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夜の一閃
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水曜日の放課後、コンコンと木製のドアが鳴った。
この時間、生徒はほとんど帰っているはずなのに珍しいなと思いながら、「はい」と返事をする。
「こーんにーちはぁ」
間延びした声でひょっこりと顔を出したのは、中学・高校時代のルームメイトだった。
「……ユカリ? どうやって入ったの」
「守衛さんに入れてもらったぁ。ここのOGで、市來先生と同室だった宇治原ですって言って」
「来客名簿に名前書いて社員証見せたらあっさりだったよ~」とヘラヘラ笑う宇治原ユカリは、生徒の治療に使う黒い丸イスを目がけて近づくとストンと座って、モルタルの床を足で蹴りながら回り出した。
ボウタイのついた白いカットソーに座ると膝頭が見えるベージュのタイトスカート。背中まで伸びたミルクティー色の髪は柔らかそうに緩く巻いてあって、くるくる回るたびに甘い匂いを撒き散らす。
ふと机にあるデジタル時計を見た。午後五時を回ったところだ。仕事帰りにしては早い気がする。
「どうしたの、仕事は?」
「んー、早退」
「……具合悪いの?」
「あはっ、違う違う、涼華に会いに来たんだよ」
「前に借りてた服を返しに」とユカリは言った。ここで初めて彼女が持っていたものを見る。通勤用のバッグの他に、ファッションブランドの大きめの紙袋。その中に以前貸した服が入っているのだろう。
「今日から彼氏が出張なんだぁ。だから涼華の部屋に泊めて?」
きっちり私の真正面に来るように、ユカリの回転が止まる。甘い匂いが今度は眼前に濃く留まった。
実家が裕福なユカリは、一見、高貴な部屋猫のような雰囲気なのに、犬のように人懐っこく野良猫のように外を自由に歩きたがった。今付き合っている恋人に少し束縛気質なところがあるからかもしれない。制限をされるほどそれを破りたくなるのだという。
午後六時になって帰り支度をする。
その間も、丸イスに座るユカリからは恋人についての情報がどんどん出てきた。
会社の飲み会に男がいるとあからさまに嫌な顔をする。二人で会う日に残業が入ると不機嫌になる。会えない日が続くと不機嫌になる。
聞いていて子供みたいな男だと思った。以前、ユカリと会ったときに聞いた話と全然違う。前は「私に興味がなさそうで楽」だと言っていたのに。
「他の男と浮気なんて考えたこともないのにね」
学校を出て私の車の助手席に座るユカリがスマホをいじりながら笑った。
ハンドルを握りながら白く光る画面を盗み見る。メッセージアプリのトーク画面だ。
相手の名前もメッセージの内容も見えなかったけど、きっと出張中の恋人だろう。
「なんか食べて帰る?」
「ううん、涼華の部屋がいい。お酒買って早く帰ろう」
ユカリがスマホの電源を落とした。だけどすぐに短いバイブ音が鳴って白く光る。ユカリはメッセージだけ見ると返信をせずに膝の上にスマホを裏返した。
じわじわと強くアクセルを踏んで、家と職場の中間地点にあるいつも利用しているスーパーに入る。早く明るいところにいかないとユカリがどんどん沈んでいく気がした。
買い物かごを左腕に引っ掛けて、右手でユカリの手を握る。
「ユカリ、食べたいものさっさと決めて」
「うん」
「無いなら適当に選ぶよ」
ベーカリーコーナーを通り過ぎ、鮮魚コーナーにたどり着く。
ユカリはきょろきょろと視線を動かした後「これ」と手巻き寿司と稲荷寿司が半分ずつ入ったパックをカゴに入れた。
「……ユカリって、海苔似合わないね」
「えー、似合うとか似合わないとかあるの?」
「お稲荷さんは似合ってるよ」
「わかんないよー、なんなのそれ」
ユカリがうつむき加減で吹き出した。
その姿に少しだけ安心して、私のその隣にあった刺身の盛り合わせをカゴの中に入れる。
繋いでいた手を強く握り返される。「ん?」と振り向くと目が合って一瞬で逸らされた。言いづらそうにユカリの唇が開く。
「……ね、明日も泊まっていいかなぁ」
「いいけど、彼氏はいつまで出張なの?」
「今週の金曜日」
「そう。私は全然構わないけど」
「じゃあ泊まる」
「うん、いいよ」
それから二人でお酒をしこたま買い込んだ。今日の分と明日の分。飲みきれなかったらまた次に会うときまで取っておけばいい。
部屋に戻る頃にはユカリの機嫌もすっかり良くなっていて、最近あった仕事のことや帰省したときに会った家族のことなんかを話した。中高一貫校でずっと同室だった私にも優しくしてくれたユカリの両親が、今でも元気に海外を飛び回っていると聞いて嬉しかった。
寮で一緒に過ごしていたときと同じように自然と「ただいま」と「おかえり」を言い合って、顔を見合わせて笑う。
「あはは、涼華が隣にいると言っちゃうー」
「わかる。私も。もはや習慣だよね」
買ってきた余分なお酒を冷蔵庫に入れて、刺身やパック寿司を移す皿を用意する。
寝室に荷物を置いたユカリが子供みたいにキッチンへ駆け寄ってきた。
「ユカリ、お酒と箸持っていって」
「うん。って、わざわざお皿出してくれたの?」
「え? このままだと嫌じゃない?」
「そのままでいいよー、お皿洗うのめんどくさいでしょ」
ユカリはそう言うと、蓋を開けた盛り付ける前のパック寿司と箸をリビングテーブルへ持っていった。
(ユカリの両親が見たら「だらしない」って怒るだろうな)
使われなかった皿を片付けて、自分の分だけ盛り付けして数秒後、刺身を皿に移す手が無意識に止まる。
(違うな、私が「ユカリらしくない」って思っちゃうんだ……)
大人になれば、自分で稼ぐようになれば、先生からも親からも干渉されなくなってもっと一緒にいられるのだと思っていた。だけど実際はそんなことなくて、大学で離れ離れになってからユカリとの距離はどんどん広がっていくばかりだ。
今はもうお互いすっかり違う世界に生きていて、ユカリはたまに思い出したようにこちら側へ来てくれるけど、その度に違う一面が見える。そしてそれは、少なくとも私が好意的に思う変化ではなかった。
私を「涼華ちゃん」と呼んでいたユカリはとっくの昔にいなくなって、今はパック寿司をそのまま食べようとするユカリになっていて、次はどうなっていくのか。考えるだけでも嫌になる。六年一緒にいた私がたかだか数ヶ月、長くてたった一年しか一緒にいなかった男に作り変えられて、会わない間に私のユカリがどんどん知らない人になっていくみたいだ。
――今、思い出しても腹が立つ。
大学三年の夏休み、慣れない教育実習の合間に時間を作って、やっとユカリと会えた日の夜。
当時ユカリと付き合っていた男は、私たちが食事をしていたカフェを出るとまるで待ち伏せでもしたかのような不自然なタイミングで「迎えにきた」と現れて、私がユカリの中高一緒の同級生で、かつ女子校出身の女だとわかるとあからさまにホッとした顔をしてから途端に横柄な態度をとった。
気を利かせて紹介してくれたユカリに対して「ちゃん付けで呼ぶのは子供くさい」だの「こんなに夜遅くまで出歩いて親御さんが悲しむ」だの、彼氏なのか、親戚なのか、人生の先輩としてなのか、一体どの目線で物事を言っているのかよくわからない男だと思った。
彼氏に困惑しているユカリの目の前で、私が絶句し呆れたのはいうまでもない。
それから半年後の冬休みに再会したユカリは、私のことをたどたどしく「涼華」と呼ぶようになった。
「なんだよ、その呼び方は」なんて、笑って突っ込んだり話を聞いてやったりする気にもならなかった。呼び捨てで呼ばれるたびにあんなつまらない男の価値観に同調したユカリのことも嫌いになりかけた。
ユカリは元々、ふわっとしていて一人じゃ何にもできないくらいの世間知らずの甘えん坊で、だけどなんとか自立をしようと頑張る子ではあった。
だから誰かに「こうしたほうがいい」と言われれば、あっさりとそれに倣ってしまうのはわかる。
わかるけど、それが私じゃなくて、たった数ヶ月一緒にいた男の役目になるのは許せなかった。
「ちゃん付けが子供くさい」ってなんだよ。一人称を下の名前で言ってるぶりっ子のほうがよっぽど子供くさいだろうがよ。
……今だったら面と向かって言ってやるのに。ユカリに意味不明な価値観を押し付けるだけ押し付けたその男は、結局一年足らずでユカリの隣からいなくなった。
「涼華」
名前を呼ばれて顔を上げる。
ユカリが対面式のカウンターからこちらを見ていた。
「大丈夫? 疲れた? 手、止まってる」
「あ、ごめん」
「やっぱりさっきのお皿借りていい?」
私が返事をする前に、ユカリはカウンターの内側へまわり込んで食器棚から真っ白な細長い皿を取り出した。
「テーブルに乗せてみたら、パックのままってやっぱりだらしないなって思っちゃったよ。横着しちゃダメだねぇ」
「へへ」と少し恥ずかしそうな態度でユカリが笑った。
その顔を見て、まだ大丈夫だと思ってしまう。「まだ」ってなんだろう……。
ソファとテーブルの間に並んで座って、最近、女子生徒から「面白い」と教えてもらった恋愛バラエティを流しながら無糖のレモン酎ハイと一緒にお寿司や刺身に口をつける。
「あ、これ知ってるー。しょっちゅうCM流れてるよね」
「ユカリは見たことある?」
「ううん、なーい」
再生する前にちらっと読んだ概要欄から察するに、男女4人ずつ同じ空間で一定期間を過ごしてカップルが成立するのかという趣旨の番組だった。
海岸沿いのリゾートホテルに押し込まれて、プールに入ったり意中の相手を呼び出して夜の海を歩いたりしている想いを吐き出している十代後半から二十代前半の男女を見ながら、懐かしいとか羨ましいよりも「これ大学の夏休み中に撮影してるのかな」なんて職業病みたいなことを考えてしまう。
生まれてこのかた異性と付き合ったことのない私にとって、男女の恋愛における機微というのは正直わからない。
すでにある程度、展開が進んでいる最新の動画を流したこともあってか誰に感情移入をしていいのかもわからない。
画面上の女の子たちと一緒になって一喜一憂するというより、自分の大学時代を重ねて「こんな学生らしいイベントなんて一度もなかったですけど」と斜に構えた感想しか出てこない。
「自分たちより若いからかなぁ。なんだかあまりピンとこないね」
律儀に稲荷寿司を一口食べては箸を置いて酎ハイの缶を持ち上げているユカリが、ぼそっと呟いた。
「あれ、大学時代に彼氏いたことあるのに懐かしいって思ったりしない?」
「えぇ、思わないよー。こんな夜の海で手繋いで笑ったことなんてない」
「台本とかあるのかなぁ」と苦笑いする横顔を見つめる。
ユカリにとって恋愛はあまりいい思い出がないように思う。
最初から立場を下に見られてモラハラ気質の奴と付き合ったり、別れるときに揉めて相手にストーカーまがいのことをされたり。なのにどうして懲りずに誰かと付き合えるんだろう。男の人が怖くなったり嫌になったりしないんだろうか。
画面の中でいい感じの雰囲気が漂っている。
月が明るく照らす浜辺を手を繋ぎながら歩いて、ポツポツと話す男女。
「あぁ、これは間違いなくクライマックスだな」と誰でもわかるシチュエーションを見せつけられて、どうにもいたたまれなくなってお互い缶を運ぶピッチが早くなる。
「……ユカリはさ、どういうきっかけで男の人と付き合うの?」
「えー、寂しくなったらじゃない?」
どこか他人事のようなニュアンスでユカリが笑った。
「うぅわ、やだ、誰とでも寝る人みたい」
「そういうわけじゃないけど。涼華が近くにいなくてなかなか会えないときとか、寂しくて寂しくてとりあえず誰かと一緒のベッドで寝たいってなったらかな」
「……なんだそれ。彼氏は私の代わりってか。寂しい寂しい言うけどさ、今日はこうして会いにきたじゃん。遠慮しないで来ればいいじゃん」
「でも毎日はダメでしょ?」
「え?」
突然、真剣な顔つきでユカリが私を見据えた。
そして「私が毎日会いに行って泊まりたいって言ったら涼華は迷惑でしょ?」と言い換える。
急に真面目な顔をするから視線が揺らぐ。
「……いや、毎日は、わかんないけど……。でも中高って6年間一緒の部屋にいたし、今さら迷惑なんて」
「高校卒業してから八年経ってるよ」
「…………?」
