チキンピラフ

片山春樹

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史上最大のテスト勉強 始まる

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 昨日の春樹さんの一言がずーっと尾を引いたまま学校に行くと、そんな顔してるんだなと思える友達たちのこんな言葉。
「美樹どうしたのその顔、カレシと喧嘩でもしたの?」
察したことをそのままストレートに浴びせるのはやめてくれない? と思ったことを、私はこんな風に言うようになっていた。
「どうだっていいでしょ。ほっといてよ、もう・・」
つんっと、言った瞬間、強気な気分だった。開き直ってるだけのような自覚もあるけど。
「あぁ~・・美樹・・その様子・・本当は、振られたんでしょ?」
と、友達はスルドク言い返したけど。
「別に、振られたわけじゃないし。今日も家に来てくれるし・・・・」
しまった・・・・。今日の私は、どうかしてる。言葉を心に用意する前に、口にしてしまってる。友達が、にやにやと、グーにした手で口を抑え「なにしに来るわけぇ・・見にいっちゃおうかなぁ」な、恐怖の眼差しで、私を見ていた。とにかく、チャイムがなると同時に、ダッシュで逃げた。友達をなくしてしまいそうな気もしたけど・・あんな友達なんて、なくしてもいい。とにかく、今日は、猛烈な気分だ。とにかく早く家に帰りたい。春樹さんが私より早く家に来てしまったら、お母さんがまた、何を喋ってしまうかわからないし・・・。でも・・自転車必死で漕いだのに・・ガレージには、もうオートバイが止まっていた。HARUKI・KATAYAMAの文字が陽炎に揺れている・・。だから・・今・・来たばかりだと思うけど・・・。そぉっと玄関を開けて・・そぉっと台所を覗いたら。
とんとんとんとん・・ぐつぐつぐつ・・じゅぅぅぅぅ。なBGMに混じって・・・。そこには、もう、割り込めない、ほのぼのな二人並んでお料理教室のような雰囲気があった。耳を澄ませなくても聞こえる大きなひそひそ話し。
「あら・・そうなの? 春樹さん」
「ええ・・」
「へぇぇぇ。あの娘がねぇ」
「でも、本当によくがんばってくれてるし、ちょっとどじなところも、魅力だなぁと思うんですけど」
「魅力ねぇ・・。まだまだ子供だと思ってたけど。男の子に魅力を感じさせられるようになってたんだ・・あの子がねぇ。ところで、あなたは美樹のこと好きなの? 春樹さん」
「ええ、まぁ正直言うと、好きです・・」
だったら、恋人がいるだなんて言わないでよ・・と思う。
「本当にかわいい娘だと思っているし。なんかこう・・ほっとけないかわいらしさってゆうか・・ホント、美樹ちゃんが店に来てから、店の中、明るくなった気がしますし」
「そゆこと、恋人の前では言わない方がいいよ、別の女の子のこと好きだなんて・・でも、かわいい娘・・かぁ・・明るくねぇ・・ほっとけないだろうな、あんなどじな娘」
「あっ・・そのニンジン、もう少し大きく切ってください、ジャガイモと同じくらいに、後の歯ごたえとかニンジンの風味とかも大事ですから」
「えっ・・そんなことまで・・歯ごたえなんて気にしたことないし」
「僕はうるさいですよ、料理には」
「恋人さんってなんて名前なの・・その娘も夕飯とか作るの?」
「知美って名前ですけど・・あいつは、そういうことは」
「家事は何にもしないくせに、味とか、カロリーにうるさい、わがままな娘を想像しちゃうけど」
「ええまぁ・・どうして・・」
「男が料理うまいなんて、大体そんな理由しかないでしょ」
「・・まぁ・・そうですけどね」
「ズボシでしょ・・尻に敷かれてるわけだ。その娘の下着もあなたが洗濯してたりしてね」
そうなの?・・・
「畳み方が悪いとかって、怒ったりしない?」
「そ・・そんなことは・・・」
「ふううん・・だからこんなに・・へぇぇぇ・・いいなぁ・・うらやましいなぁ・・男の子って・・つくっとけば良かったかなぁ。今からでも・・・そうだ、最近ごぶさただし・・思いきってつくっちゃおぅかなぁ・・春樹って名前をつければ・・あなたみたいな子になるのかしら。美樹も独りっ子だからあんな子になっちゃったのかもしれないし、あの娘は美樹って名前だし、弟だから春樹なんて・・いいよね、樹が並んで」
ちょっと・・お母さん、いったい何してるわけ・・。そんな話題に舵を切って、手足をニシキヘビみたいに春樹さんにまとわりつけて、本当に蛇みたいにベロがちょろちょろ春樹さんの耳をなめてる錯覚、春樹さんも・・ぐねぐねとされるがままの無抵抗で。
「ちょっと・・お・・お母さん・・駄目ですよ」だなんて・・。
「やだ・・なに照れてるのよ春樹くん・・こんなおばさんなのに、感じてくれるのね、オンナを意識してくれるんだ。うれしい。でも、うふふ。すけべぇ。別にあなたの遺伝子をくれとはいわないわよ。それとも、頂けるのかしら? なんだか欲しい気もしてきちゃうなぁ。うふふっ・・どぉ~・・こ・ん・や。ふうっ」
ち・・ちょっと、本当になにしてるの・・耳に息を吹きかけて・・手を脇に回して・・ホオズリ・・ホオズリ、なんて・・。ものすごくおびえてる春樹さん。
「あの・・その・・。お母さん」
「かわいい~。あたし・・なんだかヘンな気分、今夜なんて言わずに、今から・・ここで」
見ているものが、なにも信じられなくなってる私。ひざもカタカタ震えてる。
「・・あの・・お母さん・・ちょっと・・」
「あぁ~ん・・いい・・その怯え方。若いオトコってかわいいよねぇ。照れてる仕草もかわいいし。なんだか・・そそっちゃうなぁ~。やだなぁ・・本当にその気になっちゃいそぉ」
ち・・ちょっと・・本当に・・なにしてるのよ。・・肩をもんで、背中からしっとり抱きついて・・お母さんの手は春樹さんの脇からおなか・・そして・・体中を撫で回してるかのように、いったりきたり。そして、しがみついたまま、背中に顔を押しつけて・・ぐりぐり。そんな事に耐えている春樹さんが信じられない。どうして抵抗しないのよ。ふつうそんなことされたら、必死で抵抗するはずなのに。
「お・・お母さん・・ダメですよ・・」
「お母さんだなんて、そんな呼び方いやぁ・・私の名前は美咲、み・さ・き・・そう呼んでほしいな春樹くん」
「み・・みさきさん・・ちょっ・・と」
「あぁ~ん・・いい、その響き。うんもぉ・・少しだけじっとしてて・・なんだか心地いい、男の子に甘えるのって」
「あ・・あの・・」
「あん・・うん・・男の子のにおいってなんか久しぶり・・変な気分になってきちゃった・・息が荒くなってきちゃうよ・・どうしてくれるの春樹くん、責任とりなさいよ、あたしをこんな気分にさせちゃって」
「せ・・責任って」
まるで、無抵抗なままお母さんに食べられてしまいそうな春樹さん・・何がなんでもこれ以上、私は耐えられなくなった。
「ちょっとぉ・・お母さん!!!」
ガラスが震えるほどの声がでた。のに。
「あら・・美樹、帰ってたの?」
そのあっけない返事はなに? それも・・春樹さんが潰れてしまうほどにしがみついたまま・・なに甘えてるのよ・・一体何をはなしてるのよ・・・何をしてるのよ!!
