83 / 103
柘榴の月 第三話⑪
石榴の月~愛され求められ奪われて~
しおりを挟む
まるで龍之助がいなくなってしまったことがお民自身の責任だと無言の中に責められているような気がしてくるのだ。
夜半から、とうとう降り出したようだった。初めは小さかった雨音は徐々に大きくなり、直に屋根を打つ音が耳につき始めた。
静まり返っているだけに、雨音が余計に大きく聞こえてくるようにも思え、お民は更に眠れなくなった。
何度めかの寝返りを打った時、背を向けていた源治が唐突に口を開いた。
「眠れねえのか」
「ええ」
お民は頷いて、床の上に身を起こした。
「風が」と言いかけ、ゆるりと頭を傾ける。
耳を澄ませてみても、雨が降り出すまであれほど荒れ狂っていた風の音は既に止んでいた。
「風は止んだようですね」
「ああ、一時は野分か嵐になるのかと思ったがな」
源治もまた床の上に起き上がったようだ。
「何だか風の音を聞いてたら、余計に眠れなくなっちまって」
「―」
源治は無言だったが、お民は構わず続けた。
「風の音があの子の泣き声のように思えてならないんですよ」
「どうしてるかな、今頃」
まるで独り言のように、ポツリと源治が洩らした。
「あの子は松之助と違って、やんちゃな割には臆病ですから、風の音に怯えて泣いたりはしていないかと心配で」
お民が言うと、源治が小さな声で言う。
「五百石取りの殿さまの倅になったんだ。大切に育てられてるだろうよ。乳母とか誰かが始終、傍についてるんじゃねえのか」
「でも、実の母親のようなわけにはゆきませんよ」
言ってしまってから、お民はハッとした。
「済みません。言わなくても良いことでした」
源治はお民の気を少しでも慰めようと口にしたのに、つい逆らうようなことを言ってしまった。
「良いんだ、俺もお前の気持ちも考えねえで、余計なことを言っちまった。お前にしてみれば、自分が傍にいてやりたいのに、見も知らねえ赤の他人に龍を任せなきゃならないのは、たまらないだろうからな。悪かったよ」
お民は微笑み、緩く首を振った。
源治とこうやって心から素直に話し合えたのは久しぶりのような気がする。それが少しだけ嬉しかった。
源治がお民を見て、吐息をついた。
「俺ァ、龍がいなくなっちまって、まるで自分の身体の一部がどこかに持ってかれちまったように思えてならねえんだ。だけど、よくよく考えてみりゃア、辛えのは俺だけじゃねえ。お前は、龍を腹を痛めて生んだ母親だ。俺なんかよりもっと辛い想いをしてるんだから、もっと労ってやらなきゃならねえのに、俺は自分の気持ちばかりに引きずられて、お前のこと考えてやらなかった」
「良いんですよ、そんなこと。お前さんの気持ちは本当にありがたいと思ってます。これ以上、望んだら、罰(ばち)が当たりますよ」
それは、心からの言葉だ。実の子ではない子を我が子としてその腕に抱き、慈しみ育てる―、なかなか誰にでもできるものではない。
「止せやい。また水臭え他人行儀なことを言いやがって。手前のガキのことをてて親が心配するのは当たり前じゃねえか。何も改まって礼を言われるほどのことじゃねえや」
お民は微笑んで頷いた。
その時、表の腰高障子が荒々しく叩かれた。
源治が弾かれたように顔を上げる。
「夜分に申し訳ござらぬ。それがしは石澤家用人、水戸部邦親にござる。お方さまに火急のご用があり、こうしてまかり越した次第」
その切迫した声に、お民と源治は顔を見合わせた。
それから四半刻後、お民は石澤家から寄越された駕籠の中の人となっていた。真夜中に水戸部が徳平店を訪れた理由は、あろうことか、〝若君さまご危篤〟というものだった。
お民はむろん、源治も共に行きたいと申し出たのだが、それは却下された。水戸部は源治に向かって頭を下げた。
―お方さまの身柄は必ずやご無事にその方にお返し致そう。この水戸部の生命に代えても、この約定は守るゆえ、今は辛抱してくれ。
源治が石澤の屋敷に行きたいと言った気持ちを、水戸部は正確に理解していた。我が子として育てた龍之助の身を案ずると共に、また女房の身をも心配していたのだ。
お民への嘉門の執着は並外れている。それは一度は暇を出しながらも、しつこくつけ回し、ついには軟禁して手籠めにしてしまったという事実でも明白だ。
夜半から、とうとう降り出したようだった。初めは小さかった雨音は徐々に大きくなり、直に屋根を打つ音が耳につき始めた。
静まり返っているだけに、雨音が余計に大きく聞こえてくるようにも思え、お民は更に眠れなくなった。
何度めかの寝返りを打った時、背を向けていた源治が唐突に口を開いた。
「眠れねえのか」
「ええ」
お民は頷いて、床の上に身を起こした。
「風が」と言いかけ、ゆるりと頭を傾ける。
