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第1部 カフェ・キノネ
2.ユリノキの立つ庭(後編)
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「気がついた時はまだ10万ビューを超えた程度で、ほとんど話題にもなっていなかった」
藤野谷の指がひらめく。また液晶画面をタップする。白と黒の線がよみがえり、生命を持つように動き出す。
「最初の作品を皮切りに不定期に投稿された動画もすべて追った。同じタッチ、どんな手順で作っているのかはわからないが同じ手法で、あきらかに同じシリーズ……なのに投稿されるアカウントは毎回異なり、作者の名前はランダムな数字とアルファベットで、作り手を特定されたくないといわんばかりだ。でもこれだと思った。今回、うちの新しいプロモーション映像の制作にあたって――」
藤野谷は淡々と話した。大げさなそぶりもないのに、いちいち話す内容が印象に残るのも昔と変わらない。
「絶対にこの作者を探し出したかった。苦労したよ。やっとそれらしいデザイナーのエージェントがみつかったから、まずは本人に会ってみたいと無理をいったんだが……」
藤野谷の光彩が琥珀色にきらめいた。
「サエなら納得だ。いや、サエだと予想できなかった俺がまだまだ、だな。なにしろ運命だから」
「どうやってみつけた?」
「佐枝といつから知り合いなんです?」
俺と暁の声がかぶった。藤野谷は愉快そうな眼つきで俺と暁を交互にみつめる。
「どちらの質問から答えてほしい?」
余裕たっぷりの仕草に何だか腹が立った。肩をすくめて俺は暁に先をうながした。
「俺が彼のエージェントになって三年経ちますが、藤野谷家の方と接点があるなんて、一度も聞いたことがありませんでしたよ」
暁はいつもの率直な口調に戻っていた。そもそもめったなことでは他人に臆したりしない男なのだ。
「サエとは十四歳のとき、サマースクールのアートキャンプで会ったのが最初だ」
藤野谷はためらいなく答える。
「そのあと高校で一年間だけ同じクラスになり、大学のキャンパスでまた再会した。そして今回だ。運命といいたくなるのもわかるだろう?」
「なるほど、三度目ならぬ四度目の正直というわけですね」
暁がうなずく。
「アートキャンプというのは?」
「たいしたものじゃない」俺は話に割って入った。
「その手のことに興味がある子供が参加させられる課外プログラムだ。中学生向けのワークショップだよ。たまたま組むことになったんだ。ヴィジュアルブックを作るプロジェクトで、俺が絵を描いて――」
「俺はシナリオを書いて、プレゼンした。終わりにプロジェクトはグランプリをとった」と勝手に藤野谷が付け足す。
「優秀賞だ」
俺は即座に訂正したが、藤野谷は首をふった。
「いや、最優秀賞だ。俺もサエも個人で賞をもらったが、俺たちのプロジェクトは一番をとった。サエが覚えていないのは最終日までキャンプにいなかったせいだろう」
藤野谷は形のいい眉をしかめた。いやおうなく彼にひきつけられる視線を俺はむりやり引きはがす。あいつに注意を向けすぎるな。そう警告しても、耳をふさぐことはできない。
「高校でも大学でもそうだった。いつも俺から逃げるのが得意だ。最後までそばにいようとしない」
「あのときは家の都合で行けなくなったんだ」
藤野谷のうらめしげな口調に、俺はするつもりもなかった抗議をはさんだ。
「ひとの勝手だろう。おまえのために生きてるわけじゃないんだ」
藤野谷はわざとらしく眼をみひらく。
「まったく、サエだけだよ。こんなに何度も運命の出会いを繰り返しているのに、いつも冷たいよな、俺に」
「ふざけてろ」
今度は暁が俺と藤野谷を見比べていた。
「たしかに仲がよさそうですね」
「そう、昔から仲はいいんだ」
「よくない」
また俺と藤野谷の声がかぶる。すると藤野谷は乾いた朗らかな笑い声をあげた。
「サエは昔からこうなんだ。いくら俺が〈運命のつがい〉との出会いを信じないからって、冗談でもベータの自分に運命なんていうなと」
「当たり前だろう。迷惑だ」
俺はふりむいてカウンターに視線をやり、飲み物がそろったのを確認して席を立った。週末以外はマスターがひとりで切り回しているので、常連なら自分でカウンターまで取りに行くのが習慣だった。薄く軽い陶器のカップと紅茶のポットを盆にのせ、サンルームに戻ってくると、暁は魅入られたように藤野谷をみつめていた。
藤野谷がいるところ、人はみな彼を見て、彼の話を聞く。高校生のころもそうだった。
「名族の方がそんなことをいわれるんですか? 運命のつがいを信じない?」
暁が意外そうにいった。「少し驚きましたね」
藤野谷は軽く肩をすくめた。
「そんなくだらない話を信じているのか? アルファの名族がすべて〈運命のつがい〉のオメガと結ばれているわけはないし、ちまたで流れているのはアルファに権威をあたえるための伝説だ」
「もちろん、みんながみんなそうだとは思っていませんよ」
暁はおっとりと返した。
「でも優秀な方が続出するからこそ名族は名族、アルファはアルファで、運命のつがい同士だとクランが栄えるというのは、俗説ともいいきれないのでは?」
藤野谷は鷹揚に腕を組む。
「たしかに低俗なメディアは、運命の相手に出会えないアルファクランは没落するなんて話を、おもしろおかしく流す。没落したクランは単に維持能力に欠けていただけだ。それに今では〈運命のつがい〉と呼ばれる現象自体も科学的に解明されているだろう。結局単なるホルモン適合の問題で、たまたま生まれつきの身体条件が合っただけなんだ。ここにロマンチックな思い入れをこめて美化するのは人間の知性を侮辱するようなものだろう。本当に運命と呼べるのはそんなものじゃないさ」
俺には聞き慣れた話だった。男と女、それにアルファ、オメガ、ベータ。この世に存在する性のちがいによって人間関係が左右されたりゆがめられるのはおかしい、というのが昔からの藤野谷の持論で、加えて〈運命のつがい〉の結びつきを尊重する見方をとくに嫌っているのだ。
すべての性――オメガ男性であっても――に平等と機会均等が保証されるというのが現代の人権思想だから、おかしな話ではないのだが、藤野谷の主張は昔からすこし極端な部類だった。
一般に、子供がアルファになるかベータになるかは遺伝と家系で推測できるが、オメガの誕生は予想できないとされている。統計的にみればオメガは七人にひとりは生まれてくるのでそれほど珍しいわけでもないのだが、名門のアルファと貧しいオメガが〈運命のつがい〉として結ばれる物語は、いつの時代も映画や舞台、ドラマや小説をにぎわせてきた。それこそ庶民にロマンチックな夢を提供する格好の素材なのだ。
だが実際にアルファのエリートである藤野谷にとって、これはよくて空疎なおとぎ話にすぎない。名族のアルファにとってオメガの配偶者と子供を作るのはただの義務だから、というのが昔からの藤野谷の持論だ。
アルファ同士のカップルに子供が生まれることは稀で、アルファとベータのカップルの間に生まれる子供がアルファであることも稀だ。アルファとオメガの組み合わせこそがアルファがもっとも生まれやすい。だから、アルファクランを維持するには生まれてくる子供がアルファになるよう、適切なオメガの配偶者をみつけなければならない。
(家畜じゃないんだ。運命のつがいなんてのも結局のところ、ごまかしだよ。いいかげんにしろって思うだろう?)
十代の頃の藤野谷の言葉が俺の頭をよぎり、暁と話す声とかぶった。
いまやおたがい三十歳になろうとして、こいつは押しも押されぬ若手実業家となっているが、俺を呼ぶ声と同様、こんな部分は変わっていないらしい。そのことに俺は安心するが、同時に苦い味が澱のように腹の底へたまるのも感じていた。もし俺がずっと自分をあざむいていると知ったら、藤野谷はいったいどうするのだろう。
だから俺たちは会わない方がいいのだ。
コーヒーを口に含む。「キノネ」のオリジナルブレンドで、こくと酸味が絶妙なバランスを保つ。傾斜した窓を通り抜ける光がテーブルの上にプリズムのような透明な影をおとす。俺の思いをよそに、暁は長広舌をふるう藤野谷をしげしげとみつめ、神妙な顔で話を聞いている。
「たしかにそうかもしれませんが――いわれてしまうと少し味気ないですね。〈運命のつがい〉は自分のようなベータにとっても憧れなんですよ。娯楽として消費するなといわれればそれまでですが」
「いやいや、ロマンチックを非難しているわけじゃないさ」
藤野谷は気にするなといいたげに指をふり、ついでそのまま手元のタブレットをなぞる。
「現実には、医学の発達で発情期の調節や生殖管理が簡単にできるようになって、いまの世界は革新的な変化をとげているだろう。この上さらに性別による匂いを個々人の意思でコントロールできれば、俺たちはさらに三性の縛りから解放される。アルファもオメガも関係ない。些細な日常生活での不本意な遠慮や強制も減るし、不快な気分にもならずに済む」
話しながら手元をほとんど見ないままタブレットを操作する。白い背景にアルファベットが一文字ずつならび、ブランドロゴを形づくる。
TEN‐ZERO
藤野谷が大学を卒業して二年かそこらで起業した会社だった。たった六年でいまや十代から三十代の層に圧倒的な認知を得るようになった。
画面の中では六角形の結晶のような濃紺のガラスが、ロゴの背後にたちあがる。
良くも悪くも匂いにうるさいこの社会に、星の数ほど存在する香りのブランドのひとつだ。しかしTEN‐ZEROの〈香り〉は従来のブランドとは一線を画していた。
「今回のプロモーションでは新製品の紹介と同時に、TEN‐ZEROのコンセプトをより強烈に掲げるつもりだ。どんな性であっても、誰にも遠慮しなくていい。隠れることもなければひけらかしも無意味だ。そんなメッセージを核にする。自分の匂いは自分で決められる。プロモーション映像の製作に――」
藤野谷はすっと背筋をのばし、俺をまっすぐにみつめた。
「サエに参加してもらいたい。実現すれば大学以来のコラボレーションになるな」
またあの〈色〉が降ってきて、俺は大きくまばたきをする。問答無用で首を縦に振りそうになるのを抑え、できるだけ無表情を保った。隣で暁が興奮しているのがわかる。ベータにも匂いはあるのだ。
藤野谷のブランド「TEN‐ZERO」が若者の間で成功したのは、匂いを制御したいアルファやオメガだけでなく、ベータの支持を得たことが大きかった。匂いに敏感なオメガに感情を読まれるのを避けたいベータは多い。この社会は匂いを過剰に気にかける。
俺が匂いだけでなく色にも敏感なのは、嗅覚と色彩認知が共感覚と呼ばれる現象でつながっているためらしい。たまにそんな人間もいるのだ。しかしどんな匂いも色あいも、藤野谷がまきちらすこの〈色〉にはかなわない。偶然にアルファとオメガをつなぎ、離れられない運命を示すもの。藤野谷が頭から否定しているものだ。それなのに俺には見えてしまう。
藤野谷が気づかないのは俺の偽装が完璧だからだ。俺としても永遠に気づいてほしくない。俺がオメガで、おまえがずっと拒否している相手だとは。
「条件によるな。俺はひきこもりだから」
表情を変えないように俺はいう。
「あいかわらずだな」
藤野谷は快活に笑った。まぶしい夜の色が降ってくる。強くまばたきしてそれを消す。
呑みこまれるな。墜ちていくな。
俺は自分自身にいいきかせながら、コーヒーを口に含んだ。
藤野谷の指がひらめく。また液晶画面をタップする。白と黒の線がよみがえり、生命を持つように動き出す。
「最初の作品を皮切りに不定期に投稿された動画もすべて追った。同じタッチ、どんな手順で作っているのかはわからないが同じ手法で、あきらかに同じシリーズ……なのに投稿されるアカウントは毎回異なり、作者の名前はランダムな数字とアルファベットで、作り手を特定されたくないといわんばかりだ。でもこれだと思った。今回、うちの新しいプロモーション映像の制作にあたって――」
藤野谷は淡々と話した。大げさなそぶりもないのに、いちいち話す内容が印象に残るのも昔と変わらない。
「絶対にこの作者を探し出したかった。苦労したよ。やっとそれらしいデザイナーのエージェントがみつかったから、まずは本人に会ってみたいと無理をいったんだが……」
藤野谷の光彩が琥珀色にきらめいた。
「サエなら納得だ。いや、サエだと予想できなかった俺がまだまだ、だな。なにしろ運命だから」
「どうやってみつけた?」
「佐枝といつから知り合いなんです?」
俺と暁の声がかぶった。藤野谷は愉快そうな眼つきで俺と暁を交互にみつめる。
「どちらの質問から答えてほしい?」
余裕たっぷりの仕草に何だか腹が立った。肩をすくめて俺は暁に先をうながした。
「俺が彼のエージェントになって三年経ちますが、藤野谷家の方と接点があるなんて、一度も聞いたことがありませんでしたよ」
暁はいつもの率直な口調に戻っていた。そもそもめったなことでは他人に臆したりしない男なのだ。
「サエとは十四歳のとき、サマースクールのアートキャンプで会ったのが最初だ」
藤野谷はためらいなく答える。
「そのあと高校で一年間だけ同じクラスになり、大学のキャンパスでまた再会した。そして今回だ。運命といいたくなるのもわかるだろう?」
「なるほど、三度目ならぬ四度目の正直というわけですね」
暁がうなずく。
「アートキャンプというのは?」
「たいしたものじゃない」俺は話に割って入った。
「その手のことに興味がある子供が参加させられる課外プログラムだ。中学生向けのワークショップだよ。たまたま組むことになったんだ。ヴィジュアルブックを作るプロジェクトで、俺が絵を描いて――」
「俺はシナリオを書いて、プレゼンした。終わりにプロジェクトはグランプリをとった」と勝手に藤野谷が付け足す。
「優秀賞だ」
俺は即座に訂正したが、藤野谷は首をふった。
「いや、最優秀賞だ。俺もサエも個人で賞をもらったが、俺たちのプロジェクトは一番をとった。サエが覚えていないのは最終日までキャンプにいなかったせいだろう」
藤野谷は形のいい眉をしかめた。いやおうなく彼にひきつけられる視線を俺はむりやり引きはがす。あいつに注意を向けすぎるな。そう警告しても、耳をふさぐことはできない。
「高校でも大学でもそうだった。いつも俺から逃げるのが得意だ。最後までそばにいようとしない」
「あのときは家の都合で行けなくなったんだ」
藤野谷のうらめしげな口調に、俺はするつもりもなかった抗議をはさんだ。
「ひとの勝手だろう。おまえのために生きてるわけじゃないんだ」
藤野谷はわざとらしく眼をみひらく。
「まったく、サエだけだよ。こんなに何度も運命の出会いを繰り返しているのに、いつも冷たいよな、俺に」
「ふざけてろ」
今度は暁が俺と藤野谷を見比べていた。
「たしかに仲がよさそうですね」
「そう、昔から仲はいいんだ」
「よくない」
また俺と藤野谷の声がかぶる。すると藤野谷は乾いた朗らかな笑い声をあげた。
「サエは昔からこうなんだ。いくら俺が〈運命のつがい〉との出会いを信じないからって、冗談でもベータの自分に運命なんていうなと」
「当たり前だろう。迷惑だ」
俺はふりむいてカウンターに視線をやり、飲み物がそろったのを確認して席を立った。週末以外はマスターがひとりで切り回しているので、常連なら自分でカウンターまで取りに行くのが習慣だった。薄く軽い陶器のカップと紅茶のポットを盆にのせ、サンルームに戻ってくると、暁は魅入られたように藤野谷をみつめていた。
藤野谷がいるところ、人はみな彼を見て、彼の話を聞く。高校生のころもそうだった。
「名族の方がそんなことをいわれるんですか? 運命のつがいを信じない?」
暁が意外そうにいった。「少し驚きましたね」
藤野谷は軽く肩をすくめた。
「そんなくだらない話を信じているのか? アルファの名族がすべて〈運命のつがい〉のオメガと結ばれているわけはないし、ちまたで流れているのはアルファに権威をあたえるための伝説だ」
「もちろん、みんながみんなそうだとは思っていませんよ」
暁はおっとりと返した。
「でも優秀な方が続出するからこそ名族は名族、アルファはアルファで、運命のつがい同士だとクランが栄えるというのは、俗説ともいいきれないのでは?」
藤野谷は鷹揚に腕を組む。
「たしかに低俗なメディアは、運命の相手に出会えないアルファクランは没落するなんて話を、おもしろおかしく流す。没落したクランは単に維持能力に欠けていただけだ。それに今では〈運命のつがい〉と呼ばれる現象自体も科学的に解明されているだろう。結局単なるホルモン適合の問題で、たまたま生まれつきの身体条件が合っただけなんだ。ここにロマンチックな思い入れをこめて美化するのは人間の知性を侮辱するようなものだろう。本当に運命と呼べるのはそんなものじゃないさ」
俺には聞き慣れた話だった。男と女、それにアルファ、オメガ、ベータ。この世に存在する性のちがいによって人間関係が左右されたりゆがめられるのはおかしい、というのが昔からの藤野谷の持論で、加えて〈運命のつがい〉の結びつきを尊重する見方をとくに嫌っているのだ。
すべての性――オメガ男性であっても――に平等と機会均等が保証されるというのが現代の人権思想だから、おかしな話ではないのだが、藤野谷の主張は昔からすこし極端な部類だった。
一般に、子供がアルファになるかベータになるかは遺伝と家系で推測できるが、オメガの誕生は予想できないとされている。統計的にみればオメガは七人にひとりは生まれてくるのでそれほど珍しいわけでもないのだが、名門のアルファと貧しいオメガが〈運命のつがい〉として結ばれる物語は、いつの時代も映画や舞台、ドラマや小説をにぎわせてきた。それこそ庶民にロマンチックな夢を提供する格好の素材なのだ。
だが実際にアルファのエリートである藤野谷にとって、これはよくて空疎なおとぎ話にすぎない。名族のアルファにとってオメガの配偶者と子供を作るのはただの義務だから、というのが昔からの藤野谷の持論だ。
アルファ同士のカップルに子供が生まれることは稀で、アルファとベータのカップルの間に生まれる子供がアルファであることも稀だ。アルファとオメガの組み合わせこそがアルファがもっとも生まれやすい。だから、アルファクランを維持するには生まれてくる子供がアルファになるよう、適切なオメガの配偶者をみつけなければならない。
(家畜じゃないんだ。運命のつがいなんてのも結局のところ、ごまかしだよ。いいかげんにしろって思うだろう?)
十代の頃の藤野谷の言葉が俺の頭をよぎり、暁と話す声とかぶった。
いまやおたがい三十歳になろうとして、こいつは押しも押されぬ若手実業家となっているが、俺を呼ぶ声と同様、こんな部分は変わっていないらしい。そのことに俺は安心するが、同時に苦い味が澱のように腹の底へたまるのも感じていた。もし俺がずっと自分をあざむいていると知ったら、藤野谷はいったいどうするのだろう。
だから俺たちは会わない方がいいのだ。
コーヒーを口に含む。「キノネ」のオリジナルブレンドで、こくと酸味が絶妙なバランスを保つ。傾斜した窓を通り抜ける光がテーブルの上にプリズムのような透明な影をおとす。俺の思いをよそに、暁は長広舌をふるう藤野谷をしげしげとみつめ、神妙な顔で話を聞いている。
「たしかにそうかもしれませんが――いわれてしまうと少し味気ないですね。〈運命のつがい〉は自分のようなベータにとっても憧れなんですよ。娯楽として消費するなといわれればそれまでですが」
「いやいや、ロマンチックを非難しているわけじゃないさ」
藤野谷は気にするなといいたげに指をふり、ついでそのまま手元のタブレットをなぞる。
「現実には、医学の発達で発情期の調節や生殖管理が簡単にできるようになって、いまの世界は革新的な変化をとげているだろう。この上さらに性別による匂いを個々人の意思でコントロールできれば、俺たちはさらに三性の縛りから解放される。アルファもオメガも関係ない。些細な日常生活での不本意な遠慮や強制も減るし、不快な気分にもならずに済む」
話しながら手元をほとんど見ないままタブレットを操作する。白い背景にアルファベットが一文字ずつならび、ブランドロゴを形づくる。
TEN‐ZERO
藤野谷が大学を卒業して二年かそこらで起業した会社だった。たった六年でいまや十代から三十代の層に圧倒的な認知を得るようになった。
画面の中では六角形の結晶のような濃紺のガラスが、ロゴの背後にたちあがる。
良くも悪くも匂いにうるさいこの社会に、星の数ほど存在する香りのブランドのひとつだ。しかしTEN‐ZEROの〈香り〉は従来のブランドとは一線を画していた。
「今回のプロモーションでは新製品の紹介と同時に、TEN‐ZEROのコンセプトをより強烈に掲げるつもりだ。どんな性であっても、誰にも遠慮しなくていい。隠れることもなければひけらかしも無意味だ。そんなメッセージを核にする。自分の匂いは自分で決められる。プロモーション映像の製作に――」
藤野谷はすっと背筋をのばし、俺をまっすぐにみつめた。
「サエに参加してもらいたい。実現すれば大学以来のコラボレーションになるな」
またあの〈色〉が降ってきて、俺は大きくまばたきをする。問答無用で首を縦に振りそうになるのを抑え、できるだけ無表情を保った。隣で暁が興奮しているのがわかる。ベータにも匂いはあるのだ。
藤野谷のブランド「TEN‐ZERO」が若者の間で成功したのは、匂いを制御したいアルファやオメガだけでなく、ベータの支持を得たことが大きかった。匂いに敏感なオメガに感情を読まれるのを避けたいベータは多い。この社会は匂いを過剰に気にかける。
俺が匂いだけでなく色にも敏感なのは、嗅覚と色彩認知が共感覚と呼ばれる現象でつながっているためらしい。たまにそんな人間もいるのだ。しかしどんな匂いも色あいも、藤野谷がまきちらすこの〈色〉にはかなわない。偶然にアルファとオメガをつなぎ、離れられない運命を示すもの。藤野谷が頭から否定しているものだ。それなのに俺には見えてしまう。
藤野谷が気づかないのは俺の偽装が完璧だからだ。俺としても永遠に気づいてほしくない。俺がオメガで、おまえがずっと拒否している相手だとは。
「条件によるな。俺はひきこもりだから」
表情を変えないように俺はいう。
「あいかわらずだな」
藤野谷は快活に笑った。まぶしい夜の色が降ってくる。強くまばたきしてそれを消す。
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俺は自分自身にいいきかせながら、コーヒーを口に含んだ。
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