100 / 108
秘花100
秘花~王太子の秘密と宿命の皇女~
しおりを挟む
王は刺客に向かって叫んだ。
「何故、罪のない王妃を狙う? 元の皇帝の孫とはいえ、王妃は高麗で生まれ育った。一度は王太子として、そなたらも忠誠を誓った王子なのだぞ?」
王は小さく息を吸い込んで続けた。
「王妃は親元派ではなく、反元派だ。むしろ、朕の方が元国に逆らうのは得策ではないと考えている親元派なのだ。父を元人に殺されながら、それでも臆病な朕は元にあからさまに刃向かうことができぬ弱き王だ。狙うなら、王妃ではなく朕の生命を狙え」
最後の科白は涙声になった。
刺客は明らかに躊躇いを見せていた。よく訓練された玄人(プロ)の刺客ともなれば、主命は絶対だ。恐らく王妃暗殺を命じた許誠全は王妃は殺しても王は殺すなと釘を刺しているのだ。
王はこの時、確信した。許誠全は何も私利私欲で動く奸臣ではない。むしろ高麗を思い、長らく、この国を支配してきた元を憎んでいるのだ。彼の目的は高麗を元国の支配から解き放ち、独立国としての威信を取り戻すことにある。誠全の中に国王暗殺という選択肢はないのは最初から判っていた。
少しの躊躇いを見せた後、刺客が動いた。その場の誰もが刺客は王妃めがけて突進してくるものだと信じ込んでいた。だが、刺客は直接に切り込むことをせず、手にした短剣を投げた。
投げられた短剣は弧を描いて飛んでゆく。向かう先は王妃しかない。崔尚宮は固く眼を瞑った。何もかもおしまいだ。あの短剣の鋭い切っ先は間違いなく王妃の白い胸を深々と刺し貫くだろう。我が身は不覚にも王妃を守れなかった。
「―!」
王は咄嗟に動いた。自分でも訳の判らない何かに突き動かされるようにして、動いていた。
その時、渦中にいた賢の心もちは意外なほどに静謐であった。我が生命を惜しいとは思わない。愛するジュチを失い、今またジュチを殺した憎い敵である男に辱められ、賢は生きる気力を失っていた。いつも側にいる崔尚宮を心配させまいと明るく振る舞っているものの、心の中ではいつも泣いていた。
このまま無為に宮殿で歳を重ねてゆく先にあるのは死だけであることも判っていた。〝死〟だけが賢に永遠の安息をもたらしてくれる。ならば、一日も早く死を願うのみだと思うようになっていた。
今、自分が自死すれば、愛する孫を喪った元皇帝が烈火のごとく怒るだろう。下手をすれば戦になるやもしれず、自害はできない。
今、あの刺客は間違いなく我が身に殺意を抱き、殺そうとしている。あの者が振りかざした刃がこの自分を貫けば、焦がれるように願っていた永遠の安息をやっと得られる。そう思えば、死など少しも怖くなかった。むしろ、大好きなジュチの許へ行くことを許されるのだから、嬉しい。
刺客が剣を振り上げ、賢は静かに眼を閉じた。
だが、覚悟していた瞬間はいつまで待てども訪れなかった。
一体、何が起こっているのかと賢は眼を開いた。見開いた賢の眼に映じたのは、自分の前に飛び出した王と、王に狙いを定めたかのように迷いなく飛んでくる短剣だった。
崔尚宮の叫び声がこの場に満ちた重苦しい沈黙を引き裂いた。
時間が、止まった。動かなければいけないと思うのに、手足が縫い止められたかのように動かない。
短剣が王の脇腹に深々と突き刺さる。
ヒュッと声にならなかった悲鳴が賢の唇から零れ落ちた。
賢はしばらく惚(ほう)けたように座り込んでいた。自分はただ悪い夢を見ているのだと思ったし、思いたかった。けれど、それが夢ではないのも自覚していた。
虚ろな視線をゆるゆると動かした先に、倒れ伏した王の姿があった。俯せになった王の腹には刺客が放った短剣が深々と刺さっている。その部分から眼にも鮮やかな血が溢れ出ているのを認め、賢は初めて現に戻った。
