけど、少しずつ解決していければって」
与羽への嫉妬心は消えていないし、今でも自分は劣等生だと思っている。できることならば、与羽の取り巻きのひとりではなく、辰海を大切に思ってくれるたくさんの人に囲まれていたい。どうすればこの気持ちとうまく付き合っていけるのかは、まだわからない。その解決の糸口は、ひとりで悩むことではなく、与羽やたくさんの人たちと交流することで見つかるだろう。
その問いかけはとても穏やかで、やさしい声色だった。太一は辰海の乳兄弟で、辰海よりもひと月だけ早く生まれている。兄のようだと、辰海は彼のことを初めてそう思った。辰海は雇い主で、太一は使用人だからと主従の関係を意識することが多かったが、本当の兄弟のように頼って甘えてもいいのだろうか。
「まずは、……謝るよ」
辰海は明るい庭を見ながら、小さな声で答えた。
「与羽が頭を打ったのは僕のせいだし、僕がここ数ヶ月与羽に冷たく当たったことも謝らないといけない」
「謝るのも大事だけど、俺は辰海と与羽にしっかり話し合って欲しい」
「うん……」
太一の提案はもっともだ。与羽には自分の気持ちをすべて吐きつけた。嫉妬に満ちた心も、劣等感の苦しみも、与羽みたいになれたらと言うあこがれも。ただ、あの時の辰海は感情的すぎた。冷静にちゃんと話したい気持ちは辰海にもある。
「何をどう話せばいいのかは、わからないけど……」
「それなら、まずは俺と話し合わないか?」
横顔に太一の強い視線を感じた。
「太一と?」
辰海はそれを横目で見た。うなじで束ねた黒い髪にこげ茶色の目、何か目立った特徴があるわけでもない平凡な容姿の乳兄弟。
「俺も辰海に謝らないといけないことがあるんだ。俺は古狐の使用人で、辰海を主人としているのにそれを全うできていなかった。俺が尽くすべきは辰海で、俺は辰海の味方であるべきなのに、そうなれていなかった」
「いいよ。謝らないで」
床に手をついて頭を下げようとした太一を、辰海は言葉で制した。
「これからも、僕が間違ってる時はそう言って欲しい」
「いや、もしかすると俺の方こそ間違っていたかもしれない。俺は必要以上に与羽をひいきしすぎていた。それはたぶん、俺以外の人もそうだ。辰海は『与羽が死にそうになるまで』と言ったが、俺もお前がそれほど思いつめるまで、お前のことがわかっていなかった」
辰海はまじめで努力家で、不安や不満をあまり見せなかった。だから、ほとんどの人が辰海が心のうちに抱える気持ちに気づくのが遅くなった。耐えきれなくなって漏れ出してはじめて辰海の隠していた「弱さ」を知ったものの、それまでの辰海が優等生だったために今まで通り「教え諭せば」改善される問題だと考えてしまった。辰海に必要なのは、彼の孤独に寄り添うことだったのに。対応を間違って、取り返しのつかない状況になりかけるまで気づけなかったのは、太一も同じだ。
「いいよ。もう終わったことだから」
「そう言うところだぞ!」
穏便に済ませようとした辰海に、太一が語気を強めた。
「辰海は自分が耐えれば解決すると思って、我慢する癖があると思う。辰海は忍耐強い方だと思うが、限界がないわけじゃないだろう? 不満があれば、遠慮なく言って欲しい。俺の主人はお前だ。旦那様にも城主にも主の話は一切漏らさないから」
「与羽にも?」
「当たり前だ」
太一は深くうなずいた。辰海が言わないで欲しいと言えば、彼は本当に誰にも言わないだろう。彼が誠実な人間であることは知っている。
「与羽には話していいよ、何でも」
辰海は言いながらゆっくりと腰を上げた。
「話すなら僕の部屋で話そう」
すぐ背後は辰海の書斎だ。そちらの方が落ち着いて話せるかもしれない。
「わかった」
太一はすぐについてきた。
正直に言うと、辰海はひとりで自室に入るのが怖かったのだ。与羽と口論した場所だから。しかし、外よりも冷たい空気が溜まる書斎は、普段通りだった。机の位置も本棚も。与羽の首を絞めようとした床は、見慣れた薄黄色の畳でしかない。
「……つぁ」
辰海の吐く息が震えた。与羽の痕跡が何もないことが、逆に不安だった。このまま与羽が消えて、いなくなってしまう暗示に思えて。
「辰海、俺は別に外でも――」
部屋の敷居をまたぐ直前で足を止めてしまった辰海の背に太一の手が触れた。夏用のうすい着物を通してぬくもりが感じられる。
「だい、じょうぶ」
辰海は息を吸うと、それを肺に溜めたまま自室に入った。大きな机の前の定位置に座り、止めていた息を吐きだす。
「……僕、これからはちゃんと与羽を大切にしたいんだ。父上に言われたからでも、古狐としての務めでもなく、自分の意志で」
「それは……、良いことだと思う」
太一も辰海の斜め前に腰を下ろした。
「まだ、納得できていないことはたくさんあるけど、少しずつ解決していければって」
与羽への嫉妬心は消えていないし、今でも自分は劣等生だと思っている。できることならば、与羽の取り巻きのひとりではなく、辰海を大切に思ってくれるたくさんの人に囲まれていたい。どうすればこの気持ちとうまく付き合っていけるのかは、まだわからない。その解決の糸口は、ひとりで悩むことではなく、与羽やたくさんの人たちと交流することで見つかるだろう。
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