さだめの星が紡ぐ糸

おにぎり1000米

文字の大きさ
1 / 56
プロローグ

七月七日・七星

しおりを挟む
 重苦しい灰色の雲のすきまに茜色の夕焼けがのぞいている。電車が光の筋を描きながら鉄橋を駆け抜けると、古いビルの窓ガラスはすこしだけ揺れる。

「それではみなさま、今日から〈ユーヤ〉ラストイベントの開幕です! 八月二十二日まで、よろしくお願いします。乾杯!」
「乾杯!」

 木のぬくもりを感じさせるカフェスペースの中央に大きな笹飾りが立っている。七星ななせは顔なじみの面々とともにジンジャーエールのグラスを掲げる。「遊屋」と書いて〈ユーヤ〉と呼ぶ小さなアートセンターで、ささやかなオープニングパーティがはじまる。ロビーを兼ねたカフェは涼しく、外の蒸し暑さが嘘のようだ。

 笹飾りを囲むのは七星のような運営スタッフのほか、イベントに参加する地元のアーティストや役者たち、それにこのスペースの常連客だ。七星以外はみんなワインやビールのグラスを持っている。ノンアルコールの常連はまだ姿を見せていない。
「いよいよだね」
「客入りどう? 予約は?」
「土日はまあまあかな」

 七星はグラスにそっと口をつける。炭酸とジンジャーの強烈な辛みが喉をくだる。今日はあの人は来ないのだろうか――頭にうかんだ考えを打ち消すように、さらにもうひと口炭酸を飲む。

 そんなことを思ってもしかたがない。あの人が来ても来なくても、何が起きるわけでもないのだから。
 いや、ちがう。僕は考えるべきじゃない。

「オープニングにみんなが来てくれて、ほんとに嬉しい」
 数歩離れた壁際で、魚居うおいがまじめな表情で話している。ショートヘア、年齢不詳のアルファ女性。この街に〈ユーヤ〉を作って二十年になる。手に持ったグラスはもう空だ。ひと息で飲み干したにちがいない。パートナーの祥子がビール瓶を渡している。ここで開かれるパーティは手酌しか認めない。
「あ、でも三城みしろさんはまだかな?」
 その名前が耳に入ったとたん、七星の胸がどくんと鳴る。
「来るよね?」
「来るでしょ――あ、ほら、噂をすれば」

 魚居の目線が入口へ動くが、七星はふりむかない。それなのに彼が来たのはわかっている。彼が階段をのぼり、自分と同じ空間に足を踏み入れるだけで、存在を感じてしまう。別に不思議なことではない。オメガは匂いに敏感だ。アルファが同じ空間にいればすぐわかる。頭では納得しているのに、彼の存在は七星を圧倒する。

 彼――三城伊吹みしろいぶき

「マツさん、無事はじまってよかったですね」
 七星はふりむきたい衝動を抑え、隣のスタッフに話しかける。
「あーあ、はじまっちゃったなあ」
 マツはまのびした口調でいう。二十年前から、つまりこのアートセンターの立ち上げからずっと関わってきたベテランスタッフだ。
「ま、がんばろうよ。四十日も毎日プログラムあるって、正気の沙汰じゃないから」
「そうですね。でも最後だし……」
「そうね」

 今夜のパーティにいるのは何人だろう? 三十人……もうすこしか。七星は左右をちらりとみるが、入口ちかくのカフェカウンターの方はみない。それなのに耳は勝手に彼の名前を拾ってしまう。
「三城さんいらっしゃい。何にします? 七夕プロジェクトのオープニングだから今日は無料です。ビール?」
「ジンジャーエール。辛口で」

 伊吹は七星とちがってアルコールが苦手なわけではない。それなのに伊吹が自分とおなじものを選んだとわかって、七星の胸がまたどくんと脈打つ。魚居と祥子がカウンターの方へ歩いていく。

「三城さん、ありがとうございます」
「まさか、遅れて申し訳ない。乾杯に間に合うように来るつもりだったんですが」
「はじめたばかりですよ。食べ物は早い者勝ちです。お仕事帰りですよね?」
「ええ、いつもと同じです」
「八月二十二日まで毎日上演や展示がありますから、余裕がある日はカフェ以外も見て行ってください。これで最後だから、メンバーズパス、無駄にしないでくださいね」
「そうですね。そのつもりです」

