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闇に咲く花~王を愛した少年~63
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その一刻後。
誠恵は町の目抜き通りをひた走っていた。
東の空はまだ漸く薄明るくなってきたほどの早朝である。徐々に明るさを増す空を仰ぎ見ながら、誠恵の心は急いていた。
宮殿を抜け出してきたのは良いが、これから先のことを考えると、見通しはあまり芳しくない。
誠恵は少女の姿から、本来の少年に戻っていた。いや、十歳で月華楼に売られてきたときから、ずっと少女の格好をさせられていた彼は実に八年ぶりに〝男〟に戻ったということになる。
華やかさには欠けるが、上衣とズボンという服装は女性のチマチョゴリに比べると、随分身動きしやすい。
「これはこれで悪くないな」
誠恵は一人で呟き、慌てて周囲を見回して誰もいないことを確かめた。
まだ朝も早い町は寝静まっており、普段は大勢の通行人が行き交う通りに面した家々も固く戸を閉ざしている。
これからどうするかは、まだ、はっきりと決めてはいない。故郷の村に帰ることも考えたけれど、領議政は自分が村に帰ることなどお見通しだろう。もし、追っ手が放たれるとすれば、まず最初に赴くのが故郷に違いない。
ならば、村に帰るのは、あの古狸に捕まえてくれと自ら頼んでいるようなものだ。
彼は、逃げられるところまで逃げるつもりだ。あの方が王としてお歩きになられる道を、陰ながら見守っていたい―、そう願っているから、可能性がある限り、生きてみるつもりだ。
月華楼の香月にはひとめ逢ってゆきたいが、これもまたあまりにも無謀だろう。香月は実の母のように優しくしてくれたが、結局、最後には見世を守るために孫尚善に誠恵を売り渡したのだ。一度顔を見せたら、あの男に連絡して、自分の存在を知らせるに違いない。
とりあえずは東へ。日輪が赤々と空を染め上げて昇ってゆく方角に向かってみよう。
当てがあるわけではなく、あまりにも行き当たりばったりな気がしないでもなかったが、太陽が昇る方に向いて進めば、何か良いことがありそうな気がしたのである。
まずは都を一刻も早く出る。都を出さえすれば、無事逃げ切れる可能性は大きくなる。逃げ先として真っ先に眼を付けられるのが故郷だとも考えたが、実のところ、領議政ほどの大物が自分のような小物をわざわざ都から遠く離れた場所まで追ってくる意味はない。
幾ら〝任務〟に失敗すれば殺すと脅していたからとて、都の外に一旦出てしまえば、大がかりな捜索網を張ってまで捕らえるほどの価値は誠恵にはない。口封じのためなら、誠恵が都を出れば、領議政にとっては十分のはずだ。
誠恵がハッと顔を上げた。
東の空の端が燃えている。
夜の色をいまだわずかに残した黎明の空が完全に朝の色に染め上げられようとしている。
黎明の色は、希望を抱かせる。
たとえ、それが儚い一縷のものであったとしても。
誠恵が輝く朝陽に眼を奪われ、見惚れていたその時、彼は背後でビュウともヒュウともつかぬ音を聞いた。まるで風の唸りような音が一瞬耳の傍を掠めたかと思ったのと、誠恵の細い身体が大きくつんのめったのは、ほぼ同時のことだった。
「国王殿下、万歳。国王殿下、万―歳」
呟く誠恵の口からコポリと音を立てて鮮血が溢れ、飛沫(しぶき)のように周囲の地面を濡らす。
彼の背中を一本の矢が深々と刺し貫いていた。丁度心臓のある位置を毒矢で射貫かれたのだ。
しかも、早朝の人気が途絶えた道で、後ろから付けてくる気配は全く感じられなかった。大方、気配を消していたのだろう。よく訓練された刺客であれば、それくらいのことは朝飯前だ。よほどの手練れの者の仕業としか思えない。
誠恵は口から大量の血を吐きながら、地面に音を立てて倒れた。
誠恵は薄れゆく意識を懸命に保とうと己を叱咤する。
ありったけの力を振り絞り、うつ伏せて倒れていた状態で顔だけを起こした。
―嗚呼、何と美しい。
昇りかけた朝陽が正面―はるか東の地平を淡い藤色に染めている。
誠恵は震える手で懐から玉牌を取り出した。薔薇の花を翠玉石で象った玉牌は、簪とお揃いで光宗から贈られたものだ。
早々と毒が回ったのか、手脚は痺れて上手く動かないし、眼も時々霞んで視界が覚束なくなり始めている。
流石は抜かりのない領議政孫尚善だ、こうも易々と宮殿を出てからすぐに殺られるとは考えてもみなかった。
誠恵は町の目抜き通りをひた走っていた。
東の空はまだ漸く薄明るくなってきたほどの早朝である。徐々に明るさを増す空を仰ぎ見ながら、誠恵の心は急いていた。
宮殿を抜け出してきたのは良いが、これから先のことを考えると、見通しはあまり芳しくない。
誠恵は少女の姿から、本来の少年に戻っていた。いや、十歳で月華楼に売られてきたときから、ずっと少女の格好をさせられていた彼は実に八年ぶりに〝男〟に戻ったということになる。
華やかさには欠けるが、上衣とズボンという服装は女性のチマチョゴリに比べると、随分身動きしやすい。
「これはこれで悪くないな」
誠恵は一人で呟き、慌てて周囲を見回して誰もいないことを確かめた。
まだ朝も早い町は寝静まっており、普段は大勢の通行人が行き交う通りに面した家々も固く戸を閉ざしている。
これからどうするかは、まだ、はっきりと決めてはいない。故郷の村に帰ることも考えたけれど、領議政は自分が村に帰ることなどお見通しだろう。もし、追っ手が放たれるとすれば、まず最初に赴くのが故郷に違いない。
ならば、村に帰るのは、あの古狸に捕まえてくれと自ら頼んでいるようなものだ。
彼は、逃げられるところまで逃げるつもりだ。あの方が王としてお歩きになられる道を、陰ながら見守っていたい―、そう願っているから、可能性がある限り、生きてみるつもりだ。
月華楼の香月にはひとめ逢ってゆきたいが、これもまたあまりにも無謀だろう。香月は実の母のように優しくしてくれたが、結局、最後には見世を守るために孫尚善に誠恵を売り渡したのだ。一度顔を見せたら、あの男に連絡して、自分の存在を知らせるに違いない。
とりあえずは東へ。日輪が赤々と空を染め上げて昇ってゆく方角に向かってみよう。
当てがあるわけではなく、あまりにも行き当たりばったりな気がしないでもなかったが、太陽が昇る方に向いて進めば、何か良いことがありそうな気がしたのである。
まずは都を一刻も早く出る。都を出さえすれば、無事逃げ切れる可能性は大きくなる。逃げ先として真っ先に眼を付けられるのが故郷だとも考えたが、実のところ、領議政ほどの大物が自分のような小物をわざわざ都から遠く離れた場所まで追ってくる意味はない。
幾ら〝任務〟に失敗すれば殺すと脅していたからとて、都の外に一旦出てしまえば、大がかりな捜索網を張ってまで捕らえるほどの価値は誠恵にはない。口封じのためなら、誠恵が都を出れば、領議政にとっては十分のはずだ。
誠恵がハッと顔を上げた。
東の空の端が燃えている。
夜の色をいまだわずかに残した黎明の空が完全に朝の色に染め上げられようとしている。
黎明の色は、希望を抱かせる。
たとえ、それが儚い一縷のものであったとしても。
誠恵が輝く朝陽に眼を奪われ、見惚れていたその時、彼は背後でビュウともヒュウともつかぬ音を聞いた。まるで風の唸りような音が一瞬耳の傍を掠めたかと思ったのと、誠恵の細い身体が大きくつんのめったのは、ほぼ同時のことだった。
「国王殿下、万歳。国王殿下、万―歳」
呟く誠恵の口からコポリと音を立てて鮮血が溢れ、飛沫(しぶき)のように周囲の地面を濡らす。
彼の背中を一本の矢が深々と刺し貫いていた。丁度心臓のある位置を毒矢で射貫かれたのだ。
しかも、早朝の人気が途絶えた道で、後ろから付けてくる気配は全く感じられなかった。大方、気配を消していたのだろう。よく訓練された刺客であれば、それくらいのことは朝飯前だ。よほどの手練れの者の仕業としか思えない。
誠恵は口から大量の血を吐きながら、地面に音を立てて倒れた。
誠恵は薄れゆく意識を懸命に保とうと己を叱咤する。
ありったけの力を振り絞り、うつ伏せて倒れていた状態で顔だけを起こした。
―嗚呼、何と美しい。
昇りかけた朝陽が正面―はるか東の地平を淡い藤色に染めている。
誠恵は震える手で懐から玉牌を取り出した。薔薇の花を翠玉石で象った玉牌は、簪とお揃いで光宗から贈られたものだ。
早々と毒が回ったのか、手脚は痺れて上手く動かないし、眼も時々霞んで視界が覚束なくなり始めている。
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