「どうしたの、そんなに怖い顔して・・・なに怒ってるのよ」
怖くもなるわよ・・・怒って当然でしょ・・ったく・・。
「な・・何してるのよ?」
「何もしてないわよ・・まだ」
まだって・・これからナニする気だったのよ・・だなんて言えないし。絶対駄目だ、いくらなんでもお母さんをライバルにするなんて、春樹さんが、お母さんに奪われるなんて・・絶対許せない。それに・・エプロンまでしてる春樹さん。その姿は、もう、お母さんのドクガにしとめられてしまってるような錯覚。絶対駄目だ、力ずくでも助けてあげなければ。だから。
「春樹さん、勉強しましょ。教えて。行きましょ」
と、腕を引っ張ってる私・・そんな、強引な自分自身にも気づいたけど。
「はいはい・・それじゃ、いきましょうか」
と、春樹さんは言ってくれるのに。ぐいっと、もっと強引に、春樹さんの腕を引くおかあさん。どたんっ・・とふんばる春樹さん。
「いいのよ、春樹さん。勉強したって、もともと駄目な子なんだから。するだけ無駄。美樹ももう少し待っていなさい。夕飯もうすぐできるから。春樹さんの手作りなのよ。ねぇ~春樹さん。盛りつけてくれるんでしょ」
くすっとしかたなく笑う春樹さんの視線。「もう少し待ってくれよ」と、そんなテレパシーが届いた・・だから。むっかぁ~・・な気持ちだ。ふんっ!!。だんだんだん! と階段を上がってやる。ばたん! と、ドアを閉めてやる。鞄も投げつけてやる。
  
  でも・・机に向かっても・・なに想像してるのだろ・・。もやもやな気分だ。それに・・春樹さんとお母さんを二人っきりにしておくと・・変なまちがいを起こさないだろうか・・あの・・お母さんのことだから、起こしそうな気もする。さっきも・・遺伝子を・・頂ける・・だなんて・・ひぃっ・・と息を飲み込んでしまう想像してしまう。ものすごく不安だ。本当に弟ができて・・その子の半分が春樹さんだなんて・・・どんな人かはまだ知らないけど・・知美さんと言う恋人となら、許せるけど。お母さんとだなんて・・・絶対。そんな想像してるから・・春樹さんも、ものすごく不潔なものに見えてしまうし。
「美樹ちゃん・・入っていい?」
と、ドアが開いた。振り返るとにこにこしてる春樹さんがいた。
「先に食べる? 暖かいうちに食べちゃおう」
だから・・しかたなくうなずいて、そぉっとついていく。春樹さんの背中、でも、その背中にさっき抱きついていたお母さんを想像すると・・ものすごく・・不潔な気分もするし。
「美樹、見て見て、おいしそぉでしょぉ。さすがだねぇ」
そんな、ものすごくうれしそうなお母さん。無視して座って・・ちらっと見る春樹さん。にこにこしてる。春樹さんの手作りかぁ・・。でも、どうしてこの人、こんな人なんだろ。男の人ってみんなこうなんだろうか・・。いや・・そんなはずはない。この人は、特殊なんだ・・奇怪な特殊さがあるんだ。みんなが言っていた・・ヘン・・確かにこの人はヘンだ。それだけは私にもわかる。お母さんと楽しそうに話してる声が聞こえる。
「でも、春樹さん、いいの、本当に」
「何が・・・ですか?」
「この子にここまで気を使って頂いて」
「ええ、べつにどおってことないですよ」
だから。
「どうして?」
と、聞いてしまった。
「どうして、こんなに優しくしてくれるの?」
急にむかむかしてる私。なんだか自分の感情が抑えられなくなってる。私の大きな声に、きょとんとした春樹さん。少しだけ考えて。
「美樹ちゃんのこと、ほっとけなくて。本当に辞めてほしくないし、美樹ちゃんのこと好きだし。迷惑かな?」
ふううん・・迷惑な気もしないでもないけど。そう思いながら、お皿の肉じゃがをひとくち、摘まんで食べてみた。ジャガイモの風味とニンジンの風味が玉ねぎの甘さと腕を組んでスキップしているような、お肉の味も、なんでこんなに個性豊かにお口の中いっぱいに広がるの? いつもの調味料の味しかしない料理とは全然違う、本当に悲しくなるほどものすごくおいしい。ダイエットもこれじゃできそうにないな。そんなことを優先的に考えてしまうのはなぜだろ。もぐもぐしてると、春樹さんが聞いた。
「大きなお世話かな・・お節介・・かな?」
そんな気もする・・無意識で・・うん・・そううなずいて、お箸をおいた。猛烈にダイエットしたい気分がし始めるから。黙ったまま部屋に上がった。本当はうれしい、春樹さんのこと、優しい人だとも思う。だけど、好きになっても春樹さんには恋人がいるんだし。
「あの・・美樹ちゃん」
「きゃぁぁ。すっごくおいしい・・ジャガイモとニンジンの味が舌に絡みつく感じ。いつもの食材なのに、何が違うの? ホント・・あなたみたいな子、欲しくなっちゃう」
「あの・・美樹ちゃん?」
「いいから、いいから、春樹さん、あの娘、今、反抗期だから。はい、あぁ~ん、して」
春樹さんの、あぁ~んは、聞こえなかったけど・・たぶん・・そんな想像に・・もうどうでもいいよ。

  ぶつぶつ考えながら、無性に勉強したくなってる。シャープペンを走らせてしまう、昨日春樹さんが解いた問題。無意識の内に解き方記憶してしまってる。気がつくと答がでていた。それに、こんなにいらいらな感情なのに・・ものすごく集中してる気もする。でも・・ふと、耳まで届いた大きな声。
「走れ、走れ、よっしゃ!! つないだぁー」
「よっしゃぁ!!もう一丁!! 押し込め! 押し込め! トラーイ やったぁ~!」
下から聞こえる大きな声。ったく・・なんなのよ。振り返ると時計が目に付いた。もう一度机の時計を確かめてるミッキーのおなかの針・・もう・・9時になってる。ドアを見つめてしまう。春樹さん・・私の家庭教師で家に来てくれてるはずなのに・・。ドアを開けて・・下に降りて、居間を覗いた。テレビでラグビーを見ている。お父さんと・・春樹さん。そのだらけたくつろぎかた、本当に全然違和感がない。ちらっと目が合ってしまった。慌てて隠れたのに。
「あっ・・美樹ちゃん・・えっ・・もう9時?」
絶対わざとらしい。
「あの・・お父さん・・」
「んっ・・美樹か・・ほっとけほっとけあんなやつ」
それって・・自分の娘に言う言葉・・ったく、信じられない。それにこの人、どうして完全にわが家に溶け込んでしまってるの?