王と共に駆けつけた近衛兵たちがすぐに刺客の身柄を拘束した。彼女は抵抗することもなく捕らえられたが、やがて、その身体はすぐに力を失って倒れた。
唇から血がしたたり落ちている。舌をかみ切って自害したのだ。刺客たる者、敵方に囚われの身となれば、味方の秘密保持のために自ら生命を絶つのは常識ともいえた。
止まっていた時間がゆっくりと動き出した。賢は小さく叫び、王に走り寄った。
「殿下、殿下!」
「何故、罪のない王妃を狙う? 元の皇帝の孫とはいえ、王妃は高麗で生まれ育った。一度は王太子として、そなたらも忠誠を誓った王子なのだぞ?」
王は小さく息を吸い込んで続けた。
「王妃は親元派ではなく、反元派だ。むしろ、朕の方が元国に逆らうのは得策ではないと考えている親元派なのだ。父を元人に殺されながら、それでも臆病な朕は元にあからさまに刃向かうことができぬ弱き王だ。狙うなら、王妃ではなく朕の生命を狙え」
最後の科白は涙声になった。
刺客は明らかに躊躇いを見せていた。よく訓練された玄人(プロ)の刺客ともなれば、主命は絶対だ。恐らく王妃暗殺を命じた許誠全は王妃は殺しても王は殺すなと釘を刺しているのだ。
王はこの時、確信した。許誠全は何も私利私欲で動く奸臣ではない。むしろ高麗を思い、長らく、この国を支配してきた元を憎んでいるのだ。彼の目的は高麗を元国の支配から解き放ち、独立国としての威信を取り戻すことにある。誠全の中に国王暗殺という選択肢はないのは最初から判っていた。
少しの躊躇いを見せた後、刺客が動いた。その場の誰もが刺客は王妃めがけて突進してくるものだと信じ込んでいた。だが、刺客は直接に切り込むことをせず、手にした短剣を投げた。
投げられた短剣は弧を描いて飛んでゆく。向かう先は王妃しかない。崔尚宮は固く眼を瞑った。何もかもおしまいだ。あの短剣の鋭い切っ先は間違いなく王妃の白い胸を深々と刺し貫くだろう。我が身は不覚にも王妃を守れなかった。
「―!」
王は咄嗟に動いた。自分でも訳の判らない何かに突き動かされるようにして、動いていた。
その時、渦中にいた賢の心もちは意外なほどに静謐であった。我が生命を惜しいとは思わない。愛するジュチを失い、今またジュチを殺した憎い敵である男に辱められ、賢は生きる気力を失っていた。いつも側にいる崔尚宮を心配させまいと明るく振る舞っているものの、心の中ではいつも泣いていた。
このまま無為に宮殿で歳を重ねてゆく先にあるのは死だけであることも判っていた。〝死〟だけが賢に永遠の安息をもたらしてくれる。ならば、一日も早く死を願うのみだと思うようになっていた。
今、自分が自死すれば、愛する孫を喪った元皇帝が烈火のごとく怒るだろう。下手をすれば戦になるやもしれず、自害はできない。
今、あの刺客は間違いなく我が身に殺意を抱き、殺そうとしている。あの者が振りかざした刃がこの自分を貫けば、焦がれるように願っていた永遠の安息をやっと得られる。そう思えば、死など少しも怖くなかった。むしろ、大好きなジュチの許へ行くことを許されるのだから、嬉しい。
刺客が剣を振り上げ、賢は静かに眼を閉じた。
だが、覚悟していた瞬間はいつまで待てども訪れなかった。
一体、何が起こっているのかと賢は眼を開いた。見開いた賢の眼に映じたのは、自分の前に飛び出した王と、王に狙いを定めたかのように迷いなく飛んでくる短剣だった。
崔尚宮の叫び声がこの場に満ちた重苦しい沈黙を引き裂いた。
時間が、止まった。動かなければいけないと思うのに、手足が縫い止められたかのように動かない。
短剣が王の脇腹に深々と突き刺さる。
