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Lesson 30 雨夜の密事
しおりを挟む閉店時間が早まった店内に
いつもより早い静けさが広がっていた。
時計の針は、まだ十一時。
年末の夜は、街もどこか穏やかで、
雨の音だけが世界を満たしている。
(……最悪だな。タクシー、捕まらない)
ガラス越しに見える外は、冷たい雨がざあざあと降りしきっていた。
手元のスマホが震える。レオからの短いLINE。
『オーナーとはしご。もう少し遅くなる』
画面を閉じると、斜め向かいのみのるが覗き込み、
小さくため息をついた。
「……和希」
ぽつりと落ちた名前が、妙にやさしく響く。
伏せた睫毛が濡れて見えて、胸の奥がちくりと痛んだ。
「みのるー! ラーメン行こうぜ!」
マサキの声に、リツやシュウが笑いながら続く。
だが、みのるは首を横に振った。
「ごめん、今日はやめとく」
その笑顔が、少しだけ疲れて見えた。
……俺も同じように断り、傘を手に裏口へ向かった。
外に出ると、雨脚がいっそう強くなっていた。
街灯に照らされた雨粒が白く跳ね、
冷えたアスファルトを光らせている。
(まいったな……)
歩き出そうとした瞬間、
前方に小さなシルエットが見えた。
傘を差し、肩をすくめながら、
寒そうに歩いている――みのるだった。
「……あれ?」
思わず声が出る。
「おい、みのる!」
振り返ったその顔は、雨に濡れて儚げに光っていた。
「リュウさん……」
「歩いて帰る気か?」
「うん。タクシー捕まらないし……三十分くらい歩けば着くから」
無理に笑おうとする唇が震えていた。
それがやけに愛しくて、胸が熱くなる。
「……バカ。こんな大雨の中を?」
「……でも」
ため息が零れる。
俺は傘を少し傾け、みのるの肩を包み込むように寄せた。
「……ウチ、寄ってけ」
「え?」
「ここから五分だ。雨が弱まるまで休めばいい」
驚いたように見上げたその瞳。
街灯の光を映して、透き通るように揺れていた。
「……いいんですか?」
「いいに決まってる。タクシー、俺が予約入れとく」
傘の中に、ふたりの吐息が溶け合う。
近づく距離。
濡れた髪から落ちる水滴が、俺の手の甲に触れた。
――それだけで、心臓が跳ねた。
(なんでこんなに、気になるんだろう)
助けたいだけのはずなのに、
その体温に触れるたび、理性が薄れていく。
「……ありがとう、リュウさん」
みのるの声は、雨よりもやわらかく響いた。
その笑顔に、俺はふっと息を呑む。
(……だめだ。優しさのつもりが、どんどん違う方に傾いてる)
雨音の中、傘の内側だけが妙にあたたかかった。
その温もりが、どちらのものなのか――
もう、わからなかった。
タワーマンションの扉を閉めると、外のざわめきが嘘みたいに消えた。
残ったのは、ガラスを叩く激しい雨音だけ。
ネイビーを基調としたリビングは静かで、
まるで夜の海の底みたいだった。
「……わぁ、すごい!!綺麗。広い」
みのるが窓辺に駆け寄り、びしょ濡れの髪を揺らす。
窓越しに見える街の光を見上げるその横顔は、無防備で――どうしようもなく愛しい。
「風邪ひくぞ。じっとしてろ」
タオルを持って近づくと、みのるは少し肩をすくめた。
「ひゃっ……冷たい。ありがとうございます」
その声が妙に甘くて、胸の奥がざわつく。
「……ほら、動くな」
濡れた髪を拭く指先が震えた。
触れてはいけない。わかっているのに――
頬をかすめた水滴を拭った瞬間、もう止められなかった。
腕が勝手に動いた。
細い体を抱きしめる。
「リュウさん……」
胸に顔をうずめた体温が、熱を持って伝わってくる。
(なんだ……この感じ)
ただの同情でも、優しさでもない。
もっと深いところで、何かが溶けていく。
「……悪い。そんなつもりじゃ……なかったのに」
言葉よりも早く、唇が動いていた。
一瞬のはずのキスが、思いのほか長く続く。
見上げてきた濡れた瞳。
理性が、音を立てて崩れていった。
額に、頬に、首筋に――
堰を切ったようにキスを落とすたび、
心臓が狂ったように鳴っていた。
鎖骨に触れたとき、みのるの手が俺の首に回る。
「……リュウさん」
名前を呼ぶその声が、耳の奥を焼く。
――あぁ、もう戻れない。
「……今だけでいい。」
気づけば、そんな言葉がこぼれていた。
「……リュウさんが、好き」
その瞬間、胸の奥で何かが弾けた。
欲望なんかじゃない。
もっと静かで、もっと痛い――恋だった。
ソファに押し倒したときには、
もう、理性なんてどこにもなかった。
互いの体温が混ざり、
息が荒くなって、指先で確かめるように抱き合った。
気づけば、外の雨は静かに弱まっていた。
「……雨、止んできたな」
「……ほんとだ」みのるが笑う。
その笑顔にまた胸が締めつけられる。
「そろそろ……レオ帰ってくるかも」
その名前が刺のように胸を刺す。
「……タクシー、来たら送ってく」
そう言いながら、抱き寄せた体を離せなかった。
「……リュウさんと、こうできて嬉しかった。ずっと……触れてほしかったんだ」
返す言葉が見つからない。
髪にそっと口づけて、ただ抱きしめる。
「……これで終わりだ」
掠れた声が、夜に滲んだ。
「……うん、わかってる」
小さく震える声。
エントランスで見送る背中が、
雨に溶けて遠ざかっていく。
タクシーのテールランプが夜に溶けていった。
エントランスの自動ドアが閉まる音だけが、やけに響く。
リュウはその場にしばらく立ち尽くしていた。
雨の匂い、みのるの残り香、温もり――
全部がまだ腕の中に残っている気がして、
離れられなかった。
(……何やってんだ、俺は)
ようやく足を動かし、ゆっくりと部屋へ戻る。
シャワーのレバーをひねった。
シャワーの音が、静かな夜に響く。
湯気の向こうで、鏡に映る自分を見つめた。
(……俺、最初から気づいてたんだ)
みのるを見るたび、心が揺れてた?
けど、カイトがいたから――惹かれてる自分に、蓋をした?
それなのに、先に手を出したのはレオだった。
遅かった。
目を閉じると、まだみのるの体温が残っている気がして、
胸の奥がじんわりと熱くなった。
「……最初から、好きだったんだよな」
シャワーの音にかき消されるように、
リュウはひとり、苦く笑った。
次へ続く
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