さだめの星が紡ぐ糸

おにぎり1000米

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プロローグ

七月七日・伊吹

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「春日さん、メンバーズパスは四月末で販売終了したんですよ」
 彼の声が聞こえるだけで、伊吹の背筋には電流のような感覚が走る。自分に向けられた言葉でもないのに。
 彼――照井七星てるいななせ

 七星は伊吹の斜向かいに座り、春日武流の陽気な声にこたえている。テーブルをはさんでいるとはいえ、この位置で七星を見ないようにするのは不自然だ。でも彼が近くにいるだけで、伊吹の呼吸はおかしくなる。

 看板少年と呼ばれていたが、七星は童顔ではない。とはいえ、十代といわれれば信じる人もいそうな華奢な体つきをしている。栗色がかった明るいくせっ毛がひたいの上で跳ねている。伊吹は真っ黒の大きな目をうっかりみないよう、隣の男に視線を移す。ここで会うとは思っていなかった男だ。

「伊吹は持ってるのに? いつからここに来てるんだ。ぜんぜん知らなかったよ」
 武流はどんな場所でも物おじしない。無遠慮すれすれのその態度は、一般的なベータのイメージ――アルファの隣で補佐的な役割に甘んじる、そんなイメージにはそぐわないが、武流の業界ではプラスに評価されるらしい。アルファのくせに控えめといわれる伊吹とは正反対の男だ。

「三城さんが来るようになったのは四月ごろですね」
 七星がいった。柔らかで甘い声だ。伊吹にはそう感じられる。喉が苦しくなる。
 無意識にネクタイに手をやって、武流に答えた。

「四月に分室へ異動になってからだ。散歩していてみつけた」
「車通勤じゃないのか?」
「車だよ。本社とちがって近くにカフェや食堂がないんだ」
「おっと、島流しはつらいね。おかげでパス買えたっていうのならラッキーだな。俺もメンバーズになりたかったよ」

 冗談めかしていたが、武流の口調には馬鹿にしたような響きがある。この異動は降格ではなく昇進の結果だったが、伊吹はあえて告げはしない。この男に何と思われようがどうでもいいことだ。
 ユニークで結束力の強い人々が何か月も準備をして、何かはじめたり、発表する、伊吹はその瞬間に立ち会うのが好きだった。ここにいるのはそのためだ。

 それ以上のことはけっしてない――そう心にいいきかせたとき、七星が「三城さんの会社、川向こうでしたよね?」と口をはさんだ。
 伊吹の胸の奥はふたたび波立つ。
「あっち側は卸売市場なんで、朝しか店が開かないんですよ。ユーヤもこっちの駅からは遠いですけど、川をわたるとすぐだから」

 アルファ、ベータ、オメガ。男女に加えて三つの性があるこの世界で、アルファは冷静で論理的な思考に長けているとされている。ときに冷静すぎて温かみに欠ける、とも。伊吹自身にもその自覚はある。自分は感情の起伏に乏しい人間なのだと、ことあるごとに感じてきた。妻の蓮が伊吹をつまらない男だと非難するのもそのせいだと思ってきた。

 だから七星に対しても、伊吹は他の人間に対するときと同じようにふるまえるはずだ。たまたまここで知り合っただけの、ときたま会話をするだけの間柄として、自分でも止められない衝動に駆りたてられたことなど一度もないように。

 絶対にそうでなければならない。

「なるほどね」
 武流はどうでもよさそうな口調で相槌をうった。
 伊吹はいささか不審に思う。武流がメンバーズになりたかったなんて本気とは思えない。メンバーズパスを持っていれば、この古い劇場兼ギャラリーのオリジナル企画をフリーで鑑賞できるが、武流にそんな興味があるとは思えない。
 それにちらっと伊吹を見る目にはどこかわざとらしい、思わせぶりなものがある。伊吹は平然とした表情をたもつ。武流の仕事柄、興味がなくともこういったアートスペースの情報に通じているのは、不思議なことではない。

 伊吹がおかしな勘ぐりをしてしまうのは、武流が七星の隣にいるからだ。
 自分こそがあそこにいるべきだ、という本能的なささやきを伊吹はかろうじて無視する。

「ちょっと意外だったんだ。それに伊吹ってとっつきにくいだろ? 常連あつかいされにくいタイプ」
「でも四月は七星くんとよく話してましたよね、三城さん。最近はそうでもないけど」

 横から祥子が割りこんでくる。ワイングラスが新しくなっている。参加者に酒が回ってきたせいか、周囲のざわめきも大きくなっている。ささやかなオープニングパーティは佳境を迎えている。
「四月はマツさんが入院してたじゃないですか。そのぶん僕のカフェ当番が増えたからですよ」

 七星がいった。その通りだ。でも今は絶対に隣り合って座ったり、ふたりきりになったりはしない。
 息があう? いや、そんなものじゃない。
 伊吹の中の混乱はアルファの冷静さに覆い隠される。ありがたいことに。

「それだ。あと、三城さん安全だからあたしが邪魔しなかったせいもある」と祥子がいう。
「安全って?」
 武流が顔をしかめる。伊吹は黙っている。
「つがいのいないアルファをオメガに近づけられないわよ。七星くんに変な虫がついてほしくないの」
「祥子さん」七星が小さな声で呼ぶ。
「あ、ごめん! ごめんね、おばさん無神経すぎて……」
「いやそうじゃなくて、その、僕もまだ一応……」
「え、七星くん結婚してるの?」

 武流がまた大げさな声を出す。七星の視線が一瞬宙をおよぐ。

「あ、いやその……夫は亡くなってて」
「あ……それは」
 さすがの武流もしまったという顔になる。
「お気の毒です。申し訳ない」
「あ、いえ。四月が三回忌だったので……二年以上経つし、だからシングルっていえばそうですけど」

 やや気まずい沈黙のあと、武流ががらりと口調をかえた。
「それにしても、本当にここ、九月で最後なんですか? カフェもギャラリーも、雰囲気いいのに」
「二十年やりましたからね」

 テーブルの端にいた魚居が答えた。この場所を一からつくりあげたアルファの女性だ。以前とちがって、最近は名族の中でもアルファ女性の存在感は大きい。
「駅前に立派な施設もできたし、ユーヤも役目を終わらせていいかと思って」
 魚居の左右に座っていた男女が「それでも残念だね」と口々にいった。
「ついにこの街から銭湯がなくなるよ」

 このスペースは「遊屋」と書いて〈ユーヤ〉と読む。それはここがもともと「湯屋」だから――そんな話を皮切りに昔話がはじまる。それから現在の話へ、さっきの「立派な施設」の話に戻る。
 五月にオープンしたアートコンプレックス〈プラウ〉のことだ。名族の宮久保家――不動産開発を得意とするアルファの一族――による大規模なアートシティ・プロジェクト。

 ふいに武流が伊吹の方へ身を乗り出した。
「このスペースのことは蓮に聞いた」と、聞き耳を立てなければ届かないほどの低い声ででささやく。

 武流が伊吹を驚かせるつもりだったとしても成功はしなかった。伊吹の妻の蓮は〈プラウ〉を運営する財団の理事長である。ベータの従兄である武流は広告業界の幼馴染だ。蓮から何を聞いていても不思議ではない。若干二十五歳の蓮は女系の宮久保家に数十年ぶりに生まれたオメガの直系男子でもあって、だからこそ〈プラウ〉の理事長におさまっている。

 宮久保家の当主にとって蓮は目に入れても痛くない存在で、蓮のためになると思えば何でもする。名族出身ではない伊吹のようなアルファを選び、夫としてあてがうことも含めて。とはいえ蓮の意思は当主の意思とはかぎらない。

 二十五歳といえば七星もそうだ。

 伊吹は思わず七星に目をやる。七星は蓮を知っているし、伊吹の妻だということも知っているが、これ以上武流の無神経な言葉を聞かせたくない。だが、伊吹の心配は杞憂におわる。七星はユーヤの他のスタッフと話している。細い指が空になったグラスを回している。飲まないのか、という誰かの問いかけに首を横に振る。

 ほっとした伊吹は不用意に七星をみつめ――みつめすぎてしまう。

 突然狂おしい感覚が伊吹の腹の底でとぐろをまく。二カ月以上前のことなのに、記憶はまだ鮮明だ。くすんだピンクの唇がうごいて、いぶき、とつぶやく。閉じた目から涙がこぼれて――

 七星はあのとき少しだけ飲んでいた。いや、それは言い訳にすらならない。アルコールはオメガのヒートを引き起こしたりしないし、アルファは衝動に流されるべきではない。

「運命のつがいって、会った瞬間にわかることになってるよね」
 横からそんな言葉がきこえ、伊吹はやっと我に返る。
「なってるっていうか、そうなんでしょ。匂いとか。ようするにホルモンの問題だから」

 三性に関わる話題はデリケートだから公の場ではあまりしないものだが、明日のプログラムは〈運命のつがい〉がテーマの現代演劇だ。といっても、アルファの御曹司と虐げられたオメガが結ばれるといった、昔ながらの王道の物語ではないらしい。

 伊吹はテーブルの会話に耳をそばだてる。〈運命のつがい〉にはベータも一家言がある――というより、昔から〈運命のつがい〉はベータをターゲットにしたエンタメの王道ネタである。きっとオメガの発情ヒートにも、それに反応するアルファの発情ラットにも無縁だからこそ楽しめる部分もあるのだろう。ベータには感覚的に理解できないからこそ面白いのだ。

 現実に目をむけると、〈運命のつがい〉つまり特定のアルファとオメガのあいだにあるとされる唯一無二の絆は、最近では〈適合者〉とか〈ベストマッチング〉と呼ばれることもあり、この数年は気軽に話題に出されるようになった。というのも、アルファとオメガの〈適合〉の程度を診断できるキットが簡単に手に入るようになったからだ。

 かつて〈運命のつがい〉はアルファとオメガの通常のつがい関係に「番狂わせ」を生じさせるものとして、極端にタブー視されたり、物語のなかで特別なものとして扱われてきた。だが現代では生まれつきの身体に基づく相性の一種とされているし、そもそも〈運命〉といえるほど強い適合などめったにあるものではない。

 それでもどのくらいマッチしているか、占い感覚で診断するカップルは増えていて、明日からはじまる公演はそんな〈運命のつがい〉をめぐる今の状況をコメディタッチで描くものだという。

「というわけで、じゃーん。オメガの友達にもらいました! 運命のつがい、みつかるかもよ」
 そんな声があがって、テーブルのざわめきが一瞬止まる。

「え? それ診断キット?」
「そ。舐めるだけでいいやつ。春に出た新商品だけど、サンプルたくさんもらって余ってるっていうから」
「ベータじゃ関係ないじゃん」
「ね、蘭さんと祥子さん、これやったことある?」

 魚居の眉が斜めにあがる。だが祥子は笑いながら差し出されたキットをつかむ。
「ね、やってみようよ」
「祥子、けっこう飲んでるでしょ。こんなので結果出るの?」
「関係ないらしいですよ。両側から唾液で湿らせるだけです。つれとやってみたけど何も変わらなかった」
「そりゃ、あんたベータだもん」
「ハハ、つまらないよなあ、ベータに生まれるって」

 武流の声が空間をつらぬくが、酒のせいもあってか誰も気にしていない。祥子はキットのビニールを破っている。細長い試験紙の一端を口にいれ、じゅうぶん湿らせてから、魚居の手に握らせる。

「あっ……もう色が出た。サーモンピンクって感じ? 可愛い色」
「ほどほどの相性ってことか」
 魚居は冷静な口調だ。信頼しあっているアルファとオメガのペアにとって、こんなものは余興にもならないはずだ。

「運命のつがいだと真っ赤な線が出るって」と、誰かがいった。
「これも相当赤いよね?」
「そんなものじゃないよ」
 七星の声だった。
「適合者の場合は血で染めたみたいに赤くなる」
「え? ほんとに」
「あ……聞いた話だけどね」

 息が苦しかった。伊吹は誰にも気づかれないようにそっと息を吐く。その赤ならはっきり覚えている。白い試験紙の中央を横切る真紅の線。
 四月のあの日、七星も伊吹もその赤をみた。



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