 伊吹の声は低く、すこし離れただけで聞こえづらくなる。それなのに同じ声が自分のすぐそばで、耳元でささやいた瞬間を思い出して、七星の背中はかっと熱くなる。
 だめだ。気を散らさないと。あわてて横をむいたが、マツは七星の知らない誰かと話しこんでいる。ベテランは友人もつもる話も多いのだ。七星はジンジャーエールのグラスを片手に、軽食をならべたテーブルのすきまにすべりこむ。うつむいて巻き寿司に箸をのばしたとき、伊吹の気配をすぐ近くに感じて、手が震えそうになる。

「看板少年の七星くん、三城さん来てるよ?」
「看板――はやめましょうよ、祥子さん」
 七星は苦笑まじりに答え、巻き寿司を紙皿にのせて顔をあげる。テーブルの向こう側に祥子がいて――その隣に伊吹が立っている。

 祥子に返事をしたはずなのに、七星の視線は自分の意思を裏切ってしまう。伊吹はいつものビジネススーツだ。七星にはあまり縁がない服装をぴしりと着こなしている。七星より五歳上とはいえ、同じ年齢になってもあんなふうにスーツを着こなせるとは思えない。
 カジュアルな服装が群がる空間で伊吹のスーツは浮いているが、服装だけが原因ではない。伊吹自身に周囲からきわだつような雰囲気がある。彼の周りでは空気は静かで、清潔な匂いが漂う。

 いや、そんなふうに感じるのは七星がオメガ性で、伊吹がアルファ性だから、かもしれない。

 今日のネクタイは濃い紺だった。淡い緑と水色の縞が斜めに入っている。ワイシャツのボタンはきっちり上までとまっている。ところが七星の頭に浮かんだのは、ネクタイをゆるめる手と、ボタンを外す指のあわただしい動きだ。短い黒い髪に触れたときの感覚を手のひらが勝手に思い出す。七星の胸の鼓動はさらに早くなる。

 どうしてまだ覚えている? こんなにリアルに――でもあれはずっと前のことだ。四月のおわり、もう二カ月以上前のことだ。

 七星は誰にも気づかれないように息を吸おうとして失敗する。顔をあげた一瞬に伊吹の目をのぞきこんでしまったから。伊吹も七星をみつめる。視線がからみあったのはほんの一瞬でしかない。

 ふたりは同時に目をそらす。

「祥子さん、僕は少年なんていわれるトシじゃないですって。もう二十五ですよ?」
「何いってんの。じゅうぶん少年で通ります七星くんは。三城さんもそう思うよね?」
「いや……」
 伊吹は祥子に困ったような笑顔をむける。
「そんなこともないのでは?」
「うーん、七星くんがあたしと蘭の息子なら看板息子って呼びたいんだけどなぁ」

 蘭、は魚居の名前だ。昔はめったになかったアルファ女性とオメガ女性の組みあわせも最近はそれほど珍しくない。
「祥子さんこそユーヤの看板娘じゃないですか?」
 七星は冗談っぽくいう。
「あたしが? まさか、あえていうなら女将でしょ」
「アートセンターに女将ってありなんですか?」
「昔は銭湯だったんだから、ありじゃない?」

 祥子は木の壁をみまわし、七星と、それに伊吹も、つられたように周りをみる。〈ユーヤ〉は廃墟同然で放置されていたスーパー銭湯を改造して作られたのだ。十階建ての雑居ビルの二階から地下一階を占め、一階にギャラリーとスタジオ、二階にこのカフェ、地下が劇場になっている。

「やっぱり感傷的になるね。もう終わりだと思うと」
 祥子がぽつりといった。
「移転先はみつからなかったんですか?」と伊吹がたずねた。
「ええ。本決まりじゃないけど首都圏を離れる話もあって。でもカフェは九月末まで営業しますから、コーヒーチケットは全部使ってくださいね――あ」

 言葉がとぎれて、祥子が入口をみる。誰か新しい客がきたのだ。伊吹に軽く会釈して祥子が行ってしまうと、七星の胸の動悸が復活する。大丈夫だ、と七星は思う。ふたりきりになったわけじゃないし、テーブルもあいだにある。そう考えると我慢できなくなる。七星は顔をあげる。
 伊吹と目があった。