  また部屋に戻っても・・もっといらいらしてしまう。なによ・・ったく、こんな物理の問題なんて。これでいいじゃん。無意識の力で解けちゃうじゃない。
「美樹ちゃん、すねてる?」
ドアの外、その正確な言葉が集中してる気分を逆なでした。
「もう・・いいわよ・・私勝手にしますから。ほっといてください」
と、ぼやいたら。ずけずけと部屋に入ってきた春樹さん。そして、
「美樹ちゃん・・ごめん。お父さん、放してくれなくて・・」
お父さんが放さなかったんじゃなくて、春樹さんが離れなかったんでしょ。
「美樹ちゃん、・・あの・・昨日思いついたんだけどサ。中間テストの問題とか、まだ、置いてる」
ったく、うるさいわよ。
「ねぇ・・美樹ちゃん」
しつこい・・だんだんこの人の性格がむかついてきた。
「ねぇ・・」
「なによ!!」
バン!  と、机を叩いてしまう。でも・・冷静な春樹さん。
「うん・・よく考えると・・今からじゃ、もう遅いと思う。だから、中間テストの問題とかがあったら、見せてくれない。問題出す先生が同じなら、出てくる問題もたいして変わらないだろうから。今からじゃヤマ張るしかない」
・・なに、ぶつぶつ言ってるのよ・・ったく。
「その辺、適当に探せばいいでしょ」
と、私が適当に指さしたベットの下。
「その辺って・・どの辺? この下? 箱かなにかに隠してるの?」
と、覗いた春樹さん・・・。しまった・・と、気づくまでに少しの時間差があった。急に静かになったような春樹さん。振り返ると。春樹さんが真剣な眼差しで読んでる・・ベットの下から引っ張り出した・・、想像通りな例のエッチな内容満載の恋のハウツー本。わなわなわなわな・・どうしよう・・あんな本・・手がかたかたしてしまう。そういえば・・昨日・・また・・すこし勉強してから、最後に押し込んだんだっけ・・思い出してしまう、あの、きわどいベットマナー、そこに・・タグまで付けてた気がする・・そのタグのページ・・春樹さんは真剣な顔で読んでいる。そして、つぶやいた一言。
「これって・・知美も見てたよ・・へぇぇ・・こんな内容なんだね・・ふぅぅん。最近の女の子って、すごいんだなぁ・・本当にこんな事するの・・美樹ちゃんまだ17才でしょ。でも、これって・・昨日の美樹ちゃんみたい・・全開ですね・・太もも」
ねぇ・・来て・・彼をゲットしたいなら、恥ずかしさを少しだけこらえてみよう。男を誘い、その気にさせるポーズ集・・あの本の、そんな字を思いだした。体が凍り付いてしまった。それに・・あの本を奪い取ろうと立ち上がってしまいたいけど・・それをきっかけにすることも彼をその雰囲気に導く一つの手・・確か・・そう・・書いていた気がする・・・。
「ふううん・・うぅわっ・・・」
たぶん・・今、男女が変な柔軟体操してる格好で、絡み合ってるところを見てると思う。ページをめくる音が聞こえる。かささ・・かささ・・・それに・・。
「へぇぇぇ・・時には恥じらう演技も必要なのか・・。だめ・・と、いや。・・いいよ、と、して・・の使い分け? 男を喜ばせる48の行為? 初級、中級・・上級編・・特別上級編? きゃぁぁぁ、変態行為の一例? 痛くない体の縛り方? 器具の種類と使い方? 深まる愛を確かめ合うために? いつかは挑戦したいあの行為? うぅわっ・・へぇぇぇ」
声出してまで、読まなくてもいいでしょ・・それに・・なんでそんなに真剣なのよ・・。私だってそこは恥ずかしくて顔を背けてしまったところだったのに。カタカタカタカタしてる手、揺れが止まらない。そして・・。
「美樹ちゃん、こんなことも勉強してるんだね・・へぇぇ・・ふううん。それに・・なんだか、このベットの下・・ドラえもんの4次元ポケットの中みたい。いろいろあるなぁ。これ・・なに」
ごそごそごそ・・こんなにムシンケーな人だとは思わなかった・・また・・お父さんとお酒でも飲んだのだろうか? そういえば・・B型だと言ってた気もする。ぶつぶつ考えてると、春樹さんが引っ張り出したのはくしゃくしゃに丸まった私の下着。
「おっ、美樹ちゃんのナマブラ」って、ブラジャーをぶらーんと広げて・・
だから、制御できなくなった腕が、おもいっきり投げつけたミッキーの置き時計。春樹さんの側頭部に命中してばらばらに砕けて。春樹さんは糸が切れたように倒れて、それでも、私は泣き声でこう言った。
「でてってよ・・もぉ」
言ってから・・背中を向けてると・・しばらくして、もっと静かになった気がした・・振り向くと・・春樹さんはぐったりと死んでいる。少し不安になったけど・・。なかなか生き返らないから、もう少し不安になったけど。
「・・・春樹・・さん?」
と、一言いったら、ぴくっとした春樹さん。「なにすんだよぉ~」と、側頭部を抑えながら私を見る目が言っているから・・。しかたなく。「ごめんなさい・・・」と、心の中で呪文を唱えると生き返った春樹さん。でも。
「あなたが悪いんでしょ・・」
と思ったことは声になってしまった。春樹さんは、唇をとがらせたまま、ときどき頭をさすりながら、ちらちらと私を警戒しながら。ばらばらになったミッキーの置き時計、背中を丸めた小さな姿勢で、かちゃかちゃと組立ていた。組立終わった後。
「中間テストの問題・・」
と、あちこちひびだらけの時計を机に置いて、
「・・探しておいて」
一言だけぼそっとつぶやいて、振り返りもしないで、本当に出ていった。パタンと閉まるドア。絶対、私のことを軽蔑してるテレパシーを感じてしまう。私の事・・・そんな女の子だと・・思ったのだろうか。バイクの音が遠ざかって・・。また、すぐ開いたドア・・。
「美樹・・あんた・・春樹さんに、なにしたの?」
なにしたのって・・お母さんがしようとしてたことに比べたら・・と思ったけど、お母さんの大きな声は無視する以外に方法がなかった。

  あんな本・・また・・手に取って思う事・・。ページをめくると・・いつ見ても顔が火照ってしまう。男と女って本当にこんなことするのだろうか?
