華鏡【はなかがみ】~帝に愛された姫君~

めぐみ

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逢瀬と初夜の真実③

第二話「絶唱~身代わり姫の恋~」

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 しばらく二人は無言で歩いた。頬を撫でて吹きすぎてゆく初夏の風が火照った頬に心地良い。身体がいつになく熱いのは、きっと、この方がすぐ傍にいて大好きな男の温もりを感じているから。
 黙っていても、気まずさは微塵もない。二人で共有する時間がまたとない貴重なものに思えた。その沈黙が突如として途切れた。
「千種、先日の話だが」
 切り出され、千種は眼をまたたかせた。
 男はうつむき、また貌を上げて言う。
「私の許に来るという話、もう一度考えてみてはくれないか? 正妻がいるというのは真だ。そなたを側室としてしか迎えられぬことにも変わりはない。だが、大切にする、必ず幸せにすると誓う。与えられた妻との縁も無下にするつもりはないが、私は生涯を共に歩く女は自分で見つけたい。そなたにずっと私の傍にいて欲しい」
 男の声が少し低くなった。
「この十日間、私はずっと、そなたのことばかり考えていた。一度は諦めようとしたが、どうしても諦め切れなかった。私は強引にそなたをこのまま我が屋敷に連れ帰ることもできる。そなたが幾ら拒んでも、私の女とすることはできるのだよ。けれど、それだけはしたくない。初めて好きになった女だから、ちゃんとした手順を踏んで納得して来て貰いたい」
「それは―無理です」
 唇が震えた。出かける間際、鏡を覗き込んで何度も塗り直して珊瑚色の紅を載せたのだ。
「何故!?」
 男の烈しいまなざしが、声が千種を絡め取る。到底、受け止められなくて、千種はおずおずと眼を伏せた。
「私には」
 そこで言葉が途切れた。言うなら、今この瞬間をおいてしかない。いつまでも隠し通せるものではなく、また、将来ある身の彼を共にいたとしても未来のない自分のような女に引き止めておくこともできないのだ。
 そう、夢はいつか醒めるときが来る。千種は深呼吸した。
「―良人がおります」
「―!!」
 刹那、男の貌が強ばった。伸ばそうとした手が宙をかき、虚しく落ちた。
 千種は涙を堪えて懸命に笑顔を作った。
「申し訳ございませんでした。どうしても申し上げられなかったのです。あなたと過ごす刻があまりにも愉しくて、我を忘れるほどに。私もこの歳であなたさまが初めてお慕いした方でした。何と申し上げてもお詫びはできませんが」
 千種は男の貌を見た。品のある端正な面立ち、この貌を永遠に忘れないように記憶にとどめておこう。彼と過ごしたわずかなひとときをこれから生きてゆく余生の宝物にしよう。
 涙が次々と頬をつたう。
「お達者で」
 深々と腰を折り、踵を返した。その背に男の切なげな声が追いかけてくる。
「そなたを良人たる男から奪うことになったとしても、私は諦め切れない」
 千種はそれ以上聞いていられず、小走りに駆け去った。
 御所までの道のりをどのようにして帰ったのかも憶えてはいない。いつも抜け出すときは裏門から出入りしている。茜に借りた袿を頭から目深にすっぽりと被り、用足しに行く侍女のふりを装うのである。
 常のごとく警護の者に軽く会釈し、庭を通り抜けて御台所の居室前まで来たときである。茜がそわそわと廊下を行きつ戻りつしているのが見えた。
「茜!」
 それ以上は言えなかったが、暗に眼で伝えたつもりだった。
―そのようなところにいては駄目じゃない。
 が、茜はそれどころではない様子で、階をまろぶようにして降りてきた。
「御台さま、かように悠長なことを仰せになっている場合ではありません」
「どしたの、何かあった?」
 いつもは滅多ことで取り乱さぬ茜が興奮した面持ちで告げた。
「今宵、御所さまからお召しがございました。尼御台さまがおん直々に御所さまをご説得なさったと聞き及びおります。御台さまもそのおつもりで、これより湯浴みしていただきます」
 千種の腕から後生大切そうに抱えていた花束がバサリと音を立てて落ちた。
 良人頼経が今宵、御台所鞠子の寝所に渡る―、それが事実上の初夜になることを当人である千種が嫌というほど知っている。
 よりにもよって、あの方に哀しい別離を告げたその夜、良人と褥を共にしなければならないとは何という皮肉!
 御台所のためには特別に檜造りの湯殿が用意されている。満々と湯の湛えられた浴槽にには緋薔薇(ひそうび)の花びらが無数に散っていた。今宵、将軍に抱かれるために、千種の身体を数人の侍女たちが磨き上げる。
 湯げむりに浮かび上がった白い裸体は見事なものだった。まだ誰にも摘み取られていない、男に触れられていない身体だ。その引き締まった腰や波打つ豊かな乳房、慎ましい薄紅色の突起、どれ一つ取っても、到底、三十二歳という年齢を感じさせはしない。
 若々しく華やいだ美貌と同様、裸になっても、千種の身体は十分に男を魅了するだろう。いや、女の盛りの成熟した色香が咲き匂うように輝き、侍女たちは更にその身体を美しく見せようと風呂上がりには香油を膚に塗り込み、そのままでも十分に可憐な乳首に更に紅粉を刷毛で塗った。
 乳首に紅を載せるのは茜の役目であったが、流石にそのときは千種は涙を堪え切れなかった。
「床入りの前には、こんなことまでしなければならないの?」
「申し訳ございません、御台さま。尼御台さまから、そのように仰せつかっております」
 更に横たわって脚を開き、すんなりとした両脚の狭間、秘められたあわいの下毛を残らず剃り取った。
「―っ」
 これも千種の希望で茜一人がしてくれたけれど―、千種はもうこれが限界だった。
 千種は唇を噛みしめて泣いた。これが男に抱かれるということならば、もう二度と繰り返したくない。
 政子の意向はよく判る。頼経と自分に十六という途方もない年齢差がある以上、少しでも千種の身体に頼経が興味を持つようにしておきたいのだ。
 だが、自分は言うなりになる玩具でも人形でもない。ちゃんと心はある。それを政子は理解しているのだろうか? いや、恐らく理解してはいても、思いやるつもりはないのだ。
 恐らく、これが政子の本当の孫、正真正銘の紫姫だったとしても、政子は同じようなことをしただろう。たまたまうり二つで、年格好もまったく同じ、それだけの理由で、千種は紫姫に仕立てられた。だが、政子にとっては、最早、紫姫が本物であろうがなかろうが、どちらでも良いことなのだ。
 大切なのは、源氏の血、頼朝の血を引く直系の姫が五代将軍を産むこと。そのためには手段は厭わず、誰を犠牲にしても良い。だが、この計画には最初から無理がありすぎる。そのことに政子ほどの女人が気付いていないのだろうか。
 早婚だった時代、女は十代後半で初産を体験し、その後、数年の間に数人を産むのが普通だった。三十歳を過ぎての出産は超高齢出産となり、妊婦にも赤児にも相当の危険が伴う。出産が生命賭け、女の〝大役〟であり〝大厄〟でもあった当時、それでなくても危険のつきまとう高齢出産は冗談ではなく死を覚悟せねばならない。
 むろん、三十過ぎても易々と出産する女も少なくはなかった。だが、それは既に上の子で出産を経験している経産婦ならばで、初産ともなると話は別だ。
 第一、妊娠率も三十過ぎれば格段に下がる。頼経と竹御所の結婚は誰がみても、ごり押しであり無理がありすぎたものだった。
 こんな屈辱は二度と味わいたくない。千種は涙を流して初夜を迎える支度にも耐えた。幸い、妻を嫌悪しているという頼経がこの身体に触れることはないだろうし、そうなれば、恥ずかしい姿を晒すこともない。
 こんなつまらない女などやはり二度と顔を見たくないと思ってくれた方が千種には好都合といえた。
 ただ気まずい相手と背中を向け合い、一晩同じ床で眠るだけ。千種は自分にそう言い聞かせた。
 将軍をお待たせしては畏れ多いと早々と寝所に送り込まれた。純白の夜着一枚きりでは、まだこの季節、夜は冷える。千種は我が身を両手で抱きしめた。そうでもしなければ、不安で泣いてしまいそうだった。瞼に隣の居室の様子が甦る。床の間には青磁の大きな壺にあの男から貰った花束が活けてある。
 襖を隔てた向こうでひそやかな物音が聞こえた。いよいよその瞬間が来たのだ。千種は覚悟を決め、これから屠られようとする哀れな小動物のように惨めな気持ちで手をつかえた。
 ひそひそと囁き交わす声に、若い男の声が混じっている。それが頼経なのだろう。廊下に面した戸が閉まる音、次いで衣擦れの音とひそやかな脚音。だが、千種は知らなかった。襖一つ隔てた居室で、若い将軍の歩みがふと止まったのを。
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