「……急に暑くなったね」
 伊吹がそっといって、目をそらす。七星は手元の紙皿をみつめる。
「ちょっと前まで肌寒かったですよね」
「今もかなり曇っているけどね。七夕なのに」
「太陽暦の七夕って無理がありすぎです。まだ梅雨明けしてないし」
「たしかに。これじゃ天の川は渡れない」

 背後で大きな笑い声があがる。七星はふりむき、祥子とならんでこっちに来るベータの男に目をやる。薄いジャケットと洒落た柄のシャツ、細身のスラックスという服装で、全身からカタカナ業界の雰囲気がかもしだされている。
「やあ、七星くん! 看板少年!」
 七星は薄笑いをうかべて会釈する。向きなおると伊吹が驚いたように男をみつめている。

武流たける? どうしてここに?」
「伊吹じゃないか。それはこっちのせりふだぞ」
「コーヒーチケット仲間ね」祥子がすかさずいった。
「おふたり、ここで会ったことありました?」
「いいや。でも大丈夫」
 男はすべりこむように七星の隣に立ち、伊吹をじろりとみた。
「もともと知り合いだから」
「え?」
「イトコの結婚相手なんですよ。な、伊吹?」
「えっと、三城さんの奥さんと親戚ってこと?」
「そ」

 その瞬間、それまで七星の視界に入っていなかったものがみえる。見ないふりをしていた、というべきかもしれない。伊吹の左手の薬指と、そこにはまった細い指輪。胸の奥がずきりと痛む。

 あやまちがあったのは不可抗力の一度だけだ。あれは事故だった。ふたりともろくにお互いのことを知らなかった。今のように「友人」になる前だった。

 刃のように鋭い銀の線から七星はそっと目をそらす。あれはただ、伊吹がアルファで、七星がオメガだから起きたまちがいだ。

 だから二度目はない。絶対にない。



しおりを挟む
感想 3

あなたにおすすめの小説

番を拒み続けるΩと、執着を隠しきれないαが同じ学園で再会したら逃げ場がなくなった話 ――優等生αの過保護な束縛は恋か支配か

雪兎
BL
第二性が存在する世界。 Ωであることを隠し、平穏な学園生活を送ろうと決めていた転校生・湊。 しかし入学初日、彼の前に現れたのは―― 幼い頃に「番になろう」と言ってきた幼馴染のα・蓮だった。 成績優秀、容姿端麗、生徒から絶大な信頼を集める完璧なα。 だが湊だけが知っている。 彼が異常なほど執着深いことを。 「大丈夫、全部管理してあげる」 「君が困らないようにしてるだけだよ」 座席、時間割、交友関係、体調管理。 いつの間にか整えられていく環境。 逃げ場のない距離。 番を拒みたいΩと、手放す気のないα。 これは保護か、それとも束縛か。 閉じた学園の中で、二人の関係は静かに歪み始める――。

彼らは互いにβと噓をつく

桑水流 雫
BL
【子どもがほしいαと欲しくないΩの切ないラブストーリー】 ※ハッピーエンド ※リバあり。最初は主人公が受けで、あとからΩが受けになります。 【あらすじ】泌尿器科で働く舩津(ふなつ)は優秀なαだが、患者を怖がらせないようβと偽って働いている。患者のヒートにも対応できるよう、強い抑制剤を飲み続ける舩津。子どもが欲しいにもかかわらず、副作用でどんどん自分の精子が減っていくのを、歯がゆい気持ちで過ごしていた。そんな時に、同じ院内の薬局で働く小鳥遊(たかなし)と出会い、恋に落ちる。小鳥遊と過ごす毎日は穏やかで、船津は子どもがいなくても、彼さえいれば満足だと思えるようになっていた。男性同士のβでは、どうせ子どもは作れない。だが、ある時、小鳥遊がオメガだということが発覚して──。子どもがほしいαと欲しくないΩの切ないラブストーリー。

【完結】愛されたかった僕の人生

Kanade
BL
✯オメガバース 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 お見合いから一年半の交際を経て、結婚(番婚)をして3年。 今日も《夫》は帰らない。 《夫》には僕以外の『番』がいる。 ねぇ、どうしてなの? 一目惚れだって言ったじゃない。 愛してるって言ってくれたじゃないか。 ねぇ、僕はもう要らないの…? 独りで過ごす『発情期』は辛いよ…。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー ✻改稿版を他サイトにて投稿公開中です。