「誤解・・されたかなぁ」
と、つぶやいた。これは・・興味はあるけど・・恥ずかしいから、適当に読み流しただけなのに・・。知らない事が恐いから、知識を予習しただけなのに・・・。捨てるのも・・恐い気がする。私が捨てた事、誰かにみられたらそれこそ生きてゆけなくなりそうだし。それに、今にも崩れそうな、ミッキーの置き時計。秒針が上まで上がるとするすると降りてくる、下までゆくと、しばらく止まって、またぎこちなく上まで上がって、するする・・・。そうだ・・・中間テストの問題・・って言ってたっけ・・まだ・・あるかなぁ? 机の引き出し・・あったけど・・こんなのって・・恥ずかしくて見せられないじゃない・・でも・・。でも・・。ぶつぶつ。いらいらしてる時は勉強がどういう訳か・・はかどってた気がする。でも、もやもやな気持ちだと・・・はぁぁぁぁ・・・言い訳・・考えよう。あれは、友達に貰ったことにしよう・・だから、あの子が忘れていった本なんだ。そうなんだ・・。そうゆうことにしよう。でも・・なかなか眠れなかった。あの子を誰にしようか・・・。そう思い始めてしまったから。

  朝、お父さんがこんなことを言った。
「春樹君はわが家を気に入ってくれたかなぁ・・・」
いったい何を期待してるのよ。と、思ったら急にいらいらし始めてしまう。
  お母さんはこう言った。
「春樹さんって・・本当に美樹のお婿さんになってくれないかしら・・だったら、老後が安心だよねぇ」
恋人がいるって春樹さん言ったでしょ。忘れたの。と、思い出したくないことを、思い出したらもっといらいらしてしまった。
「期末テストが終わるまでずっと来てくれるんでしょ」
と、お母さん。
「そうだ・・美樹」
と、なにかひらめいたお父さん、こんな時はたいていロクなこと考えてない。
「でもなぁ・・・」
視線は私の・・そんなに大きくない胸を・・じぃっと。いったい娘をなんだと思ってるのよ。その視線は何なのよ。だから、もっと、もっといらいらしてしまう。本当に、私は一夜で反抗期に突入してしまったようだ。こんな展開になるなんて・・夢にも思わなかった。

  学校でもいらいらしている。友達達の視線、とにかくむかついてしまう。どうしてそんな目で見るわけ?
「ひそひそ、ひそひそ」
私の噂するなら・・私にその、ちらちらした視線、向けないでくれる。ほんっとにいらいらしている。黒板にこつこつと問題を書く先生も、それっておととい、春樹さんが解き方を教えてくれた問題じゃない、ったく、なんでみんなこんなにムシンケーなのよ。
「じゃ・・この問題・・ぼぉっとして・・ない・・な・・おっ・・恐い顔してる美樹、解けるか?」
でも・・本当に、春樹さん、私を誤解したのだろうか・・昨日、なにも言わずに出て行ってしまった。振り返りもしなかった。本当に軽蔑・・されたのだろうか。
「・・・美樹。どうした? ・・みぃ~きっ」
やっぱり・・そんな女の子って・・春樹さん、まじめそうな人だし・・軽蔑しただろうか。絶対あれは軽蔑した仕草だ。昨日・・なにも言わずに帰ってしまった。今日は来てくれるだろうか。来てくれなかったら・・どうしよう・・ねぇ来て・・なんて言うのはあの本の内容のようだし。そんな電話なんてできそうにないし。
「美樹っ!」
時計を投げつけたことも・・・あれって、本当に私が投げつけたのかな?・・痛かったかな?・・
「美樹・・どうした?」
あーうるさい、だれよ私を呼んでるの。でも、今日来てくれなかったらどうしよう・・
「美樹っ!!」
「なによっ!!」
ざわざわざわ・・・。冷静になるとなんとなく穴があったら入りたい・・・気持ちが。ざわざわと静まらない回りの雰囲気。ひそひそひそひそ・・・そんな音だけが聞こえてた気がする。歪み始めた私の顔。先生は言った。
「ごめん・・・あっ・・先生が解くから。いいか・・みんな、この問題はだな・・・・」
ひそひそひそひそ・・その音が静まるまで・・私は気絶してた。

「どうしたの美樹、例の彼氏と喧嘩したの?」
友達のにやにやしてる視線は、私の事、なにも心配していないこと、はっきりと感じさせてくれる。
「生理なの?」
とも聞いた。そんな言い訳する友達がいるけど・・私にはそんな言い訳なんてできるはずがない。
「ほっといてくれない? もぉ」
そうつぶやくと、本当にみんなが友達でなくなってしまいそうで恐いけど。でも・・。やっぱり・・そんな女の子だと思われただろうか・・。あんな本・・なんであんなところにしまったのだろう。ものすごい後悔が気分をもっといらいらさせてしまう。

家に帰ると、今日は春樹さん、まだ来ていなかった。
「あら・・美樹。春樹さん今日は遅いね。嫌われたんじゃない」
と、ムシンケーなお母さんが言う。お母さんが昨日あんなことしたからでしょ・・と思いながら。
「早く来ないかなぁ」
お母さんの期待顔も、まだ、私をいらいらさせてしまう。ため息つくと、どんな言い訳なら春樹さんは信じてくれるだろうか? そのことだけが、頭の中でぐるぐるし始めた。携帯のスイッチをいれても、電話はかかってこないし、メールも入ってない。机に頬杖ついても、勉強する気なんて全然湧いてこないし。本当に軽蔑したのだろうか・・。そんな女の子は嫌いだろうな。春樹さんまじめそうだし・・。もう・・逢えなくなったかなぁ・・。

でも・・・。
昨日の肉じゃがの残りを無言で食べたあと、薄暗くなってから、オートバイの大きな音が聞こえた。お腹が覚えた、ずんっと響く音が途切れた後、すぐにピンポーンとチャイムがなった。
「あらぁ~春樹さん。遅かったね」
「すいません・・ちょっと用事が・・」
と、ここまで聞こえる大きな声。その瞬間いらいらしてた気分が、おどおどな気分になって、そのうち、びくびくな気分に変わっていくのが分かった。そして・・今日はお母さんに捕まらなかったのだろうか。
「よっ・・入るよ。ちょっと野暮な用事してた・・ごめぇ~ん」
と、ずけずけと部屋に入ってきた春樹さん。いつもと同じにこにこな顔してるから・・何も言えないじゃない。でも・・どんな顔してたら、一言言えただろうか。
「あれっ・・なんだか浮かない顔。まだ怒ってる? 今日はみっちり付き合うから・・そんな顔するなよ。中間テストの問題は見つかった?」
肩ごしに手を机に置いて、私の顔をのぞき込む春樹さん。ものすごく変な意識が・・また、心をぷるぷるさせてしまう。でも・・私はこんな気分なのに・・春樹さん・・全然意識してないような・・いつもと変わらない顔。
「どうしたの、今日は何習った?」
黙り込む以外の方法を私は知らなかった。私の顔をのぞき込んで近くでくすっと笑う春樹さんの吐息がまた、私のほっぺを撫でてくれる。でも、今日は全然強気な気分になれない。
「中間テストの問題は?」
と、春樹さんがしつこく聞く。小さくうなずいて、そぉっと引き出しから出すと、春樹さんは、その点数を、ぷぷっと笑った。じっと私を見つめた後、軽く咳をした。
「なるほどねぇ・・・セカイキロクだ・・・バイト辞めさせられるのもわかるよ」
と、言った。そして。
「2点・・か。1点2点・・っと。これって鉛筆転がして偶然正解だったんでしょ。ぷっ・・ぷぷっ・・ごめん・・笑い事だよな・・・いや・・じゃないよな・・物理の教科書は?」
どうせ・・な気分で教科書を無意識に渡すと、ぱらぱらと慣れた仕草でページをめくる春樹さん。しばらく黙ったまま、そして、ふう・・とため息。そして。
「この問題は解ける?」
と、指さした。わかりそうな問題だから、うん・・と、ぎこちなくうなずく。でも・・全然解らない気がする。黙り込んでじっとしている私に。
「解らないか?」
と、聞く春樹さん。だから。また、うん・・とぎこちなくうなずいた。そしたら。
「ったく・・どっち?」
だから。ううん・・・と首を振った。でも・・うん・・とうなずいてしまう。ため息をはきながら春樹さんが言い出したこと。
「美樹ちゃんって、人生、イエスかノーで乗り切ろうとしてない? いつも、うん・・か、ううん・・としか言わないだろ」
だから、また・・うん・・って。
「言いたい事ははっきり言えば。美樹ちゃんってセリフが少なすぎるよ。うん・・か、ううん・・のほかに言葉を知らないのか?」
だから、また・・ううん・・って。
「ったく。じゃぁ、今日はこんな練習してみようか。言いたい事をズケズケ言う練習」
「えっ・・」
「今、思ってる事をズケズケ言ってくれないか? 怒ったりしないし、馬鹿にしたりしないし。ほら、言え! ずけずけと」
勇気を振り絞ってる最中、春樹さんはじっと待っていてくれた。もやもやと今思ってる事を、頭の中で文章にしてるけど。
「ほら・・・早く言えよ!」
その恐い顔、恐い声、それは演技ではないと思う。だから・・とりあえず。
「その恐い顔は・・演技ですか?」
と、聞いたら、ううん・・と首を振る春樹さん。
「演技ではありません。本当に、むっとしています」
「そうですか・・昨日のこと怒っているからですか?」
「怒ってはいません、怒らないってさっき言ったでしょ」
そう聞いて、次の言葉が出なくなった・・。そして。冷静に春樹さんの顔を観察すると湧き出してくるもやもやな気持ちを表現するために私が組み立てた文章。ごくりと喉を潤してから・・。
「まだ・・私の事・・好きですか?」
春樹さんは、うん・・とうなずいた。そして・・。
「好きですよ・・どうして? 嫌われたと思ってる?」
と、聞いた春樹さん。あんな本を見てる女の子なんて・・絶対この人は軽蔑しそうだし・・そう・・思いついた事、はっきりずけずけ・・言いたいけど。
「私・・・あの・・あの本、友達が忘れていった本なの・・だから・・私・・・昨日は・・軽蔑したでしょ」
大嘘だとわかってるけど・・それ以外、それ以上の言葉を声にする勇気がない。きょとんとした春樹さん。くすくす笑ってる。何がおかしいのよ・・と、思った事を
「何がそんなにおかしいんですか?」
と、聞いたら。
「ごめん・・・そうなんだ・・変な期待して損しちゃったね。あんな勉強をしたいのかなぁ~と思って、今日は体中ごしごし洗ってきたのに。うふっ」
と、おどけた口調で言った。だから・・冗談なんだと思うけど・・・想像すると、ふるえてしまうから、うつむくしかなかった。でも。急にまじめな口調に戻る春樹さん。
「なんてね、本当は、知美の晩飯作ってた。あいつ今夜夜勤するから弁当も作ってたの。それと・・17才って、そういう事に興味が湧く年頃だし。別に軽蔑も、そんな女の子だとも思わないよ。いつか知美も見てた本だから、何書いてるのかなぁって、興味があっただけ。あいつ見せてくれなくて。でも・・見せられないよな、あんなエッチな内容じゃ」
と、言う。恥ずかしい気持ちがしてしまう。こんな会話は・・私には恐すぎる会話だし。でも、またおどけた口調の春樹さん。
「でも、本当は・・なんだ、美樹ちゃんも、そういう意識する女の子なんだね、それなら、ちょっと口説けば、触らせてくれるかなぁ。どこ触らせてくれるだろ。どうやら美樹ちゃんはアレに興味津々で、あんな本読んでるし。今日は、そのつもり、どうしようかなぁ・・外に連れ出そうかなぁ。17歳のカラダ、おかしくなっちゃいそう」
何を言い出したのだろう。ものすごくおどけた言い方だけど・・意味がわかったから・・全身がもっと震え始めた・・。そして、そっと肩に乗った春樹さんの暖かい手。びくっとしてしまう。首が短くなってる。
「なんて事を言われたらどうしよう・・と、そんな不安な顔をしてた訳だな。言ってくれないと解らなかった」
えっ・・? と、思った。振り向くとにこにこしてる春樹さん。
「ったく・・そのつもりなら、最初から、恋人がいることも打ち明けたりしないよ。美樹ちゃんの気持ちも大体想像ついてるし。お母さんは昨日黙っててくれって言ってたけど、また泣いてたんだろ。そんなに想ってくれてること、本当に、すっごく、うれしい。でも、俺には知美がいて、あいつのこと、愛してるってはっきり言えるし。それに、男と女の関係も、大人になれば興味も湧いてくるし、その相手も選びたくなるのは正常だと思うよ。美樹ちゃんの事も好きだし、大きなお世話でも、俺のこと想ってくれてるなら、できる限りの事はしてあげたい。変な誤解なんて俺はしないから。そんな顔するな」
