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藤の舞
第二話「絶唱~身代わり姫の恋~」
しおりを挟む藤の舞
暦が五月に入ってほどなく、将軍夫妻は打ち揃い、源氏の守り神でもある鶴岡八幡宮に参詣した。
参道から大鳥居をくぐり石段を登ってゆくと、本殿に至る。
その社前には、立派な舞台が作られ、舞台上にはどこから運び込んできたものやら、見事な藤の枝が備前焼の大壺に挿されている。花はふた色、淡い紫と純白だ。枝振りもひときわ立派なものが惜しみなく束になり舞台四方を彩っているのはまさに圧巻ともいえた。
舞台の少し前方に将軍夫妻や幕府の主立った御家人の席が設えられている。きらびやかに盛装した将軍と御台所は殊に輝かんばかりの美しさであったが、その中でも十六歳の将軍の傍らに寄り添っていても、まったく違和感のない御台所の典雅な美貌に人々は眼をみはった。
御台所鞠子は既に三十二歳、良人の頼経より十六歳も年上だが、こうして居並んでいる様は少しも不似合いではなく、むしろ、似合いの美しい夫婦(めおと)雛のようである。小柄で可憐な鞠子はどう見ても二十歳ほどにしか見えなかった。
将軍夫妻の傍らにはむろん、執権北条泰時の姿や尼御台政子の姿も見えた。
既に一同は参詣を終えている。皆が着座したのを合図とするかのように、舞台では白拍子の舞が始まった。
舞うのは三人、いずれも若き眉目良き女たちばかりである。装束は下げ髪に立て烏帽子を被り、白小袖・紅の単(ひとえ)・紅の長袴・白水干を着け、白鞘巻の刀を佩く。
手に持つのは蝙蝠(扇)だ。要するに男性の格好である。
三者三様同じ出で立ちをした白拍子たちがすべるように舞い踊る。さながら花びらが舞うごとく、水が流れるごとく、まさにその舞から一幅の絵を想像できるほどだ。
突如として朗々とした声が響き渡った。
「いにしへの 都の姿 くらぶれば いかにまさらむ 鎌倉の春」
中央の殊に目立つ派手やかな美貌の白拍子が謳っている。はるか昔に栄えたどのような都よりも今、この鎌倉の繁栄は比べようもなく素晴らしい。そのような意味だ。鎌倉の春をことほぎ、その繁栄ぶりを高らかに歌いあげたのは将軍臨席の舞台にはふさわしい。
「おお、これは素晴らしい」
重臣の一人が呟くのに、執権北条泰時もしきりに頷いている。
更に舞は続き、
「藤の花 昇りゆく先 見果つれば 花匂ふ都 今盛りなり」
玲瓏とした声音で高らかに歌い上げる。
二首めは季節の花、藤にかけている。藤の花は松をよすがとして伸びてゆくが、上へ上へと昇ってゆくその先ははるか高みにあって、到底見届けることはできない。
鎌倉という武士の都は今、まさにその藤のごとく昇運のまっただ中にある。下の句は〝あおによし奈良の都は咲く花の匂ふがごとく今盛りなり〟から本歌取りしている。
どちらの歌も東国の都の繁栄を歌い込んだものばかりである。
その歌を終わりとして、舞いは終わった。三人の白拍子が観客席に向かって深々と頭を垂れる。
と、しじまに手を打つ音が響いた。見れば、若き将軍頼経が感じ入ったような表情で手を打っている。
「どちらも素晴らしき歌であった。即興にしては歌も舞いも見事なものだ。いずれも藤の花のように咲き匂う美貌だな」
そのひと言に、泰時の表情が微妙に動いた。むろん、それはほんのひと刹那のことにすぎず、後は何事もなかったかのように、静まり返った水面のように表情は消えた。
頼経の意向で直ちに墨と硯が用意された。将軍の命で中央で舞った白拍子が御前に召し出された。頼経はよほど舞と歌に感動したらしく、自らの扇に白拍子たちが歌った歌を二首書き付けて賜った。
「そちの名は何と申す?」
更に頼経は畏まる白拍子に気さくに声を欠かけた。
「環(たまき)と申します」
「環か、良き名であるな、白拍子とはいえ、ここまで至るにはさぞ日々の修練を重ねてきた成果であろう。これより後も怠らず、芸事に精進して更に見事な舞いや歌を披露するが良い」
「お言葉、心に刻み一心に精進致します」
環は跪き、深々と頭を下げた。
その場はそれで終わり、その日の夕刻。
千種は茜の介添えで夕餉の膳を取っていた。二度目に臥所を共にして以来、ほぼ毎夜のように頼経は千種の許で夜を過ごしている。しかし、この夜に限って、お渡りはないと早々と通達が来ていた。
いつもは頼経と夕餉を共にするのがならいだが、今日は一人である。せめて食事くらいは一緒に取りたかったとつい恨めしく思う千種であった。
「御台さま、このようなお話をお耳に入れても良いものかどうかと思うのですが」
茜が躊躇いがちに教えてくれたのは、今日の藤の舞であった。あの白拍子たちが何故、将軍頼経の御前で舞いを披露したか。その真の理由はあろうことか、頼経に側室を勧める議だというのだ。
茜は自分が悪いことをしでかしたように声を低めた。
「重臣の何人かが気を利かしてというか余計な気を回してというか、そのような手配を無断で行っていたということのようにございます。恐らく執権どのもご存じはなかったかと」
「そう―」
千種は気のない様子で頷き、箸を置いた。
「今日は疲れたみたい。もう横になるわ」
「え?」
茜はまだ殆ど手つかずの膳を気遣わしげに見やった。
「私、余計なことを申し上げたのでしょうか?」
茜が泣きそうな表情で言うのに、千種は微笑んだ。
「そのようなことはない。茜は私のために良かれと思って教えてくれたのだもの」
「ですが、私が無駄話をお話ししたばかりに、御膳も召し上がらず」
千種は力なく笑った。
「それとは関係ない。真じゃ、案ずるな」
千種は茜を安心させるように、もう一度微笑んだ。
しかし、寝所に入ってからも、悶々として眠れない一夜は続いた。
明け方、妙な夢を見た。男と女が全裸で絡み合う淫らな夢だ。男の方はこちらに貌を見せているので、そも誰なのかすぐに判った。女は丈なす黒髪を解き流し背中を見せているため、造作が定かではない。
「ううっ、あぅぁっー」
聞くに耐えない女の悦がり声が響き渡り、千種は思わず耳を覆った。男も女も一糸纏わず、女は男の膝に両脚を大きくひらいた姿でまたがっている。
男が烈しく下から突き上げる度に女は淫らな声を上げ、その白い身体が反り返り長い漆黒の髪が揺れた。
―止めて、お願いだから、私にそんな夢を見せないで。
到底見ておれず、叫んだところで、淫らな光景は消えた。
寝覚めの床で、千種は涙を流した。
―私は何という淫らな女になってしまったのか。
あのような淫夢を見るなぞ、以前の自分であれば想像もつかない。しかし、頼経という愛する男を得て、愛される歓びを知った今、このような夢を見るのは自分の心に醜い魔物が棲んでいるからに他ならなかった。
そう、夢の中で見知らぬ女を抱いていたのは頼経であったのだ。恐らく女の方は頼経手ずから自筆の扇を賜った白拍子環だ。
今宵、頼経は千種の許に来なかった。その夜にこのような禍々しい夢を見たというのも何かの予兆だというのだろうか。夢は時として現になることもあるという。
では、あれはまさしく現実?
考えれば考えるほど、悪い事態ばかり想像してしまう。千種は溜息をついた。人を愛することは美しい。愛する誰かを想うだけで、幸せな想いに包まれる。
けれど、その反面、愛は憎しみにも変わり、人を夜叉にする。愛する男を他の女に取られれば、女は男の不実さを恨み、自分から男を奪った女を憎む。延々と果てることのない暗闇地獄へと堕ちてゆく。その地獄に堕ちた女が心に棲まわせる魔物は〝嫉妬〟という名の感情だ。
その日から頼経は軽い風邪で寝込んだ。何事もなければ、すぐにでも見舞に駆けつけるところだけれど、どうもあの白拍子に輝くような笑顔で話しかけていた頼経のことを思い出すと、見舞に行く気にもなれなかった。
また、あの淫らな夢のこともある。あんな夢を見た後で、頼経の貌を平静に見られる自信はない。
その中に日は徒(いたずら)に流れた。最初は軽い風邪だと思われたのが長引き、頼経は病臥してから半月が経過している。流石にこれはただ事ではない、一度は見舞に参上しなければと思っている中にまた機会を逸してしまう。
そんなこんなで結局、ひと月が経ってしまった。その頃、御所では、こんな噂が立っていた。頼経が病というのは実は真っ赤な嘘で、その実、寝所に白拍子を引き入れて日がな淫事に耽っているというものだ。事が将軍家、幕府の権威に拘わるだけあって、執権泰時は事実無根の悪しき噂を流す輩を厳しく取り締まった。
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