ヒュッと声にならなかった悲鳴が賢の唇から零れ落ちた。
賢はしばらく惚(ほう)けたように座り込んでいた。自分はただ悪い夢を見ているのだと思ったし、思いたかった。けれど、それが夢ではないのも自覚していた。
虚ろな視線をゆるゆると動かした先に、倒れ伏した王の姿があった。俯せになった王の腹には刺客が放った短剣が深々と刺さっている。その部分から眼にも鮮やかな血が溢れ出ているのを認め、賢は初めて現に戻った。
王と共に駆けつけた近衛兵たちがすぐに刺客の身柄を拘束した。彼女は抵抗することもなく捕らえられたが、やがて、その身体はすぐに力を失って倒れた。
唇から血がしたたり落ちている。舌をかみ切って自害したのだ。刺客たる者、敵方に囚われの身となれば、味方の秘密保持のために自ら生命を絶つのは常識ともいえた。
止まっていた時間がゆっくりと動き出した。賢は小さく叫び、王に走り寄った。
「殿下、殿下!」
4
あなたにおすすめの小説
ノリで付き合っただけなのに、別れてくれなくて詰んでる
cheeery
BL
告白23連敗中の高校二年生・浅海凪。失恋のショックと友人たちの悪ノリから、クラス一のモテ男で親友、久遠碧斗に勢いで「付き合うか」と言ってしまう。冗談で済むと思いきや、碧斗は「いいよ」とあっさり承諾し本気で付き合うことになってしまった。
「付き合おうって言ったのは凪だよね」
あの流れで本気だとは思わないだろおおお。
凪はなんとか碧斗に愛想を尽かされようと、嫌われよう大作戦を実行するが……?
ざこてん〜初期雑魚モンスターに転生した俺は、勇者にテイムしてもらう〜
キノア9g
BL
「俺の血を啜るとは……それほど俺を愛しているのか?」
(いえ、ただの生存戦略です!!)
【元社畜の雑魚モンスター(うさぎ)】×【勘違い独占欲勇者】
生き残るために媚びを売ったら、最強の勇者に溺愛されました。
ブラック企業で過労死した俺が転生したのは、RPGの最弱モンスター『ダーク・ラビット(黒うさぎ)』だった。
のんびり草を食んでいたある日、目の前に現れたのはゲーム最強の勇者・アレクセイ。
「経験値」として狩られる!と焦った俺は、生き残るために咄嗟の機転で彼と『従魔契約』を結ぶことに成功する。
「殺さないでくれ!」という一心で、傷口を舐めて契約しただけなのに……。
「魔物の分際で、俺にこれほど情熱的な求愛をするとは」
なぜか勇者様、俺のことを「自分に惚れ込んでいる健気な相棒」だと盛大に勘違い!?
勘違いされたまま、勇者の膝の上で可愛がられる日々。
捨てられないために必死で「有能なペット」を演じていたら、勇者の魔力を受けすぎて、なんと人間の姿に進化してしまい――!?
「もう使い魔の枠には収まらない。俺のすべてはお前のものだ」
ま、待ってください勇者様、愛が重すぎます!
元社畜の生存本能が生んだ、すれ違いと溺愛の異世界BLファンタジー!
世界を救ったあと、勇者は盗賊に逃げられました
芦田オグリ
BL
「ずっと、ずっと好きだった」
魔王討伐の祝宴の夜。
英雄の一人である《盗賊》ヒューは、一人静かに酒を飲んでいた。そこに現れた《勇者》アレックスに秘めた想いを告げられ、抱き締められてしまう。
酔いと熱に流され、彼と一夜を共にしてしまうが、盗賊の自分は勇者に相応しくないと、ヒューはその腕からそっと抜け出し、逃亡を決意した。
その体は魔族の地で浴び続けた《魔瘴》により、静かに蝕まれていた。
一方アレックスは、世界を救った栄誉を捨て、たった一人の大切な人を追い始める。
これは十年の想いを秘めた勇者パーティーの《勇者》と、病を抱えた《盗賊》の、世界を救ったあとの話。
王子様から逃げられない!