「この八年、お互い何も変わってないって言える? 私、涼華が私と違う大学に行くって知ったとき、死ぬかと思った。卒業して離れ離れになって、最初は毎日あった連絡がだんだん少なくなっていって、本当に寂しくて死ぬかと思った。久しぶりに会ったら全然知らない人に見えたし、私の知らない大学の話をする涼華が嫌だった。忙しいって何度も会うのを断られたときは、涼華の大学まで行ったこともあるよ。やっと会えたのが大学3年の夏休みだよ。覚えてる? 私、付き合ってる人がいるって言ったの」
「……うん、覚えてるよ」
息すらつかずに喋り出すユカリに圧倒されて、私はそれしか言えなかった。
「涼華は、私が彼氏できた、彼氏と喧嘩した、彼氏と別れたって報告するたびに会ってくれるようになったんだよ」
「……………………」
それは、そうかもしれない。
ユカリが誰と付き合っているのか、逐一把握してないと嫌だった。ユカリが不用意に傷つけられれば慰めたし、別れたと聞けば心配するふりをしながら心の奥底で喜んだ。
いつしかユカリから来る連絡は男がらみになって、会ったときのついでに近況を報告するくらいで。
会える口実はそれしかなかった。
なんでもない日にご飯を食べに行こうとか、どこかへ遊びに行こうとか、周りの人たちがうまくできていることを私はできなかった。
まるで初めて恋をする少年みたいに緊張していつもの自分じゃなくなってしまう。きっと焦って空回って変なことを言ったりしたりしそうだ。
だからユカリが作ってくれたきっかけに乗ったほうがよかった。
そっちのほうが緊張しないで済む。「あぁ、またか」っていつも通りに振る舞える。
ユカリの前では、私は頼れる存在でありたい。
甘えん坊の彼女が、真っ先に思い出す存在でいたい。
「……私、」
口を開いたユカリが何かを言いかけたとき、テーブルに置いてあったユカリのスマホが震え出した。
今度はさっきよりも長い。電話だ。
トイレとお酒を取りに行くふりをしてソファから立ち上がる。
「あっ」
「出なよ。私、トイレ行ってくる。聞かれたくなかったら寝室に行ってもいいからさ」
不安そうな顔で私を見上げるユカリが「……うん」と頷いてのろのろとスマホを取った。
リビングを出る直前、「もしもし」とユカリの声が背後から聞こえた。
私といる時と違う、少し高めの声だった。
ユカリが、私と毎日会いたい理由ってなんなんだろう……。
その後に続いた彼女の告白にびっくりしすぎて、聞くのを忘れていた。
――「本当に寂しくて死ぬかと思った」。
付き合っている者同士なら愛の言葉の一種として受け入れられそうな気もするけど、旧友の私に対して使うのが適切なのかわからない。
同性の友人でも、仲が良いなら使う言葉なんだろうか。
だけどニュアンスというか、「ノリ」が違う。
ユカリのは、本当に死んでしまうんじゃないかってくらいの恐ろしさの混じった気迫があった。
もし、もしこれから、私が気軽に会おうと言ったり泊まっていけばいいと言ったら、ユカリは本当にその通りにするのだろうか。
同じ部屋で一緒に過ごしたときのように、同じものを食べて同じ場所で眠って、1日1日の小さいことをなんでも共有しあえたりできるんだろうか。
トイレに行かず、廊下の壁を背もたれにしてぼうっと突っ立っていたらリビングのドアが開いてユカリが出てきた。
「……涼華、あの」
「ん?」
「電話、変わってもらえるかな……。できればビデオ通話で」
差し出された画面には、一度だけ写真で見た男が写っていた。
ホテルの部屋だろうか。真っ白の壁を背景にネクタイとワイシャツのボタンを一つ外した男がいらだった様子で目線を下げたり上げたりを繰り返している。
私は無言で頷いてユカリからスマホを受け取った。
咳払いをひとつして、スマホを持つ手を極力ブスに見えず、かといって媚びた感じもしないような角度に調整してから、努めて明るく「もしもし」と声をかける。
自分から電話をかけてきたくせに、男がびくりと肩を跳ねさせた。
「こんばんは」
『……あっ、こんばんはっ』
突然出てきた目つきの悪い女にさぞびっくりしただろう。
メイクを落とさなくてよかった。
『ユカリがお世話になっているようで』
「ええ、預かってます」
画面の外でユカリの手を引っ張ってリビングへ戻る。
スマホを持つ腕を伸ばして、引き気味にしながらわざと部屋の内装を映す。
「ユカリー、早くご飯食べちゃいなよ」
手を離して、おどおどと視線を泳がしているユカリを促して、私はそのままキッチンへ向かった。
冷蔵庫を開ける音。
ソファに座るユカリの隣に腰を下ろす衣擦れの音。
片手で酎ハイのプルタブを引っ張る音。
いつの間にか終わっていた恋愛バラエティをまた繰り返して、わざと生活音を出す。
ここは居酒屋でもないし、あなたの懸念材料はありませんよと言外に訴えてみせる。
『すみません、急に押しかけたみたいで。明日も仕事でしょうに』
男の声が、表情が、態度が、わかりやすく明るくなった。
なんて単純なんだ。
「いいえ~、こっちも久しぶりに会えて嬉しかったので。すみません、申し遅れました、市來涼華といいます。ユカリの中学からの同級生です」
「あぁ、こちらこそすみません、俺、あ、僕は――」
名乗った男の名前を右から左へ受け流す。いちいち覚えていられない。「ユカリの彼氏さん」でいい。
「明日、ちゃんと起こして会社に向かわせますので心配しなくて大丈夫ですよ」
『ありがとうございます』
『涼華さんは、』と馴れ馴れしく下の名前で呼んでまだ何か話したそうな男を尻目に、ユカリへスマホを返す。
「ごめん、ちょっとトイレ。すみません、ちょっと失礼しますね」
ユカリとその彼氏に声をかけて、またリビングを出た。
これ以上は無理だ。
これ以上長く話すと私が「ユカリの彼氏に相応しいか」ジャッジしてしまう。そうして絶対、不合格にしてしまう。
というか、もうダメだ。あいつもダメ。ああやってビデオ通話をさせるような男だ。
ユカリのことを信用していない。ユカリの保護者みたいな口ぶりで私に言ってくるのも気持ち悪い。
あれが私の代わりになれるわけがない。ユカリも大概、失礼だな。
昂った気落ちを落ち着かせるために深呼吸を繰り返す。
二人の通話が終わるまで、今度は絶対戻らない。
長くなるようなら、今のうちにシャワーを浴びてしまおうか。
「なんで先にシャワー浴びちゃうのー」
首にバスタオルをかけて戻ると、通話を終えてパック寿司も空にしたユカリがソファの背もたれにひじを乗せて抗議をしてきた。
「あ、お寿司全部食べちゃったんだ」
「涼華、お酒途中だったじゃん」
「ユカリも潰れる前に入ってくればいいよ。タオルもパジャマも準備しといたし。お風呂がいいならお湯溜めるけど」
「シャワーでいいですー」
海外のカートゥーンに出てくるように、わざとらしくふんっと鼻を鳴らしてユカリが立ち上がる。
「あっ、ねえ、シャワー入る前に使った皿も下げていってよね」
たたたっと小走りでユカリが戻ってきて、私を一瞥してから皿を持ち上げる。
そうしてまた「ふんっ」と鼻を鳴らして去っていく。
「子どもかよ」と笑って、ぷりぷりしながら出ていく背中を見送った。
(よかった。彼氏とどんな話をしたのかわからないけど、さっきよりは機嫌が良いみたい)
開けっぱなしにしていた水滴まみれの缶を持ち上げると、雫が垂れ落ちてショートパンツから伸びた剥き出しの太ももを濡らした。
バスタオルでそれを拭う。
ふとテーブルに置きっぱなしのユカリのスマホが目に入った。
じっと見つめてみても画面は真っ暗なままで、もうしつこく震えることはなかった。
ユカリがいなくなったから、部屋の静けさが急に居心地悪く感じる。
すっかり乾いてしまった刺身をつまみながら、さっきの恋愛バラエティをファーストシーズンの1話から流してみた。
自己紹介から始まったそれは、最新話と比べて全員が初々しくまだ一人一人の間に十数センチの距離があった。
パーソナルスペースだ。
気を許した人にしか立ち入ることができない、見えない境界線。
私たちにも昔はあったはずだ。
それが消えたのはいつだったっけ。
気安く肌に触れるくらい近づいてもよくなったのはいつだったっけ。
流れる映像を無意識に眺めながら昔のことを思って、ユカリが戻ってくるまでの間に酎ハイを2本開けた。
明日の分も合わせて買ったのに、このペースだと今日中にすべて無くなってしまいそうだ。
足りなくなったらユカリを誘って散歩がてらコンビニにでも買いに行こう。
一時間近く経ってから、私と違ってしっかり髪まで乾かしたユカリが戻ってきた。
顔のタイプは正反対でも、背の高さも体型もほとんど一緒の私たちはこれまでに何度も服を共有しあった。
私が好んで着るモノトーンな服は、フェミニンなユカリが着るとどこかちぐはぐに見える。
だけどそのまるで似合っていないユカリを見るのが好きだった。ユカリが私の服を着ているという変な特別感に満たされた。
お互い流しっぱなしのテレビにはもう目もくれない。
二十二時を過ぎているのに新しいお酒を開けてしまって、「明日も仕事だから、もうこれで終わりにしようね」と言い合う。
「ねー、涼華は大人になってできるようになったことってある?」
すっかり酔いの回ったユカリが唐突にそんなことを言い出した。
「は? 何、急に。……こうやってユカリとお酒が飲めるようになったとか?」
「ふんふん」
「あとは自分でお金を稼いで衣食住を賄えるようになったとか」
「ふんふん」
「あとは、……言いたいことを我慢するとか」
「……我慢してるの?」
「いや、別にしてないかも」
「なんだよー、ちょっと心配したー」
ユカリの小さなこぶしが私の肩を軽く小突く。
ふわふわと話すすっぴんのユカリはいつもよりずっと幼くて、すごく懐かしい気分になる。
「じゃあねぇ、逆にできなくなったことってある?」
「そんなんいっぱいあるでしょ。後転とか、二重跳びとか、走り幅跳びとか」
「運動ばっかりー。しかもそれ、できなくなったっていうよりやらなくなったじゃない?」
「やらなくなったからできなくなったんだよ。ていうかさっきからなんなの、その質問。ユカリはどうなの。できることとできなくなったこと」
「できるようになったことはね、自活! 自分で稼いで、こうして涼華とだらだら飲んでも誰にも何にも言われないの、最高!」
「同じじゃん」
「できなくなったことは、いっぱいあるかも。運動系もそうだし、夜更かしもできなくなったし、体重も太ったらすぐ戻せなくなったし、あとは……」
ユカリが手に持っていた缶に力を込める。パキッと音がして少し缶がへこんだ。
「涼華ちゃんって呼べなくなったことかな」
パキッ、パキッ……と無機質な音が不規則なリズムで響く。
一瞬、目が合ってバツが悪そうに視線を逸らされる。
「会う前に、いっぱい練習するの。涼華、涼華って呼び捨てにする練習。子供っぽいって笑われないように」
「あはは……」とうつむいたままユカリが力なく笑って、缶がバキバキに潰れていく。
せっかく機嫌よく飲んでいたのに、どうしてそんな顔をするの。
まるで私がユカリを悲しませてるみたいだ。
「ちょ、ちょっと待って、勘弁してよ。私、一度も子供っぽいなんて笑ったことないじゃん」
「うん、でも、きっと距離感はおかしかったよね……?」
「は?」
「ルームメイトの距離感のままだから、嫌になって、大学で疎遠になったのかなって。あまり、会ってくれなくなったし……」
「だ、大学の頃? 違うよ。説明したじゃん。長期休暇は毎年、教育実習があるって。しかも疎遠じゃないし、今だってこうして会ってるし」
「……そうだったっけ」
「そうだよ! 二年のときは中学校に行って三年のときは小学校だった。三週間ずっと夜中の三時まで授業の内容作ってフラフラだった。四年になったら就活と卒論で、ユカリだって忙しかったでしょう」
まるで仕事を言い訳にして会わなかった彼女に責められている彼氏の気分だ。
どうやって機嫌を直してもらおうか必死になって言い訳して、それを頭の片隅で面白がっている自分がいる。
だけどそんな淡い妄想はすぐに打ち砕かれた。
「……ずっと友達でいるにはどうしたらいいんだろう。どうしたらいいのかな。私、おばあちゃんになっても涼華と一緒にいたい。ずっと会っていたい」
「……………………」
本当ならこれ以上にないくらいの褒め言葉だ。おばあちゃんになっても会いたいと言ってくれる友達がいるのは光栄なことだ。
でも、ずっと友達でいるには、か……。友達、……友達かぁ。
あまりにも切羽詰まったような顔でこちらを見てくるから、思わず吹き出してしまった。
どうして笑ってるの?とでも言いたそうに、ユカリが眉をひそめて無言で首を傾げる。
それだけ気持ちの熱量が高くても、なりたい関係の終着点がそもそも違う。ユカリはずっと友達でいたいと思ってくれていて、私は……。
早まらないでよかった。「涼華の代わりに彼氏を作る」と言われて、ユカリの彼氏よりも優位になった気でいた。
ユカリはもともと、私と彼氏を同じカテゴリに入れていない。
私は「仲のいい友達」枠で、彼氏は「恋人」枠だ。私はユカリの彼氏の上位互換なんかじゃない。なれない。最初から交わったりしない。
ユカリの「寂し過ぎて死にたくなる」は、ただの同性のノリだった。
表情に騙されるところだった。
勘違いで突っ走るところだった。
顔から火が出そうになるのを「あー」と誤魔化すような声をあげて、頭をぽりぽりと掻く。
「あのさ、別に心配しないでもユカリとはずっと友達のままでいるつもりだし、さっきも言ったけど毎日だって会いにきて泊まっていってもいいんだよ。むしろ彼氏持ちのあんたを誘ったら迷惑だろうなって、こっちが遠慮してたくらいなんだから」
ようやく破顔したユカリを見て思う。
我ながら最適解だ。これ以上にないくらい百点満点の回答。
ほっと胸を撫で下ろす。
不意にさっきの質問が頭をよぎる。
大人になって良かったこと。
言いたいことを我慢できるようになったこと。
……本音をうまく隠せるようになったこと。
だけど少しくらいは本音を言ってもいいかな。
何人もの男たちがユカリにそうしてきたように、私にだって押し付けたい価値観がある。
誰よりも長く一緒にいた私の矜持。ユカリだけのアイデンティティ。
パーソナルスペースの内側。
「呼び方もさぁ、私は涼華ちゃんのほうがいいよ。ユカリから呼び捨てにされるの、いまだに慣れないもん。変だよ」
「……いいの?」
「いいよ」
それからユカリはほうっと大きなため息とともに肩を下げて、数年ぶりに私のことを「涼華ちゃん」と呼んだ。
呼ばれるたびにむず痒くなって、だけどようやく私の好きな元のユカリが戻ってきたような気がした。安心感で満たされていく。
「涼華ちゃん、涼華ちゃん」
「なに」
「乾杯しよう」
「なにに」
「これからも続く私たちの友情に」
「いいけど、あんたの缶バキバキじゃん。どんだけ握りしめてんの。縁起わる!」
「えぇ! じゃあ新しいの取ってくる! 涼華ちゃんもそれ飲んじゃって、せっかくなら二人とも新しいのにしよう」
「あー、明日起きれるかな」
呆れたふりをして笑いながら、言われた通りに残りのお酒を飲み干して缶を潰す。
酔いが回って二人して足をもつれさせながらキッチンまで歩く。
冷蔵庫からとうとう最後の酎ハイを取り出して、その場でプルタブを引っ張った。
「では、これからも末長くよろしくお願いします! 乾杯!」
「はい、かんぱーい」
上機嫌に乾杯の音頭をとるユカリに合わせる。
ガン、と鈍い音がして缶同士がぶつかった。
想像以上に変な音だったからおかしくなって、また笑い合った。
それから明日の分のお酒もしっかり飲み切った私は、髪を乾かしてくるから先に寝ててと、ほとんど意識を保てていないユカリを寝室へ追いやった。
脱衣所の鏡の前で、すでに半乾きになっている髪をくしでとかしながらドライヤーを当てる。
轟音の音に紛れて私は堪えきれなくなった嗚咽を漏らした。
(……スタート地点に立つ前に振られちゃった)
号泣しながら、頭の中の冷静な自分は「おばあちゃんになっても一緒にいたいなんてある意味、彼氏よりも特別なんじゃないか」と諭してくるけど、そんな法的拘束力のない口約束を真に受けるほど私はお人好しじゃない。
今までの彼氏がそうしてきたように、私だって今、ユカリに触りたい。
キスをしたい。
許されるならそれ以上のことだって、したかった。
だけどユカリはそうじゃないから、私とユカリがそれぞれ抱いている感情は全然違うから……。
くるくると忙しなく変わるユカリの悲しい顔は見たくない。
困っているのに目線を下げて無理して笑う顔も。
私との関係の中で、そういう表情はさせたくない。
しっかり髪を乾かして、ついでに涙でパリパリになった顔を洗い直してスキンケアもやり直した。
飲酒と号泣のせいで、きっと明日の朝は顔がパンパンでまぶたが開かないかもしれない。
通勤用のバッグからスマホを取って真っ暗な寝室へ忍び足で入る。
きっちり私の分のスペースを開けたユカリが壁際に背中を貼り付けて、タオルケットを足の間に巻き込みながら横向きになって眠っていた。
寮で一緒に暮らしていた頃は二段ベッドがあってユカリが上で、なのにユカリはしょっちゅう下の私のベッドに入ってきた。
そしてどちらかが眠るまで他愛もない話をした。
同じ時間に起きて同じ授業を受けて同じご飯を食べて同じ宿題をしていても、話の話題は尽きることがなかった。
何日もお互いを無視するような大きな喧嘩も一度だってしなかった。
それが大人になった今でも続いている。
どんなに生活スタイルが変わっても、交わる時間が少なくなっても。
充分じゃないか。
今のままで充分、幸せじゃないか。
そう思いたいのに、思えない。
ベッドに膝を立てて、ユカリを起こさないように潜り込む。
顔を洗ったことですっかり目が冴えてしまった。
ユカリが眩しくないように、向かい合った姿勢でスマホをいじる。
ユカリの寝息がすぐそばで聞こえてくる。
バッグの中にあるイヤホンも持ってくればよかった。
「ん……」
ユカリの小さな呻き声が聞こえて、慌ててスマホの電源を落とす。
数秒見つめてみても何もなく、ただの寝言かと安堵した。
暗い部屋でも白く発光しているかのようにユカリの顔の輪郭や首すじのラインがぼんやりと見える。
綺麗な曲線のまぶたと小さい鼻。
薄く口を開いた今にもよだれを垂らしそうな安心しきった顔。
貸したネイビーのパジャマは上のボタンを2つも外しているせいで襟が大きく開いていて、横向きになって潰れた胸がくっきりと深い谷間を作っている。
(こういう無防備なところも、その服の下も、彼氏は見てるんだよね)
「……………………」
おもむろにスマホをユカリに向ける。
起動したカメラ越しだと、ユカリの顔が真っ暗な暗闇に溶けてしまってよくわからない。
ピントを合わせるための白い四角が画面の中央をとらえている。
指がシャッターの丸いボタンをタップすると軽やかな電子音の後にブワッと光が放たれて、カメラのレンズが行ったり来たりしながら白い喉元へピントを合わせる。
一際強い光を放って無防備なユカリが画面におさまった。
はっ……と大きく空気を吐き出して、自分が今まで呼吸を止めていたことに気づく。
心臓が口から這い上がって外に飛び出てきそうなくらいドクドクと強く波打っている。
スマホを隠すように胸に抱いて、じりじりと後ろへ下がりながらそっと足を床につけた。
ひんやりとした感触を足裏に感じるのと同時にベッドのスプリングがたわむ。
ユカリが目を覚まさないように祈りながら、急いでその場から離れた。
逃げ込んだリビングのソファで、明かりもつけずに今さっき撮った写真を見てみる。
赤みがかった唇。
影ができるほど束になった長いまつ毛。
片手で簡単につかめてしまいそうなほど、細くて真っ白な首筋と鎖骨。
パジャマの隙間から見える胸の膨らみとそれを隠す薄いピンクの下着のレース。
暗がりの中ではわからなかったユカリの細部が、フラッシュを焚いたせいかやけに鮮やかにはっきりと写っていた。
それを見ていたら、まるで禁じられたものを手にしてしまった高揚感と罪悪感がセットになったような奇妙な感覚が襲ってきた。
こんな隠し撮りの写真を手元に残して、もしユカリにバレたらせっかくの友情にヒビが入るのは間違いない。どうして撮ったのかと尋ねられたら、私はきっと慌てふためいてユカリの納得する回答をできない。……消さなきゃいけない。だけどもう二度と見る機会はないとわかっているから、惜しくて指が動かない。
近いのに遠い。
どんなにパーソナルスペースの内側に立ち入ることを許されても、恋人以上に近づけないのが悔しい。
ユカリが今の彼氏と別れてまた誰かと付き合いだすたびに私は毎回嫉妬して、彼女の幸せすら願えなくなりそう。この気持ちをひた隠したまま、これから先、おばあちゃんになっても会い続けるなんてできる気がしない。
廊下からゆっくりとした足音が聞こえてきて、慌ててスマホの画面を動画アプリに切り替える。
少ししてリビングのドアが開いてユカリが入ってきた。
「……涼華ちゃん?」
「なに、どうしたの」
「お水、もらっていい? 喉乾いちゃって」
「どうぞ」
キッチンの電気をつけたユカリがグラスに水を注いで飲んでいるのを遠巻きに眺める。
胸元が見えるくらい開いていた襟はボタンが留められていた。
今は白い首しか見えない。
「涼華ちゃん、まだ寝ないの?」
水を飲み干してから私が座るソファまでやって来たユカリが私の隣に座った。
「いや、なんか目が冴えちゃって。もう少ししたら寝るよ」
「じゃあ私も起きてようっと」
「ユカリは朝弱いんだから寝なよ」
「んー」
ソファの座面の上で膝を三角に折りたたんだユカリが、綺麗に彩られたペディキュアをいじる。
キッチンの明かりだけでも煌々と綺麗に見えるユカリは、まるで頭のてっぺんから足の爪先までカスタムされた人形みたいだ。寒いからと言って制服の下にジャージを着込んだり化粧気のなかったりした中高とは大違いで、彼女も身だしなみを気にするようになったのかと感心する。
ユカリは大学で離れ離れになった私のことを全然知らない人みたいだったと言ったけど、私だって今のユカリに対して同じように思う。
「ね、明日もまた泊まっていいんでしょ?」
「ん、……うん」
「じゃあ、今度こそ服持って行くね。仕事用の服とパジャマと」
「え、なに、今さら気遣ってんの」
「ちがーう。でも毎回借りてるの申し訳ないから。持ってきたら涼華ちゃんの部屋に置いていい?」
「なんでよ。そうやって私物増やしてたら、ユカリのことだからずるずると転がり込んできそう」
「んふふ、バレました?」
いたずらっ子のように笑うユカリに「恋人みたい」と言いかけて止めた。
言って、どんな返事がくるか……。ユカリの言葉にいちいち一喜一憂するのは嫌だ。
それなのに、ユカリはまた反応に困る話題をぶり返してきた。
「ねぇ涼華ちゃん、本当におばあちゃんになっても会ってくれるんだよね?」
「……おばあちゃんになるまで生きてたらね」
「生きてるよ。お互い長生きして、また前みたいに同じ部屋で過ごしてお茶でも飲みながら余生を過ごすの」
「確定なんだ」
「うん、確定。……本当は、今でもそうしたいんだけど」
「彼氏が嫉妬するでしょ」
「ううん、別れたからいいの」
「は?」
思わず目を剥いてユカリの方を見る。
私の声や表情に、ユカリはびくりと肩を跳ねさせて、誤魔化すようにうっすら笑いながらまた足の爪をいじり出した。
「あ、えっと……正確には私から別れたいって言って、ちゃんと話し合うのは彼氏が出張から帰って来てからなんだけど」
「なんで、さっきまで電話してたじゃん」
「んー、……あのね、もういいかなって」
「どういうこと?」
「もういいの、男の人と付き合うのはもういい……」
「そんな簡単に」
「涼華ちゃんが毎日来てもいいよって言ってくれたから、いいの」
それがどうして別れるのことにつながるのか、理解できない。
理解できないから反応できずにいる私に、ユカリがばっと顔を上げた。
「……あれ、私、酔っ払ってるのかな……。ごめんね、また距離感間違えてるね。本当に毎日は来ないよ、安心してね」
ユカリが焦ったように顔の前でぶんぶんと両手を振る。
「ユカリは」
どうして何度も「距離感を間違えた」と思うんだろう。
これもまた、過去に付き合った男に言われたのだろうか。
側から見たら私とユカリはどういう風に見えてるんだろう。
友達か、それとも……。
「ユカリはさ、私と彼氏だったら、どっちが大切なの?」
だとしたら私のこの聞き方も、距離感を間違っているのかもしれない。
こんなの、友達に聞くようなことじゃない。
普通の友達はこんなこと聞いたりしない。
案の定、ユカリは私のした質問に「えぇ?」と首を傾げた直後、呆れたように眉をひそめて笑った。
……あぁ、やっぱり聞かなきゃよかった。胸が痛い。
「そんなの決まってるよぉ。涼華ちゃんだよ」
「……え」
ユカリがそっと私の指先に触れた。触れて、ぎゅっと握った。
「涼華ちゃんが一番大切」
屈託のない笑顔のユカリからずっとずっと聞きたかった言葉を聞いて、鼻の奥がつんと痛くなる。
飛び上がりたいくらい嬉しいはずなのに。
(彼氏よりも大切なのに、恋人にはなれないの?)