私は・・安心したのだろうか・・。お母さんはやっぱり話したんだ・・でも・・そんな事より・・確かに・・誤解される事が恐かった。この人とそうなりたい気持ちもあると思う。ただ・・知識も経験もない事だから・・でも・・そんな事を勉強してることが恥ずかしかっただけ・・。かもしれないけど。
「美樹ちゃん」
「はいっ・・・」
「俺は、美樹ちゃんかどんな娘だかわかる。だから、こんなにほっとけない気持ちになるの。独りっ子で、大切に育てられて、初めて社会を覗いて、厳しい現実にしくしく泣いてたろ。そんな女の子、ほっとけない気持ちでいっぱいだし。何とかしてあげたくてたまらないし、だから、ここにこうして来てる。あんな本を読み始めた、きわどい年頃なのも知ってるし、俺の事、想ってくれてることも知っている。けど、俺は揚げ足すくったり、愛してる人を裏切ることなんてできないし。だから、今、美樹ちゃんが思ってる願い事、叶えてやれないかもしれないけど。でも・・本当に、言いたい事はずけずけ言った方がいい。不安な気持ちも一言言えば確かめられると思う。安心してって・・そう言ったろ」
とりあえずうなずいてみた。よくわからないけど・・とりあえずうなずいてみた。その時。
「でも・・・美樹ちゃんって、本当においしそう・・」
「へっ・・?」
「この肌に触れると、実験台になってあげたいような気持がもやもやしてくるよ・・オトコを知りたい? どんなことするのかなぁ・・教えてあげようか? 教えてあげたい気分・・これが男の本能なのかなぁ。どぉ、美樹ちゃん。春樹さんをカイボーしてみたくないか? 俺は美樹ちゃんをカイボーしてみたい」
って・・どっちだか全然わからないじゃない。それに。背中から、そっとしがみつくなんて・・
「かわいいな・・こんなにふるえちゃって・・・」
「・・やめてください・・・」
と、抵抗しても全然腕に力が入らないし、本に書いてたような背中と肩だけでいやがってる私・・。それに・・たぶん冗談だと思うけど、この人、冗談がどこまでなのか全然解らない。
「美樹・・」
と、優しい声は背中から聞こえた。くすくすと笑う声も背中から聞こえた。
「ごめんな・・今、すっごくイジワルな気分なの・・でも、ほんとは、期待したんだろ。こんな事」
と、力を抜く春樹さん。
「してません」
「嘘つき」
「してないです」
「美樹ちゃんって、嘘つくとすぐ顔にでるから」
と、私の顔をのぞき込んだ春樹さん。振り向くと唇は2センチも離れていなかった。その時。
「あらぁ・・ずいぶん仲よくなったじゃない」
と、予告無しのお母さんの登場。そして、漂う紅茶の匂い。
ぎょっ!! と、言ったのは春樹さん。ぴょん・・と飛び跳ねて、離れたところに正座した春樹さん。
「いいのよ春樹さん、こんな子、欲しくなったら、いつでももらってってくださいな」
と、言うお母さんの顔と声は、どことなく無理してた。トレーをベットに置いたとき、少しだけ手が震えていた。
「じゃましちゃったかな・・」
「あっ・・いえ・・」
と、おじぎする春樹さんを、疑いの眼差しでちらっと見たお母さん。逃げるように部屋を出ていった。ドアがしまっても正座してる春樹さん。ったく、この人はなんなんだろう。でも・・その反省してる正座。いい気味だわ・そんな気分だ。うしししっともいえるな。だから思いついた事をずけずけと言ってやった。
「下心なんてないって言ってたくせに・・ずっと反省していなさいよ」
「はぁぁい・・ごめんなさい・・調子に・・乗りすぎました、でも、美樹ちゃんが抵抗しないからでしょ、それに、下心は少しありますよ」
なんて言って春樹さんは私のせいにするから。
「私のせいですか」
と怖い顔で言ってみると。
「ごめんなさい・・僕の出来心です・・本当にごめんなさい」
と、春樹さんは言った。くすくす笑ってしまった。子供みたいな謝り方がおかしくて、それと、本当は、少しだけ期待が叶ったから。

「じゃぁ・・まじめに勉強しましょう」
「うん」
そう言って、机に向かって、ぶつぶつと言いながら、問題集のいろいろな問題をすらすらと解いてしまう春樹さん。問題を解く方に神経が傾いてるせいか・・聞きたい質問が、無意識のうちに声になっている。でも・・とりあえず、聞き始めた最初の質問は。
「昨日・・どうして何も言わずに出て行ったんですか?」
だった。
「んっ・・でてってよぉ~もぉぉ。って言ったの美樹ちゃんの方だろ」
「でも・・」
「ムシンケーでした・・。ごめんなさい。と、言いたかったけど、昨日は謝っても許してくれそうになかったし・・。逃げるしかないな、そんなつもりだった、申し訳ない気持ちでいっぱいだったから、お母さんにも挨拶だけして、黙って帰ったの」
「そうですか」
「そうですよ。だから・・今日は許してくれますか、昨日のこと。はい、この問題も解いてみようか」
「これ・・? 許してあげるけど」
「うん、ありがと。これ、因数分解の基本中の基本、このパターンを覚えるとほかの問題は数字が違うだけだから」
「でも・・昨日は春樹さんの方が絶対悪い・・」
「反省してます。でも・・あのベットの下って、不思議な雰囲気があって、科学者の下心をくすぐるから・・ちょっとムシンケーになったけど・・・そのことはもういいだろ。女の子に責められるの苦手だし」
「うん・・じゃ、他のこと・・春樹さんの血液型は?」
「突然血液型ですか?」
「ダメ?・・」
「ううん・・血液型は、典型的なB型・・・」
「典型的って・・」
「変なんだって、変わってるらしい」
「ホント・・変わってる」
「美樹ちゃんもそう思うか? B型だというだけで俺を嫌う女の子もいるくらいだよ、あれは、心がいたくなる」
「ふううん、でも・・知美さんは違うんでしょ。知美さんって・・どんな人なんですか?」
「美樹ちゃんにも負けないくらい綺麗な人・・・そうそう、その公式を使うんだよ。オトコみたいな・・ボーイッシュな女の子って言うのかなぁ・・」
「髪型とか・・ここは符号が逆になるんだよね」
「ショートかな・・呼び方は知らない、とにかく短めだよ。そうそう、その符号を逆にして、数字だけ足したり引いたり。美樹ちゃんより少し短い。綺麗な髪、美樹ちゃんには負けるかな。あっ・・そこも符号が逆になるから。プラスとマイナスが入れ替わる。同じパターン、左から右に移した後の計算でマイナスになるでしょ、よく間違えるから、それ引っかからないように」
「体格とかは? こう?」
「そうそう、それが正解。・・えっと・・体格かぁ・・背は女の子としては高い方かな。胸はそんなに大きくないかな・・。脚は綺麗だよ、結構長い。そんなに肥えてることないと思うけど、チェックはしつこいなぁ。暇さえあれば、体重計に乗って食った後の時間ごとのデータまで取ってる。あいつも理科系だからかな。食べ物のカロリーとかもすっごく詳しいし」
「なにしてる人なの?」
「薬品会社に勤めてるよ。研究職」
「頭いいんだ」
「一応、ワセダ。俺と一緒。専門はヤクガクだったかな。ほとんど独学で教授よりも詳しいことをいろいろ知ってるよ。時々、毒の話しとかする。機嫌悪いときは、知ってる? これって飲むと死ぬんだよね・・って。アンプルをプルプルって振りながら。あの魔女の目付きはぞぉぉっとする」
「うそ・・・」
「ホント、そんな時は黙って言うこと聞くしかないけど・・。最近は機嫌が悪くなってることは、大体、雰囲気でわかるから・・先に逃げる方法うまくなった。昨日の俺、逃げるの上手だったでしょ。それを解くときの公式は知ってる?」
「うん、これだよね・・黙って帰っただけでしょ。知美さんって優しい?」
「うん本当は優しい人。ゴキブリも殺せない。かわいそうだよ・・って。違うよ、こうするんだ、公式はあってるけど。出会いは美樹ちゃんと同じように・・・」
「えっ・うん・・出会いは私と同じようにって・・・泣いてたの」
「うん・・初めてはなしたとき、泣いてた・・俺は本当に女の子の涙に弱いから・・」
「愛してるの?」
と、軽い気持ちでいった瞬間、ほんの少し、時間が止まった。気がした。問題を解いているシャープペンも一瞬止まって。それは、テレビや映画でよく耳にしている言葉だから、ありふれている言葉だとずっと思っていた。でも。
「ああ・・愛してる・・俺はあいつのことを」
くぐもった声が心の奥まで届いた。止まったシャープペンがすごく重く感じた。ごくっとなって息が詰まった。本当の気持ちがこもっているこの言葉、こんなに重量感があること、初めて知った。あわてて・・。
「ど・・どのくらい?」
と、聞き返すと、くすっと聞こえた笑い声・・。この言葉はこんなに重くて・・そして、
「想像できないくらい・・・。ほら、さっきも言ったろ。符号が逆になるって。これも同じだから、よく覚えなきゃ」
こんなにふんわりしてるんだ・・。そんな実感。そして、続けた独り言のようなつぶやき・・。
「うん・・一緒に住んでるんだよね?」
「えっ・・うん・・一緒に暮らしてる」
「結婚するの?」
「うん・・でも、俺は大学院に進みたいから、結婚はもう少し待ってって言ってるけど。たぶん、大学でたらすぐする気じゃないかな・・言い出したら、俺もそうするつもり」
「いいだす・・・って」
「プロポーズ・・したくなってしまったら・・するしかない。そう言うタイミングがあるんだって」
「ふぅぅん、でも、どっちから言い出すのふつう」
「どっちだろ、男の方から言わなきゃならない気もするし、言い出したくても、俺はまだあいつを養える力がないし、あいつから言い出したら断れないだろうし」
「養えるって・・」
「バイトの給料じゃ生活できないでしょ、今はあいつに食べさせてもらってるし、好きってだけでできるものでもないんだよ、結婚って」
「そんなこと、考えたことないよ」
「現実はいろいろ厳しいんだ・・そうそう、その公式を当てはめて、符号がかわって・・」
「こうだよね・・」
「おっ・・それが正解。できるようになったじゃん」
それは、初めてまっすぐに解けた問題、まるでパズルのピースが自動的にはまり込んで、カシャカシャチーンって答えが出たような錯覚・・。
「うん・・でも・・本当にいいの? そんな人がいるのに・・こんな事してて」
「別にどおってことない。次はこれを解いてみようか。世の中二人っきりじゃない事くらい知ってる、お互いに。これは、さっきと同じ、ちょっとひねってる事に気づけば解ける問題だから。この角度をひねってるだけ。・・うん・・俺の性格も、あいつの性格も。知り尽くしてる仲。許せる範囲と、ものが飛び始める限度。あいつもよくものを投げるなぁ・・そういえば・・あれは女の子の本能なの?」
「あっ・・昨日・・痛かった?  この角度?」
「そう・・角度の配置をさっきと同じに、絵を書き換えてみて。そう、さっきと同じ公式をここで使って。でも・・昨日は一度死んだよ。サンズの川の渡し賃もってなかった」
「ごめんなさい・・・ここで使うの?」
「そうそう・・いいよ、慣れてるし」
「ほかにもいろいろ聞いていい?」
「好きなだけどうぞ」
「私と知美さん以外に、好きな人いる?」
「みんな大好きだけど。バイトに来てるみんなも、由佳のことも好きだし、奈々江ちゃんも美里ちゃんも、大学のサークルの人も。嫌いな人はいない。あっとそれが違うんだ・・こうして・・こうなるの」
「ふううん、そういえば由佳さん、春樹さんに肩とか」
「あいつはね、あの店で一番付き合い長いから」
「由佳さんのことも好きになったこととかありますか」
「好きっていうより、馴れ馴れしくなりすぎたかなって思うね」
「そうよね、いつも呼び捨てだし、私もそのうちそうなるのかな?」
「さぁどうだろね・・でも・・美樹ちゃんは特別かな。目の前で泣いてた女の子なんて、美樹ちゃんが二人目だし」
「あの時、私が泣いていなければ、今日、こんなことしてないかな?」
「さあ・・どうだろうね・・美樹ちゃん、とびっきり可愛いから、いつか気になって絶対声かけてたよ」
「・・ふうーん。本当に下心なんてないの?」
「だから、少しだけあるよって。だから、誘惑とかしてはいけませんよ」
「うん・・もし・・誘惑したら」
「手を出してしまうかも。美樹ちゃん本当にかわいいから・・さっきも・・お母さんこなかったら・・」
「さっきは、私、誘惑なんかしてないよ」
「したよ」
「してない」
「した」
「してません」
「しました」
「絶対してない」
「してましたよ」
「いつ?」
「さっき」
「どんな?」
「だまって、うつむいて、震えて。それが十分な誘惑だ」
「それは、春樹さんの思い込みよ」
「ううん、美樹ちゃんの誘惑だ。優しくしてねって言ってるのかと思った」
「絶対春樹さんの思い込み。絶対違うわよ。私そんなこと思ってないもん」
「はいはい・・でも・・手を出したら・・後悔すると思うな・・」
「ふううん。後悔・・どうして?」
「さぁぁ・・どうしてだろ?」
「好きな人がいても、ほかの女の子に手を出したくなるの?」
「なる・・」
「どうして?」
「それが、オトコの本能なの」
「ふぅぅん」
「俺にはまだ理性が残ってるし・・二人同時に相手できるほど器用でもないし・・」
「ふぅぅん、理性か・・器用でもないのか」
「ねぇ・・来て、って言えば理性はなくなるよ。試してみる?」
「言いません」
「うそ、言いたいくせに」
「本当です。そんなこと絶対言いません」
「でも・・言わなくても・・美樹ちゃん、本当に綺麗」
「もう・・・」
「この首筋、きれいな肌」
「もう・・・だめです」
「そんな気分になるよ・・美樹ちゃんかわいいから。俺もオトコなんだなぁ」
「オトコだからって理由はやめてください・・ホントに男の人ってみんなそう?」
「さあ・・そうなんじゃないかな? 中には何人と寝たかを競う人もいるし、何回したかを競う人もいる。けど、俺には、俺だけを愛してくれてる人がいるから・・だれをどれだけ愛しているかを競いたいし・・その人だけの俺でいたいし。それが後悔する理由かな」
「嘘付き・・」
「どうして・・」
「私の為にも・・今、こんなことしてるくせに」
「そうだな・・・。帰ったら知美にあやまらなきゃ、浮気しちゃいましたって」
「許してくれる?」
「美樹ちゃんに言い訳してもらう、何もなかったって」
「言うと思う、私がそんな事」
「思ってるよ。ちゃんと言ってくれると思ってる」
「それってズルイ、言わなきゃいけないみたいじゃない」
「言わなきゃいけないでしょ。こうして勉強ちゃんとしてるだけなんだだから、ちゃんとわかるようになったんだし」
「・・さっきの公式・・おぼえちゃちった・・じゃぁ・・何もなかったよ言ってあげるよ」
「ありがと・・何かあっても、そう言ってください」
「・・はい・・何かあっても、何もなかったよって言ってあげます」
「ほんと?」
「うそ」
「やっぱり」
「話し変えましょ・・・私の事どのくらい好きですか?」
「世界で2番目に好きかな。美樹ちゃんの為に俺ができる事ってなんだろ・・そんな気持ちだから。好きじゃなければ、こんなこともできないでしょ」
「・・うん」
「あっ・・またうんって言った」
「ほかの返事が思いつかないだけでしょ」
「ボキャブラリーが貧弱なんだな。この4字熟語の間に入る漢字は? 鳥と炒めるの間は」
「・・えっ・・」
「国語で出るかもしれない」
「うん・・えっとぉ・・・」
「肉と飯。鳥肉炒飯・・チキンピラフ、ピラフと炒飯は別物だけどね。どうしてあればかり食べるんだ」
「・・えっ?・・うん・・」
「こんど、他のもの作ってあげようか?」
その瞬間に机に向かってから始めて振り向いた。春樹さんの唇まで、10センチほどの距離があった。のけぞりたい気持ちとそのままキスしてみたい気持ちが一瞬、揺れた。それに、見つめてる春樹さんはいつもと同じ顔をしている。本当に、今なら・・そんな気持ちがあふれてしまった。これって・・誘惑なのだろうか。一瞬そんな躊躇を感じたけど・・そっと目を閉じて、唇をぎこちなく尖らせてみた。震えてるのは演技かもしれない。どうぞって思っている気持ちもある。でも、少ししてから、くすっと笑って、おでこにちゅっとしてくれた春樹さん。それだけでも、きゃぁぁぁって気持ちになったけど・・やっぱり・・と、思う気持ちの方が大きいかな、少しだけ悲しくなった。でも・・すごくうれしい気もする。本当に下心なんてなさそう。
「大切にとっとけよ。その時は俺も言わせてもらう。おめでとうって」
「・・うん・・」
「ごめんな、期待に添えなくて」
「・・ううん・・期待なんかしてないし」
「そうか・・美樹ちゃんの肌に触れた瞬間、なぜか知美の顔が浮かんでしまって・・やっぱり、できそうにないよ・・」
「・・うん・・」
「でも・・どうしてもって時は・・・むふふっ」
と、春樹さんが今考えていることを想像した瞬間。唐突に流れた携帯電話の呼びだし音。聞いた事があるメロディー。表示を見て春樹さん「えぇぇぇぇ、知美・・」だって。知美さんにテレパシーが通じたのかな。また、春樹さん、そんな事考えてるよ。そう、思ったから。ふと、時計を見つめると10時30分、いつの間にこんなに進んでしまったのだろうと思った。春樹さんは私から視線を反らせて、背中を向けて。携帯電話を耳に押し当てて、話し始める。その、あたふたしてる表情・・。くすくす笑ってしまいたくなった。
「あっ・・いや・・うん・・ちがう・・そう・・えっ・・いや・・うん・・だから・・うん・・うそっ!!・・」
紙に書いてあげた。ボキャブラリーがヒンジャクですね。って。むすっとした春樹さん。英語と漢字に書き直してくれる。vocabularyって。貧弱って。そして、ポケットをごそごそ探してから、「えぇぇぇぇぇほんとだ・・そこに置き忘れてるの?」と言って。ため息ついて、私に携帯電話を差し出した。
「たのむ・・・」
と、言いながら。少しだけ戸惑ったけど。電話を耳に当てると唐突に飛び込む女の子の声。
「もしもし・・・春樹、おい・・こら。なにか素敵な言い訳しろよ・・黙り込むなんてセンスがないぞ。聞いてるの・・春樹」
初めて聞く知美さんの声は、男の子のようなしゃべり方でぶつぶつぼやいてるのに、とても透き通る声。本当に綺麗な人なんだと想像してしまった。
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