運命の番ってそんなに溺愛するもんなのぉーーー

白井由紀
BL
【BL作品】(20時30分毎日投稿) 金持ち‪社長・溺愛&執着 α‬ × 貧乏・平凡&不細工だと思い込んでいる、美形Ω 幼い頃から運命の番に憧れてきたΩのゆき。自覚はしていないが小柄で美形。 ある日、ゆきは夜の街を歩いていたら、ヤンキーに絡まれてしまう。だが、偶然通りかかった運命の番、怜央が助ける。 発情期中の怜央の優しさと溺愛で恋に落ちてしまうが、自己肯定感の低いゆきには、例え、運命の番でも身分差が大きすぎると離れてしまう 離れたあと、ゆきも怜央もお互いを思う気持ちは止められない……。 すれ違っていく2人は結ばれることができるのか…… 思い込みが激しいΩとΩを自分に依存させたいα‬の溺愛、身分差ストーリー ★ハッピーエンド作品です ※この作品は、BL作品です。苦手な方はそっと回れ右してください🙏 ※これは創作物です、都合がいいように解釈させていただくことがありますのでご了承くださいm(_ _)m ※フィクション作品です ※誤字脱字は見つけ次第訂正しますが、脳内変換、受け流してくれると幸いです

彼は罰ゲームでおれと付き合った

和泉奏
BL
「全部嘘だったなんて、知りたくなかった」

僕がそばにいる理由

腐男子ミルク
BL
佐藤裕貴はΩとして生まれた21歳の男性。αの夫と結婚し、表向きは穏やかな夫婦生活を送っているが、その実態は不完全なものだった。夫は裕貴を愛していると口にしながらも、家事や家庭の負担はすべて裕貴に押し付け、自分は何もしない。それでいて、裕貴が他の誰かと関わることには異常なほど敏感で束縛が激しい。性的な関係もないまま、裕貴は愛情とは何か、本当に満たされるとはどういうことかを見失いつつあった。 そんな中、裕貴の職場に新人看護師・宮野歩夢が配属される。歩夢は裕貴がΩであることを本能的に察しながらも、その事実を意に介さず、ただ一人の人間として接してくれるαだった。歩夢の純粋な優しさと、裕貴をありのまま受け入れる態度に触れた裕貴は、心の奥底にしまい込んでいた孤独と向き合わざるを得なくなる。歩夢と過ごす時間を重ねるうちに、彼の存在が裕貴にとって特別なものとなっていくのを感じていた。 しかし、裕貴は既婚者であり、夫との関係や社会的な立場に縛られている。愛情、義務、そしてΩとしての本能――複雑に絡み合う感情の中で、裕貴は自分にとって「真実の幸せ」とは何なのか、そしてその幸せを追い求める覚悟があるのかを問い始める。 束縛の中で見失っていた自分を取り戻し、裕貴が選び取る未来とは――。 愛と本能、自由と束縛が交錯するオメガバースの物語。

【完結】end roll.〜あなたの最期に、俺はいましたか〜

みやの
BL
ーー……俺は、本能に殺されたかった。 自分で選び、番になった恋人を事故で亡くしたオメガ・要。 残されたのは、抜け殻みたいな体と、二度と戻らない日々への悔いだけだった。 この世界には、生涯に一度だけ「本当の番」がいる―― そう信じられていても、要はもう「運命」なんて言葉を信じることができない。 亡くした番の記憶と、本能が求める現在のあいだで引き裂かれながら、 それでも生きてしまうΩの物語。 痛くて、残酷なラブストーリー。

Endless Summer Night ~終わらない夏~

樹木緑
BL
ボーイズラブ・オメガバース "愛し合ったあの日々は、終わりのない夏の夜の様だった” 長谷川陽向は “お見合い大学” と呼ばれる大学費用を稼ぐために、 ひと夏の契約でリゾートにやってきた。 最初は反りが合わず、すれ違いが多かったはずなのに、 気が付けば同じように東京から来ていた同じ年の矢野光に恋をしていた。 そして彼は自分の事を “ポンコツのα” と呼んだ。 ***前作品とは完全に切り離したお話ですが、 世界が被っていますので、所々に前作品の登場人物の名前が出てきます。***

処理中です...