喉から出そうになる言葉をすんでのところで飲み込むと、見開いた目からぼろりと涙が溢れた。
「えっ、涼華ちゃん……」
「……ごめん。大丈夫、ごめん、ありがとう」
おろおろと私の手や背中をさするユカリから顔を背けて、何度も深呼吸を繰り返す。
自分でも感情の制御ができなくなっている。
ユカリが私の言葉で彼氏と別れるって決めて、嬉しい。
一番大切って言ってくれて嬉しい。
でも、私がなりたいのはそうじゃない。
私はユカリと付き合いたい。彼氏としたことを全部、私ともして欲しい。
だけどそれを言ったらユカリはきっと私と会ってくれなくなる。言えない……。
大きく息を吐いてユカリに向き直す。
無理やり作った笑顔が引き攣って、顔の筋肉が痛んだ。
「ふぅ、ごめん、ありがとう。いやぁ、あまりにも嬉しいのとびっくりして泣いちゃった。愛されてるね、私」
「……う、ん……」
「じゃ、寝よっか」
ソファから立ち上がって、不安そうに見上げるユカリの手を引っ張る。
リビングを出て寝室へ続く廊下を歩く間も、ユカリは何か言いたそうにしていた。
だけど気づかないふりをして彼女の前を歩いた。
二人で並んでベッドに潜り込んでも、ユカリはなかなか寝付けないのか隣で何度も寝返りを打っていた。
「……眠れない?」
「う、うん、なんでだろ、お水飲んだからかな」
「じゃあ昔みたいに眠くなるまで話そっか」
「うん」
お互い横向きになって向かい合う。それから二人でなんでもない話ばかりした。
明日の朝、家を出る時間のこと、仕事後の待ち合わせ時間のこと、夕ご飯のこと、飲んでしまったお酒のことと別れる予定の彼氏のこと……。
ひとしきり話して、それからユカリに、どうして男の人と付き合うのか聞いた。
私の方が大事なら、彼氏なんか作らないで私に会ってくれればいいのに。
数時間前にも同じようなことを聞いたのに、今度は少し違った答えが返ってきた。
「涼華ちゃんが会ってくれるから。”彼氏”のことになると、涼華ちゃんはどんなに忙しくてもすっ飛んで会ってくれるでしょ? それが嬉しかったから何回も口実にしちゃう」
「なんだそれ、……だから短期間で好きでもない人と付き合ったり別れたりしてるんだ?」
「そう」
そんなの口実にしなくても……と思ったけれど、私もそれに乗っかってユカリと会っていたから何も言えない。
ユカリも、私と同じで会いたくてもどうやって誘えばいいのかわからなかったのかもしれない。
そう考えると、容姿も性格も真逆なのに、妙なことろが一致していておかしくなる。
「涼華ちゃんは、なんで私と今でも会ってくれるの?」
「会いたいから。ユカリから連絡来ると、嬉しくて。今日もびっくりしたけど、会いに来てくれて嬉しかった」
「……どうして?」
「……さぁ。ユカリと同じように、私もユカリが一番大切なんじゃないでしょうか」
「本当?」
「うん」
照れくさくて、ユカリの顔を見ないようにしながら仰向けに体勢を変えた。
ユカリの控えめに絞った小さな声は、子守唄みたいで耳に心地いい。
「……六年も一緒にいたんだもん。今でもこうして会ってるし、ユカリが言うように、きっとおばあちゃんになっても会うのかもね」
「うん、うん、絶対ね」
「うん……」
その後、ますますテンションの上がったユカリは老後のプランを延々と語り始めた。
真っ暗な天井を見つめていると、次第に瞼が重くなってくる。
夢見心地の頭では、想像でしかないユカリの話に現実味はない。
だってユカリはまた、男の人と付き合うかもしれないでしょう?
今は私が一番大切でも、そのうちそれを軽々超える人と出会うかもしれない。
誰かと結婚して、子供が産まれて、孫が産まれて、きっと私のことを思い出さなくなるくらい充実した人生になるはずだよ。
思っていても、嬉々として私たちの老後を話すユカリに水を刺すようなことは言いたくなくて、私は目を瞑ってときどき相槌を打ちながら彼女の夢物語に耳を傾けた。
何度考えてみても、私と一緒になるより、ユカリが誰かとの結婚式に私を招待する方がずっと現実的で。
私は友人代表としてスピーチなんか引き受けちゃったりして。
子供を授かったら、生涯未婚の私とは自然と疎遠になったりして。
そういう未来の方が、容易に想像できてしまう。
女同士の友情は、きっとそんなものでしょう?
少なくとも私はそう思う。
ユカリくらいだ。大人になった今でも、おばあちゃんになるこれからも、こうして何度も会おうとしてくれるのは。
「――涼華ちゃん、寝ちゃった?」
ユカリの声が遠くで聞こえる。
返事をするのも億劫になって、私は目を瞑ったまま黙った。
「涼華ちゃん」
ユカリがさらに小さい声で私を呼んだ。
それにも答えずにいると、少しして隣のスプリングが軋んだ音を立てた。
眠れないユカリがまた水を飲みに行くのかもしれない。
頬に冷たい何かが触れて、あぁ、ユカリの髪かと認識した直後、今度は唇に柔らかいものが一瞬押し当てられて離れた。
隣でユカリがモゾモゾと布団に潜り込む気配がする。
目を開けて視線を動かすと、布団を頭まですっぽり被っているユカリの背中があった。
今さっき起きた出来事が夢でないことを実感する。
絶対にキスだった。
でも、どうして?
友達だって言ったのはそっちなのに。
体を動かしてユカリの方を向いた。
一瞬だけびくりと肩を揺らしたユカリだったけど、何秒待ってもこちらを振り向こうとしない。
声をかけようとして止めた。
追求してもきっと、距離感がとかなんとか言って誤魔化すのだろう。
起きているのは明白なのにいくら待ってみても振り向かないということは、指摘されたくないからだ。
ユカリのことだから、しつこくしたら泣き出して謝ってうやむやになってしまうかもしれない。
私だってさっき撮った写真を消せないでいる。
それから私も寝返りを打ってユカリと背中合わせになった。
ユカリが言わないなら、私も言わない。
彼女が望む「恋人よりも大切な涼華ちゃん」でいる。
どんなにユカリの恋人になりたくても、結局は私も怖いのだ。
恋人にも友人にもなり切れない、今の関係性が崩れてしまうことが。
これからもうすぐ近いうちにユカリが彼氏と別れて、私たちは会う回数が増えて、もしかしたらまた同じ部屋で過ごすことがあるかもしれない。
そうなったら私の欲が強くなって、今日の夜以上に一線を超えてしまうかもしれない。
だったら今そんなに急がなくてもいい。
今日の夜、私たちはお互い一線を超えた。
それだけで今は十分すぎた。
ユカリの安らかな寝息が聞こえてきても私の目は空が白み始めるまで冴えたままで、結局、ほとんど一睡もできずにベッドから抜け出した。
あの一瞬だけ唇が触れた事故のようなキスを思い出すと、小学校低学年男子のように喜んではしゃぎ回りたい自分もいたけど、冷静になった頭が最終的にはユカリのことだからどうせじゃれあいの延長であんなことをしたんだろうと結論づけた。我ながら可愛くない。
眠気覚ましのコーヒーを淹れるためにお湯を沸かして、キッチンカウンターの引き出しからタバコを取り出しリビングからベランダの扉を開けて外に出る。
右側が淡い紫色で左側がオレンジ色というグラデーションを見渡して、取り出した一本に火をつけた。
遠くのオレンジ色を眺めながらゆっくり息を吸い込んで吐き出す。
煙なのか朝日なのか、目がしみて痛い。頭痛もする。
一本目を吸い終わる頃、ちょうどけたたましいケトルの音に呼び出されてキッチンへ戻った。
手を洗って壁掛けの時計を見ると、そろそろユカリを起こさなければならない時間だった。
とりあえず無糖のコーヒーとミルクと砂糖たっぷりの甘いカフェラテを作ってから寝室へ向かう。
ベッドの上のユカリは私がいなくなってから何度寝相を変えたのか、布団を足に挟めて抱き枕のようにしていた。
その肩を揺さぶる。
「ユカリ、起きて、朝」
「うぅ……」
ぎゅうっとつぶった目を隠すように、ユカリが唸りながら抱きしめた布団へ顔をうずめる。
――さて、今日は何分かかるか。
夜更かしした次の日のユカリは寝起きが悪い。試験の前は毎回こんな感じだったなと懐かしくなる。
片膝をベッドの縁に乗せてさらにユカリの肩を強く揺さぶると、顔をしかめたユカリがのっそりと起き上がった。
「……なんかタバコくさい……、涼華ちゃん、また吸ったのぉ……」
「お、今日は早いね」
「もうタバコやめてよぉ、保健の先生でしょー……」
ボサボサの髪を直しもせず、ユカリが私の横をすり抜けてベッドから降りた。
それから寝室の片隅に置いてあったバッグをゴソゴソを漁って何かを取り出す。
「はい、あげる」
目の前に有名な画家がデザインしたという棒付きのキャンディを差し出された。
淡いピンク色のストロベリークリーム味。
「何これ」
「タバコよりずっといいよ。本当はね、さくらんぼ味が一番好きなんだけど食べちゃって無いから……あ、涼華ちゃん、駅で降ろす前にコンビニ寄ってもらっていい?」
「へえ、意外。ユカリってこういうの食べるんだ」
「私は涼華ちゃんがタバコ吸ってる方がいまだに慣れないよ」
体を動かして話して目が覚めたのか、ユカリの口がハキハキと回るようになってきた。
「さくらんぼ味がね、すごく美味しいの。コンビニ行ったらいっぱい買ってあげるね」
「や、いや、いらない。甘いのそんなに好きじゃないし」
「もうー!」
子供のように頬を膨らませながら、両手を振り上げたユカリが体当たりをしてくる。
私はそれを避けて笑いながら寝室を出る。
たまに会ってお互いの知らないところを垣間見て、思い出話を繰り返して変わりがない部分を確認して安心する。
大人になってからの私たちはそれの繰り返しだ。
できること。
昨夜の出来事が無かったかのように振る舞えること。
できないこと。
一線を超えた先を見ること。
この時間、生徒はほとんど帰っているはずなのに珍しいなと思いながら、「はい」と返事をする。
「こーんにーちはぁ」
間延びした声でひょっこりと顔を出したのは、中学・高校時代のルームメイトだった。
「……ユカリ? どうやって入ったの」
「守衛さんに入れてもらったぁ。ここのOGで、市來先生と同室だった宇治原ですって言って」
「来客名簿に名前書いて社員証見せたらあっさりだったよ~」とヘラヘラ笑う宇治原ユカリは、生徒の治療に使う黒い丸イスを目がけて近づくとストンと座って、モルタルの床を足で蹴りながら回り出した。
ボウタイのついた白いカットソーに座ると膝頭が見えるベージュのタイトスカート。背中まで伸びたミルクティー色の髪は柔らかそうに緩く巻いてあって、くるくる回るたびに甘い匂いを撒き散らす。
ふと机にあるデジタル時計を見た。午後五時を回ったところだ。仕事帰りにしては早い気がする。
「どうしたの、仕事は?」
「んー、早退」
「……具合悪いの?」
「あはっ、違う違う、涼華に会いに来たんだよ」
「前に借りてた服を返しに」とユカリは言った。ここで初めて彼女が持っていたものを見る。通勤用のバッグの他に、ファッションブランドの大きめの紙袋。その中に以前貸した服が入っているのだろう。
「今日から彼氏が出張なんだぁ。だから涼華の部屋に泊めて?」
きっちり私の真正面に来るように、ユカリの回転が止まる。甘い匂いが今度は眼前に濃く留まった。
実家が裕福なユカリは、一見、高貴な部屋猫のような雰囲気なのに、犬のように人懐っこく野良猫のように外を自由に歩きたがった。今付き合っている恋人に少し束縛気質なところがあるからかもしれない。制限をされるほどそれを破りたくなるのだという。
午後六時になって帰り支度をする。
その間も、丸イスに座るユカリからは恋人についての情報がどんどん出てきた。
会社の飲み会に男がいるとあからさまに嫌な顔をする。二人で会う日に残業が入ると不機嫌になる。会えない日が続くと不機嫌になる。