耳を澄ませてみても、雨が降り出すまであれほど荒れ狂っていた風の音は既に止んでいた。
「風は止んだようですね」
「ああ、一時は野分か嵐になるのかと思ったがな」
源治もまた床の上に起き上がったようだ。
「何だか風の音を聞いてたら、余計に眠れなくなっちまって」
「―」
源治は無言だったが、お民は構わず続けた。
「風の音があの子の泣き声のように思えてならないんですよ」
「どうしてるかな、今頃」
まるで独り言のように、ポツリと源治が洩らした。
「あの子は松之助と違って、やんちゃな割には臆病ですから、風の音に怯えて泣いたりはしていないかと心配で」
お民が言うと、源治が小さな声で言う。
「五百石取りの殿さまの倅になったんだ。大切に育てられてるだろうよ。乳母とか誰かが始終、傍についてるんじゃねえのか」
「でも、実の母親のようなわけにはゆきませんよ」
言ってしまってから、お民はハッとした。
「済みません。言わなくても良いことでした」
源治はお民の気を少しでも慰めようと口にしたのに、つい逆らうようなことを言ってしまった。
「良いんだ、俺もお前の気持ちも考えねえで、余計なことを言っちまった。お前にしてみれば、自分が傍にいてやりたいのに、見も知らねえ赤の他人に龍を任せなきゃならないのは、たまらないだろうからな。悪かったよ」
お民は微笑み、緩く首を振った。
源治とこうやって心から素直に話し合えたのは久しぶりのような気がする。それが少しだけ嬉しかった。
源治がお民を見て、吐息をついた。
「俺ァ、龍がいなくなっちまって、まるで自分の身体の一部がどこかに持ってかれちまったように思えてならねえんだ。だけど、よくよく考えてみりゃア、辛えのは俺だけじゃねえ。お前は、龍を腹を痛めて生んだ母親だ。俺なんかよりもっと辛い想いをしてるんだから、もっと労ってやらなきゃならねえのに、俺は自分の気持ちばかりに引きずられて、お前のこと考えてやらなかった」
「良いんですよ、そんなこと。お前さんの気持ちは本当にありがたいと思ってます。これ以上、望んだら、罰(ばち)が当たりますよ」
それは、心からの言葉だ。実の子ではない子を我が子としてその腕に抱き、慈しみ育てる―、なかなか誰にでもできるものではない。
「止せやい。また水臭え他人行儀なことを言いやがって。手前のガキのことをてて親が心配するのは当たり前じゃねえか。何も改まって礼を言われるほどのことじゃねえや」
お民は微笑んで頷いた。
その時、表の腰高障子が荒々しく叩かれた。
源治が弾かれたように顔を上げる。
「夜分に申し訳ござらぬ。それがしは石澤家用人、水戸部邦親にござる。お方さまに火急のご用があり、こうしてまかり越した次第」
その切迫した声に、お民と源治は顔を見合わせた。
それから四半刻後、お民は石澤家から寄越された駕籠の中の人となっていた。真夜中に水戸部が徳平店を訪れた理由は、あろうことか、〝若君さまご危篤〟というものだった。
お民はむろん、源治も共に行きたいと申し出たのだが、それは却下された。水戸部は源治に向かって頭を下げた。
―お方さまの身柄は必ずやご無事にその方にお返し致そう。この水戸部の生命に代えても、この約定は守るゆえ、今は辛抱してくれ。
源治が石澤の屋敷に行きたいと言った気持ちを、水戸部は正確に理解していた。我が子として育てた龍之助の身を案ずると共に、また女房の身をも心配していたのだ。
お民への嘉門の執着は並外れている。それは一度は暇を出しながらも、しつこくつけ回し、ついには軟禁して手籠めにしてしまったという事実でも明白だ。
0
あなたにおすすめの小説
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末
松風勇水(松 勇)
歴史・時代
旧題:剣客居酒屋 草間の陰
第9回歴史・時代小説大賞「読めばお腹がすく江戸グルメ賞」受賞作。
本作は『剣客居酒屋 草間の陰』から『剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末』と改題いたしました。
2025年11月28書籍刊行。
なお、レンタル部分は修正した書籍と同様のものとなっておりますが、一部の描写が割愛されたため、後続の話とは繋がりが悪くなっております。ご了承ください。
酒と肴と剣と闇
江戸情緒を添えて
江戸は本所にある居酒屋『草間』。
美味い肴が食えるということで有名なこの店の主人は、絶世の色男にして、無双の剣客でもある。
自分のことをほとんど話さないこの男、冬吉には実は隠された壮絶な過去があった。
多くの江戸の人々と関わり、その舌を満足させながら、剣の腕でも人々を救う。
その慌し日々の中で、己の過去と江戸の闇に巣食う者たちとの浅からぬ因縁に気付いていく。
店の奉公人や常連客と共に江戸を救う、包丁人にして剣客、冬吉の物語。