一寸光陰
BL
目を覚ますとBLゲームの主人公になっていた恭弥。この世界が受け入れられず、何とかして元の世界に戻りたいと考えるようになる。ゲームをクリアすれば元の世界に戻れるのでは…?そう思い立つが、思わぬ障壁が立ち塞がる。
【完結】浮薄な文官は嘘をつく
七咲陸
BL
『薄幸文官志望は嘘をつく』 続編。
イヴ=スタームは王立騎士団の経理部の文官であった。
父に「スターム家再興のため、カシミール=グランティーノに近づき、篭絡し、金を引き出せ」と命令を受ける。
イヴはスターム家特有の治癒の力を使って、頭痛に悩んでいたカシミールに近づくことに成功してしまう。
カシミールに、「どうして俺の治癒をするのか教えてくれ」と言われ、焦ったイヴは『カシミールを好きだから』と嘘をついてしまった。
そう、これは───
浮薄で、浅はかな文官が、嘘をついたせいで全てを失った物語。
□『薄幸文官志望は嘘をつく』を読まなくても出来る限り大丈夫なようにしています。
□全17話
小悪魔系世界征服計画 ~ちょっと美少年に生まれただけだと思っていたら、異世界の救世主でした~
朱童章絵
BL
「僕はリスでもウサギでもないし、ましてやプリンセスなんかじゃ絶対にない!」
普通よりちょっと可愛くて、人に好かれやすいという以外、まったく普通の男子高校生・瑠佳(ルカ)には、秘密がある。小さな頃からずっと、別な世界で日々を送り、成長していく夢を見続けているのだ。
史上最強の呼び声も高い、大魔法使いである祖母・ベリンダ。
その弟子であり、物腰柔らか、ルカのトラウマを刺激しまくる、超絶美形・ユージーン。
外見も内面も、強くて男らしくて頼りになる、寡黙で優しい、薬屋の跡取り・ジェイク。
いつも笑顔で温厚だけど、ルカ以外にまったく価値を見出さない、ヤンデレ系神父・ネイト。
領主の息子なのに気さくで誠実、親友のイケメン貴公子・フィンレー。
彼らの過剰なスキンシップに狼狽えながらも、ルカは日々を楽しく過ごしていたが、ある時を境に、現実世界での急激な体力の衰えを感じ始める。夢から覚めるたびに強まる倦怠感に加えて、祖母や仲間達の言動にも不可解な点が。更には魔王の復活も重なって、瑠佳は次第に世界全体に疑問を感じるようになっていく。
やがて現実の自分の不調の原因が夢にあるのではないかと考えた瑠佳は、「夢の世界」そのものを否定するようになるが――。
無自覚小悪魔ちゃん、総受系愛され主人公による、保護者同伴RPG(?)。
(この作品は、小説家になろう、カクヨムにも掲載しています)
雪解けを待つ森で ―スヴェル森の鎮魂歌(レクイエム)―
なの
BL
百年に一度、森の魔物へ生贄を捧げる村。
その年の供物に選ばれたのは、誰にも必要とされなかった孤児のアシェルだった。
死を覚悟して踏み入れた森の奥で、彼は古の守護者である獣人・ヴァルと出会う。
かつて人に裏切られ、心を閉ざしたヴァル。
そして、孤独だったアシェル。
凍てつく森での暮らしは、二人の運命を少しずつ溶かしていく。
だが、古い呪いは再び動き出し、燃え盛る炎が森と二人を飲み込もうとしていた。
生贄の少年と孤独な獣が紡ぐ、絶望の果てにある再生と愛のファンタジー
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる