華鏡【はなかがみ】~帝に愛された姫君~

めぐみ

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見知らぬ花婿

第二話「絶唱~身代わり姫の恋~」

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 見知らぬ花婿

 政子の言葉に嘘はなかった。最早、政子から話を聞いた時点で、千種は引き返すことはできなくなっていたのだ。そのことを身をもって思い知ったのは、むしろ、政子との対面後であった。
 御所にいきなり呼び出された千種は河越の屋敷に戻ることも許されず、そのま御所内の一室に身柄を拘束されたのだ。せめて父に事の次第を伝えたいと申し出たものの、許されるはずもない。万が一、逃亡でもされては一大事と警戒されてのことだろう。
 それからの日々は、ひたすら花嫁教育に明け暮れた。本物の紫姫は将軍家の姫として詩歌音曲はむろん、女としての諸芸万端は身につけていたという。源氏の姫として、将来は将軍家御台所になるべく決まっていたのだから、無理からぬことであった。
 そのため、千種もまた俄仕立ての姫君として最低限ボロが出ないようにとみっちり仕込まれることになったのである。生来、飲み込みの早い千種は何事においても、渇いた砂が水を吸うように物覚えも良かった。準備期間はわずか二ヶ月足らずであったにも拘わらず、その間で、ひととおりのことはそつなくこなせるようになり、政子を歓ばせた。
 実家の父河越康正は一躍、政所令(次官、ちなみに長官は執権)という幕府内でも重要な役職に抜擢され、合わせて幕府でも執権や重きをなす一門しか加われない寄合衆に加えられた。
 寄合衆は幕府の最高枢密議会といっても良い最高意思決定機関である。河越家は昔日の栄華を取り戻したかに見えた。千種が御所で暮らすようになって数日後には、河越康正の娘千種の病死が公表された。これにより、千種は本当にこの世から抹殺されてしまった存在になった。
 この頃になると、千種は最早、自分が生きながら死んでしまったことに何の感慨も抱かなくなっていた。いや、抱く余裕さえ、なくなっていた。連日の御台所教育、更に迫りつつある祝言の支度など、目まぐるしく刻は過ぎていった。
 もしかしたら、考えることを千種本人が拒否してしまっていたのかもしれない。実際、一日の予定をこなすので精一杯で、夜が来れば侍女に無理に褥に押し込まれる間でもなく、過密な日程に疲れ切り、深い眠りに落ちていくだけの日々だった。
 そんな中で月日はあっという間にうつろい、暦は師走に入った。
 寛喜二年(一二三〇)十二月九日、鎌倉御所の大広間において、第四代将軍頼経と竹御所の華燭の典が盛大に行われた。竹御所は、その住まいに竹林が風情のある様子で植わっていたことから、その名で呼ばれるようになった紫姫の呼称だ。
 紫姫は二代将軍頼家の息女であり、今では頼朝の血を伝える唯一の直系の姫である。この婚姻に伴い、紫姫は名を幼名から〝鞠子(まりこ)〟と改めた。
 上等の練り絹の白小袖を纏った竹御所鞠子は殊の外美しく、その場に列席した重臣たちは皆、息を呑んだ。頼朝の代から仕えてきた御家人の中には感激のあまり、涙する者もいた。
―まるで天女が降臨したかのようなお美しさ。流石は亡き頼朝公のお血筋だけはある。
 その日の鞠子の周囲を圧倒するばかりの神々しさ、美貌は後々まで語りぐさになったほどだった。
 だが―。この盛儀において、最も矛盾した点があると誰もが知りながら、見て見ぬふりをしていたことがある。それは金屏風の前で仲睦まじく居並ぶはずの新郎新婦の中、肝心の新郎が最後まで姿を現さなかったことだ。
 しかし、誰もがその不自然さなどまるで眼に入らないように終始、ふるまった。頼経はついに婚儀が終わるまで、現れることはなかったのだ。
 花婿不在の祝言、本物の紫姫ではない偽物の花嫁。どれもが偽物ばかりの、とんだ茶番の結婚式だった。当然、花婿が初夜の夫婦の床に来るはずもなく。
 千種はずっと朝まで寝所に座り込む羽目になった。将軍が妻と過ごす寝所は、千種がこれまで使っていた居間続きの部屋とはもちろん別だ。
 若夫婦の寝所には整然と夜具がのべられている。豪奢な絹の夜具が幾重にも重ねてある。良人が来る前に、よもや妻が先に布団に入ることができるはずもなく、千種は朝までまんじりともせず、その傍に端座し続けた。
 十二月の夜の冷えは尋常ではない。千種は薄い夜着一枚で寒さに震えながら、朝まで過ごすことになった。花嫁にとって、あまりにも長く過酷すぎる一夜がようよう明け初(そ)める頃、楓の白い頬をひとすじの涙がつたっていた。
 偽物の姫君、紛い物の花嫁は所詮、本当の姫君として幸せにはなれない。
―頼経どのを恨むでないぞ。そなた自身の曇りなき眼で頼経どのをとくと見、どのような男かを判ずるのじゃ。
 紫姫の身代わりになれと命じられたあの時、政子はしかとそう言った。が、曇りなき眼も何もあったものではない。端から頼経は二代将軍の娘との婚姻など、望んではなかった。
 意に添わぬ身代わりとしての日々、更に逢う前から良人に拒絶される―、あまりの過酷な環境に、千種の心身も限界が来たらしい。もちろん、新婚初夜となるべき夜、布団の外で寒さに震えながら惨めな気持ちで朝を迎えたことも大きな原因には相違なかった。
 賑々しい祝言の数日後、千種は突如として高熱を発して寝込んだ。周囲はそれはもう大変な騒ぎになった。千種が本物の紫ではないと知るのは、紫の身近に仕えていた身分の高い侍女数名と幕府内では執権北条時宗とごく一部の重臣のみだ。
 亡き彼(か)の姫にこれほど生き写しの姫が身近にいたことは、まさに天の与えた奇蹟としか言いようがなかった。実際、祖母の政子ですら、盛装した千種を見ていると、自分は悪い夢を見ていたのではないか、可愛い孫娘が死んだというのは実は嘘で、紫はちゃんと生きていたのではないか。そう、錯覚しそうになるほど酷似していた。
 政子でさえ紫の死を疑うほどだから、入れ替わりのからくりを知らない者たちは、千種が紫その人であると疑いもしなかった。
 そんな時、千種の耳に心ない下級の侍女たちのひそひそ話が聞こえてきたのだった。
―いまだに御台さまとお褥を共にしていないのは、御所さまが御台さまをお厭いあそばされているからというわ。
―それはそうよね。御所さまはいまだ御年、十二歳、それに引き替え、御台さまはこう申しても何だけれども、十六もお歳が上でいらっしゃるのだもの。
―このご結婚は、誰がどう見ても、ごり押し以外の何ものでもないでしょう。尼御台さまも執権さまも何が何でも頼朝さまの血を引く和子さまのご誕生を狙ってるのよ、だから、こんな無謀なご結婚をごり押しするのよね。
―御所さまがお可哀想。おん幼くして親から引き離されて遠い鎌倉に来て、今度は普通なら、あり得ない政略結婚で望みもしない女とくっつけられるんだもの。正直、将軍とは名ばかりの地位で、実際に政を意のままにしておられるのは尼御台さまと執権さまですからね。
―だけど、床を共にしない夫婦に子ができるはずもないし、第一、私が御所さまだったとしても、十六も年上の姉さん女房なんて、抱く気にもならないと思うわ。
 女同士のあけすけさからか、到底聞くに耐えないような卑猥な言葉まで飛び出し、千種はそれ以上聞いていられなくて、その場から離れた。
 侍女たちはまさか庭を眺めようと部屋を出る寸前だった千種が廊下の曲がり角のすぐ向こうにいるとは、想像さえしていなかったろう。
 よろめきつつ自室に戻った千種はそのままくずおれ、寝ついてしまったのだ。
 千種の身に何かあれば、今度こそ替え玉はいない。そのせいもあるのか、身の回りの侍女たちは神経質と思えるほど、千種の体調には気を遣った。この病臥はむろん、尼御台政子をも殊の外案じさせたと見え、寝込んだ翌日、政子が自ら訪ねてきた。
 このときも千種はまだ高熱が出たままだった。
「具合はどうじゃ? 昨日から何も食してはおらぬというではないか。そのようなことしてはならぬ。何か欲しいものがあれば、遠慮なく言いなさい」
 政子の言葉には実の孫にかけるような温かさが籠もっていた。だが、千種は政子には背を向けたまま振り向きもしない。
 政子はいつまでも頑なな千種を見て、苦笑いを刻む。
「黙(だんま)りを決め込んでおれば、この祖母(ばば)が困るとでも思うてか?」
 だが、千種の脳裡では昨日、耳にしたばかりの侍女たちの噂話がありありと甦っていた。
―今度は普通なら、あり得ない政略結婚で望みもしない女とくっつけられるんだもの。
―第一、私が御所さまだったとしても、十六も年上の姉さん女房なんて、抱く気にもならないと思うわ。
 思い出すまいとすればするほど、あの言葉が耳奥で途切れることなく蘇ってくるのだ。
 二十八にもなって、まだ一度も恋も知らなかった。生まれ落ちたときから、背中に大きな赤あざがあり、生涯誰にも嫁げぬと諦めていた。
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