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柘榴の月 第三話⑥
石榴の月~愛され求められ奪われて~
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「お方さま、このような酷いことをする水戸部をどうかお恨み下され。それがし、畏れながら早くにお父君を亡くされた殿を我が子ともお思い申し上げて今日までお仕えして参り申した。殿のおんため、お家のおんためであれば、この身はいかようなる憎しみも受ける覚悟にござります」
水戸部が頭を下げ、踵を返した。
逞しい男に抱えられた龍之助は、火が付いたように泣き喚いていた。無理もない。いきなり出現した侍に有無を言わさず抱きかかえられ、連れ去られようとしているのだ。
「待って、お願い。龍之助を返して」
お民が追い縋ろうとするのを、別の侍が両手を広げて押しとどめる。その間に、龍之助を抱えた男は素早く外に出た。
「おい、待ちな。どんな事情があるのかは知らねえが、公方さまにお仕えする天下の直参が人攫いのようなことをしでかして、その名が泣くとは思わねえのかい」
岩次がお民の前に立ちはだかる男の傍をすり抜け、外に躍り出た。
叫びながら龍之助を抱えた男に食らいついてゆこうとすると、更に別の侍が岩次を後ろから蹴り上げた。
岩次の小さな身体が数歩先に投げ出される。
「旦那さんッ」
お民は悲鳴を上げて、岩次に駆け寄った。地面に倒れ伏したまま、岩次は微動だにしない。
その隙に、男たちは風のように駆けていってしまった。
「旦那さん、旦那さん?」
お民は狂ったように岩次の名を呼び続ける。こんな状態になった岩次を到底、一人にしておけるものではない。
「お民ちゃん、儂のことは良い。大丈夫だ、龍坊を、龍坊を取り戻してこねえと」
岩次がうっすらと眼を開けて訴えた。
お民は迷った末、駆け出した。
既に水戸部はむろん、店の内に雪崩れ込んできた侍たちは皆、かき消すようにいなくなっている。龍之助を抱いた男もやはり、どこにもいない。
お民は夢中で走った。
途中で転び、草履の鼻緒が切れると、やむを得ず片方は裸足のまま走った。髪を振り乱し、片方裸足で町の往来を走る女を、行き交う人々が唖然として見つめている。
恐らく今のお民は狂女のように見えているだろう。
それでも構いはしない。が、ふいに背中で烈しい泣き声が聞こえてきて、お民は現実に引き戻された。
どうやら松之助が午睡から目覚めたようだ。あれだけの騒ぎがあったにも拘わらずよくぞ起きなかったものだと思うが、この松之助は大人しい割に、このような肝の据わったところがあった。
やんちゃな癖に怖がりの龍之助とは正反対の性格だ。
お民はその場に立ち止まった。
よしよしと、背中の松之助を揺すり上げる。
松之助も兄の身に起きた異変を察知しているのか、泣き方が尋常ではなかった。
いつしか、お民は鳴戸屋という海産物問屋の前に立っていた。ここは錚々たる大店がひしめく町人町の中でもとりわけ名の知れたお店(たな)ばかりが軒を連ねる大通りで、人の行き来も多い。
考えてみれば、闇雲に追いかけてきたけれど、水戸部たちがどこに消えたのかは判らないのだ。常識的に考えれば、町人町とは真反対の和泉橋町の方を目指したはずだ。町人町を抜けると、和泉橋という小さな橋一つ隔てた向こう側にひろがる閑静な武家屋敷町、その一角に石澤嘉門の屋敷もある。
お民は自嘲気味に笑った。
鳴戸屋は構えも大きく、その庭も豪勢なものだという。何しろ、四季折々の花が植わっていて、屋敷にいながらにして花見や紅葉狩りができると云われているほどなのだ。
ふいに涼しい風が吹き抜け、得も言われぬ香りが鼻腔をくすぐった。
鳴戸屋の庭の方から、濃厚に流れてくる花の匂い。
この匂いは、金木犀。
秋になると、黄色い小さな花をいっぱいにつけ、黄金色(きんいろ)に染まった真綿をこんもりと被せたように見える花。
お民は小さく息を吸い込む。不安と絶望でどす黒く染まった心に、一幅の清らかな風が吹き込んできたような気がする。
松之助を背負い、龍之助を花ふくの前で遊ばせている時、風に乗って運ばれてきたのは、この金木犀の香りだったのだろう。
お民はまだ愚図る松之助をあやしながら、力ない脚取りで帰り道を辿り始めた。
今、ここでむやみに龍之助を捜し回っても、見つけることはできないと判断したからだ。
水戸部が頭を下げ、踵を返した。
逞しい男に抱えられた龍之助は、火が付いたように泣き喚いていた。無理もない。いきなり出現した侍に有無を言わさず抱きかかえられ、連れ去られようとしているのだ。
「待って、お願い。龍之助を返して」
お民が追い縋ろうとするのを、別の侍が両手を広げて押しとどめる。その間に、龍之助を抱えた男は素早く外に出た。
「おい、待ちな。どんな事情があるのかは知らねえが、公方さまにお仕えする天下の直参が人攫いのようなことをしでかして、その名が泣くとは思わねえのかい」
岩次がお民の前に立ちはだかる男の傍をすり抜け、外に躍り出た。
叫びながら龍之助を抱えた男に食らいついてゆこうとすると、更に別の侍が岩次を後ろから蹴り上げた。
岩次の小さな身体が数歩先に投げ出される。
「旦那さんッ」
お民は悲鳴を上げて、岩次に駆け寄った。地面に倒れ伏したまま、岩次は微動だにしない。
その隙に、男たちは風のように駆けていってしまった。
「旦那さん、旦那さん?」
お民は狂ったように岩次の名を呼び続ける。こんな状態になった岩次を到底、一人にしておけるものではない。
「お民ちゃん、儂のことは良い。大丈夫だ、龍坊を、龍坊を取り戻してこねえと」
岩次がうっすらと眼を開けて訴えた。
お民は迷った末、駆け出した。
既に水戸部はむろん、店の内に雪崩れ込んできた侍たちは皆、かき消すようにいなくなっている。龍之助を抱いた男もやはり、どこにもいない。
お民は夢中で走った。
途中で転び、草履の鼻緒が切れると、やむを得ず片方は裸足のまま走った。髪を振り乱し、片方裸足で町の往来を走る女を、行き交う人々が唖然として見つめている。
恐らく今のお民は狂女のように見えているだろう。
それでも構いはしない。が、ふいに背中で烈しい泣き声が聞こえてきて、お民は現実に引き戻された。
どうやら松之助が午睡から目覚めたようだ。あれだけの騒ぎがあったにも拘わらずよくぞ起きなかったものだと思うが、この松之助は大人しい割に、このような肝の据わったところがあった。
やんちゃな癖に怖がりの龍之助とは正反対の性格だ。
お民はその場に立ち止まった。
よしよしと、背中の松之助を揺すり上げる。
松之助も兄の身に起きた異変を察知しているのか、泣き方が尋常ではなかった。
いつしか、お民は鳴戸屋という海産物問屋の前に立っていた。ここは錚々たる大店がひしめく町人町の中でもとりわけ名の知れたお店(たな)ばかりが軒を連ねる大通りで、人の行き来も多い。
考えてみれば、闇雲に追いかけてきたけれど、水戸部たちがどこに消えたのかは判らないのだ。常識的に考えれば、町人町とは真反対の和泉橋町の方を目指したはずだ。町人町を抜けると、和泉橋という小さな橋一つ隔てた向こう側にひろがる閑静な武家屋敷町、その一角に石澤嘉門の屋敷もある。
お民は自嘲気味に笑った。
鳴戸屋は構えも大きく、その庭も豪勢なものだという。何しろ、四季折々の花が植わっていて、屋敷にいながらにして花見や紅葉狩りができると云われているほどなのだ。
ふいに涼しい風が吹き抜け、得も言われぬ香りが鼻腔をくすぐった。
鳴戸屋の庭の方から、濃厚に流れてくる花の匂い。
この匂いは、金木犀。
秋になると、黄色い小さな花をいっぱいにつけ、黄金色(きんいろ)に染まった真綿をこんもりと被せたように見える花。
お民は小さく息を吸い込む。不安と絶望でどす黒く染まった心に、一幅の清らかな風が吹き込んできたような気がする。
松之助を背負い、龍之助を花ふくの前で遊ばせている時、風に乗って運ばれてきたのは、この金木犀の香りだったのだろう。
お民はまだ愚図る松之助をあやしながら、力ない脚取りで帰り道を辿り始めた。
今、ここでむやみに龍之助を捜し回っても、見つけることはできないと判断したからだ。
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