聞いていて子供みたいな男だと思った。以前、ユカリと会ったときに聞いた話と全然違う。前は「私に興味がなさそうで楽」だと言っていたのに。
「他の男と浮気なんて考えたこともないのにね」
学校を出て私の車の助手席に座るユカリがスマホをいじりながら笑った。
ハンドルを握りながら白く光る画面を盗み見る。メッセージアプリのトーク画面だ。
相手の名前もメッセージの内容も見えなかったけど、きっと出張中の恋人だろう。
「なんか食べて帰る?」
「ううん、涼華の部屋がいい。お酒買って早く帰ろう」
ユカリがスマホの電源を落とした。だけどすぐに短いバイブ音が鳴って白く光る。ユカリはメッセージだけ見ると返信をせずに膝の上にスマホを裏返した。
じわじわと強くアクセルを踏んで、家と職場の中間地点にあるいつも利用しているスーパーに入る。早く明るいところにいかないとユカリがどんどん沈んでいく気がした。
買い物かごを左腕に引っ掛けて、右手でユカリの手を握る。
「ユカリ、食べたいものさっさと決めて」
「うん」
「無いなら適当に選ぶよ」
ベーカリーコーナーを通り過ぎ、鮮魚コーナーにたどり着く。
ユカリはきょろきょろと視線を動かした後「これ」と手巻き寿司と稲荷寿司が半分ずつ入ったパックをカゴに入れた。
「……ユカリって、海苔似合わないね」
「えー、似合うとか似合わないとかあるの?」
「お稲荷さんは似合ってるよ」
「わかんないよー、なんなのそれ」
ユカリがうつむき加減で吹き出した。
その姿に少しだけ安心して、私のその隣にあった刺身の盛り合わせをカゴの中に入れる。
繋いでいた手を強く握り返される。「ん?」と振り向くと目が合って一瞬で逸らされた。言いづらそうにユカリの唇が開く。
「……ね、明日も泊まっていいかなぁ」
「いいけど、彼氏はいつまで出張なの?」
「今週の金曜日」
「そう。私は全然構わないけど」
「じゃあ泊まる」
「うん、いいよ」
それから二人でお酒をしこたま買い込んだ。今日の分と明日の分。飲みきれなかったらまた次に会うときまで取っておけばいい。
部屋に戻る頃にはユカリの機嫌もすっかり良くなっていて、最近あった仕事のことや帰省したときに会った家族のことなんかを話した。中高一貫校でずっと同室だった私にも優しくしてくれたユカリの両親が、今でも元気に海外を飛び回っていると聞いて嬉しかった。
寮で一緒に過ごしていたときと同じように自然と「ただいま」と「おかえり」を言い合って、顔を見合わせて笑う。
「あはは、涼華が隣にいると言っちゃうー」
「わかる。私も。もはや習慣だよね」
買ってきた余分なお酒を冷蔵庫に入れて、刺身やパック寿司を移す皿を用意する。
寝室に荷物を置いたユカリが子供みたいにキッチンへ駆け寄ってきた。
「ユカリ、お酒と箸持っていって」
「うん。って、わざわざお皿出してくれたの?」
「え? このままだと嫌じゃない?」
「そのままでいいよー、お皿洗うのめんどくさいでしょ」
ユカリはそう言うと、蓋を開けた盛り付ける前のパック寿司と箸をリビングテーブルへ持っていった。
(ユカリの両親が見たら「だらしない」って怒るだろうな)
使われなかった皿を片付けて、自分の分だけ盛り付けして数秒後、刺身を皿に移す手が無意識に止まる。
(違うな、私が「ユカリらしくない」って思っちゃうんだ……)
大人になれば、自分で稼ぐようになれば、先生からも親からも干渉されなくなってもっと一緒にいられるのだと思っていた。だけど実際はそんなことなくて、大学で離れ離れになってからユカリとの距離はどんどん広がっていくばかりだ。
今はもうお互いすっかり違う世界に生きていて、ユカリはたまに思い出したようにこちら側へ来てくれるけど、その度に違う一面が見える。そしてそれは、少なくとも私が好意的に思う変化ではなかった。
私を「涼華ちゃん」と呼んでいたユカリはとっくの昔にいなくなって、今はパック寿司をそのまま食べようとするユカリになっていて、次はどうなっていくのか。考えるだけでも嫌になる。六年一緒にいた私がたかだか数ヶ月、長くてたった一年しか一緒にいなかった男に作り変えられて、会わない間に私のユカリがどんどん知らない人になっていくみたいだ。
――今、思い出しても腹が立つ。
大学三年の夏休み、慣れない教育実習の合間に時間を作って、やっとユカリと会えた日の夜。
当時ユカリと付き合っていた男は、私たちが食事をしていたカフェを出るとまるで待ち伏せでもしたかのような不自然なタイミングで「迎えにきた」と現れて、私がユカリの中高一緒の同級生で、かつ女子校出身の女だとわかるとあからさまにホッとした顔をしてから途端に横柄な態度をとった。
気を利かせて紹介してくれたユカリに対して「ちゃん付けで呼ぶのは子供くさい」だの「こんなに夜遅くまで出歩いて親御さんが悲しむ」だの、彼氏なのか、親戚なのか、人生の先輩としてなのか、一体どの目線で物事を言っているのかよくわからない男だと思った。
彼氏に困惑しているユカリの目の前で、私が絶句し呆れたのはいうまでもない。
それから半年後の冬休みに再会したユカリは、私のことをたどたどしく「涼華」と呼ぶようになった。
「なんだよ、その呼び方は」なんて、笑って突っ込んだり話を聞いてやったりする気にもならなかった。呼び捨てで呼ばれるたびにあんなつまらない男の価値観に同調したユカリのことも嫌いになりかけた。
ユカリは元々、ふわっとしていて一人じゃ何にもできないくらいの世間知らずの甘えん坊で、だけどなんとか自立をしようと頑張る子ではあった。
だから誰かに「こうしたほうがいい」と言われれば、あっさりとそれに倣ってしまうのはわかる。
わかるけど、それが私じゃなくて、たった数ヶ月一緒にいた男の役目になるのは許せなかった。
「ちゃん付けが子供くさい」ってなんだよ。一人称を下の名前で言ってるぶりっ子のほうがよっぽど子供くさいだろうがよ。
……今だったら面と向かって言ってやるのに。ユカリに意味不明な価値観を押し付けるだけ押し付けたその男は、結局一年足らずでユカリの隣からいなくなった。
「涼華」
名前を呼ばれて顔を上げる。
ユカリが対面式のカウンターからこちらを見ていた。
「大丈夫? 疲れた? 手、止まってる」
「あ、ごめん」
「やっぱりさっきのお皿借りていい?」
私が返事をする前に、ユカリはカウンターの内側へまわり込んで食器棚から真っ白な細長い皿を取り出した。
「テーブルに乗せてみたら、パックのままってやっぱりだらしないなって思っちゃったよ。横着しちゃダメだねぇ」
「へへ」と少し恥ずかしそうな態度でユカリが笑った。
その顔を見て、まだ大丈夫だと思ってしまう。「まだ」ってなんだろう……。
ソファとテーブルの間に並んで座って、最近、女子生徒から「面白い」と教えてもらった恋愛バラエティを流しながら無糖のレモン酎ハイと一緒にお寿司や刺身に口をつける。
「あ、これ知ってるー。しょっちゅうCM流れてるよね」
「ユカリは見たことある?」
「ううん、なーい」
再生する前にちらっと読んだ概要欄から察するに、男女4人ずつ同じ空間で一定期間を過ごしてカップルが成立するのかという趣旨の番組だった。
海岸沿いのリゾートホテルに押し込まれて、プールに入ったり意中の相手を呼び出して夜の海を歩いたりしている想いを吐き出している十代後半から二十代前半の男女を見ながら、懐かしいとか羨ましいよりも「これ大学の夏休み中に撮影してるのかな」なんて職業病みたいなことを考えてしまう。
生まれてこのかた異性と付き合ったことのない私にとって、男女の恋愛における機微というのは正直わからない。
すでにある程度、展開が進んでいる最新の動画を流したこともあってか誰に感情移入をしていいのかもわからない。
画面上の女の子たちと一緒になって一喜一憂するというより、自分の大学時代を重ねて「こんな学生らしいイベントなんて一度もなかったですけど」と斜に構えた感想しか出てこない。
「自分たちより若いからかなぁ。なんだかあまりピンとこないね」
律儀に稲荷寿司を一口食べては箸を置いて酎ハイの缶を持ち上げているユカリが、ぼそっと呟いた。
「あれ、大学時代に彼氏いたことあるのに懐かしいって思ったりしない?」
「えぇ、思わないよー。こんな夜の海で手繋いで笑ったことなんてない」
「台本とかあるのかなぁ」と苦笑いする横顔を見つめる。
ユカリにとって恋愛はあまりいい思い出がないように思う。
最初から立場を下に見られてモラハラ気質の奴と付き合ったり、別れるときに揉めて相手にストーカーまがいのことをされたり。なのにどうして懲りずに誰かと付き合えるんだろう。男の人が怖くなったり嫌になったりしないんだろうか。
画面の中でいい感じの雰囲気が漂っている。
月が明るく照らす浜辺を手を繋ぎながら歩いて、ポツポツと話す男女。
「あぁ、これは間違いなくクライマックスだな」と誰でもわかるシチュエーションを見せつけられて、どうにもいたたまれなくなってお互い缶を運ぶピッチが早くなる。
「……ユカリはさ、どういうきっかけで男の人と付き合うの?」
「えー、寂しくなったらじゃない?」
どこか他人事のようなニュアンスでユカリが笑った。
「うぅわ、やだ、誰とでも寝る人みたい」
「そういうわけじゃないけど。涼華が近くにいなくてなかなか会えないときとか、寂しくて寂しくてとりあえず誰かと一緒のベッドで寝たいってなったらかな」
「……なんだそれ。彼氏は私の代わりってか。寂しい寂しい言うけどさ、今日はこうして会いにきたじゃん。遠慮しないで来ればいいじゃん」
「でも毎日はダメでしょ?」
「え?」
突然、真剣な顔つきでユカリが私を見据えた。
そして「私が毎日会いに行って泊まりたいって言ったら涼華は迷惑でしょ?」と言い換える。
急に真面目な顔をするから視線が揺らぐ。
「……いや、毎日は、わかんないけど……。でも中高って6年間一緒の部屋にいたし、今さら迷惑なんて」
「高校卒業してから八年経ってるよ」
「…………?」
「この八年、お互い何も変わってないって言える? 私、涼華が私と違う大学に行くって知ったとき、死ぬかと思った。卒業して離れ離れになって、最初は毎日あった連絡がだんだん少なくなっていって、本当に寂しくて死ぬかと思った。久しぶりに会ったら全然知らない人に見えたし、私の知らない大学の話をする涼華が嫌だった。忙しいって何度も会うのを断られたときは、涼華の大学まで行ったこともあるよ。やっと会えたのが大学3年の夏休みだよ。覚えてる? 私、付き合ってる人がいるって言ったの」
「……うん、覚えてるよ」
息すらつかずに喋り出すユカリに圧倒されて、私はそれしか言えなかった。
「涼華は、私が彼氏できた、彼氏と喧嘩した、彼氏と別れたって報告するたびに会ってくれるようになったんだよ」
「……………………」
それは、そうかもしれない。
ユカリが誰と付き合っているのか、逐一把握してないと嫌だった。ユカリが不用意に傷つけられれば慰めたし、別れたと聞けば心配するふりをしながら心の奥底で喜んだ。
いつしかユカリから来る連絡は男がらみになって、会ったときのついでに近況を報告するくらいで。
会える口実はそれしかなかった。
なんでもない日にご飯を食べに行こうとか、どこかへ遊びに行こうとか、周りの人たちがうまくできていることを私はできなかった。
まるで初めて恋をする少年みたいに緊張していつもの自分じゃなくなってしまう。きっと焦って空回って変なことを言ったりしたりしそうだ。
だからユカリが作ってくれたきっかけに乗ったほうがよかった。
そっちのほうが緊張しないで済む。「あぁ、またか」っていつも通りに振る舞える。
ユカリの前では、私は頼れる存在でありたい。
甘えん坊の彼女が、真っ先に思い出す存在でいたい。
「……私、」
口を開いたユカリが何かを言いかけたとき、テーブルに置いてあったユカリのスマホが震え出した。
今度はさっきよりも長い。電話だ。
トイレとお酒を取りに行くふりをしてソファから立ち上がる。
「あっ」
「出なよ。私、トイレ行ってくる。聞かれたくなかったら寝室に行ってもいいからさ」
不安そうな顔で私を見上げるユカリが「……うん」と頷いてのろのろとスマホを取った。
リビングを出る直前、「もしもし」とユカリの声が背後から聞こえた。
私といる時と違う、少し高めの声だった。
ユカリが、私と毎日会いたい理由ってなんなんだろう……。
その後に続いた彼女の告白にびっくりしすぎて、聞くのを忘れていた。
――「本当に寂しくて死ぬかと思った」。
付き合っている者同士なら愛の言葉の一種として受け入れられそうな気もするけど、旧友の私に対して使うのが適切なのかわからない。
同性の友人でも、仲が良いなら使う言葉なんだろうか。
だけどニュアンスというか、「ノリ」が違う。
ユカリのは、本当に死んでしまうんじゃないかってくらいの恐ろしさの混じった気迫があった。
もし、もしこれから、私が気軽に会おうと言ったり泊まっていけばいいと言ったら、ユカリは本当にその通りにするのだろうか。
同じ部屋で一緒に過ごしたときのように、同じものを食べて同じ場所で眠って、1日1日の小さいことをなんでも共有しあえたりできるんだろうか。
トイレに行かず、廊下の壁を背もたれにしてぼうっと突っ立っていたらリビングのドアが開いてユカリが出てきた。
「……涼華、あの」
「ん?」
「電話、変わってもらえるかな……。できればビデオ通話で」
差し出された画面には、一度だけ写真で見た男が写っていた。
ホテルの部屋だろうか。真っ白の壁を背景にネクタイとワイシャツのボタンを一つ外した男がいらだった様子で目線を下げたり上げたりを繰り返している。
私は無言で頷いてユカリからスマホを受け取った。
咳払いをひとつして、スマホを持つ手を極力ブスに見えず、かといって媚びた感じもしないような角度に調整してから、努めて明るく「もしもし」と声をかける。
自分から電話をかけてきたくせに、男がびくりと肩を跳ねさせた。
「こんばんは」
『……あっ、こんばんはっ』
突然出てきた目つきの悪い女にさぞびっくりしただろう。
メイクを落とさなくてよかった。
『ユカリがお世話になっているようで』
「ええ、預かってます」
画面の外でユカリの手を引っ張ってリビングへ戻る。
スマホを持つ腕を伸ばして、引き気味にしながらわざと部屋の内装を映す。
「ユカリー、早くご飯食べちゃいなよ」
手を離して、おどおどと視線を泳がしているユカリを促して、私はそのままキッチンへ向かった。
冷蔵庫を開ける音。
ソファに座るユカリの隣に腰を下ろす衣擦れの音。
片手で酎ハイのプルタブを引っ張る音。
いつの間にか終わっていた恋愛バラエティをまた繰り返して、わざと生活音を出す。
ここは居酒屋でもないし、あなたの懸念材料はありませんよと言外に訴えてみせる。
『すみません、急に押しかけたみたいで。明日も仕事でしょうに』
男の声が、表情が、態度が、わかりやすく明るくなった。
なんて単純なんだ。
「いいえ~、こっちも久しぶりに会えて嬉しかったので。すみません、申し遅れました、市來涼華といいます。ユカリの中学からの同級生です」
「あぁ、こちらこそすみません、俺、あ、僕は――」
名乗った男の名前を右から左へ受け流す。いちいち覚えていられない。「ユカリの彼氏さん」でいい。
「明日、ちゃんと起こして会社に向かわせますので心配しなくて大丈夫ですよ」
『ありがとうございます』
『涼華さんは、』と馴れ馴れしく下の名前で呼んでまだ何か話したそうな男を尻目に、ユカリへスマホを返す。
「ごめん、ちょっとトイレ。すみません、ちょっと失礼しますね」
ユカリとその彼氏に声をかけて、またリビングを出た。
これ以上は無理だ。
これ以上長く話すと私が「ユカリの彼氏に相応しいか」ジャッジしてしまう。そうして絶対、不合格にしてしまう。
というか、もうダメだ。あいつもダメ。ああやってビデオ通話をさせるような男だ。
ユカリのことを信用していない。ユカリの保護者みたいな口ぶりで私に言ってくるのも気持ち悪い。
あれが私の代わりになれるわけがない。ユカリも大概、失礼だな。
昂った気落ちを落ち着かせるために深呼吸を繰り返す。
二人の通話が終わるまで、今度は絶対戻らない。
長くなるようなら、今のうちにシャワーを浴びてしまおうか。
「なんで先にシャワー浴びちゃうのー」
首にバスタオルをかけて戻ると、通話を終えてパック寿司も空にしたユカリがソファの背もたれにひじを乗せて抗議をしてきた。
「あ、お寿司全部食べちゃったんだ」
「涼華、お酒途中だったじゃん」
「ユカリも潰れる前に入ってくればいいよ。タオルもパジャマも準備しといたし。お風呂がいいならお湯溜めるけど」
「シャワーでいいですー」
海外のカートゥーンに出てくるように、わざとらしくふんっと鼻を鳴らしてユカリが立ち上がる。
「あっ、ねえ、シャワー入る前に使った皿も下げていってよね」
たたたっと小走りでユカリが戻ってきて、私を一瞥してから皿を持ち上げる。
そうしてまた「ふんっ」と鼻を鳴らして去っていく。
「子どもかよ」と笑って、ぷりぷりしながら出ていく背中を見送った。
(よかった。彼氏とどんな話をしたのかわからないけど、さっきよりは機嫌が良いみたい)
開けっぱなしにしていた水滴まみれの缶を持ち上げると、雫が垂れ落ちてショートパンツから伸びた剥き出しの太ももを濡らした。
バスタオルでそれを拭う。
ふとテーブルに置きっぱなしのユカリのスマホが目に入った。
じっと見つめてみても画面は真っ暗なままで、もうしつこく震えることはなかった。
ユカリがいなくなったから、部屋の静けさが急に居心地悪く感じる。
すっかり乾いてしまった刺身をつまみながら、さっきの恋愛バラエティをファーストシーズンの1話から流してみた。
自己紹介から始まったそれは、最新話と比べて全員が初々しくまだ一人一人の間に十数センチの距離があった。
パーソナルスペースだ。
気を許した人にしか立ち入ることができない、見えない境界線。
私たちにも昔はあったはずだ。
それが消えたのはいつだったっけ。
気安く肌に触れるくらい近づいてもよくなったのはいつだったっけ。
流れる映像を無意識に眺めながら昔のことを思って、ユカリが戻ってくるまでの間に酎ハイを2本開けた。
明日の分も合わせて買ったのに、このペースだと今日中にすべて無くなってしまいそうだ。
足りなくなったらユカリを誘って散歩がてらコンビニにでも買いに行こう。
一時間近く経ってから、私と違ってしっかり髪まで乾かしたユカリが戻ってきた。
顔のタイプは正反対でも、背の高さも体型もほとんど一緒の私たちはこれまでに何度も服を共有しあった。
私が好んで着るモノトーンな服は、フェミニンなユカリが着るとどこかちぐはぐに見える。
だけどそのまるで似合っていないユカリを見るのが好きだった。ユカリが私の服を着ているという変な特別感に満たされた。
お互い流しっぱなしのテレビにはもう目もくれない。
二十二時を過ぎているのに新しいお酒を開けてしまって、「明日も仕事だから、もうこれで終わりにしようね」と言い合う。
「ねー、涼華は大人になってできるようになったことってある?」
すっかり酔いの回ったユカリが唐突にそんなことを言い出した。
「は? 何、急に。……こうやってユカリとお酒が飲めるようになったとか?」
「ふんふん」
「あとは自分でお金を稼いで衣食住を賄えるようになったとか」
「ふんふん」
「あとは、……言いたいことを我慢するとか」
「……我慢してるの?」
「いや、別にしてないかも」
「なんだよー、ちょっと心配したー」
ユカリの小さなこぶしが私の肩を軽く小突く。
ふわふわと話すすっぴんのユカリはいつもよりずっと幼くて、すごく懐かしい気分になる。
「じゃあねぇ、逆にできなくなったことってある?」
「そんなんいっぱいあるでしょ。後転とか、二重跳びとか、走り幅跳びとか」
「運動ばっかりー。しかもそれ、できなくなったっていうよりやらなくなったじゃない?」
「やらなくなったからできなくなったんだよ。ていうかさっきからなんなの、その質問。ユカリはどうなの。できることとできなくなったこと」
「できるようになったことはね、自活! 自分で稼いで、こうして涼華とだらだら飲んでも誰にも何にも言われないの、最高!」
「同じじゃん」
「できなくなったことは、いっぱいあるかも。運動系もそうだし、夜更かしもできなくなったし、体重も太ったらすぐ戻せなくなったし、あとは……」
ユカリが手に持っていた缶に力を込める。パキッと音がして少し缶がへこんだ。
「涼華ちゃんって呼べなくなったことかな」
パキッ、パキッ……と無機質な音が不規則なリズムで響く。
一瞬、目が合ってバツが悪そうに視線を逸らされる。
「会う前に、いっぱい練習するの。涼華、涼華って呼び捨てにする練習。子供っぽいって笑われないように」
「あはは……」とうつむいたままユカリが力なく笑って、缶がバキバキに潰れていく。
せっかく機嫌よく飲んでいたのに、どうしてそんな顔をするの。
まるで私がユカリを悲しませてるみたいだ。
「ちょ、ちょっと待って、勘弁してよ。私、一度も子供っぽいなんて笑ったことないじゃん」
「うん、でも、きっと距離感はおかしかったよね……?」
「は?」
「ルームメイトの距離感のままだから、嫌になって、大学で疎遠になったのかなって。あまり、会ってくれなくなったし……」
「だ、大学の頃? 違うよ。説明したじゃん。長期休暇は毎年、教育実習があるって。しかも疎遠じゃないし、今だってこうして会ってるし」
「……そうだったっけ」
「そうだよ! 二年のときは中学校に行って三年のときは小学校だった。三週間ずっと夜中の三時まで授業の内容作ってフラフラだった。四年になったら就活と卒論で、ユカリだって忙しかったでしょう」
まるで仕事を言い訳にして会わなかった彼女に責められている彼氏の気分だ。
どうやって機嫌を直してもらおうか必死になって言い訳して、それを頭の片隅で面白がっている自分がいる。
だけどそんな淡い妄想はすぐに打ち砕かれた。
「……ずっと友達でいるにはどうしたらいいんだろう。どうしたらいいのかな。私、おばあちゃんになっても涼華と一緒にいたい。ずっと会っていたい」
「……………………」
本当ならこれ以上にないくらいの褒め言葉だ。おばあちゃんになっても会いたいと言ってくれる友達がいるのは光栄なことだ。
でも、ずっと友達でいるには、か……。友達、……友達かぁ。
あまりにも切羽詰まったような顔でこちらを見てくるから、思わず吹き出してしまった。
どうして笑ってるの?とでも言いたそうに、ユカリが眉をひそめて無言で首を傾げる。
それだけ気持ちの熱量が高くても、なりたい関係の終着点がそもそも違う。ユカリはずっと友達でいたいと思ってくれていて、私は……。
早まらないでよかった。「涼華の代わりに彼氏を作る」と言われて、ユカリの彼氏よりも優位になった気でいた。
ユカリはもともと、私と彼氏を同じカテゴリに入れていない。
私は「仲のいい友達」枠で、彼氏は「恋人」枠だ。私はユカリの彼氏の上位互換なんかじゃない。なれない。最初から交わったりしない。
ユカリの「寂し過ぎて死にたくなる」は、ただの同性のノリだった。
表情に騙されるところだった。
勘違いで突っ走るところだった。
顔から火が出そうになるのを「あー」と誤魔化すような声をあげて、頭をぽりぽりと掻く。
「あのさ、別に心配しないでもユカリとはずっと友達のままでいるつもりだし、さっきも言ったけど毎日だって会いにきて泊まっていってもいいんだよ。むしろ彼氏持ちのあんたを誘ったら迷惑だろうなって、こっちが遠慮してたくらいなんだから」
ようやく破顔したユカリを見て思う。
我ながら最適解だ。これ以上にないくらい百点満点の回答。
ほっと胸を撫で下ろす。
不意にさっきの質問が頭をよぎる。
大人になって良かったこと。
言いたいことを我慢できるようになったこと。
……本音をうまく隠せるようになったこと。
だけど少しくらいは本音を言ってもいいかな。
何人もの男たちがユカリにそうしてきたように、私にだって押し付けたい価値観がある。
誰よりも長く一緒にいた私の矜持。ユカリだけのアイデンティティ。
パーソナルスペースの内側。
「呼び方もさぁ、私は涼華ちゃんのほうがいいよ。ユカリから呼び捨てにされるの、いまだに慣れないもん。変だよ」
「……いいの?」
「いいよ」
それからユカリはほうっと大きなため息とともに肩を下げて、数年ぶりに私のことを「涼華ちゃん」と呼んだ。
呼ばれるたびにむず痒くなって、だけどようやく私の好きな元のユカリが戻ってきたような気がした。安心感で満たされていく。
「涼華ちゃん、涼華ちゃん」
「なに」
「乾杯しよう」
「なにに」
「これからも続く私たちの友情に」
「いいけど、あんたの缶バキバキじゃん。どんだけ握りしめてんの。縁起わる!」
「えぇ! じゃあ新しいの取ってくる! 涼華ちゃんもそれ飲んじゃって、せっかくなら二人とも新しいのにしよう」
「あー、明日起きれるかな」
呆れたふりをして笑いながら、言われた通りに残りのお酒を飲み干して缶を潰す。
酔いが回って二人して足をもつれさせながらキッチンまで歩く。
冷蔵庫からとうとう最後の酎ハイを取り出して、その場でプルタブを引っ張った。
「では、これからも末長くよろしくお願いします! 乾杯!」
「はい、かんぱーい」
上機嫌に乾杯の音頭をとるユカリに合わせる。
ガン、と鈍い音がして缶同士がぶつかった。
想像以上に変な音だったからおかしくなって、また笑い合った。
それから明日の分のお酒もしっかり飲み切った私は、髪を乾かしてくるから先に寝ててと、ほとんど意識を保てていないユカリを寝室へ追いやった。
脱衣所の鏡の前で、すでに半乾きになっている髪をくしでとかしながらドライヤーを当てる。
轟音の音に紛れて私は堪えきれなくなった嗚咽を漏らした。
(……スタート地点に立つ前に振られちゃった)
号泣しながら、頭の中の冷静な自分は「おばあちゃんになっても一緒にいたいなんてある意味、彼氏よりも特別なんじゃないか」と諭してくるけど、そんな法的拘束力のない口約束を真に受けるほど私はお人好しじゃない。
今までの彼氏がそうしてきたように、私だって今、ユカリに触りたい。
キスをしたい。
許されるならそれ以上のことだって、したかった。
だけどユカリはそうじゃないから、私とユカリがそれぞれ抱いている感情は全然違うから……。
くるくると忙しなく変わるユカリの悲しい顔は見たくない。
困っているのに目線を下げて無理して笑う顔も。
私との関係の中で、そういう表情はさせたくない。
しっかり髪を乾かして、ついでに涙でパリパリになった顔を洗い直してスキンケアもやり直した。
飲酒と号泣のせいで、きっと明日の朝は顔がパンパンでまぶたが開かないかもしれない。
通勤用のバッグからスマホを取って真っ暗な寝室へ忍び足で入る。
きっちり私の分のスペースを開けたユカリが壁際に背中を貼り付けて、タオルケットを足の間に巻き込みながら横向きになって眠っていた。
寮で一緒に暮らしていた頃は二段ベッドがあってユカリが上で、なのにユカリはしょっちゅう下の私のベッドに入ってきた。
そしてどちらかが眠るまで他愛もない話をした。
同じ時間に起きて同じ授業を受けて同じご飯を食べて同じ宿題をしていても、話の話題は尽きることがなかった。
何日もお互いを無視するような大きな喧嘩も一度だってしなかった。
それが大人になった今でも続いている。
どんなに生活スタイルが変わっても、交わる時間が少なくなっても。
充分じゃないか。
今のままで充分、幸せじゃないか。
そう思いたいのに、思えない。
ベッドに膝を立てて、ユカリを起こさないように潜り込む。
顔を洗ったことですっかり目が冴えてしまった。
ユカリが眩しくないように、向かい合った姿勢でスマホをいじる。
ユカリの寝息がすぐそばで聞こえてくる。
バッグの中にあるイヤホンも持ってくればよかった。
「ん……」
ユカリの小さな呻き声が聞こえて、慌ててスマホの電源を落とす。
数秒見つめてみても何もなく、ただの寝言かと安堵した。
暗い部屋でも白く発光しているかのようにユカリの顔の輪郭や首すじのラインがぼんやりと見える。
綺麗な曲線のまぶたと小さい鼻。
薄く口を開いた今にもよだれを垂らしそうな安心しきった顔。
貸したネイビーのパジャマは上のボタンを2つも外しているせいで襟が大きく開いていて、横向きになって潰れた胸がくっきりと深い谷間を作っている。
(こういう無防備なところも、その服の下も、彼氏は見てるんだよね)
「……………………」
おもむろにスマホをユカリに向ける。
起動したカメラ越しだと、ユカリの顔が真っ暗な暗闇に溶けてしまってよくわからない。
ピントを合わせるための白い四角が画面の中央をとらえている。
指がシャッターの丸いボタンをタップすると軽やかな電子音の後にブワッと光が放たれて、カメラのレンズが行ったり来たりしながら白い喉元へピントを合わせる。
一際強い光を放って無防備なユカリが画面におさまった。
はっ……と大きく空気を吐き出して、自分が今まで呼吸を止めていたことに気づく。
心臓が口から這い上がって外に飛び出てきそうなくらいドクドクと強く波打っている。
スマホを隠すように胸に抱いて、じりじりと後ろへ下がりながらそっと足を床につけた。
ひんやりとした感触を足裏に感じるのと同時にベッドのスプリングがたわむ。
ユカリが目を覚まさないように祈りながら、急いでその場から離れた。
逃げ込んだリビングのソファで、明かりもつけずに今さっき撮った写真を見てみる。
赤みがかった唇。
影ができるほど束になった長いまつ毛。
片手で簡単につかめてしまいそうなほど、細くて真っ白な首筋と鎖骨。
パジャマの隙間から見える胸の膨らみとそれを隠す薄いピンクの下着のレース。
暗がりの中ではわからなかったユカリの細部が、フラッシュを焚いたせいかやけに鮮やかにはっきりと写っていた。
それを見ていたら、まるで禁じられたものを手にしてしまった高揚感と罪悪感がセットになったような奇妙な感覚が襲ってきた。
こんな隠し撮りの写真を手元に残して、もしユカリにバレたらせっかくの友情にヒビが入るのは間違いない。どうして撮ったのかと尋ねられたら、私はきっと慌てふためいてユカリの納得する回答をできない。……消さなきゃいけない。だけどもう二度と見る機会はないとわかっているから、惜しくて指が動かない。
近いのに遠い。
どんなにパーソナルスペースの内側に立ち入ることを許されても、恋人以上に近づけないのが悔しい。
ユカリが今の彼氏と別れてまた誰かと付き合いだすたびに私は毎回嫉妬して、彼女の幸せすら願えなくなりそう。この気持ちをひた隠したまま、これから先、おばあちゃんになっても会い続けるなんてできる気がしない。
廊下からゆっくりとした足音が聞こえてきて、慌ててスマホの画面を動画アプリに切り替える。
少ししてリビングのドアが開いてユカリが入ってきた。
「……涼華ちゃん?」
「なに、どうしたの」
「お水、もらっていい? 喉乾いちゃって」
「どうぞ」
キッチンの電気をつけたユカリがグラスに水を注いで飲んでいるのを遠巻きに眺める。
胸元が見えるくらい開いていた襟はボタンが留められていた。
今は白い首しか見えない。
「涼華ちゃん、まだ寝ないの?」
水を飲み干してから私が座るソファまでやって来たユカリが私の隣に座った。
「いや、なんか目が冴えちゃって。もう少ししたら寝るよ」
「じゃあ私も起きてようっと」
「ユカリは朝弱いんだから寝なよ」
「んー」
ソファの座面の上で膝を三角に折りたたんだユカリが、綺麗に彩られたペディキュアをいじる。
キッチンの明かりだけでも煌々と綺麗に見えるユカリは、まるで頭のてっぺんから足の爪先までカスタムされた人形みたいだ。寒いからと言って制服の下にジャージを着込んだり化粧気のなかったりした中高とは大違いで、彼女も身だしなみを気にするようになったのかと感心する。
ユカリは大学で離れ離れになった私のことを全然知らない人みたいだったと言ったけど、私だって今のユカリに対して同じように思う。
「ね、明日もまた泊まっていいんでしょ?」
「ん、……うん」
「じゃあ、今度こそ服持って行くね。仕事用の服とパジャマと」
「え、なに、今さら気遣ってんの」
「ちがーう。でも毎回借りてるの申し訳ないから。持ってきたら涼華ちゃんの部屋に置いていい?」
「なんでよ。そうやって私物増やしてたら、ユカリのことだからずるずると転がり込んできそう」
「んふふ、バレました?」
いたずらっ子のように笑うユカリに「恋人みたい」と言いかけて止めた。
言って、どんな返事がくるか……。ユカリの言葉にいちいち一喜一憂するのは嫌だ。
それなのに、ユカリはまた反応に困る話題をぶり返してきた。
「ねぇ涼華ちゃん、本当におばあちゃんになっても会ってくれるんだよね?」
「……おばあちゃんになるまで生きてたらね」
「生きてるよ。お互い長生きして、また前みたいに同じ部屋で過ごしてお茶でも飲みながら余生を過ごすの」
「確定なんだ」
「うん、確定。……本当は、今でもそうしたいんだけど」
「彼氏が嫉妬するでしょ」
「ううん、別れたからいいの」
「は?」
思わず目を剥いてユカリの方を見る。
私の声や表情に、ユカリはびくりと肩を跳ねさせて、誤魔化すようにうっすら笑いながらまた足の爪をいじり出した。
「あ、えっと……正確には私から別れたいって言って、ちゃんと話し合うのは彼氏が出張から帰って来てからなんだけど」
「なんで、さっきまで電話してたじゃん」
「んー、……あのね、もういいかなって」
「どういうこと?」
「もういいの、男の人と付き合うのはもういい……」
「そんな簡単に」
「涼華ちゃんが毎日来てもいいよって言ってくれたから、いいの」
それがどうして別れるのことにつながるのか、理解できない。
理解できないから反応できずにいる私に、ユカリがばっと顔を上げた。
「……あれ、私、酔っ払ってるのかな……。ごめんね、また距離感間違えてるね。本当に毎日は来ないよ、安心してね」
ユカリが焦ったように顔の前でぶんぶんと両手を振る。
「ユカリは」
どうして何度も「距離感を間違えた」と思うんだろう。
これもまた、過去に付き合った男に言われたのだろうか。
側から見たら私とユカリはどういう風に見えてるんだろう。
友達か、それとも……。
「ユカリはさ、私と彼氏だったら、どっちが大切なの?」
だとしたら私のこの聞き方も、距離感を間違っているのかもしれない。
こんなの、友達に聞くようなことじゃない。
普通の友達はこんなこと聞いたりしない。
案の定、ユカリは私のした質問に「えぇ?」と首を傾げた直後、呆れたように眉をひそめて笑った。
……あぁ、やっぱり聞かなきゃよかった。胸が痛い。
「そんなの決まってるよぉ。涼華ちゃんだよ」
「……え」
ユカリがそっと私の指先に触れた。触れて、ぎゅっと握った。
「涼華ちゃんが一番大切」
屈託のない笑顔のユカリからずっとずっと聞きたかった言葉を聞いて、鼻の奥がつんと痛くなる。
飛び上がりたいくらい嬉しいはずなのに。
(彼氏よりも大切なのに、恋人にはなれないの?)
喉から出そうになる言葉をすんでのところで飲み込むと、見開いた目からぼろりと涙が溢れた。
「えっ、涼華ちゃん……」
「……ごめん。大丈夫、ごめん、ありがとう」
おろおろと私の手や背中をさするユカリから顔を背けて、何度も深呼吸を繰り返す。
自分でも感情の制御ができなくなっている。
ユカリが私の言葉で彼氏と別れるって決めて、嬉しい。
一番大切って言ってくれて嬉しい。
でも、私がなりたいのはそうじゃない。
私はユカリと付き合いたい。彼氏としたことを全部、私ともして欲しい。
だけどそれを言ったらユカリはきっと私と会ってくれなくなる。言えない……。
大きく息を吐いてユカリに向き直す。
無理やり作った笑顔が引き攣って、顔の筋肉が痛んだ。
「ふぅ、ごめん、ありがとう。いやぁ、あまりにも嬉しいのとびっくりして泣いちゃった。愛されてるね、私」
「……う、ん……」
「じゃ、寝よっか」
ソファから立ち上がって、不安そうに見上げるユカリの手を引っ張る。
リビングを出て寝室へ続く廊下を歩く間も、ユカリは何か言いたそうにしていた。
だけど気づかないふりをして彼女の前を歩いた。
二人で並んでベッドに潜り込んでも、ユカリはなかなか寝付けないのか隣で何度も寝返りを打っていた。
「……眠れない?」
「う、うん、なんでだろ、お水飲んだからかな」
「じゃあ昔みたいに眠くなるまで話そっか」
「うん」
お互い横向きになって向かい合う。それから二人でなんでもない話ばかりした。
明日の朝、家を出る時間のこと、仕事後の待ち合わせ時間のこと、夕ご飯のこと、飲んでしまったお酒のことと別れる予定の彼氏のこと……。
ひとしきり話して、それからユカリに、どうして男の人と付き合うのか聞いた。
私の方が大事なら、彼氏なんか作らないで私に会ってくれればいいのに。
数時間前にも同じようなことを聞いたのに、今度は少し違った答えが返ってきた。
「涼華ちゃんが会ってくれるから。”彼氏”のことになると、涼華ちゃんはどんなに忙しくてもすっ飛んで会ってくれるでしょ? それが嬉しかったから何回も口実にしちゃう」
「なんだそれ、……だから短期間で好きでもない人と付き合ったり別れたりしてるんだ?」
「そう」
そんなの口実にしなくても……と思ったけれど、私もそれに乗っかってユカリと会っていたから何も言えない。
ユカリも、私と同じで会いたくてもどうやって誘えばいいのかわからなかったのかもしれない。
そう考えると、容姿も性格も真逆なのに、妙なことろが一致していておかしくなる。
「涼華ちゃんは、なんで私と今でも会ってくれるの?」
「会いたいから。ユカリから連絡来ると、嬉しくて。今日もびっくりしたけど、会いに来てくれて嬉しかった」
「……どうして?」
「……さぁ。ユカリと同じように、私もユカリが一番大切なんじゃないでしょうか」
「本当?」
「うん」
照れくさくて、ユカリの顔を見ないようにしながら仰向けに体勢を変えた。
ユカリの控えめに絞った小さな声は、子守唄みたいで耳に心地いい。
「……六年も一緒にいたんだもん。今でもこうして会ってるし、ユカリが言うように、きっとおばあちゃんになっても会うのかもね」
「うん、うん、絶対ね」
「うん……」
その後、ますますテンションの上がったユカリは老後のプランを延々と語り始めた。
真っ暗な天井を見つめていると、次第に瞼が重くなってくる。
夢見心地の頭では、想像でしかないユカリの話に現実味はない。
だってユカリはまた、男の人と付き合うかもしれないでしょう?
今は私が一番大切でも、そのうちそれを軽々超える人と出会うかもしれない。
誰かと結婚して、子供が産まれて、孫が産まれて、きっと私のことを思い出さなくなるくらい充実した人生になるはずだよ。
思っていても、嬉々として私たちの老後を話すユカリに水を刺すようなことは言いたくなくて、私は目を瞑ってときどき相槌を打ちながら彼女の夢物語に耳を傾けた。
何度考えてみても、私と一緒になるより、ユカリが誰かとの結婚式に私を招待する方がずっと現実的で。
私は友人代表としてスピーチなんか引き受けちゃったりして。
子供を授かったら、生涯未婚の私とは自然と疎遠になったりして。
そういう未来の方が、容易に想像できてしまう。
女同士の友情は、きっとそんなものでしょう?
少なくとも私はそう思う。
ユカリくらいだ。大人になった今でも、おばあちゃんになるこれからも、こうして何度も会おうとしてくれるのは。
「――涼華ちゃん、寝ちゃった?」
ユカリの声が遠くで聞こえる。
返事をするのも億劫になって、私は目を瞑ったまま黙った。
「涼華ちゃん」
ユカリがさらに小さい声で私を呼んだ。
それにも答えずにいると、少しして隣のスプリングが軋んだ音を立てた。
眠れないユカリがまた水を飲みに行くのかもしれない。
頬に冷たい何かが触れて、あぁ、ユカリの髪かと認識した直後、今度は唇に柔らかいものが一瞬押し当てられて離れた。
隣でユカリがモゾモゾと布団に潜り込む気配がする。
目を開けて視線を動かすと、布団を頭まですっぽり被っているユカリの背中があった。
今さっき起きた出来事が夢でないことを実感する。
絶対にキスだった。
でも、どうして?
友達だって言ったのはそっちなのに。
体を動かしてユカリの方を向いた。
一瞬だけびくりと肩を揺らしたユカリだったけど、何秒待ってもこちらを振り向こうとしない。
声をかけようとして止めた。
追求してもきっと、距離感がとかなんとか言って誤魔化すのだろう。
起きているのは明白なのにいくら待ってみても振り向かないということは、指摘されたくないからだ。
ユカリのことだから、しつこくしたら泣き出して謝ってうやむやになってしまうかもしれない。
私だってさっき撮った写真を消せないでいる。
それから私も寝返りを打ってユカリと背中合わせになった。
ユカリが言わないなら、私も言わない。
彼女が望む「恋人よりも大切な涼華ちゃん」でいる。
どんなにユカリの恋人になりたくても、結局は私も怖いのだ。
恋人にも友人にもなり切れない、今の関係性が崩れてしまうことが。
これからもうすぐ近いうちにユカリが彼氏と別れて、私たちは会う回数が増えて、もしかしたらまた同じ部屋で過ごすことがあるかもしれない。
そうなったら私の欲が強くなって、今日の夜以上に一線を超えてしまうかもしれない。
だったら今そんなに急がなくてもいい。
今日の夜、私たちはお互い一線を超えた。
それだけで今は十分すぎた。
ユカリの安らかな寝息が聞こえてきても私の目は空が白み始めるまで冴えたままで、結局、ほとんど一睡もできずにベッドから抜け出した。
あの一瞬だけ唇が触れた事故のようなキスを思い出すと、小学校低学年男子のように喜んではしゃぎ回りたい自分もいたけど、冷静になった頭が最終的にはユカリのことだからどうせじゃれあいの延長であんなことをしたんだろうと結論づけた。我ながら可愛くない。
眠気覚ましのコーヒーを淹れるためにお湯を沸かして、キッチンカウンターの引き出しからタバコを取り出しリビングからベランダの扉を開けて外に出る。
右側が淡い紫色で左側がオレンジ色というグラデーションを見渡して、取り出した一本に火をつけた。
遠くのオレンジ色を眺めながらゆっくり息を吸い込んで吐き出す。
煙なのか朝日なのか、目がしみて痛い。頭痛もする。
一本目を吸い終わる頃、ちょうどけたたましいケトルの音に呼び出されてキッチンへ戻った。
手を洗って壁掛けの時計を見ると、そろそろユカリを起こさなければならない時間だった。
とりあえず無糖のコーヒーとミルクと砂糖たっぷりの甘いカフェラテを作ってから寝室へ向かう。
ベッドの上のユカリは私がいなくなってから何度寝相を変えたのか、布団を足に挟めて抱き枕のようにしていた。
その肩を揺さぶる。
「ユカリ、起きて、朝」
「うぅ……」
ぎゅうっとつぶった目を隠すように、ユカリが唸りながら抱きしめた布団へ顔をうずめる。
――さて、今日は何分かかるか。
夜更かしした次の日のユカリは寝起きが悪い。試験の前は毎回こんな感じだったなと懐かしくなる。
片膝をベッドの縁に乗せてさらにユカリの肩を強く揺さぶると、顔をしかめたユカリがのっそりと起き上がった。
「……なんかタバコくさい……、涼華ちゃん、また吸ったのぉ……」
「お、今日は早いね」
「もうタバコやめてよぉ、保健の先生でしょー……」
ボサボサの髪を直しもせず、ユカリが私の横をすり抜けてベッドから降りた。
それから寝室の片隅に置いてあったバッグをゴソゴソを漁って何かを取り出す。
「はい、あげる」
目の前に有名な画家がデザインしたという棒付きのキャンディを差し出された。
淡いピンク色のストロベリークリーム味。
「何これ」
「タバコよりずっといいよ。本当はね、さくらんぼ味が一番好きなんだけど食べちゃって無いから……あ、涼華ちゃん、駅で降ろす前にコンビニ寄ってもらっていい?」
「へえ、意外。ユカリってこういうの食べるんだ」
「私は涼華ちゃんがタバコ吸ってる方がいまだに慣れないよ」
体を動かして話して目が覚めたのか、ユカリの口がハキハキと回るようになってきた。
「さくらんぼ味がね、すごく美味しいの。コンビニ行ったらいっぱい買ってあげるね」
「や、いや、いらない。甘いのそんなに好きじゃないし」
「もうー!」
子供のように頬を膨らませながら、両手を振り上げたユカリが体当たりをしてくる。
私はそれを避けて笑いながら寝室を出る。
たまに会ってお互いの知らないところを垣間見て、思い出話を繰り返して変わりがない部分を確認して安心する。
大人になってからの私たちはそれの繰り返しだ。
できること。
昨夜の出来事が無かったかのように振る舞えること。
できないこと。
一線を超えた先を見ること。
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おにくさん、お久しぶりです〜!
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一年前に書いた話をpixivから持ってきたものですが、
読んでいただきありがとうございます!!
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りょかぴって可愛いあだ名つけられてて良かったねぇ(ほっこり)
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というか私がそういう主人公を書きがちだったりしますね(今気づいた)
書き分けできるようになりたい!!