花嫁
一ノ瀬亮太郎
歴史・時代
征之進は小さい頃から市松人形が欲しかった。しかし大身旗本の嫡男が女の子のように人形遊びをするなど許されるはずもない。他人からも自分からもそんな気持を隠すように征之進は武芸に励み、今では道場の師範代を務めるまでになっていた。そんな征之進に結婚話が持ち込まれる。
無用庵隠居清左衛門
蔵屋
歴史・時代
前老中田沼意次から引き継いで老中となった松平定信は、厳しい倹約令として|寛政の改革《かんせいのかいかく》を実施した。
第8代将軍徳川吉宗によって実施された|享保の改革《きょうほうのかいかく》、|天保の改革《てんぽうのかいかく》と合わせて幕政改革の三大改革という。
松平定信は厳しい倹約令を実施したのだった。江戸幕府は町人たちを中心とした貨幣経済の発達に伴い|逼迫《ひっぱく》した幕府の財政で苦しんでいた。
幕府の財政再建を目的とした改革を実施する事は江戸幕府にとって緊急の課題であった。
この時期、各地方の諸藩に於いても藩政改革が行われていたのであった。
そんな中、徳川家直参旗本であった緒方清左衛門は、己の出世の事しか考えない同僚に嫌気がさしていた。
清左衛門は無欲の徳川家直参旗本であった。
俸禄も入らず、出世欲もなく、ただひたすら、女房の千歳と娘の弥生と、三人仲睦まじく暮らす平穏な日々であればよかったのである。
清左衛門は『あらゆる欲を捨て去り、何もこだわらぬ無の境地になって千歳と弥生の幸せだけを願い、最後は無欲で死にたい』と思っていたのだ。
ある日、清左衛門に理不尽な言いがかりが同僚立花右近からあったのだ。
清左衛門は右近の言いがかりを相手にせず、
無視したのであった。
そして、松平定信に対して、隠居願いを提出したのであった。
「おぬし、本当にそれで良いのだな」
「拙者、一向に構いません」
「分かった。好きにするがよい」
こうして、清左衛門は隠居生活に入ったのである。
【完結】ふたつ星、輝いて 〜あやし兄弟と町娘の江戸捕物抄〜
上杉
歴史・時代
■歴史小説大賞奨励賞受賞しました!■
おりんは江戸のとある武家屋敷で下女として働く14歳の少女。ある日、突然屋敷で母の急死を告げられ、自分が花街へ売られることを知った彼女はその場から逃げだした。
母は殺されたのかもしれない――そんな絶望のどん底にいたおりんに声をかけたのは、奉行所で同心として働く有島惣次郎だった。
今も刺客の手が迫る彼女を守るため、彼の屋敷で住み込みで働くことが決まる。そこで彼の兄――有島清之進とともに生活を始めるのだが、病弱という噂とはかけ離れた腕っぷしのよさに、おりんは驚きを隠せない。
そうしてともに生活しながら少しづつ心を開いていった――その矢先のことだった。
母の命を奪った犯人が発覚すると同時に、何故か兄清之進に凶刃が迫り――。
とある秘密を抱えた兄弟と町娘おりんの紡ぐ江戸捕物抄です!お楽しみください!
※フィクションです。
※周辺の歴史事件などは、史実を踏んでいます。
皆さまご評価頂きありがとうございました。大変嬉しいです!
今後も精進してまいります!
【読者賞】江戸の飯屋『やわらぎ亭』〜元武家娘が一膳でほぐす人と心〜
旅する書斎(☆ほしい)
歴史・時代
【第11回歴史・時代小説大賞 読者賞(読者投票1位)受賞】
文化文政の江戸・深川。
人知れず佇む一軒の飯屋――『やわらぎ亭』。
暖簾を掲げるのは、元武家の娘・おし乃。
家も家族も失い、父の形見の包丁一つで町に飛び込んだ彼女は、
「旨い飯で人の心をほどく」を信条に、今日も竈に火を入れる。
常連は、職人、火消し、子どもたち、そして──町奉行・遠山金四郎!?
変装してまで通い詰めるその理由は、一膳に込められた想いと味。
鯛茶漬け、芋がらの煮物、あんこう鍋……
その料理の奥に、江戸の暮らしと誇りが宿る。
涙も笑いも、湯気とともに立ち上る。
これは、舌と心を温める、江戸人情グルメ劇。
もし石田三成が島津義弘の意見に耳を傾けていたら
俣彦
歴史・時代
慶長5年9月14日。
赤坂に到着した徳川家康を狙うべく夜襲を提案する宇喜多秀家と島津義弘。
史実では、これを退けた石田三成でありましたが……。
もしここで彼らの意見に耳を傾けていたら……。
滝川家の人びと
卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。
生きるために走る者は、
傷を負いながらも、歩みを止めない。
戦国という時代の只中で、
彼らは何を失い、
走り続けたのか。
滝川一益と、その郎党。
これは、勝者の物語ではない。
生き延びた者たちの記録である。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる